1. ご令嬢、現実に立ち返る
ゆったりと流れる弦楽器の音色が、きらびやかなシャンデリアが彩る天井を伝って、広いダンスホールの隅々にまで響いている。
シャンデリアの灯火は無数のガラスにきらきらと反射し、まるで天上の河のように煌めいている。
その明かりの下では、王立サントレナ学園の生徒達が、毎年恒例の夏のパーティーを優雅に楽しんでいるところだった。
華やかなドレスで着飾った者。制服で参加する者。また、既に配属が決まった騎士や魔術院の装束を着ている者。
王族、貴族から庶民まで、幅広い階級が集まる学園ならではの光景が広がっている。貴族と平民の距離が近く、それでいて両者の間には確かな壁がある……そんな微妙な距離感が保たれている。
才能ある者の才能を開花させる――その理念が指し示すように、学園で最も重視されるのは実力だ。剣でも、魔術でも、座学でも、実力のある者が尊ばれる。もちろんその中には特権階級も含まれているが、ただ地位にあぐらを掻いてふんぞり返っているような輩は、貴族生徒からも嫌われる。
そんな刺激的で公平な校風のサントレナ学園だが、最近、ちょっとした問題が起きていた。
その問題の中心となっているのが、一人の女子生徒。
彼女の名は、アルマ・ヘンレッティ。黒い髪とスミレ色の瞳をした、黙っていれば謎めいた魅力のある美少女だった。――そう、黙ってさえいれば。
「そんなの、納得いきません!」
ホールの片隅――中庭の見える大きなテラスに通じる側廊に、その声は響いた。甘い砂糖を融かしたような愛らしい声だが、その持ち主――アルマ・ヘンレッティは、険しい顔をして目の前の集団に立ち向かっている。
何事かと振り返った幾人かの生徒が、「ああ、またか」と言いたげに呆れた目をして通り過ぎる。
そんな生徒たちには目もくれず、アルマはなおも声を上げた。
「どうしてクラリッサ様が誘われて、私は駄目なんですか? 私だって頑張ったんですよ? 今期の成績、ほとんど優だったし!」
彼女の視線の先に居るのは、濃い金髪の青年。今年三年生で、来年卒業となる第一王子、セドリック・ネア・アセンバーグだ。
そしてその隣で不安そうに佇むのが、彼の婚約者であるクラリッサ。
彼らを守るように四人の男女がそれぞれ両隣に立ち並び、アルマを見据えている。もう一人、集団から少し離れたところに、背の高い青年が柱を背に預け、我関せずの姿勢で立っていた。
彼らのほとんどが、学園内で名を知らない者はいない高位貴族の子弟である。そんな人達を前に堂々と――あるいは臆面もなく――対峙するアルマはある意味で大人物かもしれないが、それ以上に懐が深いのが王子だった。
セドリックはただでさえ柔和な顔つきを優しく崩し、諭すようにアルマに言った。
「うん、それは素直に凄いと思うけど、僕が誰をパーティーに誘うかは僕が決めることだからね。そして、ただ一人の席に婚約者であるクラリッサを選ぶのは至極当然のことだ。そう思わない?」
「思いません! だって、普通は私が選ばれるはずじゃないですか! 優だったんだもの! こんなのおかしいですよ!」
「うーん。君が何言ってるのか本格的に分かんないや」
あははと、あくまで笑顔でアルマをあしらうセドリック。だが笑っているのは彼一人だけで、他の者達は冷たい視線や怒りをアルマに向けている。そのことに、セドリックしか見ていないアルマは気付かなかった。
(何よ! 意味分かんないのはこっちの方よ。なんで? 成績で挽回しようと思ってたのに、なんで、これでも駄目なの……!)
