9 ミミアと殿下
「うーん…………」
エルクの研究室で、あたしは悩んでいた。
エルクは例の植物の調査に、三日前から出かけていて今はいない。
あたしは少しでもエルクの手助けができないかと思ってたんだけど、付いていくことは許されなかった。
そうだ、それならあの散らかりっぱなしの研究室の片づけでもしてあげよう。
そう思ってはみたんだけど……正直、どこから手をつければいいかわからなかった。
「そういや小学生の頃、兄ちゃんの部屋を勝手に片付けて怒られたっけなぁ~」
年の離れた兄ちゃんは男の子ならだれでもそうであるように、いつも母から「部屋を片付けなさい!」みたいなお小言を喰らっていた。
低学年だったあたしは「兄ちゃんがこれ以上しかられないように」と勝手に兄の部屋を子どもなりに片付けたのだった。
その結果……
「あれがない! あの本はどこにやったんだ!」
兄が言うには「あの部屋は自分がわかりやすいように散らかしていた状態」であって、あたしが勝手に片付けたものだから、どこに何があるのか分からなくなったのだった。
で、あたしはあたしでとにかく目についたものを適当に引き出しや押し入れにしまい込んでいったので、あれはどこだこれはどこだと言われても、さっぱり思い出せず、とうとう泣き出してしまったのだった。
「わかった……時間をかけて探すよ。もう怒ってないから泣くな、百合花」
あたしが悪気でやったことじゃないと兄もわかってたから、それほどきつくは叱られなかった。
けど、それ以来、たとえ善意でも勝手に人の部屋を片付けるのはとてもよくないことなんだと、あたしは思い知ったのだった。
「それにくわえて、この有様じゃなぁ~」
そう、エルクの研究室の散らかりっぷりは並みじゃない。
本は山積み、書類は乱雑にまとめられてファイリングもされてない。
散らかってるのはもちろん本や書類だけじゃない。
おそらく魔法陣の実験をするための薬品だの怪しげな器具だの得体のしれないものが入った瓶だのランプだの、動物のはく製まであって、ちょっとした骨董品屋の店先のようだ。
(まあ、本人が魔法研究者なんだから、怪しげなのは当たり前、か)
「うわぁ~、これは聞いていた以上に厄介な部屋ですねえ」
「ミミア」
いつの間に来ていたのか、赤毛のメイド───アンソニー皇太子殿下お傍付き近衛メイドだっけ───があたしの背後に佇んでいた。
見た目はのんびりふにゃふにゃして頼りなさそうだけど、実はそこらの悪漢を一瞬で倒してしまう、くのいちみたいなメイドさんだ。
「あなた、アンソニー殿下に付いてなくていいの?」
「ええ、殿下はしばらく政に専念するそうで。あっ、外遊に出られるときはもちろんお供しますよぉ~、護衛役として」
つまり、今のところ本来のお役目を果たす必要がないので、あたしを手伝いに来たのだそうだ。
「まあ、それのついでにエルクレア殿下がやってる怪しげな実験を見て来い、みたいなことを言われまして」
てへへ、と微笑むミミアにあたしは苦笑する。
実の兄からも「怪しげ」とか言われちゃうエルクって一体……。
あたしはなにかエルクを手伝おうと思ったけれど、この部屋の惨状を前にどこから手をつければいいのか迷っている、とミミアに伝える。
「そうですねえ、勝手にものの位置を変えてしまっては、エルクレア殿下もお困りになるかもしれません。ひいてはユリカさまのご帰還も延びるということにもなりかねませんから、それはお勧めできませんね」
「そうなのよね~」
「では、ものの位置を変えずに埃をはらったり、雑巾がけや床を磨くというのはどうでしょう。それなら私もお手伝いできますし」
