1話 コニー・ボーフォート
ズブズブと、体の芯に冷たさが差し込まれてく。それは脇腹から始まり、体内で果実を潰したような音を残していくと、同じく脇腹から抜けた。
何が起きたのだろう、と思考する間もなく、途端、血塊が喉を駆け上り思考停止を余儀なくされた。口から溢れて、あたりで悲鳴が児玉する。その悲鳴は既に直立出来てない現状を初めて伝えるかのように、床を通して彼の耳に直接流れ込んだ。
「はっ、はっはっはっ、げはっはっ」
赤い水たまりに身体全体を漬けて、彼は溺れると錯覚した。勿論溺れるはずもないのだが、身体が跳ね上がるほどの痙攣と、呼吸さえ出来ないほどの吐血は、パニック状態の人間に『ここは水中である』と誤認させるには十分であった。
悲鳴も遠ざかる、視界もぼやける。どんどん深くへ沈んでいく――。
かたやそれを見届ける野次馬。
彼ら彼女らは悲鳴を上げようと、その場から逃げようと、腰を抜かそうと、決して警察も救急も呼ぼうとする気配がない。
目の前で人が刺されて死にそうなのに、それも助けを呼べば助かる命なのかもしれないのに、だ。
それは非日常的な出来事に混乱していて、電話を用意する発想がなかった、なんて理由ではなく。むしろここに居る誰もが、一度はこんな状況に直面したことがあった。彼ら彼女らにとっては、他人の命よりも保身が第一なのだ。
保身。飛ぶような警備でナイフを突き刺した犯人は羽交い締めにされているのに。だが警察なんて呼べば、己の身はおろか、ここにいる誰もが一斉検挙されてしまう。
何故か、理由は客の身なりの良さと、奥の方から今も響くコインの音が物語っているだろう。
「散財に対する逆恨みか?」
「いや、『ディーラーの手持ちコインを狙った』に10枚賭けよう」
そう、ここは某ホテルの地下、スタッフルームなんて書かれたドアを入口にした、いわゆる『闇カジノ』なのだ。
「寒い……凍える」
腹部の熱を、末端から冷たさが支配していく。
もはや彼に呼吸出来るほどの体力も残ってはいなかった。痙攣も止まり、ついに目も耳も意味をなさなくなって、終いには彼を呑んでいた水が暗闇となった。
そして考えることしか出来ない身体を自覚したように、妙に冴えきった頭は思考を再開する。
(どこで踏み外したか?)
そもそも闇カジノのディーラーなんてしていなければ、なんて考えてしまう。
では何故そんな世界に足を突っ込んだのか。思い出すだけなのだ。しかしそれはあたかも死の間際、走馬灯のように人生史が走り抜けていくようだった。
闇カジノの存在を知ってしまったから。
気に入らない職を手放したから。
大学を中退したから。
手品にのめり込んだ中学生のせい。
――のせい。――の瞬間。――の時から。
考え出すとキリがない。彼の人生、どれもこれもが間違っていたように思えてくる。
だがそれらの理由全ては、本当の理由から目を背けるためのものに過ぎない。いや、或いは彼のその行動にはもはや、罪的意識が存在しなかったのかもしれない。
『イカサマへの報復』
それこそ彼が殺された理由であった。
自業自得。たったそれだけのこと。しかしそれは今までに幾人もの人間を破産に追い込んだだろう。そんな単純な理由に気づくこともなく、彼は消えかけの呼吸を、ゆっくりと沈め、自らの意思すら死の方向へ向けた。
思考することすら許さない身体。五感のどれも、欠片さえも感じ得なくなり、肉体が肉塊になってしまったようである。しかしたとえ死んでも、その肉塊はさらに沈んでいく。底なし沼のように沈み、沈み、そして何故だか――
その沼を抜けた。
「コニー。目を覚まして!」
「ふえ?」
夢から覚めたように、彼は目を開いた。コニーなんて聞き慣れない名前にか、はたまた目が開いたことに対する衝撃にか、間抜けな声を出して。
そしてすぐさま瞳には、一度開くことの出来た瞼を閉じたくなるほどの黒煙と、煌々と揺れる炎の色が映った。山火事の中を誰かにおぶわれて駆け抜けている。
容易くも上下に揺らされている全身と、そんな景色。勿論理解することなど出来ない。しかしリアリティ溢れる目の前の出来事を、あの世や夢だなんて思うことができなかった。
「走れる?」
そっと地面に降ろす少女が見えて、いとも容易く持ち上げられた男の姿を一人称視点で体感する。少女におぶわれていたという事実には驚きを隠し得ないが、そんな彼の疑問はさらなる疑問が現れると同時に姿を消した。
――目線が低すぎる。
背中を見せた少女のへそが、自分の頭の位置にある。下を向けば、勿論地面が近い。考えたくもない現実に、理解が追いついて来た。
だが彼が知らねばならない事はまだ一つあるのだ。それをすぐさま知らせるかのように、先に走っていった少女、それに迫る何かから逃げるような、大人たちの必死な形相を見届けて呆然としていたら、突然彼の頭からパステルピンクのリボンがはらりと落ちた。
直後背中を彼が今まで感じたことのないほど大量の髪の毛が触る。
「え、え、いや」
その姿は黒スーツの似合う男ではなく、ブロンド髪の年端も行かぬ少女が息を飲んで立ち尽くすなんてものだった。