1 雷に打たれるような出会いとは
目の前が一瞬で真っ白になった。
突然の出来事に手も足も動かせず、けれども真っ白な光はいつまでもあたしを包んでいて、世界から音という音がなくなっていた。
(なに───雷───直撃───)
頭の中でそんな言葉がぐるぐると駆け巡る。
もし本当に雷の直撃を喰らったとして、こんなに痛みを伴わないものなんだろうか。
いや、実際に雷に打たれた経験がないんだから、疑問に思うこと自体がおかしい。
それともまさか、あたしはすでに死んじゃって、これは死後の世界もしくは走馬灯、そんな生と死の狭間にいるのだろうか。
けれど、白い光は徐々に薄まっていって……あたしは自分が地面に倒れていることに気づく。
いや、地面かと思ったけど違う。アスファルトの感触じゃない、これはまるで、石畳だ。
うつ伏せ状態で頬に密着した石がひんやりと冷たい。
「アスタ! セタ、ミスフォ○×ル!」
…………なんだ?
「ラルフ! セスタ△ズ、イルス、アーガ×○ド、ヴェ○○タス!」
英語?
いんや、英検二級程度のあたしでもわかる、英語ではない外国語。
でも、どこの国の言葉かまでは分からない。
ちなみに○だの×だのの部分は別に危ない言葉や不謹慎な言葉というわけじゃなく、あたしが聞き取れなかった部分だ。
それにしても手足にもどこにも痛みらしきものがないので、あたしは両手に力を込めて体を起こすことにした。
辺りは暗く、雨音はしない。
それにひどく静かで───そこが屋外ではなく建物の中だということに気付き、あたしは絶句した。
(ゆ、誘拐!?)
真っ先に思いついたのは、そのこと。
だって、駅からマンションに向かっていたあたしが突然雷に打たれて、気が付いたら屋内。
そしてあたしを見つめる四つの目……二人の男性は明らかに外国人だったのだ。
「こっ、こここ国際誘拐団、拉致監禁……しょうぐんしゃまっ?」
いや、そっち方面の人種でもなさそうだけど、あたしはパニックに陥っていた。
「ドゥオマレイ、イ○×ニタ?」
話しかけてきたのは金髪の男性。
二〇代くらいに見えるけど、わりと童顔系で人懐っこい笑みを浮かべている。
少しくせっ毛の金髪に瞳は鮮やかな碧色、いわゆる金髪碧眼ってやつ。ひどく手の込んだ刺繍の入ったベストがあたしの目を引いた。
騎手のようなブーツといい、指にはきらきらと指輪がいくつも、シャツの仕立ても一見して高級そうで、これはあれだ、西洋の貴族の青年ってイメージが一番しっくりくる。
「エルク、トゥラル、ヴィ、ツォ○△ルス」
金髪の青年に話しかけたのは黒髪の人物。
金髪氏より長身で年上っぽい容貌をしている。
黒髪オールバックに眼鏡がいかにも堅物で真面目そうだ。実際、眼鏡氏は金髪青年を叱責するような、咎めているような口調だった。
眼鏡氏の服装は青年より地味で黒が基調。
ローブのようなマントをはおっていて、こちらはなんだか貴族というよりコスプレのようで、それが眼鏡氏の真面目そうな表情と似合っているようないないような。
(なんだか変な人たちだけど、犯罪者って感じはしない、かな?)