それで結局、そういうことになった。
ミミアが桶に水を汲んできてくれる間、あたしは本棚やランプシェードにハタキをかける。
こういう掃除道具は異世界といえどそう大差ないみたいなので助かる。
それにしたっていつから掃除をしていないのか、少しハタキをかけるだけで、たちまちもうもうと埃が舞い上がる。
「げほっ、げほっ。さ、先に窓を開けるべきだった……」
窓を開けて部屋の空気を入れ替えていると、ミミアが桶と雑巾、それとマスク代わりのハンカチーフを手渡してくれた。
ミミアはのんびりしているように見えて、メイドとしてもけっこう優秀だ。
てきぱきとこの散らかり放題の部屋の隅々を、少しずつだが確実に綺麗にしてゆく。あたしが言いだしっぺなのに、あたしはいつの間にかミミアのサポートしかしてないことに気づく。
「そんな、お気になさらないでください。もとよりユリカさまはエルクレア殿下の客人、異世界からのお客さまなのですから」
「ううん、これはあたし自身のためでもあるんだし。それに客人って言っても、ただだらだら毎日を過ごすのは性に合わないし」
「ユリカさまは生真面目な方ですねえ~」
日頃そんなことを言われたことがないので、あたしは少し戸惑う。
あたしは年の離れた兄にも、両親からもどちらかと言えば甘やかされて育ってきたから。
でもいつまでもそれじゃいけないと思い、東京の短大を目指して合格し、一人暮らしを始めたのだ。
まあたかだか二年じゃそれほど家事能力も上がってないと思うけど、女一人どうにか都会でやっていこう……という矢先に、この世界に召喚されてしまったのだ。
「いえいえ、ご立派ですよ~。そうですか、そんないいご家族がいらっしゃるなら、やっぱり早く帰る方法をエルクレア殿下に見つけてもらわなくちゃですねえ~」
「そういえば、ミミアのご家族は?」
その時、あたしは本当に何も考えずに聞いてしまって、そのことを後でひどく反省した。
「ああ、私は天涯孤独の身の上でしてー」
「え……」
あまりにもあっさりと、そしてにこやかにそう答えるものだから、あたしは言葉を失った。
「あっ、別に気にしないでください~。いまは同僚にも恵まれてますし、身寄りのない私のような人間が、お城務めをさせていただいてるだけで十分恵まれていますからぁ」
朗らかなミミアの笑顔にどう答えていいか戸惑っていると、彼女はやっぱり不幸な影なんかちらりとも見せず、簡単に自分の身の上を語ってくれた。
物心ついた時にはスラムのような場所で暮らしていたこと。
孤児を育てる救護院に引き取られてもそこでの暮らしに馴染めず、何度も脱走を繰り返したこと。
「どうしてだか、私って人のお世話になることにすごく抵抗を感じていたらしくて……ものを恵んでもらって生きるくらいなら、盗みでも何でもして自分一人で生きていくって、決めてたみたいなんですよ~。ははは、子どもって馬鹿ですよねえ~」
そんなとき、救護院を慰安訪問したのがアンソニー殿下だったのだそうだ。
「私、たまたまそのときも脱走しようとして、寮母さんにとっ捕まったとこだったんですよ。そこを殿下に見られてしまいまして……『どうして脱走するんだ』って聞かれたので、人の情けにすがってまで生きてたくない! とかなんとか生意気なことを口走ってしまいました」
いまから約一〇年前の話だというから、アンソニー殿下は十九歳くらいのそれはそれは凛々しい美青年だったという。
まあ、いまも十分美形だけど。
「そうしたらですね、殿下が微笑みかけてくれて、それなら城で働くといいって私をお城に連れてきてくださったんですよ~」
ほ、微笑みかけて?
あの、アンソニー殿下が?
