第六話
戦いの始まりを告げた、その刹那。
眼下に広がる有象無象の目標の中で、一番脅威数値が高い獲物を捕捉した切断マンティスが、数値記憶の奥底に刻み込まれた殲滅算譜に従って、アルゴス目掛けて爆発的なスタートを切った。
腹部のブースターを全開に、常軌を逸した大加速でもって距離を詰め様、右の超速振動ブレードを袈裟に振り下ろす。
ルトの視界を、白刃の輝きが埋め尽くす。
――死、
いきなりの死線に対し、ルトは反射的にトリガーを引く。あろうことか電磁加速も無しに放たれた弾丸は、幸運にも振り下ろされる刃の切っ先に命中、十分の一秒ほど寿命を延ばすことに成功する。
しかし。
駄目だ。止まらない。もう躱せない。受けることも。成す術無し。詰ンだ。終わった。どうあがいても、ここで死ぬ。
訪れる最期の時を、ゆっくりと近づいてくる死神の鎌を眺めていることしか出来ず――
次の瞬間、不可視の巨人に殴りつけられたかのように、機体が真横へと吹っ飛んだ。
「……ッ!?」
驚く暇もあればこそ、全身の体液が一気に左方へと片寄り、意識が飛びそうになる。
水切り石のように跳ね飛び着地、ようやく停止ったかと思えば即座に再度の跳躍。稲妻の如き鋭角な連続跳躍に、骨が軋み、筋肉が圧迫され、内蔵が悲鳴を上げる。盛大に混乱する頭で、何が起こっているのか、と考えた矢先に、
「――あっぶにゃー! ぎりっぎりぃ!」
テクノギアから響くクレアの弾んだ声音を耳にして、遅まきながら冷や汗が吹き出してきた。
助かった。並のドライバーならば、初撃で両断されていたところだ。
しかし、のんびり感謝を伝えている余裕はない。執拗にこちらを追撃してくる切断マンティスから逃れる為に、アルゴスは現在進行形で跳ね回っているのだ。全速機動で縦横無尽、立て続けの跳躍に、上下の感覚が消えて失せ、引っ切りなしの衝撃が全身を余す所なく殴打する。まるでピンボールの玉にでもなった気分だ。
「ちょ、待っ……!」
堪らず制止の声を上げるも、クレアは「にゃはははは!」と楽しげに笑いながら、
「ちっと速い? 抑えちゃう? でもでも、いま速度落としたらさくっと斬られちゃうかもよ?」
挑発的なその台詞が、無性にカンに障った。
四肢を踏ん張り奥歯を噛み締め、ルトはフン、と鼻息一発で気合を入れて、
「――いい! こっちで慣れる! ステラ、敵機のデータ回せ!」
怒鳴り声での呼び掛けに、音声での応答は無し。代わりに凄まじい勢いの打鍵の音と、周囲のデータフレームに加えて新規の表示枠が幾つも出現、それぞれに夥しい量の情報が表示されていく。
「精密過ぎだバカ! ALF残して残りはカット! FCS周りも自分でやる!」
「アタシにもマップちょーだい! オブジェクトはアウトラインだけでおっけー!」
二人分のオーダーもなんのその、伝えたそばから訂正が入り、その全てに秒毎での更新がかかる。いくらサキのフォローがあるとはいえ、人間離れした状況対応能力。打てば響くなんてものではない。冷や汗の流れる背筋に、別の意味でゾクゾクと震えが走る。
回避の全てをクレア《ドライバー》に任せ、濁流の如きデータの奔流を目を皿にして凝視する。途端、こちらの苦労を察してか微妙な遅延が発生するも、
「――舐めンなっ! 遠慮しねえで片っ端から寄越しやがれ!」
反射的に怒鳴った直後、ただでさえ積み重なっていたフレームの数が五倍に増えた。
「残り三十秒! 死んでも逃げ切るぞ!」
命懸けの鬼ごっこが続く。誰かが一度でもヘマをしたらそこで終わり。瞬きも出来ない。目と鼻の先を致死の暴風が通り過ぎていく中で、現在の一秒から未来の一秒へと綱渡りを繰り返す。
ジャスト三十。
――見つけた!
