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3. 亡霊女

 元々、絵を描くのが好きだった。最初は幼稚園のお遊戯か何かの延長だったと思うけれど、小学校の頃、図書館にあった海外小説の素朴な挿絵に惹かれて、真似し始めた。紙とペンさえあればとりあえず始められるというのは、その頃のアルマにとっては救いに等しかった。

 道端に咲いていた名前も知らない花。車のサイドミラーに留まったトンボ。塀の上になぜか置かれたジュースの空き缶。そういった物を黒いペンで描いては、簡単な所感を記録していった。

 簡単に言えば絵日記だ。

 今考えてもなぜそんなことを始めたのか分からないが、たぶん何でもいいから側にある物を増やしたかったのだと思う。同じノート一冊でも、中に何も書かれていないまっさらなノートと、自分だけの記録が詰まったノートとでは価値が全然違う。少なくともアルマにとっては、自分の側にいてくれる大事なノートだったのだ。


 それが、今では忘れるために書いている。

 仕事で使う書体の練習も兼ねているので、絵ではなく文字が主体だ。詩とも小説ともつかない雑文で、普段見た情景をただ書き連ねているだけ。

 単語を選定したり綺麗に書くことを意識したりしていると、不思議と心が落ち着く。

 他の余計なことを考えなくて済むからだ。たとえば、家のこととか、学園のこととか、前世のこととか――要するに、嫌なこと全部。


 忘れたい。何もかも無かったことにしてしまいたい。そうだったらいいのに。


 今日は仕事が休みなので、朝からずっと白紙を埋める作業に没頭していた。

 二、三時間もやれば肩が凝る。加えてお腹も減ってきて、アルマは万年筆を置くと、時計を見ながらどうしようと頭を悩ませた。

 朝食は食べるのが面倒くさくて抜いた。でも、これ以上空腹でいるのはまずい気がする。

 何か食べなきゃ、と思う。食べるもの、何かあったかしら、とも。

 ナッツでもあれば当座は凌げる。果物でもいいけど、最近買い物をした覚えがないので、残っているか分からない。

 キッチンの隣の食品棚を漁ってみるが、最悪なことに、何一つ食べられる物がなかった。

 ハムの切れ端すらない棚の寂しげな様子を見て、アルマはしばし悄然とする。

 空腹が癒せないからではなかった。

 外に出て、食糧を買いに行かねばならないという現実に襲われたせいだった。


 ……仕方がない。せっかくの休みだが、食べるものがなければ人は生きていけない。水ならあるのにとがっかりしながら、アルマはぱたんと戸棚を閉じた。


 机の引き出しから、買い物に必要な額より少し多いくらいの硬貨を財布に移した。薄っぺらい巾着袋が、硬貨の重みで涙のような形になった。その紐を手首に通し、コート掛けから黒いローブを手に取る。

 インクで裾が汚れた白のブラウスシャツに、足首まで覆う黒いロングスカート、山羊キッドの革靴。

 全身、ほぼ黒。

 さらに、それだけでは飽き足らないと言うかのように、バサバサと長い黒髪を整えて(・・・)――念入りに顔を隠せば、外出準備の完了だ。


「よし……い、行くぞ」


 階段部屋に続く扉の前に立ち、小さく拳を握って気合を入れる。憐れなほど弱々しい掛け声だった。



 階段を降りている途中、一階と二階の間の踊り場で、白髪の老紳士とすれ違った。彼は三階の住人だ。互いに軽く頭を下げて挨拶したが、紳士にはアルマが一層深く俯いただけにしか見えなかったかもしれない。態度の悪い若者、と思われた気がする。申し訳ない気分に陥りながら一階へ降りる。


 共用の玄関ホールは、階段部分を除くと畳三帖分くらいの広さしかない。広さだけ見れば、ここに布団を敷いて寝たいくらいの狭さである。階段を降りて左手の壁には郵便受けがあり、アルマの名前が書かれたそこは当然のごとく空っぽだった。


 郵便受けを素通りして、アルマは玄関の扉を開ける。途端に、眩い光が目の前に満ちた。

 洗い立てのような白い石畳。青銅色の真新しい街灯。アパルトマン一階の外側には花壇が造られていて、赤や白の縦に連なった花が町に彩りを添えている。サルビアに似た花だ。

 何度見ても、自分が住んでいいとは思えないくらい綺麗で明るい町である。古い住宅街なので、余計にそう思う。

 逃げるように、アルマは足早に市場マーケットへと急いだ。


 安価で雑多なものが集まる市場は、庶民の生活の中心だ。安い分品質は推して知るべしだが、中には良質の品もある。そして種類が豊富だ。初めて来る人は、品数の多さと賑わいに圧倒されることだろう。アルマも最初はそうで、なかなか中に踏み入ることができずに泣いていた。