突然の出来事にあたしも動転してたんだと思うけど、それでも目の前の二人が誘拐犯とは思えなかった。
ええと、二人は外国人留学生で、道で倒れていたあたしを見つけて保護してくれたのかもしれない。
そうだとすれば彼らはあたしの恩人ということになる。
「あの、ご迷惑をおかけしたみたいで、申し訳ありません」
「……ログナ、コルドス?」
ダメだ、わからん。
でもそれにしても……と、あたしはそれとなく室内の様子を観察し、様子がおかしいことに気づく。
石畳だと思ったのは正解だった。
壁は漆喰作りというのだろうか、たくさんの棚があって、壺だのビンだの古い書物や書類だのが雑然と並んでいる。
アンティークのテーブルを見ても状況は同じで、いやもっとひどい。
鳥のはく製だの得体のしれない実験器具、積み上げられた古い書物と、部屋の持ち主が整理下手か、整頓にまったく興味がないことを物語っている。
明り取りの窓は大きいけど、窓枠の装飾が明らかに古めかしい。
意匠としては中世ヨーロッパのそれにいちばん近く、そして目の前の二人の男性はこの不思議な部屋の風景にしっくりと似合っていた。
似合っていないのは、むしろリクルートスーツを着たあたしの方だ。
(そうだ、窓の外)
また何かわからない言語で会話を始める二人から目をそらし、あたしは少しよろけつつも立ち上がり、窓に近づいた。
「オウロ、ユグナルト!」
背後で青年が何か叫んでいたがどうでもいい。
あたしは窓枠に取りすがるように窓外の光景に目をやって───そして、絶句した。
そこに広がっていたのは広々とした空。
眼下に広がっているのは巨大な石造りの建物───いや、これは「城」と言った方がいい。
そしてここはその「城」の一室だとあたしは気付いた。
緩やかなカーブを描く階段の向こうに庭園らしきものが広がっていて、外壁の向こうには穏やかな丘陵、そしてその向こうには城下町と思しき家々が立ち並んでいる。
しかも城や街並みの様子からして、ここが日本じゃないことは明白だ。
城の状態からして、テーマパークだということも考えにくい。
「え……なんで……お城?」
「ラナシュラ……トクヴァ?」
「触らないで!」
金髪青年の手を払いのけると、青年はびくっと手を引っ込め、ばつの悪そうな顔をする。
でもあたしはそれどころじゃなかった。
日本の街を歩いていて、雷に打たれて気を失って、目が覚めてみれば外国の、お城の一室?
悪い冗談としか思えない。
(中世……外国? タイムスリップ?)
フィクションなら、こういうのはむしろ陳腐な類だ。
あまり詳しくはないけど、少年が過去の世界に飛ばされて大活躍する、とかそういう若い子向けのファンタジーは世に溢れている。
そうだ、自衛隊が戦国時代に飛ばされるって映画も見たことがある。
だけど、十九歳の就職浪人娘がタイムスリップしてどうするというのか。
「帰らなきゃ……」
ずきずきと猛烈な頭痛があたしを襲った。
これもタイムスリップの影響なのか、割れるように痛む頭を抱えつつ、あたしはこの部屋を出ようとした。出てどうなるわけでもないのに、そんな判断力すら失われていた。
「ジョプル! ラルフ、イムクシュ○×ドア!」
うるさい、うるさい、うるさい!
あたしは今日、派遣登録したばっかなのだ。
明日にも派遣会社から連絡が来て、新しい就職先に出向くかもしれないのだ。
今月末くらいには実家のハウスイチゴの収穫時期で、それの収穫を手伝いに行かなきゃいけないんだ。
晴ちゃんと母さんの手料理に舌鼓を打って、こっそり父さんと兄ちゃんからお小遣いをもらう予定なんだ。
ますます混乱し、足元がおぼつかない。
ぐらっ……と体が傾いていくのがわかったけど、どうすることもできず、あたしは石床に叩きつけられ───る寸前に、誰かに抱きとめられたような気がして、そしてそのまま意識が途切れた。
※ ※ ※
「う………………」
ふわふわと意識が水面に浮上するイメージと共に、あたしは目を覚ました。
