003:ガリバ族の幹部
ガリバ族の集落にある天幕は、何一つとして同様のものはない。色、大きさ、材質、形に至るまで、どれをとっても異なる。しかし当然と言えば当然だろう。プリミティブの文明レベルはこの世界において最も底辺であり、自然界に在る材料を使用している以上は100%同じものが出来上がるなどあり得るはずもないのだ。
制作会社からすれば地味に面倒な設定である事に違いないが、ゲーム名から連想するにそういった細かい部分も拘りの一つであったに違いない。
と言っても、ある程度の基礎は設定されており、そこからプレイヤーの作り込みが始まることとなる。
言ってしまえば、ガリバ族の集落にある天幕はプレイヤーである泉宗吾が手掛けたものだということだ。しかしながら天幕自体にそれ程時間と費用は費やしていない。潤沢な資金さえあれば天幕の中を外装からは想像もつかないような広々とした空間にする事も可能だったり、他プレイヤーからの窃盗行為を防ぐ為に鍵を設けることだって出来る。だが一々天幕の数だけそんな贅沢を行なっていると、給与が幾らあっても足りはしない。
故にその機能を実装したのは自身の住居だけであった。
村の中心、少し隆起した土地にある集落一の大きさを誇る天幕がデレピグレオの住処である。飾り気はないが、堂々と佇むその大きさは見るものに威厳を感じさせるだろう。
まさに族長が住むに相応しい大きさだ。しかし驚くべきはその中である。
初めて入口を潜る者がまず目に宿す色は驚愕だ。
デレピグレオの家は内部拡張、施錠、留守番設置の三つのサービスを実装している。最初の二つは前述の通りであり、外のイメージから想像つかない程の奥行き、幅、高さを確保している。魔法が存在しないプリミティブからすると摩訶不思議な空間である事に違いはないだろう。
ただしこの機能はあくまでも広さの拡張であって、部屋数を増やすといった効果はない。そしてガリバ族の住居は外観からも容易に想像できるように、複数の部屋が存在するということもなく在るのは唯一の空間のみ。これはデレピグレオの天幕も例外ではなく、他と異なるのは圧倒的広さという一点だけだ。
空間を隔てる仕切りのような物を配置すれば簡易的な部屋を設けることも可能ではあるが、デレピグレオはそこに浪漫を感じることはなかったので、無粋な真似を加えることを是とはしなかった。
しかし中に置いてある物に関しては当然別である。
まずは入口正面奥にある玉座。これは以前デレピグレオが、とあるプレイヤーの住処より強奪してきた戦利品である。玉座は一般に販売されているはずもなく、基本的には王族より奪うか自分で作成するかの二つしか方法はない。前者は国を敵に回してしまう事から、わざわさ玉座一つの為にそんなリスクを背負うプレイヤーなどいるはずもなく、後者は家具製作スキルが高レベルでなければ製作は叶わない為、市場に出回る事など殆どない。
そしてデレピグレオがこれと出会ったのは全くの偶然であり、これを流れに身を任すまま強奪した時には一人祝勝会を開いた程だ。
(ま、元の持ち主には悪い事したとは思ってるけどな〜)
デレピグレオは金の装飾が成された豪華な肘掛の感触を手で楽しみながら心にも無い事を思う。
何せプリミティブはヒューマンからすると蛮族という立場にある。ただしそれはあくまでも世界観がそう成り立っているだけであり、操作するプレイヤーのモラルとは関係のないところにある設定だ。
だがデレピグレオからすればプリミティブの集落を定期的に攻撃してくるヒューマンこそ蛮族だと批判したい。一昔前に焼き滅ぼされた自分の集落を目蓋の裏に浮かべ、思わず歯からはギリッと怒りの音が零れ落ちる。
これはその時の返礼だ。