悔しさのあまり、ぐっと唇を噛みしめる。必要以上に強く噛みすぎたので、口の端に血の味が滲んだ。
痛みは、これが現実だということを教えてくれる。夢にまで見た王子様との逢瀬が叶わないということの。
セドリックの言い分は、アルマには到底許容できるものではなかった。自分はヒロインであるはずで、ヒロインは愛されるべきなのだ。それなのに、愛を与える側の王子が役目を放棄するとは何事か。これでは物語が成り立たないではないか。
アルマの苛立ちは、王子の腕に縋るようにして隠れる少女へと向かった。この女がいるから、自分が選ばれなかったのだと。セドリックの主張を聞く限り、そうとしか思えない。なら元凶は彼女だ。
クラリッサ・ネア・ウェインライト。王族の血を引く公爵家の娘で、なぜかセドリックの婚約者の座に収まっている。
陽射しのような金色の髪に、ガーネットのような真っ赤な瞳。女性にしては背が高く、同じく高身長の王子とは身分だけでなく見た目の釣り合いも取れている。
ただ、アルマの記憶では、「クラリッサ」は吊り上がった目と血のように赤い唇が特徴の令嬢だった。見るからに高飛車で、気位の高さがそのまま外見に反映されているキャラクターだったのだ。
でも目の前にいるクラリッサは、確かに目は吊り上がり気味だけれど、アルマの剣幕にびくびくと怯える小動物そのものといった様子。今の彼女を見ていると、まるで自分が弱い者いじめをする悪者のように思えてくる。そこにまた苛々し、アルマは一層強くクラリッサを睨む。冷めた怒りを滲ませるセドリックの視線には気付かぬまま。
アルマが学園に入学した当初――クラリッサがセドリックの婚約者だと知った時、「あれ?」と思った。彼女は王子と幼い頃から付き合いがあるものの、仲はそんなによくないはずなのだ。
二人はセドリックが王子としての重圧を自覚しはじめた頃に出会い、クラリッサの言動によってセドリックは一層心を抑圧することになった――そんな設定だったはず。なにぶん、自分でプレイしたわけではないのでうろ覚えだけど。けれど、肝心なのはもっと別のところであることに、アルマは気付いていなかった。認めたくなかった。
「おかしい……変だよ……だって、私、ヒロインだもん。ヒロインなのに……」
うわ言のように呟く。その意味が分からない王子たちは、アルマの独り言を無視した。クラリッサだけがどこか申し訳無さそうな顔でアルマを見つめていたが、本人はそれに気付くどころではない。
ヒロインは愛すべき存在だ。だからこそ、多少の無茶も許されるのではないの? マイナスを補って余りある魅力をもつのではないの? それが普通でしょう?
マイナスを挽回するために学園の成績を上げた。そういうゲームシステムだったから。
なのに、どうして歯車が狂うの?
どうして――。
「いい加減に、そのブツブツ言うの止めなさいよ。気味悪いわね」
ピシリと叩きつけるような声が、アルマの目をはっと覚まさせた。
クラリッサの隣に立っている紺色の髪を結った女子生徒が、厳しい目つきでこちらを睨んでいる。その迫力たるや、さながら女将軍だ。彼女の家は武門ではないはずだが、気配は武人と言っても過言ではない。周囲で成り行きを見守っていた生徒達も、思わず息を詰める。
女子生徒は数歩前に出ると、真っ向からアルマを睨み、豪然と言い放った。
「オカシイのはあなたの頭の方じゃない。さっきから黙って聞いていれば、勝手なことばかり。あなた、何様なのかしら?」
「わ、私……」
「たかが男爵家の娘ごときが、なぜ殿下のお誘いを受けられると思うの? ちょっと、勘違いが過ぎるんじゃない?」
更に一歩、ドレスの裾を翻して進み出る。反対に、アルマは気圧されて一歩も二歩も後退った。
「シャ、シャーリィちゃん、そんな言い方は……」
「クラリッサはおだまり! 私はこの女と話をしているの!」
「はい! 黙ります!」
おずおずと口を挟んだクラリッサだったが、女子生徒に一喝されるや否や、鞭打たれたようにぴんっと背筋を伸ばした。立場はクラリッサの方が上のはずだが、誰一人異論を挟む隙がない。それどころか、一転して微笑ましいものを見るかのような顔が大半を占めている。
