2. 彼女の転生事情
最初は、夢だと信じていた。
だって、あの時確かに自分は死んだはずで、最期の、本当の間際まで苦しんだことを、はっきりと覚えていたのだから。
水が鼻や喉の奥、そのさらに下まで流れ込む感覚。指先の感覚がなくなって、意識が遠のく昏がりの一筋。あれが今際の際でなくて、何だと言うのだろう。
神や仏なんて信じてないし、あの世があるかどうかも興味がなかった。死後の世界に興味を持てない程度には現世に絶望していたし、来世なんてとんでもないと真っ先に否定する程度には、生きることに意味を見い出せない人生だった。
それが前世の自分だ。
この世界を知ったのは、死ぬ数日前に見た動画でのこと。
グレイス王国という水と緑豊かな国を舞台にした、ヒロインとヒーロー達との恋物語を描いたゲームだ。
男爵令嬢アルマ・ヘンレッティは、そのゲームの主人公――ヒロインだった。
ヒロイン。つまり、何人もの見目好い男性を相手に、幸せを掴み取ることを許されている役柄というわけだ。
それが自分だと気付いた時、アルマは心からどうでもいいと思った。
生まれ変わりたくなんてなかったし。そもそも、これが生まれ変わりかどうかも分からない。
死の間際の一瞬に凝縮された長い夢、ということも有り得る。むしろ、そっちの方が可能性としては高いのではないか。
けれど、夢であってもお腹は空くし、怪我をしたら血が出るし、頭を撫でられたら温かいし、そのうち夢なら夢でいいかな、と思うようになった。
どうせ、私は私。外見が変わったって中身までは変わりようがない。こうなったら、目が覚めるまでヒロインごっこをやるだけだ。
と言っても、名前も覚えていない実況主の動画を二、三回分見ただけで、タイトルはおろか、複数人いるヒーローの名前も半分以上覚えていない。ただ、その実況主のスタイルが、本作に登場するライバル令嬢のイラストに喋らせるというもので、その点がちょっと面白かったので記憶に残った。ライバル令嬢というのは、もちろんクラリッサのことだ。
『アルマ・ヘンレッティ』は、黒い髪とスミレ色の瞳をした、一見儚げな美少女だ。ミステリアスな見た目と、おおらかで明るい性格のギャップが売り……らしい。
正直、全然感情移入できなかった。
なるほど確かに、時にヒーローの心の形に沿うように寄り添い、時に彼らを叱咤激励する様は、正統派のヒロインっぽい。
しかし、『アルマ・ヘンレッティ』の有り余る明るさと行動力は、前世の自分には眩しすぎた。彼女の言動に誰よりも戸惑っていたのが、現アルマである自分だろう。
――私はこんな風になれない。
そう思っていた。
考えが変わったのは、いつだったか。ある日、唐突に悟ったのだ。自分はヒロインなのだ、と。
なぜなら、みんながアルマを見て「可愛い」と言うから。マナーを忘れて失敗しても、言葉を噛んでも、お茶を零してしまっても、誰も怒らないし叱らない。次がんばればいいですよと微笑んで、許してくれる。そして、きちんとできたら褒めてくれるのだ。
ヒロインだから。可愛いから。自分を見て、褒めて、愛してくれる。間違っても、許してもらえる。
こんなに明快な答えはない。
だから、何をしてもいいと勘違いしてしまった。
子供のまま大きくなったアルマを見て、周りの人達は皆困っていた。性格を矯正しようとやんわりと忠告してくれるのを、アルマは大して気にも留めなかった。
いや、違う。無視したのだ。どうせ許してくれると思い込んでいたから、とりあえず分かったと言って聞かないふりをしたのだ。
最低だ。そんなことを続ければ、嫌われるのも無理はない。
しかも、学園でも同じようなことをしでかしてしまった。自分はヒロインなんだと勘違いした結果、とにかく見目好い男性を見つけては手当たり次第に話しかけ、関心を買おうとした。見かねて注意する女子生徒には耳を貸さず、逆に言い返したりもした。
恐ろしいことに、ヒロインなら愛されて当然だと信じきっていた。
幸か不幸か、仲良くなれた人は一人もおらず、いつの間にか「触れてはいけない人」扱い。
今になって思えば、周りがまともな人達で良かった。それだけでも、生まれ変わった意味があったのかもしれない。
前世ではいじめられっ子だった。それ以前に、両親からも嫌われていた。うんと幼い頃は愛されていた気もするけれど、自信はない。
とにかく、急に両親が不仲になって、同じ頃に友達がいなくなった。周りから避けられるようになって、学校に行きたくないと言うと、叩かれて無理やり登校させられた。