流石に拠点を落とすといったような大掛かりな仕返しは叶わなかったが、デレピグレオの憂さ晴らしには丁度良い戦利品となった。
「クルゥ?」
不意にデレピグレオの耳元で小さな鳴き声が転がってくる。留守番設置としている梟だ。コロコロと表情の変化するデレピグレオに疑問を投げかけるように90°に首を曲げ、観賞用枯木の枝の上でジッと主人の顔を窺っている。
「ああ……何でもない。ちょっと昔を思い出していただけだ」
デレピグレオがそう答えると、梟はすっかり満足したのか枝の上で再び入口の方へと体を向け直した。
すると直後、入口に垂れた布がはらりと動きを見せる。
「…………」
ムスッとした仏頂面で最初に現れたのはリデスカーザだ。どうやらまだ昨夜の事を根に持っているらしい。
「おはよう、リデスカーザ。昨日はよく眠れたのか?」
「フン」
お顔通りにご機嫌斜めである。
(まあ負けず嫌いという設定だし、仕方ないと言えば仕方ないんだが……)
族長という立場上、上に立つ者への礼儀を指摘するべきか否か――デレピグレオは少し頭を悩ませる。だが悩んでいる内に続いて姿を現したフィットマンが代弁を果たしてくれた。
「やれやれ。まだ負けを引きずっているのか、戦士長殿は?」
「う、五月蝿い! あれはただの訓練。勝ち負けじゃない。それにリデスカーザは全然本気を出してなかった!」
「それは族長殿も同じだと思うが? それに気にしていないというのならその機嫌の悪そうな顔をどうにかしたらどうだ? そんな顔してるとまたプティッチに揶揄われるぞ」
「わ、分かってる!」
それでもぷスゥと頬を膨らまし「ヌヌヌ」と唸りを上げるのに精一杯であった。これは暫く刺激しない方が良いだろう。そう察したデレピグレオは苦笑いを浮かべながら、リデスカーザに置いていた視線を移動させる。
「おはよう、フィットマン」
「ああ、おはよう。昨日はよく眠れたのか?」
あいも変わらず焼け爛れた顔からは想像もできないような渋い声が、デレピグレオの耳を心地良く撫でてくる。
元の顔はきっと燻し銀であったに違いない。とはいえ泉宗吾が彼の昔の顔など設定した事はないのだが。
「お陰様でな。それよりもプティッチと他の奴らは?」
「プティッチならさっき叩き起こしたばかりだ。道端で睡魔に倒れさえしなければ時期に来るだろう。ヌッヌウとクルティならさっきそこで――」
そう言いかけたところで、入口に再び光が差し込む。
日差しの面積が大きいのは入室者の体積が小さかったからだろう。ひょこっとというような表現が一番相応しい登場を果たしたのは、肩口程度で髪を切り揃えた翠髪の少女であった。頭には兎のように二つ耳の垂れた毛皮の帽子を被っており、その少女が歩く度にぴょこぴょことリズムを刻んでいる。「ヌフフン」と口元を楽しそうに遊ばせて、手元にある二本の木の枝に夢中になっている様は、一言で歳相応の女の子と言ってしまって差し支えないだろう。草花で作られた簡易的な服から見せる小さな手足がその証拠だ。
そんな少女の視線がデレピグレオの視線とばったりと出くわした。ぱちくりと無垢な瞳が二度三度瞬きに視界を遮った後、少女は慌てて手に持っていた木の枝を背後へと隠す。
「……あわわ! ご、ごめんなさい!」
「いや、別に構わんさ。俺の方こそすまんな、クルティ。いきなり呼びだしてしまって」
デレピグレオは謝罪の言葉と共に頭を下げようとするクルティの動きを手で制すると、怒ってないことを強調するかのように優しく微笑みかけた。
「と、とんでもない、です! 兄――族長に呼ばれるなんて中々なかったので、緊張解す為に遊んでたらいつの間にか……」
「たしかに全員招集する事など滅多になかったな。しかしそう緊張しなくてもいいだろ。ここが公の場であったとしても俺たちは皆家族だ。俺への呼び方も改める必要はないぞ」