柔らかな羽根布団の感触、ふかふかのクッションが頭の下に敷かれている。
おかしいな、うちのベッドのマットレスはもう少し硬かったはずだけど。
「わっ!?」
一瞬で意識が鮮明になり、あたしは跳ね起きた。
周りを見るとそこは知らない部屋。あの金髪青年たちのいた部屋とも違っている。
(そうだ、あたし気を失ったんだ)
察するに、あのごちゃごちゃした部屋から移されたのだろう。この……「城」のどこか別の部屋に。
「セグルスト? アイン、デ、ラトゥ」
「っ……」
声をかけられるまで、他に人がいるとは気付かなかった。
戸口で佇んでいたのは五〇代くらいの初老の女性。
あの青年たち同様、話しかけられている言葉は理解できないけれど、質素でシンプルなエプロンドレス、事務的で無表情な物腰からして、彼女は使用人、メイドさんのような人と思われる。
いや、無表情というよりは明らかにあたしに不審な目を向けているような気がする。
彼女は一礼すると、部屋を出ていった。
おそらくあたしが目を覚ましたことを誰かに報告するんだろう。
それにしても……とあたしはあらためて室内を観察する。
ここは窓に白いカーテンがかかっていて、大きなチェストはかなりの年代物。ベッドもシンプルながら使いこまれた年期を感じさせ、一様に清潔感がある。ゲストルームかもしれない、とあたしは思った。
(ゲスト……には違いないか。未来からの、かもしれないけど)
このとき、あたしはなぜか自分が中世ヨーロッパにタイムスリップしたのだと思い込んでいた。
ちょっと前まで日本にいたあたしが、外国のお城にいるというだけでも意味がわからないし、家具や室内の装飾は古めかしく、近代的な道具が一切なかったからだ。
現代でも欧州に行けば現存するお城はあるけれど、そういう場所は観光地化していたり、そうでなくても持ち主が管理しているので、電灯くらいはあるはず。
なのに、部屋のどこを探しても電球一つ、コンセント一つ見つからない。
もちろんスマホも圏外を示している。
そのとき、こんこんとノックの音がした。
返事をすべきかどうか迷ったけれど、再びノックが響いたのであたしは「ハイ」と躊躇いがちに答えた。
「セグル! アイ、ミラド×○フィ!」
入室してきたのは例の二人とさっきのメイドさん。
金髪の青年はなにが嬉しいのか満面の笑みを浮かべ、その背後で黒髪オールバックの眼鏡氏がやれやれといったふうに眉間を抑えている。
メイドさんはというと、戸口のところで佇んでぷいとあらぬ方を向いてしまう。
身分的には明らかに青年たちの方が上だと思うのだが、彼らのすることには一切かかわりたくありませんという態度が見え見えだった。
「アラナスト、ウォマ、リト××ダルシェ!」
とりあえず、言葉がわからないのはつらい。
これが英語でもあたしの言語力では通じるかも怪しいのに、どこの国の、いつの時代の言葉かもわからないのではお手上げだ。
身振り手振りで何とかなるのだろうかと不安に駆られていると、金髪青年が手を伸ばしてきたので、あたしは後ずさった。
「オゥ……ユグル、スナ、オトバリドゥ」
青年はあたしを怖がらせたと思ったのか、手を引っ込めてあるものをあたしに示した。
「ゆびわ?」
それは確かに赤い宝石の付いた指輪だった。
それを自分の指にはめる仕草を何度かして、あたしにそれを渡そうとする。
冗談じゃない。
この状況で指輪を贈られるなんて、トラブルの元もいいところだ。
下手に受け取ったらどんなことになるかわかったものじゃない、とあたしはぶんぶんと首を振る。
けれど青年はにこにこしながら、指につまんだ指輪をあたしにしきりに渡そうとする。
(指にはめるのは危険だけど……う、受け取っておいた方がいいのかな?)
なんど嫌がるそぶりをしても埒が明かないので、あたしはしぶしぶそれを手の平に乗せてもらった。
ひんやりとした金属の感触を感じた、その時だった。
「……れで、こうかがでるはずなんだけどな……」
えっ?
いまの、この人の声だったよね?