すごく厳しい顔しか見たことのないあたしには、到底信じられないけど、ミミアは目元をぽっと赤らめ、なんだか恋する乙女のような表情をしていた。
(あれ……もしかしてこの子って……)
「それからは私、誠心誠意殿下にお仕えしました。そしたら、たまたま近衛メイドの素質があるって言われてそっち方面の訓練も受けるようになって……救護院から脱走するうちに、運動神経だけは鍛えられてたみたいで、えへへ」
「そっかぁー、で、いまは愛しのアンソニー殿下の傍に仕えられて、すっごく満足してるってわけだ、ミミアは」
「えーもう私の人生のピークって今なんじゃないかと…………って、いっ、いとっ、愛しのっ?」
あー、わかりやすい、わかりやすい。
あたしを拉致して武器で脅していた盗賊を、目にもとまらぬ速さでやっつけたミミアとは思えないほどうろたえている。
その様子がなんとも微笑ましくて、あたしはついにやにやしてしまった。
「えー、ミミアって可愛いし若いし、いけるいけるー。相手はこの国の皇太子じゃん、玉の輿だよー、がんがんアタックしちゃいなよ」
「ア、アタッ? わたっ、わたしっ、そんな、私は、ででで殿下にお仕えする、近衛メイドの身でして、そ、そにょにょうな大それたっ、ふわぁああああああ」
顔を真っ赤にしてあたふたするミミアが面白くて、あたしはつい調子に乗ってさらにからかってしまう。
「そうかー、ミミアはいずれアンソニー殿下のお嫁さんに、あっ、もしかしてお妃さまってやつになるの、すごーい」
「い、いいかげんにしてくださいっ! そ、そういうユリカさまはどうなんですかっ」
「へっ、あたし?」
急に話を振られて、あたしは頓狂な声を漏らす。
そんなこと言われてもな……短大は女子校だったし、合コンとかにもあまり行ったことなかったし。むしろ女の一人暮らしと、単位を落とさないように毎日必死だったので、ボーイフレンドどころじゃなかったしなぁ。
「う~ん、高校の頃はちょっと憧れてた先輩とかいたんだけど、別に告白もしなかったし、されたこともないし……」
ううっ、アンソニー殿下に一途に恋してる乙女なミミアと違って、あたしの人生って意外と色恋沙汰に縁がなかったんだなと、なんだか急に空しさを感じる。
「そうですか、特に将来を誓い合った方とかはいらっしゃらなかったんですか……じゃあ、こっちの世界じゃどうですか?」
こっちの世界って言われても、あたしは異世界から来た人間だし、そもそもお城の外にもほとんど出かけてないので、顔見知りと言ったって限られてくる。
「だってラルフは妻帯者だから論外だし、ミシェルはさすがにちょっと、年下すぎるよ。あんな可愛い弟がいたら最高だけどね。あとは……城内の兵隊さんにもあまり顔見知りはいないからなぁ」
「…………あの、ユリカさま?」
「ん、どうしたの」
赤毛のメイドさんはなぜか怪訝な顔をしている。
いや、怪訝というよりはなんとも不憫そうというかなんというか。
「そうじゃなくてですね、その…………エルクレア殿下、とか」
ぽかーん、という感じのアホ面をあたしはミミアに向けてしまっていた。
「あー…………ああ、そうね。そういうことか、ああ~」
あたしを見るミミアの目が微妙に冷たいものになっている。
「それは、さすがにエルクレア殿下がかわいそうというか。だって、むしろユリカさまにとってはこの世界に召喚してくれた、ある意味運命の人! ではないですか!」
うん、まあ、あたしはそんなことちっとも望んでなかったんだけどね。
「なにかそういう繋がりで、運命の赤い糸的なアレをエルクレア殿下に感じたりは」
「しないわねえ、特に」
がっくりと肩を落とすミミアは、もしかしてあたしがエルクにそういう感情を抱いていたと思っていたのだろうか。
別にそんなそぶりを見せたことはなかったと思うんだけど。
「う、そう言われるとそうですが。けれどユリカさま、エルクレア殿下とお話しするときはとっても親しげというか、遠慮のない間柄と申しますか。ですから私、てっきりユリカさまとエルクレア殿下はかなり親密なご関係なのではないかと」
「親密……と言われると、まあこの世界にやってきて、最初に出会ったのがエルクとラルフだったから。あたし、言葉も通じないとこに来ちゃって、混乱しまくってたから……」
その後、エルクの発明である翻訳指輪によってどうにか意思疎通できるようになって。
そしてこの世界が異世界であること、帰る方法がわからないことなどを聞かされて、そんな赤い糸がどーのこーのという状況じゃなかった。
「だってさ、いきなりわけのわからない世界に召喚されて、しかも『異世界の生き物を呼び出すつもりだった』とか言われたのよ。失礼な話だと思わない?」
「あぁー…………第一印象、最悪ですねそれ」