発見と同時、ルトは叫ぶ。
「クレア! 上取れ!」
「おっけー!」
応答と同時、機体が急停止。
無論、その隙を見逃すような敵機ではない。切断マンティスの巨体が、右から左へ、抉り込むような旋回機動を行う。
世の物理学者が卒倒するような速度でアルゴスの周囲を二回転半、遠心力を上乗せ音に近い速度と化した天地二段の薙ぎ払いが、完全なる死角から襲い来る。
本来ならば、回避不能の絶死の刃。
だが、こちらにはステラがいる。
急制動と同時に十二種のコマンドを一息に入力、『全天球視界』を展開。常人ならば発狂してしまうほどの気違いじみた量のデータの津波を丸ごと受け止め、咀嚼。アルゴスと同化したステラの視界から、網膜上の盲点が消え去る。
「今!」
跳ぶ。
空中、逆さになった世界に、ご丁寧にも大小五つのターゲットサークルが現れる。
半ば意地になって、最小かつ最大ダメージを示すサークルを選択。針穴のようなターゲットサークルを睨み付け、ルトは集中を開始。
どくん、と鼓動の音を一つ置いて、まず最初に色が消える。ついで音が。
自分と世界とを分かつ境が消え、引き金と獲物だけが残される。
天地真逆の視界の頂点、切断マンティスの複眼がこちらの姿を捉え、旋転を開始する。
高速で振動する、二対のスペクトラム・ウィングの羽ばたきすらも見て取れる。
まるで、周囲の世界がまるごと蜂蜜に漬けられてしまったかのように。
ゆっくり、ゆっくりと進む時間の中で、ルトは引鉄に手を掛ける。
あれだけ燃えていた敵愾心すら遥か彼方。
後はもう、トリガーを引くだけで、
そう思った時にはもう、トリガーは引かれていた。
迷宮技術の中でも最大の発見の一つとされる高分子金属複合体、『フォルトナ』による桁外れの電力供給を用いた電磁投射砲、『威震電神轟砲』から発射されたケースレス・バジリスク弾が、切断マンティスの胸部、その巨体とは裏腹に驚くほど小さなジェネレーターを貫いた。
複眼がチカチカと瞬き、消失。脚部から力が抜け、糸の切れた操り人形の如くその場に崩れ落ちる。
◇ ◆ ◇
同刻、広場入り口まで退避していたリィは、生来の糸目を真ん丸に見開き絶句していた。
今、目の前で前代未聞の事態が立て続けに起きた。
――死角からの一閃を視認もせず回避!?
――アントリオンで背面宙返り《バクちゅう》!?
――深層のミルメコレオをたった一撃で!?
あまりに非常識な光景を見せ付けられ、案山子のように突っ立つリィの視線の先、天地逆さのアルゴスが重力に引かれ落下していって――
すどん、と。
盛大に着地をミスった。
一秒。
二秒。
たっぷり三秒の間を置いて、
「――ぉぎゃあ!」
ミルメコレオと対峙した時すら上げなかった悲鳴を上げて、リィは叫ぶ。
「俺のアルゴスっ!」
リィは勿論、事態の推移を見守っていた一般人の注視が集まる中、仰向けでわしわしと脚を動かすアルゴスからばつん、とノイズが鳴り響き、
『――っ痛ぇー! なんで最後の最後でミスんだよ! クレア!』
『にゃんでアタシ!? ステラが着地予測までナビしてくれなかったせいじゃんかー!』
『……射撃反動まで計算に入れていなかったルトが悪い』
なにかの拍子にスピーカーのスイッチが入ってしまったらしい。最大限に拡声され音割れした聞くに堪えない大喧嘩が、街中に響き渡る。
修理にかかる全工程を試算し卒倒するリィをよそに、実況は三十分の長きに渡って放送されたのであった。