4. とある出来事
「え……」
アルマが手を伸ばしたその先。彼女が落とした財布を、男物の靴がしっかりと踏みつけている。
靴はあちこち擦り切れていて、紐は短くなり、踵は履き潰されている。丈夫で長持ちする靴は高いので、それ自体は問題ではなかった。
問題は、その靴の下にアルマの財布が敷かれているという点だ。
突然の出来事にびっくりしたものの、踏んだ人間が足の下の違和感に気付かないわけがない。すぐに足を退けてくれるだろうと思って、アルマはしゃがんだままその時を待とうとする。
がしかし、彼女に返ってきたのは、若い男たちの笑いを含んだ声だった。
「へー、これが亡霊女? 噂通り真っ黒だな」
「あつくるしー。くさそー」
アルマの心臓が凍りつき、みしりと嫌な音を立てた。
明らかに彼女へ向けられた害意。その声は、財布を踏みにじっている足の上から聞こえてくる。そしてもう一人、こちらに爪先を向けている男がいる。
絡まれたのだ。
そうと察した瞬間、蛇に睨まれた蛙のごとく、アルマは動けなくなってしまった。
夏のパーティーでの出来事が、フラッシュバックのように蘇る。あの、周囲の人間が高い壁となって自分を取り囲んでいるような圧迫感。少しでも動いたら何かのバランスを崩してしまいそうな気がして、アルマはただひたすら男の足元を凝視し続けた。
二人組の男は、手を伸ばせば触れられるくらい近くにいる。危害を加えられるかもしれないと、恐怖が湧き上がる。
「おい、顔を見せろよ、亡霊女」
「ハハッ。よせよ、呪われるぞ」
「上等だ。呪ってみせろや。おい、亡霊女。顔見せろって言ってんのが聞こえねぇのか?」
「ちっとも動かないな。なんだ、ビビってんの?」
下品な笑い声に耳を塞ぎたくなる。代わりに、ぎゅっと目を瞑った。
心臓がバクバクと悲鳴を上げている。今すぐこの場から逃げたいが、財布は未だ男の靴の下にある。自分で稼いだ貴重なお金だ。取り返さないと、人嫌いに耐えて頑張った分が無駄になる。
周囲にはたくさんの人がいるけれども、アルマを助けようとする者は皆無のようだった。気付いていないはずがない。男たちの声は大きくてよく聞き取れたし、噂の亡霊女を見ていた人間も大勢いる。助けるつもりがないのだ。
当然だろう。見ず知らずの人間――それも真夏に黒尽くめの怪しい女なんか、彼らにしたら助ける義理がない。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
何か、言わないと。そうだ、財布を返してもらわないと。足を退けてくれと、ただ一言言えばいいのだ。
自分は何も悪いことはしていない、はずだ。こんな大衆の面前で絡まれる謂われなんてない、と思う。むしろ、現状誰かの邪魔になっている。
早く財布を返してもらって、この場から立ち去らないと。
だが、「早く」「しなければ」と自分を追い詰めれば追い詰めるほど、喉が潰れて言葉が出なくなっていった。
悲しいことに、アルマは面と向かって人と喋れない。夏のパーティー以降、完全に昔の自分に戻ってしまった。
「いい加減やめんか、お前たち。人の店の前で、迷惑だ」
「ああ? うるせぇな、おっさんは黙ってろよ」
「……ハァ。ったく、最近の若ぇもんは。――おう、いらっしゃい。メニューは一つだよ」
トープファ屋の店主が助け舟を出してくれたのは、ほんの一瞬だった。別の客が来たらしく、すぐに接客に切り替わる。
希望はあっという間に砕け散った。
代金を払っていたら話は別だったかもしれないけど、アルマはまだ注文すらしていない。店主にしてみたら、ただの迷惑な通行人でしかないろう。
――だめだ。やっぱり、助けてくれる人なんかいないんだ。
ぐすっと、小さく鼻を啜る。
誰かに助けてもらわなければ窮地を脱せない自分が情けない。だからって、そんなにすぐに変われたら苦労しない。
「財布を返してほしけりゃ、顔見せな。どんな顔か確かめてやる」
「待て、とんでもないブスだったらどうするんだよ?」
「それはそれで話のネタになる――って、あっおい!」
顔を見られる。そう思った瞬間、アルマは身を翻していた。
人にぶつかるのも構わず、一心不乱に元来た道を駆けていく。勘に頼って走ったので、正しい道を辿っているか不安だった。体力もないのですぐに息が上がる。しかし、立ち止まれば後ろから彼らが追ってくるんじゃないかという強迫観念が、アルマに休むことを許さなかった。
もうお金なんてどうでもいい。怖いものに立ち向かうくらいなら、何もかも捨てて逃げ去りたい。
やっとの思い出アパルトマンに辿り着いたが、ちっとも安心できなかった。全身で押すようにして玄関扉を開けて、手すりに縋りながら階段をのぼる。
ローブのポケットをまさぐって鍵を取り出し、乱雑に鍵穴に突っ込んで回すと、扉を開いた勢いで倒れそうになった。それを若さの反射神経で回避すると、一目散にベッドに潜り込んだ。
「……ひっく、うっ、うぅぅ」
薄い毛布に顔を押し付けて、子供のように泣きじゃくる。
アルマは十六歳だ。もう既に、前世よりは長生きしている。その全てを合わせても、こんな風に泣いた記憶はない。泣けば叩かれたし、泣いてもどうにもならなかったから、泣くのを我慢するのが普通だった。
だけど、今は叩く人すらいないのだ。寂しさが津波のように押し寄せてきて揉みくちゃになる。
優しい言葉が欲しかった。温かい手に抱かれたかった。思い浮かぶのは父と弟、そして、声も忘れてしまった亡き母親。
なんでこうなってしまったんだろう。
喘ぐように息をしながら、後悔と寂寥感が渦巻く胸中を漂っていた。
――コン、コン。
不意に忍び寄る、ノックの音。
アルマはぴたりと泣くのを止め、外の様子に耳を澄ます。
まさか、この部屋に?
