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おばあちゃんに「死ね」って言っちゃった2016

作者: 中條利昭

 幽霊が出ると、部屋の気温が下がるんだって。


 何日前だったかな。彼女がそんなことを言っていた。


 夏場はウェルカムだな、なんて笑ったっけ――。






「あっちぃな~」


 学校での講義を受け、汗をだらだらと流して家に帰って来た時、ふと思い出した。


「東京の夏は暑すぎる……」


 そう呟き、たったひとりの部屋のエアコンのスイッチを入れる。


 田舎育ちの俺には、アスファルトに囲まれた東京の蒸し暑い灼熱は文字通り地獄だった。実家の方は未だに自然豊かで、未だに地面にアスファルトが敷き詰められているところはごく一部だけだったので、より一層堪えるというものだ。

 更に、この日は特別暑く、どのチャンネルでも「熱中症に気をつけてください」と喚起を呼び掛けられていた。こんな日に限って授業が午後一時半に終わるのだから、たまったもんじゃない。講義教室には冷房が完備されているので、家で退屈するよりは、いっそのこと授業があった方が楽というものだ。


「幽霊出ねえかなあ」


 俺ははっきり言って貧乏だ。田舎育ちなんだから仕方がない。だから、エアコンだっていつもできる限りつけないようにしている。つけたとしても二十八度だ。

 でも、この日は無理だった。


「今日だけは特別」


 自分へのご褒美、と呟く。いつも通り授業を受けただけで、何も褒美をもらうようなことはしていないのに。


「十七度にしちまえ!」


 ピピピッ、とリモコンに表示される温度をどんどんと低くしていく。更に扇風機も『強』にする。その感覚が、危ないことをしている中学生の悪ガキのようで、気持ちが高ぶった。懐かしい感覚で、なんだか気持ちがいい。

 だが、表示される数値が十七になった時、ふと罪悪感がよぎった。結局お前には悪なんて向いてない、と指を差されるようだった。


「ま、節約してるしな……でも、しゃあねえか。これくらい別にいいだろ。ほんの数十円や数百円」


 更にテレビをつける。今から先週見逃がしたドラマの再放送があるのだ。また「自分へのご褒美」と呟きながら音量をいつもより少し大きくする。


 再来週、俺の彼女が誕生日を迎える。それも、記念すべき二十歳の誕生日だ。


 おそろいのネックレス。

 誕生日プレゼントにそれを買ってやる、と俺は三か月前から誓い、頑張ってきた。いつもは週二、三でしか入っていないバイトも、週五日は入った。

 いつもは外食中心の生活だったのに、倹約な自炊を中心に置くようにした。クーラーだって極力つけなかった。


 カレンダーを見る。

 給料が入るのは再来週。誕生日の前日。

 そして、その前日には電気代の支払いがある。そこで先月より少し節約した金額をマークできれば、ぎりぎりネックレスが買える。その後の生活は、知らない。たとえ苦しくても、親から仕送ってもらうつもりはない。

 俺は両親の金で大学に通っている。家賃も払ってもらっている。

 それ以外の生活費は自分で稼がなくてはいけない。

 その理由は決して格好の付いたプライドなんかじゃない。本当は音楽に打ち込みたいから、バイトになんて時間を使いたくはない。


 おばあちゃんにバレないため、だ。


 ――あんなやつに金なんか払うな、飢え死にさせてしまえ。


 それは、母さんの言伝に聞いた、おばあちゃんの言葉。


 そう。俺とおばあちゃんには確執がある。


 昔から、俺はおばあちゃん子だった。俺が生まれてすぐにおじいちゃんが亡くなってしまったせいか、おばあちゃんは二人分の愛を注いでくれたように思える。俺が「欲しい」と言ったおもちゃは両親に内緒で買ってくれたし、色んな知識だって教えてくれた。ちょっとした知恵袋から、お父さんがどうしても話してくれない少年時代の恥ずかしいエピソードまで。


 ――大人になったら、この家の田んぼを継ぐ!