優しげに微笑むデレピグレオの顔を見て、クルティの杞憂は跡形もなく吹き飛んだ。頰を仄かに照らしながら満面の笑みで笑い返す。
「――うん! 兄様」
その反応に満足そうに頷くと、デレピグレオはクルティの後でいつの間にか入室を果たしていたもう一人の人物に声を掛ける。
「それにヌッヌウもよく来てくれた。どうだ、身体の調子は?」
デレピグレオの視線の先にいた人物は、フィットマンと一二を争う程に痛々しい容姿であった。
フィットマンのように全身が爛れているわけではないが、彼の場合は隻眼にして隻腕。部位の損失という点で異なっていた。
本来左目があるはずの場所はくっぽりと刳り抜かれ、全てを飲み込むような黒だけが深き闇へと誘っているかのように佇んでおり、隠すこともない黒点は失われたはずの視力が活動しているかの如く真っ直ぐにデレピグレオを捉えている。
「……ぁ…………うぉ……ざ……ドゥ」
そしてこの焼け落ちた声。彼の喉元にも深い傷跡がこの原因なのだろう。既に皮膚が再生を始め血痕が残っているという事はないが、その後遺症を感じずにはいられない。
幸いにも声を出す事自体は叶ってはいるが、意思を伝える行為は難しそうだ。フィットマンらも流石に何を喋っているのか理解する事は出来なかった。
しかしデレピグレオだけは別だ。
「そうか。それは何より。だがあまり無理はするなよ。お前は三つを失った代わりに、ここにいる誰もが持ち得ない唯一を持っているのだからな。故に今後のお前の働きはかなり重要になってくる。何かあればすぐに俺を呼ぶように」
「ロゥレぇ…………んズだ……あ」
まるで何を口にしているか一同が分からない中、デレピグレオだけはヌッヌウの返事に満足そうに頷いていた。
正直なところ、これにはデレピグレオ自身もびっくりだ。
何せ耳で聞こえる声は皆と同様に聞き取ることさえ難しいような言語なのだが、その声と同時に頭の中に直接その言語が翻訳されて入ってくるのだ。
(うーん。そういえばそんな設定にもした気がするな。だがゲーム時では感情程度しかアイコン越しで把握するのは精一杯だったはずなんだが、今は一言一句ヌッヌウの言葉が流れ込んでくる……。ほんと検証したい事は山のようにあるな)
困った困ったとは思いながらも未知の現状が多い事に、デレピグレオの口元は思わず緩んでしまう。
(やっぱゲーマーとしての性なんだろうなぁ。ゲーム時も分からない事あれば時間も忘れて探求し続けてしまったし。現実となった今でもゲーム時の設定が残ってるお陰で現実味が薄いからか楽しむ余裕さえ残っちまう)
「どうしたんだ?」
楽しそうな表情を浮かべるデレピグレオに、フィットマンが声をかける。
「いや、何でもない。それよりもあとはプティッチだけだな?」
「ああ。念の為に確認してこようか?」
「あぁ、そうだ――」
とまで言いかけて、デレピグレオの言葉は止まった。
すぐ側で一回二回と首を左右に曲げる梟の動きを見て、やはりと言い直す。
「いや、どうやら問題ないようだ」
そう告げるデレピグレオの言葉とほぼ同時に、のっそりとプティッチの大きな図体が姿を現した。
「おお、全員お揃いのようだな」
「遅いぞ。ノロマ」
「うるせえよ。暴力女」
バチバチと地下での出来事を彷彿させるように、リデスカーザとプティッチの視線が火花を散らす。
(二人の仲が悪くなるような設定を作った覚えはないんだけど……)
このまま放置していても良い事など一つもない。デレピグレオは一つ咳払いをすると、喧嘩腰の二人を無視して早速本題へと移る。
「あー。全員揃った事だしそろそろ始めようか」
デレピグレオの一声でその場の空気が引き締まる。巫山戯合ってはいても、族長の指示に従順なところはやはりゲーム時と変わらない。静まった空間に安堵しながらデレピグレオは続けた。
