6. 呼び水
アルマ・ヘンレッティのアレは、到底恋ではなかった。勝てない敵に捨て身の体当たりをかましているような、そんな必死さと無謀さがあった。ただひたすら、それだけだった。
シャーリーズやブラッドリーがそれに気付いていたかは知らないが、おそらくセドリックは察していただろう。そうでなければ、他の、クラリッサを冷遇して迫ってくる御令嬢たちにするみたく、笑顔でアルマの心を抉ったはずだ。
そうしなかったのは、クラリッサに直接の嫌がらせなどがなかったのと、セドリックが当のアルマのことをうるさいコバエ程度にしか思っていなかったため。過敏に反応していたのはむしろシャーリーズやブラッドリーなど取り巻きの方で、セドリックやクラリッサは、当事者でありながら一歩引いたところに立っていた。さらにその後ろから一連の流れを眺めていたのが、レイである。
だからだろうか、レイにとってあの出来事は完全に他人事だった。演じる方も見る方も何も得るものがない寸劇だ。
シャーリーズたちはよく取り合う気になったなと思う。まあ彼女らは礼節とか義理とかにうるさいから、序列をぶった切って突撃してくるアルマに鬱憤が溜まっていたのだろうけれど。
レイは、そこまで強い感情をアルマ・ヘンレッティに対して抱けなかった。アルマにというよりも、彼にとって他人とは概ねどうでもいい存在なのだ。セドリックやクラリッサのことは得難い友人だと思っているが、そんな彼らが被害を受けた今回の件でさえ、災難だったなぁくらいにしか感じていない。シャーリーズやブラッドリーみたく、我が事のように怒ることができない。薄情と思われても仕方のない人間なのである。
そう、何とも思っていなかった。
夏の学園パーティーの夜、大勢に囲まれ顔を蒼白にした彼女を見るまでは。
例の一件、誰が悪いか? それはもちろんアルマ・ヘンレッティだろう。彼女が礼節を弁えていれば起きなかった騒動である。そんな彼女が責められ罰を受けるのは、当然の帰結でしかない。
シャーリーズも、ブラッドリーも、ケヴィンも、ナタリーも、彼女の浅はかな行動に日々苛立ちを募らせていた。友人として、本当は彼らの肩を持つべきなのだろう。
だが、レイが気にしたのはそこではなかった。
誰が悪いかじゃない。
彼を苛立たせているのは、あの夜あの場所で、アルマこそが一番の弱者だったという事実なのだ。
端的に言えば、レイはアルマに同情したのだった。
「レイは人があまり好きでないよね」
唐突に、リアムがそんな一言を口にした。
レイは不意を打たれたみたいにキョトンとして、
「なんだよ。いきなり」
「いや、親を睨むような顔をしていたからさ」
兄の指摘を受け、反射的に頬に手をやる。そんなことをしても分かるのは自分の頬の固さくらいだったが、リアムには別の何かが伝わったらしい。見た女が蕩けるような甘い笑みを浮かべて、あっけらかんと言い放つ。
「でも君のことだから、そのうちポンッと子供を作ってしまいそうだよね」
「…………」
レイは何とも言えない眼差しでリアムを見遣った。女中から受け取った何百何十何通目かの恋文を手に、ニコニコと相好を崩している兄を。
「……いや。兄貴じゃねーんだから」
そこはしっかりと否定しておきたい。だがその反応がリアムの信条を刺激したようで、彼は突然いきり立った。
「失敬な! 俺の愛はプラトニックだよ! どこぞの放蕩息子と一緒にしないでほしいな!」
「嘘つけ。股掛け常習犯のどこがプラトニックだ」
「だからお前は分かってないと言うんだ。いいかい? 愛とは普遍であるべきだ。この世を遍く照らす光。であるならば! 愛を区別し壁を作ることこそが間違いなんだよ!」
――コン、コン。
その時、規則正しく扉を叩く音が、兄弟の不毛な言い争いを断ち切った。
「入りたまえ」
一秒前の力説などなかったかのように、即座に教師の顔になって返答するリアム。その変わり身の速さに、レイは呆れた。
「失礼します」
扉を開けて入ってきたのは、艷やかな黒髪が目を引く美貌の少年だった。澄んだ紫色の瞳と白皙の肌が、ミステリアスな雰囲気をより際立たせている。背はまだ伸び盛りといったところか。同学年では見たことがない。おそらく一年生だろう。
「カーライル先生、お忙しいところ申し訳ありません。クリス・ヘンレッティです」
「ああ、クリス君だったか。もしかして、今日出した課題のことかい?」
「はい。あの、実は――」
「ヘンレッティ?」
思わず、声に出していた。
そんなに大きな声ではなかったが、口を挟まれたことが意外だったのか、二人は驚いた顔で振り返る。少年の方はレイの存在に気付いていなかったらしく、目をまんまるに見開いて固まった。