一方、アルマは怒れる女子生徒――シャーリーズ・サイフリッドを前に、震えそうになる足を必死で踏ん張っていた。以前にも彼女を怒らせたことがあったのだが、その時はすぐに逃げ出した。本当は今もそうしたい。
だけど、今夜は分岐の時。ここでルートを決められなかったら、アルマは一生幸せになれない。なぜなら、ヒロインはヒーローとしか結ばれない――そうと決まっているのだから。
そんなのは嫌だ。これ以上不幸な人生なんて。せっかくヒロインになれたのに。
だからシャーリーズの激昂にも耐えるつもりだったが、さっそく心が折れかけている。
シャーリーズの顔はとても怖かった。前世の祖母そっくりで、無自覚に肌が粟立つ。
「もう一度聞くわよ。なぜ、この国の第一王子であらせられるセドリック殿下が、最愛のクラリッサ様を押しのけて、あなたなんかを選ぶと言うのかしら? 理由は? 根拠は? 教えてくれない? 私にはさっぱり分からないのだけど。他のみんなだってそうよ。ねえ、ケヴィン?」
突然水を向けられた小柄な男子生徒は、頬を掻きながら苦笑する。
「んー、まあ、そうだねー。でもそれ以前にあんま関わりたくないから、こっちに振らないでくれると助かるかな」
「馬鹿言わないで。あなただって、この娘の訳の分からない言い分には腹を立ててるくせに。一言申したくて仕方がないんじゃない?」
「んー……。だってさぁ、たぶん、一言じゃ収まらないし」
そう言って、ケヴィンと呼ばれた少年がこちらを見遣る。鮮やかなグリーンの瞳は、愛らしい顔立ちにそぐわない底冷えのする気配を帯びていて、アルマはシャーリーズの怒りを浴びた時よりも一層恐怖を感じた。否、身の危険すら感じた。思わず後退ってしまったのも、無理らしからぬことだった。
そんなアルマの気持ちを知ってか知らずか、シャーリーズは満足な様子でうんうんと頷いている。
「こういうことなの。分かった? アルマさん、だっけ。私達は誰もあなたのことを快く思っていないの。その上、家同士の繋がりもなければ、会話すらほとんどしたことないでしょう。一方的に突っかかられても、こっちは迷惑なのよ」
「か、会話ならしてました! ちゃんと毎日殿下に挨拶して――」
「わざわざ上級生のクラスに押しかけて、無礼極まりない一言を投げかけて去るのが会話? 挨拶? あなたの家では、一体何を学ばせているのかしら。あなたみたいな人間に大切な友人の周囲が脅かされるだなんて――本当に、虫酸が走る」
シャーリーズの声が、低く唸りを帯びた。今までの怒りが噴火なら、今度の怒りは地鳴りを伴う大地震だ。
アルマは芯から冷えて、固まってしまう。何か取り返しのつかないことをしたのだと分かった。しかし取り返しがつかないだけに、どうしたらいいか分からない。何もかも手遅れな気がする。
その時、ピンクの髪をした女の子がシャーリーズの後ろからひょっこりと顔を出し、間延びした口調で言った。
「お取り込み中悪いんですけどー。まだ長引くようなら、わたしお腹空いたんで、ごはん取ってきていいですかー?」
「あんた……さっきもバクバク食べてたじゃない。まだ胃袋に詰める気? 豚になるわよ」
「ふふーん。だいじょーぶです。シャーリィ先輩と違って、わたしのお肉はお胸に行くのでー」
「……ナタリー。そこで私を下げる必要、ある?」
「あっ、クラリッサ様は安心してください。十分、十分なのです! それだけあればー!」
「ちょっと、ナタリー!」
のんびりしたやり取りの後、突然クラリッサに抱きついてその胸に顔を埋める制服姿の女子生徒に、シャーリーズはドン引き。しかし咎めないところを見ると、彼女たちにとってはよくある光景なのだろう。その証拠に、周りの生徒も微笑ましそうに見物している。無礼が許されている仲なのだ。
愕然と。
アルマは硬い表情で立ち尽くす。
何かがおかしいを通り越して、何もかもが違っている。
愛されるのは自分ではなかったのか?
ヒロインはクラリッサだったのか?