 物心がついた時から、俺は度々そう言ってきた。父方の家系が代々継いできた田んぼを、自分も継ぐ運命にあると疑わなかったし、将来の夢として胸を張るほど、その時が来るのが楽しみでもあった。


 そんな俺の夢を聞く度、おばあちゃんは嬉しそうに顔に皺を寄せた。それはもう、菩薩のように、月のように、安らかで、綺麗で、かわいくて、若返ったような色気があって。そんなおばあちゃんの表情を見ていると、俺も嬉しかった。だからこそ何度も何度もしつこいほどに繰り返したのだろう。


 でも、専門学生の俺は今、東京にいる。


 高校二年生の時、進路を誰もがぼちぼち考え始める夏のこと。俺は初めて東京に足を踏み入れた。好きなロックバンドのライブを見に行くためだ。

 初めて生で見た大都会は、煌びやかだった。あちらこちらが銀色に、金色に輝き、想像以上に狭い空さえも神がかって見えた。今なら「都会の汚れ」だと分かるものでさえ、未来的で神秘だった。

 更に、ライブは凄かった。あんな大きな音に囲まれるのは初めてで耳が痛かったが、それを遥かに凌ぐ胸の揺らぎがあった。


 そして、俺はロックに目覚めてしまった。


 ギターが欲しい、とおばあちゃんに言ったら買ってくれた。安物ではあったが、俺はそんなことお構いなしに心で弾き続けた。夕食後に練習していると、お父さんが「うるさい! 何時だと思ってるんだ!」と叱りに来たこともあった。そこで初めて時計を見ると、いつもならとっくに熟睡している時間だったり。


 その時間の流れに、俺は魅了されてしまったのだ。田んぼ仕事で感じたことのない、流れるように疾走する時間。それはまるで、風を感じるようだった。

 俺は決意した。音楽の道に進もうと。ギタリストになって、自分の知らない世界を回ろうと。


 でも、それを両親やおばあちゃんに伝えることはなかなかできなかった。ひとりで沸々と魂を燃やし、ギターを握り続けることしかできなかった。周りの友達はみんな受験や部活で忙しくてバンドは組めなかったが、いつかバンドを組んだ時に胸を張れる実力をつけてやろうと、逆にそれがより一層俺のハートに火をつけてしまったのだろう。


 元々勉強はできる方だったので成績はあまり落ちなかった。田んぼを継ぐことを目標としていても、おばあちゃんが言った「勉強が役に立つのはちょっと先の受験と、遠い遠い未来」という言葉を信じ、小さい頃から勉強は積極的にやっていたのだ。もちろん、それでおばあちゃんが喜んでくれるんだから、俺は満足すぎるくらいに満足だった。

 だが、三年生になって周りの連中が部活を引退し、勉強と真剣に向かい合うようになると、さすがに相対評価は減った。でも「どうせ田んぼを継ぐんだから」と母さんたちは叱ったりしなかった。俺が上京して音楽の専門学校に入りたいなんて、これっぽっちも思っていない無垢な横顔が、少しずつ俺を蝕むようになってきた。


 いつかは絶対に話さなくちゃいけない。

 親の同意なしでは進学なんてできないし、学費だって必要だ。


 友達たちがそろって学習塾に入り、誰も俺を見向きもしなくなった八月。遂に自分の本心をぶつけることにした。俺が目標にしているロックバンドも「本当の気持ちを本気でぶつけられないやつに、本気で何かに打ち込むことなんてできるのか?」と歌に乗せているんだから、やるしかない、と。


 夕食が終わった後、俺は立ち上がり「話がある」と切り出した。もちろん、自分の夢の話だ。

 母さんも父さんもおばあちゃんも、みんな唖然としていた。それも当然だと思う。自分がその立場だったとしたら、きっと同じだっただろう。あるいは、大反対したかもしれない。

 だが、最初に口を開けた父さんの言葉は意外なものだった。


「そうか。頑張れよ」


 すると伴侶の母さんも「うん」と続けた。


「あなたがそうしたいならそうしなさい。学費を払えるだけの財産はあるんだから。いいわよね、おばあちゃん」


 彼女がそう言っておばあちゃんに微笑みかけた時だった。


「駄目よ!」


 おばあちゃんの顔が、熱い血に染まっていた。


「田んぼの後継ぎはどうするの! この家の歴史は! それにあんた、小さい頃からずっと後を継ぐのが楽しみだって、夢だって言ってたでしょ!」


 言葉を失った。

 その言葉が最も返って来るにふさわしいと思っていたのに、おばあちゃんのあまりの見幕に、愕然としてしまった。般若や金剛力士像なんかでは片づけられないほど、その顔は、眼球は、奥の奥から燃えたぎっていた。