「まずは唐突な招集にも関わらず全員が参加してくれた事に感謝する」
謝辞を述べて軽く頭を下げる。どんな時でも感謝の心を忘れてはいけない。これは泉宗吾が二十と数年で学んだ処世術だ。部下を蔑ろにするような阿呆はいずれ部下に淘汰される。そういう意味では元の世界にいた上司には感謝しなければならないだろう。会社と部下によって消えた反面教師の顔を浮かべながら、こうはなるまいと必死に自分へと言い聞かす。
ゲーム時でも【2nd リアル】というタイトルだけあって、自分が作成したNPCにも忠誠心と野心という二つのパラメータが存在する。
これは製作者――つまりデレピグレオに対する従順さを表すもので、忠誠心が高ければ高いほど自らを犠牲にしてリーダーを護ったり、補佐したりと様々なメリットが生まれる。故にNPCを作成したプレイヤーがまず目指すべきはこの忠誠心をいかに底上げするかに重きを置く事が殆どだ。これはデレピグレオとて例外ではない。
ただこの忠誠心は一朝一夕に上昇するものではない。毎日の労い、褒賞、集落の充実、族長の威厳等、多数の要因より少しずつ上昇していくものなのだ。だというのに忠誠心の低下は容易に発動してしまう。
それこそNPCへの声かけ不足だったり、声かけするにあたっても彼らが欲している言葉でなければそれはそれで低下する。住民の不満や悩みを解決せず放置しておいたり、集落が襲われているのに真っ先に逃げ出すなど以ての外だ。
しかしそんな苦労を経て忠誠心を一度でも最大値まで到達させることが出来れば、以降そのNPCの忠誠心が最大値より低下する事はない。
デレピグレオの作成したNPCの中でも、フィットマン、ヌッヌウ、クルティがそれに当たる。
(けど――この世界はゲームじゃない。俺が暴君となっても彼らが従順に従ってくれるなんて保証はないからな)
別に族長の権威を振りまいて横暴な行為をするつもりはないが、少しでも不安の種は取り除いて置くべきだろう。そう考えての行動であった。そしてどうやらこれは効果覿面だったようで、
「水臭いな、族長殿は。これでも俺はあんたに惚れ込んでるんだ。遠慮せずいつもの様にこき使ってくれ構わないぞ」
「そ、そうです、はい! 兄様にお声がけしていただけるならいつでも大歓迎なのです!」
「ヌァ……お……っドゥダぁ……ンぐ」
「……少なくともリデスカーザがデレピグレオに勝つまでは従ってやる。感謝しろ」
「ま、俺様を従える事が出来るのはお頭ぐらいだしな。今のところ不満もねえし、満足している内は部下として働いてやるから安心しな」
リデスカーザとプティッチの反応が他三名と違うのは性格によるものもえるのだろうが、忠誠心が最大値に達していないからだろう。もしくは抜きん出て野心数値が高いからか。
野心とは別に忠誠心と反比例するものでもなく、そのキャラクターが保有する目標の大きさだ。例えばリデスカーザの場合、自分よりも強者と戦い勝ちたいという野望がある。つまりはデレピグレオの族長の座を虎視眈々と狙っているという事だ。勿論デレピグレオが負ければ族長の座は奪われてしまうし、NPCはプレイヤーの支配下から独立してしまうという謂わば一つの爆弾。
しかしその野心を支配している内はNPCの能力値に補正がかかるので、それがプレイヤーに対する還元となっている。そして野心が大きければ大きいほど補正値は大きくなるが、デメリットとして離反イベントも発生しやすく、プレイヤーにとっては内から燃える火種ともなり得るのが玉に瑕であった。
だが二人の反応を見る限りは、今のところ離反イベントが発生するような兆しは見えない。野心数値が高ければ高いほど忠誠心は上昇しにくくなるが、忠誠心が最大値に達すれば離反イベントも発生しなくなり、あるのはメリットだけ。