「あー、遮ってすまん。オレはレイ・カーライル。戦技科の二年だ」
「あ……お、お噂はかねがね……。一年のクリス・ヘンレッティです」
何の噂だろう……。子犬のような怯えた表情をされてしまった……。
ともあれ、教師と生徒の邪魔をするつもりはなかったので、大人しく引っ込もうとするレイだったが、他でもないリアムが彼を引き摺り出す。
「レイ、男爵とお知り合いかい?」
「いや、別に。姉の方をちょっと知ってるだけ」
「あー、アルマ君か! そういえば君たち姉弟、よく似てるねぇ。髪の色も目の形も、そっくりだ」
リアムがそう口にした瞬間、クリスの顔が嫌悪に染まるのをレイは目にした。嫌悪には苦痛が伴っていて、子供の頃、遠征帰りの騎士が仲間に抱えられ似た顔をしていたことを思い出す。
「……姉のことはどうか口になさらないでください。あれは我が家の汚点ですので」
「汚点?」
「夏のパーティーでのことです。先生もお聞き及びだと存じますが」
「あー、あー。あれか! 僕はあそこにいなかったから、後で聞いただけだけど。なんか、殿下のお友達を怒らせたらしいねぇ」
と言いながら、ちらっとこちらを見遣る。レイも殿下の「お友達」に違いないのだ。だが、そんな面白そうな目で見られても困る。レイは知らないよと言う風に肩を竦めた。
兄弟の無言のやり取りに、自分の足元に視線を落としていたクリスは気が付かなかった。
「本当に、許されざる所業です。できるなら、家族の縁を切りたいとすら思っています」
「そこまでは殿下もお望みにならなかったと聞いているよ」
「はい。殿下のご温情には、父も僕も痛み入っております。ですが……」
ぎり、と音がしそうな程強く、奥歯を噛みしめるクリス。その横顔に浮かぶのは、もはや嫌悪ではなく憎悪に近い。
一拍呼吸を整えてから、彼は顔を上げて真っ直ぐにリアムを見据えた。
「あれは恥です。昔からずっとヘンレッティ家に染み付いていた、一点の真っ黒な汚れなのです」
強烈な言葉に打たれ、部屋がしんと静まり返る。さすがのリアムも、表情を消して押し黙った。
迷いなく言い切ったクリスは、いっそ清々しい気分だろう。長年目障りだった汚れを落とせて。堂々と切り捨てる言葉を吐けて。彼の顔が、せいせいしたと、そう物語っている。
(あいつも家族に疎まれてたのか)
本人にその自覚があったかどうかは分からない。いや、たぶんなかったと思う。もし気付いていたら、普段の表情や言動に表れていたはずだ。彼女の振る舞いには、良くも悪くも邪気がなかった。
アルマ・ヘンレッティは自分が嫌われているとも気付かず、自ら崖っぷちに向かっていったということか。
笑えないほど滑稽で、腹が立つほど気の毒な――。
だがそれが何だと言う? どうせ他家の問題だ。自分が首を突っ込む話じゃない。そもそもそんなお節介じゃないだろ、オレは。
そう思いながらも、この頃よく思い出す光景がある。
(――二階の部屋)
一度だけ垣間見た、アルマの現在の住居。
薄暗い部屋に光が射し込んで、宙を舞う埃がきらきらと輝いていた。
物が少なく殺風景で、夏だというのに寒々しく、微かに聞こえる息遣いがなければ人が住んでいるとは思わなかっただろう。
あの部屋に、アルマは住んでいた。
たぶん、たった一人で。使用人もつけず。貴族のご令嬢なのに。
処分としては妙だ。罰ならば、もっと厳重に監視というか管理されるはず。きっと、アルマ本人の選択なのだ。屋敷には居たたまれなかったのだろう。自らが名を汚した家族のそばには居る資格がないと、自分で自分を罰したのだ。レイにはそうとしか思えなかった。
「だからあいつ、町で一人暮らししてんのか」
無意識に口をついて出た独り言に、クリスがさっと顔色を変えた。
「なっ、どうしてそのことを……っ!?」
その驚きようを不思議に思ったものの、少し考えてそりゃあそうかと納得する。未婚の娘が市井で一人暮らしだなんて、勘当されたと捉えられてもおかしくない。貴族令嬢としての未来など捨てたも同然だ。そうと分かっていて一人暮らしを容認するだなんて、男爵も思い切った決断をしたものである。家族としてはあまり広めたい話ではないだろうし、まさかヘンレッティ家と何の繋がりもないカーライルの息子が知っているなんて思いもしないだろう。
レイはクリスの動揺を心の中で楽しみながら、ニヤリと口の端を上げて言った。
「さあね」
「…………っ!」
クリスは気圧されたようにやや上体を引いて、息を呑む。その隙に、レイはさっさと扉へ向かった。
「ま、待って――」
はっと我に返ったクリスが彼を呼び止めようとする。だが、突然背後から二本の腕がにゅっと伸びてきて、クリスの腕を羽交い締めにした。言うまでもなく、リアムだった。