 いいじゃない、と母さんと父さんが説得を試みるものの、おばあちゃんは一向に引こうとしなかった。そこには亡きおじいちゃんたちが守り継いできたものへの愛情が深く込められていたのだろう。


 しかし、この時の俺は少し頭に血が上ってしまっていた。そこまで反対するか、と。自分の大事な大事な孫の選択を、そこまで反対するか、と。


「わたしは今までずっとあんたを応援してきた」


 おばあちゃんは立ち上がり、充血した目で俺の目をギロッと覗いた。


「甘やかしてきた。いや、甘やかしすぎてしまった! 音楽の道に進みたい? もう一度言ってごらん、そしたら、あんたは出《、》()()()()よ」


 ちょっとおばあちゃん、と両親は制しようとしたが、おばあちゃんは本気だった。その目を見れば分かる。今まで見たことのない鋭い眼だ。若々しく、でも後ずさってしまいそうなほどの貫禄がある、力強い眼。


 でも、俺だって本気だ。引き下がるわけにはいかない。


「音楽の道に、俺は進みたい――」


「この出来損ないが! 出て行きなさい! 今すぐに!」


 更におばあちゃんは勢い任せに叫んだ。


「裏切り者!」


 分かり切ったことを言われると腹が立つ。それは、宿題をやろうとした時に「宿題をやりなさい」と言われるとしょげるのと同じようなものだが、その感情は俺だけのものなのだろうか。

 とにかく、俺の頭にも一気に血が上ってしまったのだ。


「裏切り者で悪かったな」


 間にテーブルさえなかったら掴みかかっていたことだろう。老いぼれた老人だろうが関係ない。

 それができなかったせいか、俺もその場の勢いで、絶対に言ってはいけない一言を発してしまったのだ。


「死ねババア!」






 あの時の自分は馬鹿だったと思う。本当に馬鹿で間抜けで、どうしようもないやつだった。でも、どんなに悔んだところで後悔は先に立ってくれない。過去にだって戻れない。


 それから俺は家を出た。その次の日には後悔に襲われて吐き気がしたが、今更戻れる気もしなかった。こっそり母さんや父さんと電話しながら、こっそり喫茶店で会ったりしながら、俺は進学の話を進め、学費と家賃だけは払ってくれるようになった。生活費は自分で稼ぐように、そこまで支援してしまうとおばあちゃんにバレちゃうから、と母さんは悲しそうに何度も虚ろな目で唱えていた。


 結局、俺とおばあちゃんは深い確執を残したままだ。あれ以来一度も顔を合わせていない。母さんは「おばあちゃんが頑固でごめんなさいね」と会う度に言った。ボケてきたのかしら、と付け足して。


 母さんと父さんは俺が仲直りしたがっていることをおばあちゃんに何度も伝えたらしい。一回ではなく何度もなのだから、その反応の悪さはわざわざ説明するまでもないはずだ。


「はあ」


 何度思い出しても、溜息しか出てこない。

 時計を見てみるとあと二分でドラマの再放送が始まる、という時だった。


 ――ピリリリリ。


 ケータイが鳴った。


「母さんからだ」


 もうすぐ楽しみのドラマが始まるというのに、間が悪いな。


 はいはい、と足の指で扇風機の風を弱めながら電話に出る。

 しかし、その向こうから聞こえてきた声は、今の俺とは正反対の、緊迫したものだった。


《今すぐにこっち戻ってこれる?》


「な、なんだよ急に」


《だから、戻ってこれるお金はある?》


 その理由を、考えようとした。だが、混乱しているせいか、全くそれらしい理由が思い浮かばない。


「どうして?」


《さっき、おばあちゃんが倒れちゃって》


 え?


 急速に体が冷えていくのを感じた。もちろん冷房のせいではないだろう。


《救急車に運ばれて、いま手術中なの》


 だから、来てくれない? と母さんはこそこそとした声で続けた。《もしかしたら、もうおばあちゃんと仲直りできなくなるかもしれないよ》


「……でも、おばあちゃんは俺となんて会いたくないんだろ?」


 自分でも、どうして自分を否定しているのか分からなかった。仲直りしたいのに、仲直りしたくないみたいじゃないか。


《おばあちゃんだって本当は仲直りしたいと思っているはずよ。私やお父さんと通してじゃなくて、あなたと直接話し合って》


「……」


 確かに、俺は逃げていたのかもしれない。あの時初めて見せたおばあちゃんの険しい顔をまた見てしまうかもしれない、ということから。


《もう一回聞くよ。戻ってこられる?》


 ――本当の気持ちを本気でぶつけられないやつに、本気で何かに打ち込むことなんてできるのか?