つまりこの二人の忠誠心を最大値まで引き上げるのはゲーム時から引き継ぐデレピグレオの目標という事だ。
尚更彼らなりの忠節を深く感謝しなければなるまい。
「そうか。皆、ありがとう」
デレピグレオは再度その場に集まった側近達に感謝の意を示す。
「では早速だが本題に移ろう。今日皆に集まってもらったのは外でもない。我々ガリバ族の今後の方針についてだ」
神妙に語り出すデレピグレオの言葉に、皆の眼光がギラリと煌めく。
「……なるほど。ようやくという事だな、族長殿」
「……ぅん?」
「ふふふ。ついに来た。血が激る」
「……へ?」
「えっと、はい! ちょっと怖いけど兄様の為なら頑張る!」
「あ、うん。ありがとう……?」
「なんでぇ。まだかまだかと待ちくたびれていたが、ちゃんと計画していたわけだな。お頭も人が悪いぜ」
「……えーっと…………?」
「ニュぁ……フン、ロォっゥ……フぉ!」
「…………って、待て待て待て! お前ら、何の話をしているんだ?」
「何の話って……ヒューマンの街へ攻め入る話じゃないのか?」
「何でそうなったよ⁉︎」
一を聞いて十を知るどころではない。何段も飛び越えた挙句に踏み外して別ルートへ至ってしまっていた。流石にデレピグレオも全力で突っ込む。
「何もこうも、俺たちが金樹海に住み始めたのは一度ヒューマン共に集落を壊滅させられたからだろ? その復讐の為に力を蓄えていたんじゃないのか?」
フィットマンの言葉に皆同意を示すようにして頷く。
「……確かに俺がここに移り住んだのはヒューマンから身を隠す意味が大きい。だが同時にガリバ族全員の生活を護る為でもある。ようやく軌道に乗った生活も、遺恨を晴らす為に動いた結果、先と同じ事が起これば今度こそ俺たちはおしまいだ」
仮に一時勝利を収めたとしても、ヒューマンはリアルアースの大半を占める種族。思想・派閥等の違いはあれども、ガリバ族を脅威と認めれば直ぐにでも討伐隊が派遣されるはずだ。
個としては優れていても集としては圧倒的に劣るし、勝利の女神はそう何度も微笑んでくれることはない。
長期戦となれば敗北は目に映っている。
(だが――彼らにはその最悪を予想することも難しいんだろうな)
自分と一人以外の四人の表情を見て、デレピグレオはため息を吐く。
プリミティブは総合的な能力値でいえばヒューマンを圧倒する。だがある一点、つまり知能――賢さだけでいえば、どれだけレベルアップを続けようが一定以上になる事はなく、生まれ持っての才能値限界が阻んでしまうのだ。
唯一その枠にはまらないフィットマンだけが「まぁ、そうだろうな」と先刻の己の言を簡単に覆していた。
他の面々は納得の表情こそ浮かべないものの、黙ってデレピグレオの言葉に耳を傾ける。
しかしリデスカーザだけは違った。激昂に駆り立てられ、武器を手にして咆哮する。
「――ッ、デレピグレオ、臆病! 死んでいった者達浮かばれない! やはりリデスカーザがデレピグレオ倒し族長にな――」
「――黙れ」
ひゅっ、とリデスカーザの舌が固まる。
天幕内の気温が急激に低下したかのように感じた。
深く、重く、どこまでも沈むかのような声。
デレピグレオから落ちた言葉は雹を纏った風となり、その場にいた全員の真横を吹き抜ける。芯まで届く凍てつく殺気が彼らの身を震わせて、有無を言わさぬ畏れが彼らの唇を固く閉じさせた。
実際に気温が下がった訳ではない。だが身体に氷が纏わりついたかのように、誰一人として指一本動かせなくなったのだ。
彼らに許されたのは僅かな呼吸と唾を飲む事だけ。
瞬き一つ、視線の先すらも変えることは許されなかった。
「――ァ……っ」