「まーまーまー! 弟君、僕に質問があって来たのだろう? さあ、早く言いたまえよ。紋章の意味から魔法文字を使った女性の口説き方まで、なんでも教えてあげるよ! さあ、さあさあ!」
「い、いえ、僕は――」
「遠慮しないで! 絶対君の将来に役立つから!」
「ちょっ、引っ張らないでくださ――あのお!?」
ばたん、と重い扉が閉じて、声はほとんど聞こえなくなった。
リアムの教務室を背にしたレイは、顎に手を当て考える。
(さてと……)
学園の授業は、どの科も遅くても十五時まで。それ以降は課題をやったり、自主研究に取り組んだり、訓練に励んだり、家の用事をこなしたり、あるいは遊び呆けたり――つまり、何をするのも自由だ。
伯爵家の三男坊であるレイは、将来、地方の騎士団に入るつもりでいる。なので、いつもなら訓練場に顔を出して上級生相手に喧嘩、もとい試合を吹っ掛けるのだが……。
肝心の上級生が、現在魔物討伐の実習中で学園にいないと来たもんだ。
「暇だなぁ」
木人形相手に剣を振ったってつまらないし、下級生に怪我をさせるのも可哀相だ。その点ケヴィンなら問題ないけれど、正直アレでは稽古にならない。
となると――。
レイはしばらく思案して、とりあえず思いついたものを実行することにしたのだった。
* * *
夕刻。まだ空が青いうちにアパルトマンに帰ったアルマは、途中で買ったりんごをしゃくりと齧りながら、波紋の広がる水面を見つめていた。
目の前に広がる丸い池の真ん中には、ゴブレットの形をした可愛らしい噴水。その中心から、透き通った水が絶えず溢れ出している。澄んだ水音に耳を傾けていると、心に溜まった澱が洗い流されていくような気がする。とても心地よくて、油断をすると寝入ってしまいそう。
ここはアパルトマンの裏手にある庭で、住人ならば自由に出入りすることができるのだが、現在はほぼアルマ専用の憩いの場と化している。二週間ほど前に初めて見つけて――白木のスイングドアが唯一の出入り口で、そしてそれはとても見つけ辛いのだ――、それから毎日のように入り浸っているが、まだ誰とも遭遇したことがない。
人が来ない割にはきちんと手入れされていて、ゴミも落ちていなければ嫌な臭いもしない。池の水も常に綺麗だ。何らかの魔術かもしくは魔道具が働いているのは明らかだった。
周囲は背の高いレンガ壁と木で囲まれている。外なのに閉塞感があって、隠れ家のような雰囲気を醸しているこの庭をアルマはすぐに気に入った。もしこの庭がなければ、仕事時以外ずっと部屋に閉じ籠もっていたことだろう。それは、いくらアルマでもお断りしたい。
ここは考え事をするにも最適な場所だった。
ベンチもテーブルもない草むらの上に、アルマは膝を抱えて座る。その頭を悩ませているのは、ここ最近はいつも同じ事柄。
(誰だったんだろう。財布を届けてくれたのは)
思いつく限りの名前を並べてみたけれど、正解だと思える人はいなかった。アルマの名前を知っていたことを考えると、全くの未知なる人物、というわけではないと思うのだが。
財布の中の硬貨は、一枚足りとも減っていなかった。じゃああのトープファを買ってくれたのは届け主なのか。
どうしてそこまで良くしてくれるのか、アルマには理由が分からなかった。アルマのことを知っているのなら、なおのこと親切にしようなんて思わないはずなのに。
――彼の声は、とても優しかった。
あの時、勇気を出して返事をしていれば。恥を忍んで顔を出していれば。
(名前、聞けたのになぁ)
知ってどうする、と思わなくもない。きっともう二度と会うこともなくて、名前を知ったところで呼ぶ機会は永遠に来ないのだから。
けれど、ならば、いっそのこと聞けば良かったと思うのだ。そしたら、今みたいに後悔することもなかった。
「あーあ」
溜め息を吐いて、芝生の上にごろんと寝転がる。自然と広がる視界に白い綿のような雲が映り込み、そういえばもうすぐ秋だなぁ、なんてことを考えていた。
その時、キィという甲高い音が、憩いの間の静寂を破った。
アルマの小さな心臓が、どきんと一瞬にして飛び跳ねる。その音には物凄く聞き覚えがあった。
蝶番の軋む音。古びた白木のスイングドアが開く音だ。
今日は風もなく、扉が勝手に開くわけもない。
(まさか。まさかまさか)
誰も来ないから油断していた。池があるだけの小さな庭で寝転がる暇人は自分くらいなものだと。いつかここが自分だけの秘密基地でなくなる日が来るだろうと、分かっていたはずなのに。
草むらに大の字になったまま、恐る恐る首を横に動かしていくと――扉に手を掛けた格好でこちらを見つめる、背の高い青年と目が合ったのだった。