指輪を手の平に置いた途端、あたしの頭の中にたしかに彼の声が聞こえてきたのだ。
「どうかな、僕の話してること、わかる?」
「わ、わかります!」
「ああよかった! ボクの術式理論は間違ってなかった!」
青年は拳を握って軽くガッツポーズをとる。
どういう理屈なのかは分からないけど、この指輪に触れたことであたしは彼らの言語が理解できるようになったようだ。
ついでに言えばこちらの言葉も彼らに通じている。
どういう道具だこれ。
「えっと、そうやって手に握ってる分にも効果はあるんだけど、やっぱり指にはめたほうが便利だと思うよ」
「……………………なにか、深い意味はないですよね、これ」
あたしの言葉に青年はきょとんと首を傾げる。
女にとって指輪をプレゼントされるというのは、かなり特別な意味合いを持つんだけど、これに関してはそういう意味はなさそうだ。
仕方なく、あたしは右手の……サイズ的には中指がぴったりだったのでそこにはめる。
「どうだい、ラルフ! キミに散々バカにされた指輪だけど、こうしてちゃんと役に立ったじゃないか! ははははは」
「それはなにより……ところでお嬢さん」
と、ラルフと呼ばれた黒髪眼鏡氏があたしに向き直った。
その眼光の鋭さにあたしは気圧される。
言葉が通じるようになったのはいいけど、状況はいまだに好転していない。
あたしが、「二十一世紀の」「日本から来た」ということを、彼らは理解してくれるだろうか。
(下手を打って魔女裁判、なんてことにでもなったら……)
「まずは自己紹介をいたします。私はライラルフ・モルドレッド。セルフォード王国王室政務官をしております」
「は、はい。あ、あたしは百合花。加賀百合花と申します」
やはり王国かー、セルフォード王国なんて聞いたこともないけれど、あたしだって別に世界史や地理に詳しいわけでもない。
「カガ・ユリカ……ではミス・ユリカ。単刀直入にお聞きします。あなたはどこの国の人間ですか」
「日本です。もしくはジパング?」
ここが中世ヨーロッパだとしたら、マルコポーロの東方見聞録くらいは知られているかもしれない。
あれ、でもマルコポーロっていつの人だっけ?
あたしは自分の中の一般常識の頼りなさに心がくじけそうになる。
「ニッポン、ジパング……どちらにも心当たりはありませんね」
「だから言ったろう、ラルフ! 彼女は僕が異世界から召喚したんだから!」
と、ここで金髪青年が割って入る。
そう言えばこの人の名前まだ聞いてないなという考えがよぎったが、それより先にあたしは彼の言葉に思いっきり食いついた。
「ちょ、ちょっと待って! 異世界? 召喚? それどういうことですか!」
この不思議な翻訳指輪は、どこまで信じられるのだろう。
何の根拠もなく自分が中世欧州にタイムスリップしたものと思いこんでいたあたしは、想像もしてなかった言葉にうろたえる。
「えっ、ちょっと待って、うぐ、ぐぅ」
あたしは金髪青年に詰め寄って、襟首を思い切りつかみ上げた。
とはいえ身長差があるので、ほとんどあたしがぶら下がるような格好になってしまい、彼は目を白黒させる。
彼の肩越しに、さっきまでそっぽを向いていたメイドが蒼白になっているのが見えたが、あたしとしてはそれどころじゃない。
ちゃんと説明してもらわないと……と思っていると、きゅっと不意に手首を掴まれ、あたしはくるりと回転して青年から引き剥がされた。
「ご婦人に対する無礼をお許しください。ですが、まずは落ち着いていただけますか」
気がつけば、あたしは黒髪眼鏡のラルフ氏の腕の中に納まっていた。
手首を軽く押さえられただけなのに、あんなに力いっぱい掴んでいた手を簡単にはがされたことに、軽くショックを受ける。それでいて、掴まれた手首は痛みすら感じていない。
ラルフ氏に支えられたあたしは、狐につままれたようだった。
「ああ、驚いた。ええと、カガ・ユリカさん? うーん、ユリカだからユーリって呼ぶね。僕はエルクレア・セルフォード、エルクって呼んでくれたらいいよ。セルフォード王国……この国の第二王子です」
は?
王子?