 俺とおばあちゃんの関係を悪化させたバンドの歌詞がよぎる。確執を生んだのもこの言葉だが、この苦くて硬い確執を失くすのも、この言葉じゃないのか?


 俺は、おばあちゃんに心から謝りたい。


 その気持ちを、ぶつけたいんだ。


「分かった。今すぐ行く」


 すぐ手元に落ちていた鍵と財布を握り、家を飛び出した。






 いくら慌てたところで新幹線が早く来るはずもないのに、プラットホームで落ち着くことなんてできなかった。中に入っても「もっと早く」と念じてしまっていた。無駄な足掻きだと分かっていても、せずにはいられなかった。


 その後、降りた駅からバスに乗った。三十八分のバスが三十九分に来た。一分だけ遅れただけだというのに、無性にこいつを蹴り飛ばしたかった。怒りを堪えて、出口に近い席に座り、まだ時間がかかるというのに、財布から小銭を取り出し、握りしめる。


 こんなことをしている間にも、おばあちゃんの命が削れているのかもしれない。


 そう思うと、バスの中で貧乏ゆすりを止める気になどなれなかった。他の乗客に冷たい目線を浴びせられようが。とりあえず、気を紛らわせるためにケータイを開き、彼女に事情を説明するメールを送った。しばらく帰れないかもしれない、と。そういえば、ここまでの交通費で、ネックレスが買えないことは確定した。もしかすると交通費くらい母さんや父さんが出してくれるかもしれないが、なんか、どうでもよかった。


 病院に着いた頃には少し暗くなっていた。走りたい衝動を抑え、早歩きでロビーへ向かう。看護師に案内されて病室に入ると、両親がしゃがんでいた。両の目に、水を含ませて。ベッドに倒れている人の顔が白い布で隠されているのを見て、全てを悟った。


 やっぱり、後悔は先に立たない。


 二人によると、すぐさっきまで意識はあったらしい。少しだけ話をしたそうだ。

 その内容を、二人は教えてくれなかった。


 そこでまた、俺は悟った。






 学校に連絡を入れ、俺は一週間休みを貰った。おばあちゃんとの思い出の実家に泊まることにしたのだ。

 祖父母の死での忌引きで公欠になるのは三日だけだったが、そんな短期間では立ち直れる気がしない。ただの欠席でいい。サボりでいい。


 久しぶりの家の空気は、深呼吸してしまうほど綺麗だった。この重たい雰囲気さえなければ、どんな病気だって直りそうなほどだ。

 でも、いるはずの人がいないことは、深呼吸では埋められない。そこにあるのはあまりにも静かで虚空な時間だけだった。


 その晩には通夜が、翌日には葬式があった。就職活動のために買ったスーツが本来の目的より先に喪服になってしまったのが、より一層無力だった。

 両親を含め、たくさんの人が泣いていた。やっぱりあの人は笑顔の美しい人だったんだと、改めて思い出された。


 俺は泣きこそしなかったが、泣きそうにはなっていた。もう動かないその人を見ると、色々な思い出がこみ上げてきたのだ。死って、すごいな、なんて思いながら、頑張って我慢した。

 不思議と、よみがえる思い出の中に、あの夜のことは含まれていなかった。綺麗な思い出ばかりだった。






「ほんとに、いないんだな」


 おばあちゃんはいつも家にいた。四六時中ずっと、というわけではないものの、二十四時間以上いない日なんて俺の記憶にはなかった。

 そのせいか、懐かしいという感覚より空間にぽっかりと穴が空いているような印象の方が強かった。


 真っ赤になった目とその周りがいつまでも元に戻らない両親を見ていると、そうなっていない自分が申し訳なかった。そのせいか、居ても立ってもいられず、傷心の父さんの代わりに俺はずっと農作業をしていた。

 DNAにまで染みついているこの作業は、ペットボトルのキャップを閉めるみたいに、ピタッとはまる感覚があった。音楽についての勉強なんて慣れない仕事よりも、ずっと落ち着いてはいられた。しかし、時間の経過は遅い。耳には土を踏む音、セミの鳴き声、時折通る軽トラのエンジン音くらいしか音楽はない。退屈と言ってしまえばそれまでだった。自分で動いているのではなく、動かされているような感覚。