近所に祖父母の家があったので、そこに逃げ込むこともあった。けれど、そこも居心地のいい場所ではなかった。祖父は腫れ物に触るように扱い、祖母はとても冷たかった。少し前まではすごく優しくて、いつもニコニコと笑ってお菓子をくれたりしていたのに。
ある時、影で「汚らわしい子」と言われているのを知り、それから祖父母宅には近寄らなくなった。
学校の子からは陰口を叩かれ、家に帰れば母親に罵られる毎日。
せっかく今まで忘れていたのに、母の言葉が、表情が、頭にこびりついて離れない。
「あの人を繋ぎ止めてくれないなら、あんたなんかに価値はないのよ」
深夜の港。狭い車の中で。そう言って、あの人は――。
――あれから、一週間が経った。
学園パーティーから逃げ帰って以来、アルマは一歩も家から出ずに一日のほとんどを自室で過ごしている。
あの夜の騒動はさすがに父の耳に入ったようで、昨日執務室に呼び出された。それでなくとも一週間近く学園をサボっているわけで、叱責されるのは当然だった。むしろ、よく今まで耐えたなといった感じだ。
結論から言えば、アルマは退学することになった。学園が決めた処分ではなく、アルマ本人の希望だ。準備が整い次第、彼女は市井に降りるつもりである。
もう学園にはいられない。家に居るのも辛い。ただ一人になりたくて、藁にもすがる思いでその要望を伝えた。父は飲んでくれた。たぶん、最後の優しさ。あるいは諦め。
膝を抱えてぼんやりしていると、クラリッサのことを思い出す。自然と頭に浮かぶのがきついことを言ってきたシャーリーズでもブラッドリーでもないのは、彼女こそがあの集団の中心だったからだろうか。
綺麗な人達に囲まれた、綺麗な人。
今思えば、アルマから見てもクラリッサは特別だった。
美しく気品があって、頭がよく、懐が深い。女神のようだと誰かが評するのを聞いたことがある。高位貴族にしては優しすぎて、平民の子にまで気軽に接してしまうのが欠点だと言われていた。だが、その分身分の低い生徒からも人気があった。男女問わず慕われていたのも頷ける。中には、セドリックがいるのを承知で本気で彼女に想いを捧げている男子もいたらしい。
一目見た時から、彼女のことはあまり考えないようにしていた。
理由は明らか。
一度自分と比べたら、現実が見えてしまうから。
父からは失望され、弟からは蔑んだ目で見られ、使用人たちは素っ気ない。たぶん、彼らの態度は前からこんな風だった。アルマが見ない振りをしていただけだ。
彼女はようやく気付いたのだった。
今生でも全てを失ってしまったことを。
――数日後、アルマは手荷物を一つ持って家を出た。
見送る者は誰もなく、寂しい旅立ちだった。
* * *
ライムグリーンの壁とコバルトブルーの屋根が瀟洒な、三階建てのアパルトマン。白い隅石がジグザグと角を彩り、蔦の彫刻を刻んだコーニスの上には可愛らしい屋根窓が張り出している。道路脇には街灯が並んでいて、夜でもそれなりに明るい。
王城から見て西にある市民街――イーゼル街。その一画に建つこの建物が、アルマの新たな住居である。
アパルトマンは一フロアで一家族が住める造りで、玄関をくぐるとすぐに階段がお目見えする。階段の隣にはもう一つ扉があって、その先が一階の住民が暮らす部屋だ。今は若い夫婦が住んでいる。三階はどこぞの紳士。残る二階が、アルマの部屋だ。
暮らしてみて分かったが、家具が付いているのは大変ありがたかった。もしもソファやベッドがなかったら、床で寝ることになっていただろうから。家具を買うには男爵家の資金を使うことになる。父に対する負い目もあったし、業者とは言え他人を部屋に上げるのも苦痛だから、固くても床で寝る方を選んだに違いない。
居間はベッドと机とテーブルとソファを置いてもまだ空きがあり、暖炉や小型のキッチンもある。水道管まで引いている辺り、快適性は並の住居より高い。男爵が用意してくれただけのことはある。
尤も、男爵からすれば使用人の一人でもつけて欲しいといったところだろう。アルマの世話と、監視を兼ねて。だが使用人はアルマが拒んだ。その代わりと言ってはなんだが、一ヶ月に一度、父の秘書官が様子を見に来ることになっている。
夕刻、死にそうな顔で部屋に戻ってきたアルマは、窓を開けた後ベッドにダイブしたいのを我慢して、浴室へ向かった。だんだん涼しくなってはきたが、日中はまだまだ暑い。二十分ほど歩いただけだというのに、服がたっぷりと汗を含んでいる。
誰もいないのをいいことに、浴室の扉を開けたまま服を脱ぐ。浴室には小さな天窓しかないので、閉めたままだと蒸すのだ。
黒いローブを脱ぎ、インクの染みたブラウスを脱ぎ、黒のロングスカートを下ろし、下着を剥ぎ取る。それらを適当に籐かごへ放り投げると、バスタブの脇にしゃがみ込んだ。
