第3回 あたためるふたり(最終回)
聡は今日、何がしか理由をつけ、自宅にいる彼女の恭子が眠りにつく頃を見計らって帰りたかったのだ。
遡れば、発端は昨晩。聡と恭子は、2人で食卓を囲む時にその日の料理を拵えた方が、好きなレトルトカレーを1品出す事を決まりにしている。それはどんな日でも、どんな料理の時でも、必ず出すという鉄の掟である。
昨日は恭子が飯当番。献立はサンマの塩焼きに味噌汁、だし巻き卵に、野沢菜の漬物。そんなメニューの中、出されたのは、銀座カリー中辛。和食の中に、どんと置かれた深めの皿に注がれたカレーが異色を放っている。実はこのカレー、先週も同じ曜日に出ていたのを恭子はすっかり忘れていた。
加えて聡はその日、客先でどやされて疲れ切っていた。
普段はぐっと心に秘め、お互い様だからと納得する聡ではあるが、昨日は自身を抑えきれなくなり、恭子に冷たく当たってしまった。しかし恭子も恭子で負けてはいない。ああ言えばこう言う反撃で、あっという間に口喧嘩は聡が不利になっていた。そこからお互い口も聞かず、現在に至る。
帰ったところで、待っているであろう彼女に、なんと話しかければいいのか。謝ったところで、簡単には許してくれないであろうという推測ばかりが、彼の足元をデスクから離さないでいたものの、「こういう時には、早く帰りなさい」と通りがかった会社の上席に諭され、とうとう重い腰を上げた。
聡は帰りたくない気持ちと同時に、昼間考えていた事を思い出していた。
何故、2人で囲む食卓にレトルトカレーを1品、必ず出すようにしたんだっけか。
それだけで聡は頭の中を埋めようとした。気が滅入るより、考え込む方がよいと判断したのだ。恭子と出会った3年前から記憶をできる限りで紡いでいく。しかし、いくら考えても答えは見つからぬまま、とうとう自宅まであと少しの所まで戻って来てしまっていた。
せめてどこか、もう少し時間を潰せるところがないものか。聡は辺りを見回す。そこは近所の商店街。飲食店は賑わっているが、個人商店は早々と店じまいをしている。
ふと聡の眼に、あるものが映った。それを見つけたことで、帰りたくない理由も、聡の中に渦巻いていた不安もすべて消え去り、聡は宝物を見つけた子供のように心を躍らせた。
一方、マンションで聡の帰りを待つ恭子も、気分がすぐれなかった。
酷く罵られたという事に対して、少しばかり言い過ぎたという後悔と、昼前に考えていたことである。
何故2人の食卓に必ずカレーを1品、出す事にしたんだろうか。
今日はそればかり考えていた。普段なら、帰ってきた聡に聞けばいいと放っておくのだが、今日はそうもいかなかった。朝だって互いに口をきくどころか、顔も合わせなかったのだ。聡が今、玄関のドアを開けて帰ってきたとして、例えば笑顔で迎えたなら、向こうはどんな顔をするのだろう。そもそもまだ怒っている可能性だってある。と言っても、無視をこれ以上決め込みたくない。
そう悩んでいるうちに日はとうに落ち、部屋は電灯をつけなければ闇に飲まれてしまう時間になったことに彼女は気が付いた。
電灯のスイッチを入れたところへ、玄関のインターホンが鳴った。確認すると、立っていたのは宅配業者の青年だった。恭子が彼から受け取ったのは、大きめの段ボール箱。実家の母からだった。近所の人から貰ったという野菜、こちらに幾らでも売っている缶詰。そして手紙が一通添えられていた。手紙は恭子の母の字で綴られており、まるで小言を耳元で聞かされているような、それでも懐かしい言葉がそこにあった。
『聡さん、そういえば変なのが好きだったようなので、カレーを送ります』
恭子は荷物を確認する。それは隅の方に隠れており、手に取った彼女は思い出した。聡と会った日から、あのルールが何故生まれたのか。
恭子は遠く離れた田舎よりやってきた小包とその送り主に、小さくお辞儀をした。
「恭子、聞いてくれ!」
玄関をくぐった聡の開口一番が、その台詞だった。彼の表情に今朝の様な険しさはなく、むしろ何かを払拭した、それは晴れ晴れとした笑顔だった。
「お、お帰りなさい。あの……私も、聞いて欲しいことあるんだけど」
聡の表情にやや驚きながらも、恭子は返した。
「ずっと考えてたんだ、今日。なんでカレーのルール作ったのか」
「え、私もそれ考えてたんだけど」
「ほんとに?! で、実はずっとあやふやだったんだ。すっかり忘れてたんだなって。本当にごめん。さっきこれを見つけてきてさ。思い出したよ」
聡は上着をかけるのもそこそこにテーブルへ着くと、鞄の中からそれを取り出した。それは女児向けアニメのキャラクターが箱に印刷された、レトルトカレーだった。
「キャラは違うかもしれないけどさ、君と暮らす前にこういう子供向けのカレーを僕、初めて食べたんだ。ちゃんとカレーしてるんだなって。で、スーパーとかに並んでるのも、奥が深いって言ったんだ。そしたら君が『先輩にも知らないことがあるんですね』って」
聡は興奮して話す。恭子はそれを笑いながら聞き、ひとしきり話したところで、戸棚からある物を取り出し、テーブルへ置いた。それもアニメ調の絵が描いてある、レトルトカレーの箱だった。色使いや、キャラクターはどことなく、聡の出したものと似ているが、微妙に違っている。
「昔ね。私の実家へ行ったとき、あなたがこれを買ってきたときの事を思い出したよ。あの時これ見て、版権とか大丈夫? って思ってたけど、今見たら、全然似てないねこのイラスト。しかもこれ、子供用の味じゃなくて、辛口の川エビ味。モロに大きなオトモダチ向けでウケてたわ。これ食べた時に、世界って広いなぁって言った時……あなたが『一緒に居たら沢山食べれられるぞ』って」
「だから一緒に住むとき、ルールを作ったんだ。お互いが知らない、今まで興味の薄かったことも、知ってる方が教え、知識を育てていこうって。だから気になったことや、言いたいこともちゃんと言おうって」
「だから喧嘩することはあっても、学んでいけばいいじゃないって、そう決めた事。ようやく思い出した」
「昨日は怒鳴って、ごめんな」
「こっちこそ、ちょっと言い過ぎた」
「はぁ……もう昼からずっとこれを考えすぎてて、はらぺこだ」
「あまりものになっちゃうけど、それでよければ。けど、カレーは、どうしよう。折角だから、どっちか開ける?」
「いや、今日はどっちも開けよう。こんな日なんだ。それがいい」
2人の声は軽く、2つの箱を置いたテーブルの上に、昨晩のような雰囲気は、微塵も感じられなかった。食卓には、カレーソースの入った器が2つ。
2人にとって、これ以上ない位の贅沢品だ。
〈おわり〉