 やっぱり俺、音楽をやりたいんだな。


 そう気付いたのは都会に帰る前、最後の作業を終えた瞬間だった。


「ひとつ、聞いていいか?」


 最後の夕食を食べ終え、俺は両親に向かって重たい口を開けた。


「おばあちゃんは、最期になんて言ってたんだ?」


 お父さんとお母さんは食器を片づける手を止めた。そして不安げに眉を曲げ、互いに顔を見合わせた。

 この頃には二人も事実を受け止め切れていたのか、悲惨な目の周りは随分と元に戻っていた。


 しばらく痛々しい沈黙が流れた。つまり、両親は閉口してうつむいたのだ。


「お願いだ。教えてくれ」


 これは、俺の覚悟だった。決断だった。


「知らない方がいいことなのは分かってる。でも、自分の信じた道を、父さんと母さんが背中を押してくれたこの道を、まっすぐ突き進むために、俺はそれを知らなければいけない気がするんだ。現実を受け止めて、俺は前に進みたいんだ」


 両親は顔を上げ、再び互いを見合った。二十年も連れ添っているからなのか、一切言葉を交わさなかったのに、同時に頷きあって俺と目を合わせた。


「分かった」


 先に切り出したのは父さんだった。


「そんなに言うんなら、教えてやろう」


「はい」


 それでもまだ父さんは躊躇っているように思えた。

 すると、その寂しい背中を母さんがぽん、と優しく撫でるように叩いた。

 二人の間でどんな以心伝心があったのか、俺には分からない。でも、踏み出す決心ができたのは息子の俺にも伝わった。


「あいつだけは死んでも許さない。わたしが死んだら、化けて出てやる」






 そういえば口座確認し忘れてたな、なんて思い出しながら一人暮らしのアパートに辿りついた時には午後十一時を回っていた。向こうでは真っ暗なこの時間も、こっちではまだ明るい。しかし、綺麗な明るさじゃない。薄汚れていて、思わず咳を繰り返したくなるような暗い明るさだ。

 どことなく息苦しいのはどうしてだろう。都会の空気のせいか、それとも聞かなければよかったと吐き気に襲われているせいか。

 ただ、後悔はしていない。あの言葉を聞いて、何かが吹っ切れたような気がする。


 俺は、絶対に夢を叶えてやる。


 そう、心の奥底から奮い立っていた。


 そして、彼女に「戻ってきたよ」と連絡を入れた。


「夢の前に、まずはネックレス、買ってやらないとな」


 父さんから往復の交通費をもらえたのはラッキーだった。一週間も家にいなかったのだから、電気代はセーフだろう。


 自分の部屋の前に立ち、鍵穴に鍵を入れる。

 開錠の軽快な音は、自分の中のスイッチを切り替える音のようだった。


 だが、同時に異変を感じた。


「ん?」


 中から何か音が聞こえた気がした。


「……気のせいだよな」


 そして、戸を引く。


「えっ」


 ゾッとした。確かに何か音がするのだ。人がたくさん集まって、談笑しているような。

 しかも、足首から太ももにかけて蟲が這うような冷気が、半開きの扉から漏れているのだ。


 ――幽霊が出ると、部屋の気温が下がるんだって。


 そんな馬鹿な。


 一度、扉を閉めた。


「なんだ、これ」


 意味が分からなかった。


 なんだ、あの声。誰かが中にいるのか? いや、ここを出ていく時、しっかりと鍵を閉めた記憶はある。それに、あの冷気はなんだ?


 ――あいつだけは死んでも許さない。わたしが死んだら、化けて出てやる。


 父さんから聞いたはずのその声が、あの日の険しいおばあちゃんの声に変換されてフラッシュバックした。思わず鳥肌が立ってしまう。


「馬鹿な、そんな馬鹿な話……」


 再度ノブに手をかけ、扉を開ける。そこには確かに人の気配と冷気がある。

 息を飲んだ。ゴクリ、と骨を伝って全身に響き渡る。


 勇気を振り絞って俺は中に入り、音が鳴らないように扉を閉めた。どうして自分の家なのにそんな配慮をしたのか、自分でも分からない。


 なんだよ、これ……。


 寒かった。夜でも暑い都会の夏とは思えない、冬のような寒さだ。


 その時だった。


 アハハハハ!