優しく寛容で、誰に対しても公平な、公爵家自慢のご令嬢クラリッサ。
そんな彼女を温かく見つめる未来の国王、セドリック。
そして、二人を囲む完璧な友人達。
既に完成された輪の中に、どうやら自分は入っていない。ここまで来ると、アルマも認めざるを得なかった。
「まったく、どこまでも愚かな娘ですね。アルマ・ヘンレッティ。最後の最後まで、己の異質さに気付けないとは」
涼やかな男の声がして、辺りが水を打ったように静まり返った。
セドリックの傍らで沈黙を保っていた青年――ブラッドリー・ウォーターストンだった。
彼は眼鏡のブリッヂを右手の薬指でくいっと持ち上げると、氷のような双眸でアルマを睥睨した。
「貴女の非礼の数々――今までヘンレッティ男爵家に苦情を言い付けなかったのは、貴女を許していたからではありません。セドリック殿下とクラリッサ様のご意向で、ひとまず保留していただけです。自力で過ちに気付けばよし、そうでなければ停学なり退学なり、然るべき対処をしよう、とね」
「たっ……退学!?」
「ここは王立学園ですよ。王族の意思一つで、貴女など簡単に弾けるのです。貴女も貴族の端くれなら、それくらい理解できるでしょう?」
アルマはぱくぱくと喘いだ。
退学。その言葉の重さは、さすがの彼女も一瞬で理解した。
王立サントレナ学園が創設されて二百年。この国の貴族にとって、学園に通うことはもはや常識だ。それが卒業できないとなれば、外聞や体裁を何よりも気にする貴族階級において、大きな醜聞となる。そしてその醜聞はアルマ個人ではなく、ヘンレッティ男爵家に向かう。
自分一人のせいで、家族を苦しめてしまう。その事実を突然目の前に突きつけられて、アルマは酷く混乱した。そんな彼女を皆が見ていた。意外そうな顔で。まさか分かっていなかったのか、とでも言うかのように。
「嘆かわしい。いや、気の毒と言うべきか。ヘンレッティ男爵は有能で人柄も良く、同派閥からの評判がすこぶる高い。うちの父ですら手放しに褒め称える程だ。ご子息も大変優秀と聞きます。それなのに娘がこれとはね。貴女の行いはね、本来なら男爵の意図を疑われてもおかしくないものなのですよ。そうならなかったのは、ひとえに男爵ご自身の評価のおかげ。しかし、貴女はそれに傷をつけた。この意味が分かりますか?」
この時、逃げられるものなら、アルマは処刑台にだって上っただろう。少なくとも、そのくらいの気持ちだった。だが実際には、指先一つ己の意思で動かすことができず、読み上げられる罪状を聞くしかなかった。
(お父様……クリス……私が、私のせいで……)
全身から汗が吹き出る。指先が小刻みに痙攣する。寒いから震えているのか、怖いから震えているのか分からない。
遠い水底に封じ込めたものが、急速にせり上がってくるのが見えた。それは幻だったが、アルマにとっては目の前の現実と大差ない。どこか暗い部屋の隅では、昔の自分が頭を抱えて震えている。その自分が、大量の水に飲み込まれていくのがはっきりと分かった。
「おねが……やめて……」
唇を声が掠める。だが、それに気付いた者は誰一人いない。アルマは独りだった。他でもない、彼女自身が選んだのだ。たとえ、こうなると予想していなかったとしても。
「よいですか? あなた個人に、価値なんて一片たりともないのですよ。家の品位を貶めるなら、即刻消えるべきですね」
目の前が、真っ暗になった。そのまま世界が暗転し、気を失うかと思ったくらいだ。
いっそ、それだったらどんなに楽だったろう。
たとえ無様を晒すにしても、心はいくらか傷つかずに済んだはずだ。
闇の中で、無数の目がアルマを見ていた。
ひそひそと悪口が聞こえる。全てアルマを嫌悪する声だ。
周りを見回せば、人、人、人。まるで高い壁が立ちはだかり、アルマの行き場を失くしているかのよう。
「だいたいあなた、自分で思ってるほど可愛くないわよ? せいぜい野良猫がリボンつけた程度ね」
凛としたシャーリーズの声が、アルマの胸をぐさりと抉る。
「ぶーぅ。猫ちゃんは、かわいいですよー。それを言うなら子豚ちゃんとかじゃないですかー?」
続くナタリーの間延びした声は、右から左へすり抜けていった。
「あら、ここにいる子豚ちゃんが何か言っているわ」
「ぶー! わたしは豚じゃないですー! ほっぺたつつかないでくださーい!」
賑やかに。楽しそうに。
笑っている。自分以外の皆が笑っている。
不意に、チッと、鋭い舌打ちの音がした。
その音で、アルマは我に返る。
びくっと顔を上げて見れば、シルバーグレーの髪をした男子生徒が、不機嫌そうに眉をひそめてどこかを睨んでいた。彼も王子の親友の一人だ。話したことはないが、知っている。
もう無理だった。
立ち向かう勇気なんて残っていない。それどころか、立ち続けることすらできない。
頭の中は真っ白だ。今ここから立ち去らなければ、恐怖と後悔に呑み込まれ、二度と帰って来られないような気がする。
アルマはふらりと踵を返し、無数の目と声に背中を向けた。
何も見えない。何も聞こえない。
必死でそう言い聞かせ、人やテーブルにぶつかるのも構わずに、ただ無我夢中で逃げ出した。