しかもあたしのことを「魔法実験の貴重なサンプル」と言いかけたこと、あたしはしっかり記憶しているぞ、エルク。
「ま、エルクにも悪気はなかったってことで一応許したんだけどね。そう言えば色々信じられないようなことを聞かされたけど、いちばん信じられなかったのはあれよ」
「あれ、と申されますと」
「エルクが、この国の第二王子だってことよ。あん~~~~~な気品も威厳もない王子さまがいるなんて、まさか思わないじゃないっ」
あたしの言葉に赤毛のメイドは「ぶほっ」とむせ返る。
「ちょ、ちょっと、げほっ。ユ、ユリカ、さ、げほげふっ。そ、それはいくらなんでも、くくっ、し、失礼、なのでは……ぐふふっ」
ミミアは笑いのツボに入ったらしく、耳まで真っ赤にして何度も咳き込む。
けど、ここで笑うっていうことは他ならぬミミアも多少なりともそう思っていたということ。
立場上、それを認めるわけにはいかない、けどそう思えば思うほどミミアはお腹を押さえ、体を折り曲げてひくひく震えながら笑いを堪えるのだった。
「だって、そのあとにファリーヌとかミシェルに出会って、これぞ本物の王族の気品って感じたのよ。アンソニー殿下だってすごく威厳のある方だったし」
「ちょ……ユリカ、さま、待って、待って、ククッ」
「いや、ぜんぜん、悪い人じゃないと思うよ、エルクは。むしろいい人、善人だよ。それはあたしも認めるにやぶさかじゃない。けど、世間一般の女の子が憧れる『王子さま』って言葉のイメージを考えると、エルクに運命の赤い糸はちょっと……」
「僕がどうしたって?」
「うきゃぁあああああああ!」
いきなり背後から声をかけられ、あたしは絶叫し、ミミアは飛び上った。
「なになに、二人揃って僕の研究室でどうしたの。あっ、もしかして掃除してくれてたの? いやぁ悪いねえ~」
「エ、エルク……お、おかえりなさい、いつ戻ったの」
「たったいまだよ。まだ調査の途中なんだけどね。必要な資料があったから、いったん取りに戻ったんだ」
そう言って邪気のない笑顔を見せる金髪巻き毛の青年は、とても一国の王子さまには見えない。
いや、しょうがないんだけどね、たった一人で護衛もつけず、ある特殊な土地にしか生えない植物の調査に向かったんだから。
庶民と同じ服装にでっかいリュックを背負い、足元は山歩きに適したごつい靴。
おまけに三日も野宿してきたあとなので、無精髭は生え放題、顔も体も薄汚れてる。
たぶん調査に夢中で水浴びもしてないだろうから、心なし体が臭う。
(ごめん、エルク。それもこれも、あたしのためにしてくれてるってことはよくわかってるよ。けど……やっぱりあんた、王子さまのオーラ持ってないわ―……)
「えぇ~っと、あの本はどこにあったかな。たしかこっちの引き出しの奥に……」
と、机の下に頭を突っ込んだ王子さまは、無造作に突っ込んである書物をばさばさと引っ張り出し、埃がもうもうと舞いあがる。
ミミアとあたしがせっかく綺麗にしていた部屋が、たちまち埃臭くなる。
「ちょ、ちょっとエルク? ごほ、ごほっ」
あたしとミミアは窓際まで避難する。
その間もエルクはどたばたと本棚をひっかきまわし、どうにかお目当ての本を見つけたようだった。ひょいと顔をのぞかせてにっこりとほほ笑んだ鼻の頭が黒くなっている。
「あったあった、これで調査が捗るぞー。じゃっ、二人とも、僕また出かけてくるから」
「あの、その前にお風呂にでも入っていった方が……って、あ~あ、行っちゃった」
でっかいリュックを背負った背中がたちまち小さくなってしまう。
あとに残されたのはあたしとミミア、そしてまた埃まみれになった室内。
「とりあえず、ものの位置を変えなかったのは正解だったようね」
「ですね。もしさっきの本をよその場所に移していたら、部屋の中全部ひっくり返してましたよ、エルクレア殿下」
とはいえ、あたしたちがしていた掃除がほとんど元の木阿弥になってしまったのも事実。
「ユリカさま……どうします?」
「うん、窓閉めて『なかったこと』にしましょ」
「私、お茶の支度しますねー」
すっかり掃除する意欲をなくしたあたしたちは、エルクの部屋を後にしたのだった。
そしてどうして自分が、エルクに対して憧れや恋愛に近い感情をこれっぽっちも抱かなかったのかもわかった。
(エルクってあたしにとって…………『でっかい弟』みたいなものだったのね)
そりゃあ「運命の赤い糸」なんて感じようはずがない。
お兄ちゃんっ子だったあたしがどうしてエルクにはあんなにぞんざいな口のきき方をしてしまうのかというのも、つまるところはそういうことのようだった。
「なんですかユリカさま、にこにこして」
「ううん、なんでもないの」
とはいえ、さすがに第二王子をでっかい弟扱いしているとは、ミミアには言えなかった。