 今日はお気に入りの屋台が開いているといいのだが。禿頭に鉢巻という、ちょっと特徴的なおじさんがやっているその屋台は、いつも分かりやすい場所に陣取ってトープファを売っている。

 味もそこそこ良いのだが、何より分かりやすい場所というのがアルマにとって重要で、仕事帰りに買って帰っては夕食や翌日の朝食にしていた。

 ついでに数日分のパンも買いたい。この世界のパンはすぐに固くなってしまうので、一日置くとほぼ食べられないのだが、アルマはスープに浸して無理やり食べている。極力外へ出たくないがために。


 こんな生活を送っていると知ったら、父や弟はどう思うだろうか。自堕落と嘆くだろうか。それとも、今更驚かないだろうか。

 家賃や水道費を男爵家に払ってもらわなければ、アルマはとうに野垂れ死んでいる。


(なのに。こんな身勝手な娘のせいで、お父様やクリスはきっとすごく苦労したんだわ)


 父や弟のことを思い出すと胸が痛む。昔の父は本当に優しくて、弟は姉さま、姉さまと慕ってくれたのだ。全部身から出た錆とは言え、ひどく寂しい。


「はぁ……」


 沈んだ気分のまま歩いていると、いつの間にか賑やかな喧噪に近付いていた。

 目的の市場だ。

 色鮮やかな帆布を使ったシェードが、あちこちに日陰を作っている。その下には蓋の開いた木箱がいくつも置かれ、王都の外から輸送されてきた農産物がぎっしりと詰め込まれている。あんなに詰めたら、下の方は潰れてしまうだろうに。店主はあの手この手の文句を並べ立て、客に足を運んでもらおうと頑張っていた。


(いつ来ても明るすぎる……)


 この熱気。この光量。人も町も眩しすぎて怖い。そんなことを言ったら笑われそうだ。


(笑ってくれる人もいないけどね……)


 心の中で自嘲しつつ、長い髪でなるべく視界を遮りながら、市場をぐるりと回り込むように進む。お目当ての屋台はちらっと見れば分かる。むしろそれ以外が分からない。


 慎重に、人にぶつからないように進むアルマの耳に、はっきりとした声が届いた。


「あ。亡霊女だ」


 ぎくりと、足が止まってしまいそうになる。しかし、立ち止まれば反応したことがバレるので、アルマはなんとか平然を装って歩き続けた。

 その後も、最初の声が呼び水になったかのようにいくつかの囁き声が聞こえる。


「やべぇ、呪われそう」

「私、初めて見たわ。噂には聞いてたけど、本当に亡霊みたいね」

「あの黒くて長い髪。ローブも黒、スカートも黒。気味が悪いわ」

「今時、牧師の妻でもあんな格好しないわよねぇ」


 無遠慮にクスクスと笑う声。物珍しそうに首を伸ばしては、不吉なものを見たとばかりに顔を顰める者。指をさし、仲間内で嘲る者。

 彼らに悪気はない。単に、見たまま感じたままを述べているだけ。だから、本人アルマに聞かれようと構わない。たとえ抗議したところで、そんな格好で出歩いている方が悪いと言われるだけだ。抗議する勇気もないのだけど。


 アルマは、ますます下向いて歩いた。仕事帰りの時間帯だともう少し人出は穏やかなのだが、今は真っ昼間。しかも昨日より涼しいということもあり、予想以上に混雑している。


 胸の前で握った指先が震える。心はすっかり折れて、今すぐにでも帰りたい気持ちでいっぱいだ。そんな彼女の不安な顔も、長い髪に隠れてしまって外からは分からない。それだけが救い。

 顔を見られたくない。表情を悟られたくない。

 いや、違う。

 自分を見る顔を見たくないのだ。


 なるべく道の端っこを歩き、ようやく目的の屋台に辿り着いた時には、山を一つ二つ越えたような気分になっていた。


 禿頭の店主が、簡易竈でトルティーヤのような生地と薄切り肉を焼いている。別のボウルには細長く刻まれた葉物野菜がたっぷり入っていて、半分ほど減ったソースの容器が客の手の届かないところに置かれている。

 アルマのお腹が、小さくグゥと鳴った。

 勇気を出さねば、ごはんは手に入らない。


「あ、あの――」

「おう。いらっしゃい!」


 硬貨の入った財布を握りしめ、思い切って声を出したその時だった。

 横手から誰かがぶつかってきて、アルマは大きく態勢を崩した。二、三歩たたらを踏んだが、なんとか転倒は免れる。しかし、態勢を崩した折に手首から財布の紐がすっぽ抜けてしまって、アルマの顔からざっと血の気が引いたのだった。


 幸いなことに、財布はそれほど離れていないところに落ちていた。口を開く前だったので、硬貨が散らばってしまったということもない。雑踏にもみくちゃになる前にと、身を屈めて財布に手を伸ばした瞬間――。

 誰かの靴が、アルマの財布を上から押さえつけた。

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