7. 訪問者の正体
アルマは彼の名前を知っていた。姿を見たことも一度や二度ではない。直接話をしたことはないが、在学中にセドリックと一緒にいるところ――というより、護衛のように付き従っているのをよく見かけた。王子の友人の一人だ。
王子セドリック。もはやその名前はアルマにとって鬼門である。その友人もまた、できれば避けたい人達であった。
アルマは芝生の上に仰向けに転がったまま、死体のように硬直していた。
逃げたいが、逃げ場がない。どうやったらこの場を切り抜けられるか。体はまんじりともせず、頭の中がフル回転している状態だった。
青年――レイ・カーライルは、そんな彼女を不思議な生き物を見る目で見下ろして、
「部屋に気配がなかったから、とりあえず近くを探してみようと思って」
「は、い……?」
藪から棒に飛び出した台詞は、アルマの理解を超えていた。
気配とは。
部屋にいなかったから、探す?
なぜ。何の目的があって?
目を丸くして凍りついているアルマを余所に、レイはきょろきょろと物珍しそうに周囲を見渡しはじめる。
その顔には、少年のような好奇心が表れている。こんな人だったかな、とアルマは、不安と緊張でドキドキしつつ違和感に首を傾げた。
彼、レイのことはあまりまじまじと見たことがない。いつも仏頂面で怖かったからだ。見ていることがバレたら取って食われかねないだと、半分本気で思っていた。王子に話しかけられている時ですら、愛想笑いの一つもしないような人だった。
レイに平気で話しかけていたのは、王子本人と、王子の側にいた人達くらいだろう。見た限りでは、アルマ以外の生徒も好きで彼に近付く人はいなかった。嫌われていたというわけではなさそうだが。
本人に何もなくとも、話しかけづらい人間というのはいるものである。彼もそんな一人なのだろう。
――そう思っていたのに、今のレイには、学校にいた時に感じたような取っ付きにくさが感じられない。同じ顔をした別人と言われたら、ちょっと信じてしまいそうである。というか、この人は本当にレイ・カーライルなのだろうかと、アルマは少し疑いかけていた。
「ふーん……なかなかいい場所だな。こんな穴場があったとは。で、お前はいつまで寝転がってるつもりだ?」
「ふぁ!?」
指摘され初めてそのことに気が付いたアルマは、寝転がった姿勢のまま変な声を出してしまった。慌てて飛び起きると、服や髪の毛に絡んだ草をぱっぱと払い落とす。ついでに髪をばさばさと叩いて、なるべく顔が隠れるよう頬に寄せた。
「今更誤魔化したって無駄だ。分かってるからな? アルマ・ヘンレッティ」
「…………ぁい」
「前にも言ったけど、傷つけるつもりはねぇから。信じろとまでは言わねぇけど、せめて普通にしてくれ」
そんなことを言われたって、今のアルマにはこれが普通にして限界なのだ。見られていると思うと、否応なしに不安が襲ってくる。動悸がしないだけまだマシである。
レイが腰を下ろす隣で、アルマは少しでも視界を狭めようと、掻き集めた横髪を口元に巻きつけていた。
しかし、ぎゅうぎゅうと長い黒髪を締め付ける手が、はたと止まる。
「……前にも?」
ぱち、と瞬きをし、小首を傾げる。その脳裏に、数日前の記憶がまざまざと蘇ってきた。
――別に、傷つけやしないから。
まるで分かっているとでも言いたげな、あの声音。優しいのとは違う。気遣うのとも少し違う。かと言って、適当に宥めている風でもない。初めて聞くのに、耳に馴染む感覚。あの声を思い返す度、不思議な心地がしていた。だからより一層気になって、謎の訪問者の正体を知りたいと思った。
雰囲気は違うが、あの時聞こえた声とレイの声は全く同じ。すぐに気付かなかったのは緊張していたからだろうけど、なんという不覚だろう。
驚いて見上げるアルマに、レイはほんの少しだけ口元を緩めた。
「やっと気付いたか」
アルマは、はっと息を呑む。
深い海のような群青色の瞳と目がかち合った。思ったより距離が近かったこともあって、慌てて俯く。だから見つめ合ったのは一瞬だったけれど、アルマの心臓は信じられないくらいバクバクと早鐘を打っていた。
「ど、どうして……」
どうして助けてくれたの。あなたは王子の親友なのに。私は王子の敵なのに。助ける理由なんかどこにもないのに。
そう聞きたかった。しかし、まるで喉が石化したように声が出てこない。
「あの時、偶々オレも近くにいてなぁ。なんかふらっと歩きたくなってさ」
ふらっと……?
信じられない。そんな軽い気持ちで外を出歩くなんて。死なないのだろうか。
というか、貴族の家が並ぶ貴族上街からこのイーゼル街までは、結構な距離があるはずだ。なのに、馬車も使わず歩いて来たというのだろうか。"ふらっと"?