特にその暴風をまともに浴びた彼女だけは他よりも症状が重たい。奔流の出所である男の眼光が真っ直ぐに伸び、彼女の心の臓腑を鷲掴む。苦しそうに喘ぐリデスカーザの呼吸だけが静かに響いた。
「誤解があるようだから念の為に言っておく。俺は何も集落を襲ったヒューマンを恨んでいない訳ではない」
あの時の屈辱を鮮明に思い出す。
苦労して作り上げてきた全てが極小の時間の中で瓦解する様を。
――許せるはずもない。
デレピグレオの瞳の奥で業火が揺らめく。
だがそれに参加したのはあくまでもプレイヤーの一部。当然の事ながら全てのヒューマンが参加した訳でもないので、全てのヒューマンを怨むなど逆恨みもいいとこだ。
流石にそんな見境ない恨みを持つ程、理性も行方不明にはなっていない。
(前に集落を襲ったプレイヤーの顔も名前も覚えているしな)
しかしそれはプレイヤーという立場であるからこそ理解できる事で、NPCたるリデスカーザ達からすればヒューマン全てが憎っくき敵と認識するのも仕方がないのかもしれない。
「そいつらを見つけたら必ず後悔させてやる。許しを請おうが、どれだけの賠償を提案しようが関係なく、一切の容赦なく自らの愚かさのツケを支払わせてやる」
生身の肉体がそこにあるからだろう。プレイヤー時代にですら怒りはあったものの、こんな憤怒にも似た憎悪持つことは無かった。
前の世界とは若干異なる感情の乱れに戸惑いながらも、それを表に出さないまま少しずつ精神に馴染ませる。
「だからといってヒューマン全てが敵とは限らない。もしも彼らの全てが敵に回ったとしたら、先に話したように数の暴力の前に間違いなく俺達は屈することになる。だがそうでなかった場合、俺たちが早とちりしてヒューマンを手当たり次第に襲った結果、彼らとの全面戦争にでもなればそれこそ俺たちは愚か者になってしまう。互いに無駄に散らすこともなかった命を失うのだからな」
そこでようやく張り詰めていた空気が一気に弛緩した。
全身にのしかかっていた重力が嘘のように霧散し、皆一斉に深い息を吐き出す。
ようやく自由となった心身を確かめながら、フィットマンが声を絞り出す。
「……なるほど。つまり族長殿は、まず我々は情報収集を行うべきだと言いたいのだな?」
「その通りだ」
「……ふぅ。んで、小難しい話はお頭とフィットマンに任せるが、結局のところ俺様達は何すりゃいいんだ?」
「ああ。細かい指示はあとでフィットマンと擦り合わせて伝達するが、まず知っておいて欲しかったのは基本方針なんだ。誰か一人でも認識がズレていたら組織の崩壊という最悪の可能性が生まれるからな」
それだけは何としても避けたい。方向性が不透明で、組織に浸透せず自滅なんていう結末は笑い話にもなりはしないだろう。
どこかで紐が絡まる危険性はなるべく避けるべきだ。
「まずさっきも説明したように、俺たちが最初にすべきことは情報収集だ。ここで言う情報は大きくわけて三つ。まず一つは集落周辺に関する事」
ぴん、とデレピグレオの指が一本立つ。
ここがゲーム通り金樹海の中心地で、金樹海の外もリ・ホライズンと呼ばれる草原地帯であるならば何も問題はない。色々と設定が生きている以上、おそらく杞憂で終わるとはデレピグレオも踏んでいるが一応念の為だ。
万が一にでも自分の知識と異なる――例えばこの場所が金樹海ではなく、ただの森林地帯に成り果てていた場合、他族との接触の危険性が跳ね上がってしまう事となる。その場合、身を護る意味でも防衛力の増強に力を入れるか、最悪の場合、新たな住処を求めて旅立つかなどの決断、急務が課せられてしまう。
戦わずして逃げる事を考えるなど、それこそまたリデスカーザが激昂することになるだろうが前の世界で保身に長けた一社会人としては首を垂れてでも許容してもらいたい。彼としてもそうならない事を願うばかりだ。