丸いバルブを回すと、透明な水がこぽこぽと流れ出す。バスタブの縁に頬を載せ、昏い目で水の流れを見つめながら、アルマはぼんやりと最近のことを考えた。
家を出て、二ヶ月あまり。父が用意してくれたのは家だけではなく、仕事もだった。
娘の監視をしやすくするためだろう。アルマは勘当されたのではない。あくまで籍はヘンレッティ男爵家にあるのだ。言い換えれば、好き勝手させるほど信頼されていないということ。それは構わない。
父が提示した仕事先はいくつかあって、アルマはその中から代筆屋を選んだ。
代筆屋はありふれた職業の一つだ。依頼を受けて、書類や伝言、嘆願書などを代書する。中でも特に多いのが恋文で、今日はどこぞの女中の惚気話を何時間も聞く羽目になった。アルマに重要な仕事は回ってこないから、今日でなくとも大体似たような目に遭うのだが。
アルマは元々字が上手い。加えてこの仕事をするようになってから、いくつかの字体を勉強した。話し手の性格や目的に合わせて、字の雰囲気をそれっぽく変えたりする。呑み込みが早いと、店主にも褒められた。本心かどうかはさておき、嬉しかったのは確かである。
今のところ、問題なく生きている。もちろん一つも後悔がないとは言わないが、あの夏のパーティーのような失態に比べたら遥かに大人しい毎日だ。
仕事を貰って、お金を稼いで、食べるものや水を買って。貴族の娘とは思えないほど質素だけれど、そもそもアルマ自身、自分が貴族である自信がない。もうすっかり、無くなってしまった。
静かで波風立たない人生。
死ぬ前も、こういったものを望んでいたのではないだろうか。
今更考えても、詮無いことだけど。
水で汗を流した後、夜着を被ってソファの端に腰掛けた。帰る途中、屋台で買ったトープファというケバブサンドに似たものを食べる。
蝋が塗られた茶色い包み紙を開き、かぷっと一口。
美味しい。
無言で食べた。
両手を合わせたくらい大きかったので、時間をかけても全部食べきるのはきつかった。屋台の食べ物は、どれも大抵量が多い。
最後はお茶で流し込み、ぷはぁと息をついた。男爵家では使ったことがないような安物の茶葉だが、もうすっかり慣れてしまった。味がついているだけマシといったところ。
アルマはポットに残った茶を再びカップに注ぎ、それを持って立ち上がった。西日の差す部屋を横切り、窓際の書斎机にソーサーごと置く。椅子には座らず、日が当たって眩しいところだけカーテンを閉める。部屋が半分ほど薄暗くなった。
アルマは少し迷ったが、洋燈はまだ点けないことにした。
帰ってきた時に開けておいた窓からは、外の音が少しだけ入ってくる。この辺りはアパルトマンが多く立ち並ぶ区画で、比較的静かだ。通りの喧噪も聞こえてこない。
風がそよそよとカーテンを揺らしている。
この地域では、夏の朝の短い間だけ、冷たい風が勢いよく吹きつける。アルマはその力強い風が好きだった。そのために早起きするくらいに。
机に戻り、ごとんと椅子を引くと、夜着の裾を押さえながら腰掛ける。しかし、再び逡巡すると、また立ち上がってクローゼットから薄茶色のカーディガンを取り出し、夜着の上に羽織った。
それから、今度こそ椅子に落ち着いた。
書斎机の引き出しを開け、紙の束を取り出す。万年筆、インク壺、布、水晶製のペーパーウェイト。最後に小さなクリップをいくつか出し、二ヶ月間ほとんど手入れしていない横髪を、邪魔にならないよう留めていく。
取り出した道具をいつもの位置に並べてから、万年筆を手に取る。丁寧に吸入器にインクを入れた後、柔らかい布でペン先を拭う。
そこまでの作業を終えると、アルマはふぅと息を吐いた。
数秒間、目を瞑って。
カリカリ、カリ、カリカリ……。
カリ、カリカリカリ……。
紙を引っ掻く軽妙な音が、静かな部屋にしんみりと積もる。時折、物思いに耽けるような短い休止を挟みつつ。
カリカリ、カリカリカリ……。
――こうしていると、パーティーで起きたことは全部夢だったんじゃないかと思えてくる。あの日のパーティーだけじゃない。学園でセドリックに付き纏ったことも、クラリッサに敵意を向けたことも、親切を仇で返したことも、屋敷のみんなを失望させたことも、幼い日に勘違いを抱いたことも、この世界に生まれてきたことも、そして前世だと思っている全てのことも。
何もかも妄想で、ただひたすら文字を書いている今だけが唯一現実なんじゃないかと、そう思いたくなってくる。
――これでいい。これでいいんだ。
日が沈み、手元がすっかり見えなくなるまで、アルマは字を書き続けた。