「急に周りが騒がしくなって、『亡霊が』って声が聞こえたから、オレはてっきり町中に魔物でも入り込んだのかと思ったんだよ。冷静に考えたら有り得ねぇんだけど」
「す、すみません……」
「なんでお前が謝る」
つい反射的に謝ってしまったが、改めて考えてみると確かに自分は悪くない。何に対して謝ったのかもよく分からない。
レイは怪訝そうにアルマを見つめていたが、すぐに気を取り直して続けた。
「で、とにかく駆けつけたら、馴染みの屋台のおっさんとチャラチャラした連中が言い争ってて。詳しい経緯は聞く暇もなかったけど、おっさんから『逃げた黒髪の女を追いかけてくれ』って財布と包みを持たされたから、とりあえず追いかけたんだよ。自分が追いかけてるのがお前だって気付いた時はさすがにびっくりした」
「あ、あのトープファも……? その、お、お金は……」
「ん? ああ、そっか。そっちの疑問もあったな。別に気にしなくていいんじゃねぇの? おっさん、謝ってたぞ。助けられなくてすまんって。あの包みにゃ、詫びの意味もあるんだろ」
「…………」
オレに謝られても困るんだけどな、と言ってレイは笑う。
アルマは驚いて言葉を失った。レイに対する返答だけでなく、頭の中までもが一瞬真っ白になった。
――屋台のおじさんが、謝っていた。
なんで? 絡んできた男の人たちを止められなかったから?
なんで、おじさんが謝るんだろう……。おじさんが私を助ける義理なんてないのに。
困惑する気持ち。嬉しいと感じる気持ち。その二つがない交ぜになって、どうしたらいいのか分からない。
その時、アルマの動揺を見抜いたかのようなレイが、ぽんと軽くアルマの頭に大きな掌を乗せた。思わず息が止まりかける。
「まずは素直に受け取れ。美味かったろ? あのトープファ」
「…………」
数秒かかって、こくりと頷く。するとレイが笑った。アルマはその空気を感じ取って、よく笑う人だと、最初に思っていたのとは真逆の感想を胸に抱く。
「だよな。オレもたまにあそこのトープファ食べたくなる。でもさ、お前、他の店の食ったことあるか? 店によってソースの配分とか生地の食感とか違うから、食べ比べるのも面白いぞ。今度一緒に行くか?」
咄嗟に、ブンブンと首を横に振る。振ってしまってから、ハッと気付いて硬直する。激しく拒絶されて、相手が嫌な気持ちにならなかったかと不安になって見上げると、彼はきょとんとした顔から、呆れと困惑の混じった顔になった。
「お前さ、その目……まあいいけど」
「?」
首を傾げると、彼は「いいって」と繰り返して顔を逸らす。そして、「やっぱ違うな……」と、小さな声で呟いた。
何が違うのかは、追及しない方がいいのだろう。そもそもそんな勇気ないんだけど。
ともあれ、彼が財布を届けてくれた人だったこと、助けてくれた経緯は分かった。
けれど、まだアルマの知らないことがある。
今日ここへ来た理由だ。
何もないのに突然訪問したりしないだろう。
(思い当たることと言えば――)
彼と話していて、一つ思い出したことがある。
学園で聞いた、レイ・カーライルについての噂だ。
――放浪癖。
なんでも彼には、時折ふらっとどこかへ姿を消してしまう癖があるのだという。放浪と言っても旅に出るとかではなくて、神出鬼没と言った方が正しいらしいが。
アルマが聞いたのは、学園の昼休憩に、町外れのみかん畑まで行っていたという話だった。他にも、城壁の歩廊でぼんやり空を眺めていたとか、貧民街を歩いていたとか。
理由を聞くと、決まって返ってくる答えが「なんとなく」。変わり者扱いされているのも頷ける。たぶん、三男坊でありながら王子の信頼厚い彼に対するやっかみもあるのだろうけど。
そんな彼についたあだ名が、気まぐれの騎士。
この訪問も単なる気まぐれ、なのだろうか。
悪い意味で有名だった女が学校を退学して市井でぼっち生活をしていると知ったら、確かに気にはなるだろう。だけど、もしそんな理由だったら嫌だな、とアルマは思うのだった。自分でなくとも、誰でもそうだと思う。下世話な好奇心で会いに来ただなんて。それだったら、単なる気まぐれの方が余程いい。
「それで、お前はここで何やってたんだ?」
「ふぁっ?」
レイが中庭を見回しながら問う。じっくり考え事をしていたアルマは、その不意打ちに目を白黒させた。
しばらく迷ったものの、やがておずおずと食べかけのりんごをレイに見せて。
「え、と……。そ……その。お、お夕食……食べてました」
「…………」
なぜだかレイは急に黙り込み、物凄く難しい顔をした。アルマもどぎまぎして、両手に食べかけのりんごを乗せたまま黙りこくる。
そのまま、もしやレイを不快にさせたかと不安を催してきた頃。
「……ヘンレッティ」
「?」
「ちょっとついてこい」
「??」
突然、レイに手首を掴まれた。がしっと、鷲掴みで。
あっと思う間もなく、レイはアルマを力づくで立たせると、さっと踵を返して歩き出した。捕獲されたままなので、必然、アルマは引き摺られるようにして付いていかなければならない。
いきなりの状況を飲み込めず、混乱の最中、アルマは引き攣った声をあげた。
「どっ、あのっ、かっ、カーライルさまっ」
「レイでいいよ。偏食少女」
「へんしょ……ど、どど、どこへ……っ?」
「んー、そうだなぁ」
「帰りたいんですけど……」
ボソリと呟いた言葉は、レイの耳には届かなかったようだ。
アパルトマン前の通りに出たところで、レイは立ち止まった。そして、しばらく顎を擦りつつ思案を巡らす。その間もアルマの手首は掴まれたままで、アルマは所在無げに立ち尽くしている。周囲が気になるようで、しきりにおどおどと視線を左右にやっている。
そんなアルマの様子を横目で眺めていたレイは、そうだ、と脳内で手を打った。
「オレの家だ。飯を食いに行くぞ。アルマ」
「…………へぁ?」
言われたことが咄嗟に理解できず。
アルマはぽかんと口を開け、間の抜けた声を出すのだった。