訪問客なんてあるわけがない。でも、一階や三階のノックが聞こえるわけは、もっとない。訪ねてくるとしたら、父の秘書くらいしか思いつかないが、彼はこの前来たばかりだ。
彼じゃない。
毛布の中で震えながら息を押し殺していると、今度はためらうような声がドアの向こうから聞こえた。
「あー、ヘンレッティ? だよな? アルマ・ヘンレッティ」
「!」
なぜ、自分の名前を知っているのだ。
思ってから、あっと声を上げそうになって慌てて口を押さえる。
郵便受けの表札だ。アルマもさすがに郵便受けには名前を書く。郵便受けは一階、二階、三階の順で並んでいるから、真ん中が二階であることは容易に想像がつくだろう。
(誰? 男の人……。何の用?)
当然ながら、思い当たる節がない。あればすぐに分かるはずだ。声にも聞き覚えがない。もしかしたら一度くらいは聞いたことがあるかもしれないが、それだけで覚えていられるほどアルマの記憶力は優れていない。
「んん? ここで合ってるよな。ヘンレッティ?」
動揺するアルマに追い打ちをかけるかのように、声はどこかのんびりと、しかし確固たる意志をもって話しかけてくる。
こうなったら居留守を使うしかない。観念してドアを開けようなんて発想は、アルマにはないのだった。
「おーい。いるのは分かってるぞー」
「!!」
「参ったな。返事が無ぇ。……あ、鍵開いてる」
「!!!!」
なんてことだ。あろうことか、こんな時に限って鍵を掛け忘れるなんて。通常ではあり得ない失態に、アルマは完全に青褪める。
このままでは、人が入ってきてしまう。
私だけの、ひとりぼっちの聖域に。
阻止しなければと気持ちだけは逸るが、臆病なアルマは毛布を被ったまままんじりとも動けない。
バクバクと激しく心臓が波打つ。
そして、かすかに蝶番の軋む音がして、とうとう扉が開かれてしまった。
もはや死ぬしかないという覚悟で、アルマはぎゅっと目を瞑る。
――しかし、声の主はそれ以上入っては来なかった。
「……ヘンレッティ。さっきの、あー、財布。取り返したから、ここに置いとく。用事はそれだけ。……別に、傷つけやしないから。じゃあな」
それだけ言うと、すぐにパタンと扉が閉じる。返事があるとは思わなかったらしい。する勇気はなかったけれども。
アルマは毛布を被ったまま、音がしなくなってからも数分間じっとしていた。
立ち去ったのか、いないのか。確実にいないと言えるまで、安易な行動はできない。
しばらくして、本当に帰ったようだとようやく納得すると、慎重に毛布とベッドの隙間から顔を出し、扉の方を窺った。
扉は閉まっている。実はまだ外にいるんじゃないかと一瞬疑ったものの、そんなことをしてまで自分を引き摺り出すなら、鍵がかかっていなかった時点で実行しているだろうと思い、頭を振る。
アルマは爪先からそろりと床に降りると、乱れた毛布をベッドの上に戻した。床の上に靴が片方落ちていることに気が付いて、立ったまま足を嵌め込む。
それから。
「財布?」
ぱっと火花が閃くように、頭の中に男の言葉がちらついた。
玄関扉の横には、背の低い飴色の棚が置いてある。換えの靴などを置く容れ物だろう。あいにく、アルマは一足しか靴を持っていないので用はない。
その腰よりも少し高い一番上の棚板に、見覚えのある巾着袋と茶色い紙包みが置かれていた。
巾着袋は、言うまでもなくアルマの財布だ。紙包みの方は、どこかで見た覚えがあるけど分からない。なんだろうと思って、アルマは紙包みに手を伸ばした。
柔らかく、温かな感触が掌に乗っかる。
「……トープファ」
それは、まさにアルマが例の屋台で買おうとしていたものだった。ソースの匂いも、蝋を塗った包み紙も、彼女の記憶を明確に刺激する。
アルマは不思議な思いでそれを棚板に置き、次に財布を手に取った。中身を確認すると、家を出る時に補充した金額とぴったり同じだけの硬貨が入っていた。一枚たりとも、なくなった形跡がない。
トープファを見遣る。ちゃんとそこにある。
――不思議だ。
さっきの男の人は誰だったんだろう。
毛布に隠れて返事をしなかったことを、アルマはほんの少しだけ後悔した。