名無しの雪子の思い出
「今年も雪山登山をしていますので、携帯は通じません」
嘘ではないが本当のことは言わない。年末年始に休日出勤して、その分の振り替えで休暇を取得したのだ。仕事始めの翌日から5営業日休みを取り、成人式の祝日もあわせると、ちょっとした連休になる。
帰省・Uターンラッシュとはもともと無縁だ。私が行くのは、山梨県との県境に近い東京都だ。寒中の雪山では、半径1キロに人がいることの方が珍しい。
雪山登山と当たらずしも遠からずの報告をしていたのは、「狩猟をするなんて、残酷だ! 真っ当な人間のやることではない!」と非難されるのを避けるためだ。
猟銃・空気銃所持許可書と猟銃狩猟者登録証よりも、自動車免許の方が年間で人を殺しているはるかに危険な代物なのだけど、ライフルを所持しているというだけで危険人物のような目で見られる。
私が残酷だとあなたは言うけれど、あなたは肉を一切食べないし、皮製品を一切使わない人なの? 偽善者? とでも、私が言い返したりなんかしたら人間関係に亀裂が入る。
雪山登山は、良い方便なのだ。
・
私は五日間、雪山を登っていた。東京と言えば都会のイメージかも知れないが、雪山である。雪の積もった森である。東京も広いのだ。
生きることに充実した五日間であった。だが、もう、五日目だった。猪や鹿と私は出会っていない。足跡も見つからないし、フンも見つけられていない。
夕陽が落ち始めていたので、私は宿営の準備を始めた。
夜になり、ガスストーブで雪を溶かして沸騰させ、インスタントラーメンを煮ていた。突然、足音がした。ガスが燃える音が響く中、雪を押して進む音が聞こえた。
なんだ? と思い、猟銃を手に取り、私はテントのチャックを開けた。すると、嘘だろう?
開けたテントの入口からヒョイッと首を入れて覗き込んだのが、雌鹿であった。熊であったら、私は迷わず発砲していたであろう。
私は散弾銃を構えている。距離にして1メートルだ。だが、鹿は逃げる気配が無い。人慣れしている? とも一瞬思ったが、こんな人のいない山奥でそんなことはありえない。奈良公園とは状況が違うのだ。銃を持った私は、エサをくれる存在ではなく、天敵のはずである。
雌鹿は、私が銃を構えているのをお構いなしにテントの中に入ろうとしてくる。勘弁してくれ。撃とうと思ったが、躊躇われた。
夜中に撃っては、解体作業ができない。死体を放置して、朝に解体することになっては、血抜きもできず、朝には凍っているだろう。それに、血の臭いを嗅ぎつけて、他の獣が寄ってきたら私の命に関わる。
そして……鹿の毛にはノミが多いのだ。テントに入って来て、シェラフにノミを移されたら、私が痒い思いをすることになる。最悪、変な病気をもらってしまうかもしれない。
もう! 誰だよ、こんな山奥で餌付けした奴は! と私は心の中で悪態を付いた。
ぎりぎり成体というほど若い。恐らく去年の狩猟期間に、子鹿で殺すのは忍びないと狩らず、逆に餌を与えたのだろう。食料が乏しい雪山だ。人間のエサの味を憶えていて、寄ってきたのだろう。警戒を辞めたら人懐っこいのが鹿の性である。観光用の動物とするには好都合だが、狩りをするのには迷惑である。テントの中では威嚇射撃もできない。
「う〜〜〜! わん!」
私は、狼のような声色を真似て叫んだ。あまり迫力がなかったせいか、若い雌鹿は、テントの中に首を突っ込んでいながら、まったく動じていない。目をくりくりきょろきょろとさせ、じっと、視線は、煮られているインスタントラーメンに向けられていた。私の事はシカトというわけだ。
仕方ないか……。
予備の食料は十分にあるしと私は鍋を手に持ち、銃筒で鹿の鼻を突きながら外へと出た。
私も腹が減っていた。
テントやシェラフをノミで汚染させられて痒い思いをするくらいなら、インスタントラーメン一食分は安いと自分に言い聞かせる。
私は猟銃を抱き抱えながら鹿が食べ始めるのを待った。どうやら雌鹿は、雪の温度で鍋が冷めるのを待っているらしい。
「猫舌か? 伸びないうちに食べろよ。そして、どっかいけよ」と私は言っても、あたりまえのごとく私の嫌味は通じない。
たっぷりと時間をかけて鍋の中の温度を冷やしたあと、鹿はインスタントラーメンを平らげ、スープも残さず、そして、鍋を綺麗になめ回した。ラーメンが食べたいというより、塩分の摂取をしたかったのだろうか。