次々と明かされる真実に、あたしはまた混乱しそうになる。
(王子に異世界に召喚に……と、とりあえずこの人が王子だって言うのはスル―しよう)
王子にしては異様にノリが軽いし威厳もないし、初対面の人間にさっさとあだ名はつけるし、信用できないにもほどがある。
あたしは自分の知りたいことを最優先することにした。
「あの、それで本当なんですか、ここが異世界って言うのは? 召喚って、あたしを呼んだってことですか。何のために? あたしは元の世界に戻れるんですか?」
「えっ、ああ、それは……なんていうか……」
エルクレア……エルクを質問責めにするあたしと、しどろもどろになるエルク。
そんなあたしたちの間に、ラルフ氏がすっと割って入る。
その身ごなしも実に自然で、それでいて逆らえない圧力がある。この人、なにか武術でも嗜んでるんじゃないだろうかと、あたしは感じた。
「こんなところで立ち話もなんですし、別室に茶を用意させてあります。そちらに移動してお話する、ということでいかがでしょう、ミス・ユーリ?」
さっそく、あだ名使われてますが。
ラルフ氏はメイドに目くばせすると、メイドさんは恭しく一礼し、扉を開ける。
あたしはラルフ氏に促されるままに部屋を出て、金髪の青年の後をついていった。
別室とやらに足を踏み入れたあたしは、その眩さに圧倒された。
天井に近い場所にある見事なステンドグラスが色とりどりの光を振らせ、大きな窓からは陽光がさんさんと降り注いでいる。
窓外には美しい庭園が広がっていて、お城の中庭のような場所と思われた。
部屋の中に目を転じると、磨き上げられた床、純白のテーブルクロスのかかったテーブルにティーセットと思しきポットやカップが準備され、横に長いお皿には色とりどりの果物、そして焼き菓子らしいものが乗ったお皿。
そしてテーブルの傍らに佇むのは二人のメイドさん。
こちらのメイドは先ほどの人と違い、かなり若く、美しい。
立ち居振る舞いもかなり洗練されているし、エプロン部分も明らかに高級素材でできていて、さしずめ賓客をもてなす役目を負ったメイドじゃないかなとあたしは思った。
「どうぞ、こちらに───」
眼鏡のラルフ氏がまるで淑女にするように椅子を引いてくれる。
こういうの、短大に入学したときのお祝いで叔父に連れて行ってもらったフレンチレストラン以来だわ。
おっかなびっくり腰を下ろすと、メイド二人がてきぱきとお茶の準備をする。
(もしかして、あらかじめ準備させてた? たぶんラルフさんが手配したんだろーな)
どう考えても、能天気な金髪王子の差し金ではない。
でも、こんなゴージャスなティーセットといい、メイドさんといい、ここが「お城」で、エルク青年が「王子さま」なのは本当のようだ。
メイドさんがあたしたち三人にお茶を淹れ終わったところで、ラルフ氏が口火を切る。
「私の好みで申し訳ありませんが、アリオワ産のシーフットです。私はストレートで飲むのが好きなのですが、お好みで砂糖とミルクをどうぞ」
「はあ」
カップの中の液体は、薄茶色で紅茶というよりはほうじ茶に似ている。
でも発酵茶葉なのか、香りは紅茶に似ていた。さっきの何とか産のなんとかというのは茶葉の産地と種類だろうか。
まさかいきなり毒殺もされまいと、せっかくなのでお勧めのストレートで飲んでみる。
少し渋みがあるけれど、香り高く、味は決して悪くない。それに温かなものを飲んだことで胃がぽっと熱くなり、気分が落ち着いてくる。
「お口に合ったようでなによりです。ところでミス・ユーリ。あなたは貴族ですか?」
「はっ、き、貴族? いえ、違います、一般人ですよ」
「そうですか、失礼ですがお召しものがかなりの高級品だとお見受けしたので」
お召しものっていっても、ただのリクルートスーツなんですが。
でも、見るところ彼らの文化水準ははっきり言ってそれほど高くはないようだし、大量生産、機械縫製のスーツも高級品に見えるのかもしれない。
「ねえねえ、ユーリの国ってどんなところ? なにか仕事はしてたの? ご両親は?」
「エルク」
ラルフ氏の一言でエルクは口ごもり、黙り込む。
年齢のことだけでなく、ラルフ氏は王子であるエルクに対しても立場が上のようだ。
「あの……それじゃ、聞かせていただけますか。異世界とか召喚とか、あたしにもわかるような説明を」
あたしの言葉に頷くと、ラルフ氏は金髪の青年を促した。
「僕は、魔法研究や発明が趣味なんだけど、最近は異世界から生き物を召喚する魔法の研究に没頭していたんだ。キミが最初にいた部屋を覚えている? あの石畳の床に魔法陣が書かれてたんだけど、気付かなかった?」
気づきませんでした。
ていうか、仮に見たとしてもそれが魔法陣だなんて思うはずもなかったろう。
それにしても魔法研究ねえ。
異世界から生き物を召喚って……………………
「生き物」!?