そしてもう一本指を立てる。
「次に周辺国家に関する事。俺たちはこの金樹海に篭り暫くになる。何の変化もなければ南西にベルンシュタイン王国の王都ベルンシュタイン。東にはザナドゥ帝国領、防衛都市ハッタンがあるはずだ。それらの国々が健在であるかどうかを確認したい」
そして最後にと三本目の指を立てる。
「そしてこれらの国々で俺たちプリミティブが一体どのような目で見られているのか、それを調べていきたい。友好的交流が可能であればそれに越した事はないからな。今後の部族存続の為の円滑な資材調達という意味でも」
そう言ってチラリとリデスカーザへと視線を移す。
また彼女が怒り狂うのではないかという不安からだ。
しかし彼女は俯いたまま特に口を挟む事はなかった。
ほっと心の中で安堵しながら、デレピグレオは最後に皆に伝達する。
「これらの情報は今後の俺たちの方針を決定づける上でなくてはならないものだ。戦争・共存・隠伏。いずれにせよその方針が確定するまでは、例え相手がヒューマンであっても敵対行動は禁止とする。勿論自衛の為であれば戦う事は構わないが、無用な挑発行為、戦闘を誘うような真似をこちらからする事も許可しない。
もし反対する者がいれば俺に報告してくれ。俺が直接話をしよう。
……さて、少し長くなったな。俺から皆に伝えておきたかった事は以上だ。俺は暫く集落を散歩してくるから、皆は今伝えた方針を住民全員に伝えておいてくれ。では宜しく頼む」
そこまで一気に並び立てると、デレピグレオは皆の返事を待つ事なく玉座を離れる。
そして誰よりも最初に自分の家から出ると、肺の中の空気を全力で吐き出した。彼らの前では決して見せることの無かった不安からの溜め息である。
(あぁ……。勢いで話しきっちまったけど大丈夫だったか?)
デレピグレオは自らの振る舞いを回想する。
安全思考の日本人らしい石橋を叩いて渡るという方針。思い返せばプリミティブらしくない考えだったかもしれない。
プリミティブという種族は基本的に感情のまま動く人種だ。目先に美味しいものがぶら下がっていれば猪突猛進に行動し、例えその先に無数のデメリットが存在しようが御構い無し。現に口火を切った瞬間、皆の目線はヒューマンへの侵攻に統一されていた。仲間の無念、そして恨みを晴らしたいという願い故だろう。
(けどそれは悪手である事に違いないからなぁ……。俺の選択は違ってないはずなんだ。うん)
そう強く自分に言い聞かす。
しかしあの場で口にしなかっただけで、リデスカーザの様に納得いってない者がいないとも限らない。
(……というよりもアレ、やっぱ離反イベントだったよな?)
リデスカーザの激情が脳裏に蘇る。
当初の『従う』宣言が嘘のように覆され、彼女が武器を手に取った時は心底恐怖した。それはもうもしかすると彼女の言動がきっかけで部下達との戦いの火蓋が切られるのではとヒヤヒヤと。
あのとき咄嗟に――というより恐怖が先行して古代スキルを発動させて黙らせはしたものの、あんなもの頭ごなしに抑えつけただけに過ぎない。
小さな部族とはいえ、為政者たる者あんな振る舞いを続けては誰も付いてこなくなるだろう。やはり無理矢理は良くない。自分が下の立場であったと考えても、やはり自分が取った行動は不快に思った。
(でも見境なくヒューマンを襲うとか……それこそ蛮族と呼ばれて然るべきだし、生存を棄てた愚者の極みだもんなぁ)
自分の決定は間違いではないと必死に言い聞かせる。
自信はない。だが今の自分の持つ最適解はあれだった筈なのだ。
デレピグレオは涼しげな風で、暑くもないのに滲み出た額の脂汗を乾かす。そして自らの言を反芻することで折れそうな自身の心を支え、ただ無心に足を動かすのであった。