 この耳に、確かに、笑い声が入った。しかも、一人や二人の声ではない。この部屋に収まりきらないほどの数の笑い声だった。


 この部屋は扉を開けると右にキッチンがあり、左にユニットバスがある。その先には擦りガラスの扉があり、向こうに部屋があるのだが。

 戦慄するほかなかった。その擦りガラスが、鮮やかに光っているのだ。青、黄色、緑、赤、紫。


「誰か、いるのか……」


 そう声をかけるものの、扉の向こうにまで届いていないのか、誰かが変わらず喋り続けている。扉で音がこもっていて何を喋っているのかは分からない。すると、


 アハハハハ!


 それは、嘲笑うような響きだった


 この扉の先で、あり得ないほどの人数が一斉に俺に向かって指を差して笑ってるんじゃないか。


 おばあちゃんに「死ね」って言っちゃった馬鹿な小僧が帰ってきたぜ!

 おばあちゃんを悲しませた厄介な不良学生のご帰還だ!


 そんな得体のしれない声が脳内に反響する。これは扉の向こうから聞こえるのか、はたまた自分自身の声なのか、判別できない。


「そんな馬鹿な……」


 自分で考えて、自分で否定した。いや、否定せずにはいられなかった。


 ――わたしが死んだら、化けて出てやる。


 脚が震えた。


 なんで脚が震えてるんだ? ――そうか、寒さのせいだ。この寒さのせいに違いない!


 じゃあ、なんで寒いんだ?


 ――幽霊が出ると、部屋の気温が下がるんだって。


 すると、より一層脚が震えあがった。

 足首を、太ももを、手首を、脇を、背筋を、氷の腹を持つ蟲が這っているような。


 やめろ……やめろ!


 体のあちらこちらに爪を立て、引っ掻いていく。痛い。なのに、その寒さは消えない。


 なんだよこれ、なんだよこれなんだよこれ!


 すると、また爆発するような笑い声が上がった。


 裏切者が怖がってらあ!

 気味のいいもんだ!


 また、誰かの声が聞こえる。いや、それは確かに、自分の声だった。


 この扉の先に、何が……。


 ホラー映画の登場人物が、危険があると思いながら扉を開けるシーンがふと脳裏をよぎる。第六感の警告より怖いもの見たさを優先させる、愚かなシーンだ。


 そんな愚か者に、俺はなろうとしていた。


 唾を飲み込む。冷や汗が右目の外へ落ちていく。

 扉の取っ手を右手で掴む。金属製のそれは、夏ではありえないほどにひんやりしている。


 勇気を振り絞れ。振り絞るんだ。


 そして、取っ手を回し、戸を押す。キィ、と耳に触る音と共に、また爆笑の声が上がる。B級ホラー映画を鑑賞する観客のような声にも聞こえた。


「誰だ!」


 勢いまかせで、扉を一気に開けた。

 ガラスが割れるような音がした。


 やばい!


 反射的に目を瞑った――。






 ――ゆっくりと瞼を開く。


 どれくらい時間が経っただろうか。視覚が、聴覚が、徐々に蘇る。


 そこには、誰もいなかった。しかし、声は聞こえる。


「えっ……」


 少し視線を下げると、テレビが付いていた。見たことのあるタレントが楽しそうに何かを喋っている。

 そして、


 アハハハハ!


 あの笑い声が上がる。


 一歩、後ずさりした。すると、足の裏に痛みが走った。


「痛っ」


 足元を見下ろすと、自分の周り、果てには足の上にもガラス片が散らばっていた。擦りガラスに目を向けると、冷蔵庫に当たって無残に割れていた。


「……あっ」


 さっき勢いよく開けたとき……。


 次に、テレビの声の中、微かに「ウーン」と低いノイズのような音が鳴っているのが耳に届いた。

 ふと顔を上げ、その音のする方向を見ると、クーラーがあった。電気のついていないこの部屋では、電源がついていることを知らせるランプがよく見える。


「……まさか」


 先週の自分が思い出される。


 ――今日だけは特別。十七度にしちまえ!


「で、電気代……」


 膝から落ちた。

電気のつけっぱなしには気をつけましょう、というお話。

良い夏を過ごしましょう。


かくいう自分は、明日から数日間出かけます。←フラグ

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[一言] 家族はみんながんばれ頑張れ言って応援してくれるけれど,腹積もりはそうじゃないかもしれない.けど,そう言ってくれるのはとてもありがたいものだなあ.実家にいる家族を思い出すとホームシックに駆られ…
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