「ちょ、ちょっと待って下さい! 異世界の生き物を召喚する研究? 『誰かを』じゃなくて?」
「僕もびっくりしちゃったよ~。まさか人間の、女の子を召喚しちゃうだなんて。そもそもよその世界に僕たちと同じような人間がいること自体、想定してなかったから」
そんな、無責任な。
あたしは頭がくらりとする思いで、この金髪能天気王子の言葉を聞いていた。
彼は何かの目的であたしをこの世界に引っ張り込んだわけじゃない。たまたま、偶然、彼の召喚魔法とやらに引っ掛かったのがあたしだったというだけのこと。
(なんて……失礼な話……!)
頭に血が上りそうな怒りをかろうじて堪える。
そう、彼が言う通りならまさか異世界に───あたしからすればここが異世界なんだけど───人間がいるとは思ってなかったそうだし、そういう意味では彼に悪意はなかった。悪気はなかったという部分に納得するしかない。
「実は、生き物の召喚には既にいちど成功していてね。その召喚した動物が本当に珍しい動物だったんだ! もっと他の生き物も見てみたくて、ずっと研究を重ねてきたんだ」
珍しい動物でなくて申し訳ありませんでしたね。
嫌みの一つも言いたくなるが、それも不毛なのでやめておく。
「それで……あたしはいつ元の世界に帰してもらえるんですか。ただの人間の小娘なんか召喚しても、何のお役にも立てそうもありませんし」
それでも嫌みが滲んでしまうのは、目をつぶってもらいたい。
ところが───エルクはあたしの問いに困ったように口ごもる。ラルフ氏の方をちらりと見やるが、黒髪の政務官氏はスル―して茶を啜る。
「エルク。隠し事をしてもいずればれます。ここは正直に全て告白するのが筋では」
えっ、なにそれ、どういうこと。
「じつは………………その、僕は確かに異世界の生き物を召喚する研究をしてきたんだけど。その逆───つまり、召喚したものを元の世界に戻す方法については、まだ───」
「かっ、帰れないんですか!」
思わず腰を浮かせるあたしの剣幕に、エルクは慌てて弁解を重ねる。
「いやっ、将来的にはそれも視野に入っていたというか! い、い、いずれはそういう方面の研究も、当然する予定、はなかったけど、そうなってたはずさ」
「つまり……現時点ではいちど召喚したものを、元の世界に送り返す手段はわからないと」
帰れない。
元の世界に帰れない。
それはつまり、あたしはもう二度と両親にも、兄ちゃんにも晴ちゃんにも会えないってこと?