舌で綺麗に鍋を洗っているつもりだろうか。だが、もうしわけないけれど、二回くらい煮沸消毒しないと、その鍋をまた使う気にはなれない。
鹿は、食べ終わったあとも、木の下の積雪が少ないところにドシリと腹ごと座った。首を前足に置いて寝る体勢だ。
同じ鍋の飯を食った仲ということで、愛着が湧いてくるのだが、私は何も考えないようにする。五日間とはいえ、誰とも会話をしないのは寂しい。
獣に対してやってはいけないことのひとつが、名前を付けることだ。それはやってはいけない。ペットのように愛着が湧いたら撃てなくなってしまう。
私は、テントに入った。猟銃を抱えて寝た。シェラフに包まって寝ると、すぐに銃を発砲できないので、体育座りをしてシェラフを被るようにして夜を過ごした。外からは寒さと、そして、気持ちよさそうに寝ている雌鹿が見える。
なんど撃ち殺そうと思ったことか。だが、なんだか次第に撃つ気がなくなっていった。気持ちよさそうに寝ていた。赤児のようだ。
朝が来た。鹿は立ち去っていた。寝ていた場所にフンがあった。雪子の置き土産のつもりだろうか? まったく迷惑可愛い奴だった。
実は、私はその雌鹿に名前を付けてしまっていた……。その名前も————
銃声がした。
近い! あまりに近い。私という人間が近くにいるのに、知らせず発砲するのはマナー違反だ。
私は周囲を見渡すと、直ぐに猟師を見つけた。私同様、誤射を防ぐために目立つオレンジ色の外套を着ている。その猟師はもう一度発砲した。その銃声が響く。
銃の方向を目で追う。血を垂れ流した鹿が走っていた。雪子だった。間違いない。
どうやら、その猟師は未熟らしい。急所を外している。だから、雪子は、逃げる。苦しみながら。必死に逃げる。急所でなければ生き物はなかなか死なない。
猟師は、獲物を苦しめないように急所を狙いすぐに絶命させるべきだ。
雪子は逃げるが、どこまでも追われる。なぜなら、猟師を導く真冬に染みるくれなゐがあるからだ。その道しるべを追えば、かならず手負いの鹿のいる場所へと繋がる。
急所に当てて楽に死なせてやれよ、と私は双眼鏡を覗きながら思う。
結局、猟師の撃った弾は、最初の一発以外は雪子に当たらなかったようだ。だが、弾を受けていた雪子も力尽き倒れた。猟師がその雪子の死体に辿り着くまでに随分と時間が掛かった。私はそれをずっと、双眼鏡で覗いていた。
私という人間がいるのに、合図もせず銃を撃つ猟師……誤射をいつかしそうだし、そんなことをする猟師なので予想をしていたが、雪子の解体も下手くそだった。皮をナイフで突き立てている。毛皮としては使えないだろう。内蔵の取り出し方が下手だ。胃液や腸の中身が他の肉に飛び散って、臭みや匂いが移り、食用に適さなくなる。無駄にし過ぎである。
雪子が可哀想だ……。私はそう思ってしまった。私はそのまま下山した。
それ以来、猟に行く気がしなくなった。
「狩猟をするなんて、残酷だ! 真っ当な人間のやることではない!」
そうかもしれない。
私は真っ当な人間になったのかも知れない。
ただの肉塊になって綺麗にパックに入った牛をステーキし、豚のヒレを衣に包んでトンカツにする。
いや……もう忘れよう。あんな、真冬に染みるくれなゐに染まった雪は……。
今晩はしゃぶしゃぶでも食べよう。
しゃぶしゃぶ用牛肉という物体が、もともとこの世に存在していたことにしよう。
しゃぶしゃぶ用の薄い牛肉が、草原を、まるで蝶のように羽ばたいて草を囓っている。それを無邪気な子どもが虫取り網で捕まえて笑っている。まるで空想の妖精を捕まえているようじゃないか。
素敵な世界だ。人間は真っ当でいられる。私はどうして、生き物の命を絶つような、血生臭い世界にいたのだろうか。こんな優しい世界があったなんて知らなかった。
雪子と出会った年から、私は狩猟免許を更新するのを辞めた。私はまっとうな人間になったのだ。スーパーに並んでいるのは雪子の仲間じゃない。ただの、しゃぶしゃぶ用牛肉という物体だ。グラム当たりの重さで値段が決められる。命の値段じゃない。
昆布を入れたお湯が沸騰した。もう肉を入れても良いだろう。
いただきますと私は言った。
いつからだろうか。いただきます、という言葉が、滑る。