家族だけじゃない、いままであたしが生きてきた十九年間に出会った人すべてと、もう二度と会うことも話すことも触れることもできないということ。
たった一度の───それもただの興味本位で行われた実験に巻き込まれたというだけの理由で。
「ふざけ……っ」
あたしは右手を振りあげ、それを能天気馬鹿王子の顔面に叩きつけ───るより先に、ラルフが動いた。
エルクの肩を掴んで立たせるや否や、「ずどむっっっ」という鈍い音と共に右の拳がエルクの脇腹に突き刺さっていたのだ。
「うご、ぉ…………っっ……!」
ゆっくりと体をくの字に折り曲げ、椅子に倒れこむ金髪王子。
「エルクレア・セルフォード。貴方は無関係の女性を個人的な実験に巻き込み、多大なる迷惑をおかけした、いや現在進行形で迷惑をかけている真っ最中です。王族として、魔法研究者として、そして何より一人の人間として貴方は自分のしたことに責任を取るべきです」
「う……うん。わ、わかって、いるよ……ぐふぅ」
エルクは相当ダメージを喰らったのか、顔すら上げられない。
それでもどうにか冷や汗まみれの顔を上げると、深々とあたしに頭を下げた。
「ほんとうに……キミには、申し訳ないことをした。必ず……僕が責任を持って、キミを元の世界に送還するから……っ」
ちょ、顔色が青っつうか緑色なんですが、大丈夫この人?
するとその傍らでラルフもあたしに向かって頭を下げている。
「これは私の監督不行き届きにも責任の一端があります。あなたの怒りはごもっともですが、エルクはこう見えて優秀な研究者です。きっと送還術を見つけると私が保証します」
「は、はい……」
あたしは振りあげていた右手を下ろすしかなかった。
そのときになって、初めてメイドたちの視線に気づいた。
そして、どうしてラルフがエルクを殴ったのかも。
ラルフはエルクより立場は上のようだけど、じゃああたしは?
メイドたちにしてみれば、どこから連れてきたかもわからない、素性不明の小娘だ。そんな女が仮にも一国の王子に平手打ちなんかしたら、大変な騒ぎになるのは目に見えている。
そんな事態にならないよう、敢えてラルフは金髪王子に一撃を喰らわせたのだ。
あたしは黒髪の政務官の冷静さと咄嗟の判断に感謝した。この人、本当に切れ者だ。
「だ、大丈夫! 召喚術の理論はほぼ確立してる。送還となるとその逆をすればいいだけのことだし、安全面を考慮してもそれほど時間はかからないと思うよ」
「…………本当に?」
「た、たぶん」
ラルフさんは頼りになりそうだけど、この王子さまはちょっと疑問符が付きまとう。
けど、現状あたしはたった一人で異世界にほっぽり出された立場だし、頼れるのはエルクしかいないというのも事実。
「ともあれ、あなたは私たちにとって大切な客人。身の安全と当座の生活は保証します。エルクの預かりということで城でしばらく暮らせばいいでしょう」
「うん、なんてったってユーリは僕の実験の貴重なサンプル……もとい、きょ、協力者! そう、協力者だから!」
あ~、やっぱこの王子さま、信用できない~っ。
ところで、とふと気になったことを思い出した。
「あの、異世界の生き物の召喚にいちど成功したって言いましたよね? 珍しい動物って、いったい……」
「ん、ああ、メルマルロードって名前をつけたんだけどね、城の厩舎でちゃんと面倒見てるよ。そうだ、ちょうど今頃、この辺りを散歩で通りかかるんじゃないかな」
と、エルクが窓の方を指し示す。
綺麗に剪定された城の庭園、その奥から「メルマルロード」がちょうど姿を現すところだった。
「ぱおぉおおおおお~~~~~~~~~ん!」
灰色の肌、長く伸びた鼻に大きな耳、そして何よりその巨体。
それはどこからどう見ても「ゾウ」だった。
「いやぁ~、さすがは異世界、珍しい生き物がいるもんだと感心したよ。ねえ、ユーリの世界にはドラゴンとかユニコーンがいたりするんじゃない? 実物見たことあったりする?」
あたしはエルクの言葉なんか耳に入ってなくて、数か月前の海外ニュースを思い出していた。
曰く、英国の動物園のゾウ、謎の失踪───。
(現実だ……この世界も、召喚魔法も、何もかも。あたし───本当に本物の異世界に来ちゃったんだ…………)