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第二十話


 驚愕の一瞬。

 その隙を待ち構えていたかのように、全天から大量の白銀の糸が降り注ぎ、

【う、おぉ――!?】

 驟雨の如く浴びせられた糸を、躱せた者は皆無。

 脚に体に絡まる糸は、もはや致命的なまでにアントリオンの命である機動力を奪っており、

【な、なんだ、こいつら! 一体どこから!?】

 瞠目の声を聞き、ステラを筆頭にオブザーバーたちが砕けんばかりに奥歯を噛み締める。慮外の増援は、上方の死角――天井部からやってきた。おそらくは巨大なステルス・エフェクトを隠れ蓑にセンサーを欺き、息を殺して潜んでいたのだ。

 必勝の歓喜を、底無しの絶望に塗り替える為に。

【個体数、十を越え、二十、三十……五十を越えてなおも増加!】

 サキの切迫した報告と共に、事態は悪化の一途を辿る。

 罠に掛かった獲物を嘲笑うかのように、アラクネが優雅に腕を振る。

 主の命に従い、無数の拘束スパイダーが白銀の繭と化した〈クゥ・ルー〉の操るアントリオン、タスラムに対して飛び掛かっていき、

【な、なんだよこいつら! 何しようってんだ!?】

 恐慌に駆られた〈クゥ・ルー〉のガンナーが、ろくに狙いも付けずに砲撃する。

 撃破。撃破。撃破。殺到する群れのどこに撃っても当たる。それほどの密度だった。

 さながら津波の如く、従属個体は被弾の一切に怯むことなく獲物に群がっていく。

 アルゴスを含む全機が、仲間の窮地を救わんともがくのだが、糸に縛られ砲を向けることも叶わず、

【まさか……!】

 黒山と化したタスラムのコクピットから、悲痛な叫びが上がる。

【装甲が、溶ける!?】

 機体に取り付いた拘束スパイダーが、装甲の薄い関節部から、直接溶解液を注入しているのだ。

 全員の脳裏に、最悪の想像が掠める。

 それでも。

 この時点では、誰もが「まさか」と高を括っていた。

 或いは、決定的な「その瞬間」が訪れるまで、人は「まさか」と思い続けるのかもしれない。

【だ、誰か助けてくれ! 頼む、誰か助けてくれ、誰かぁ!】

 ついに、その瞬間が訪れる。

 溶解液が、コクピット内部にまで流れ込む。

【――あ、熱づ、ああァァッ!】

 アントリオンの装甲や内部回路を溶解するほどの強酸である。当然、人間の身で耐えられるはずもない。

 生きながらにして身体を溶かされる苦痛に、ワーカーたちが絶叫を上げる。耳を覆いたくなるような阿鼻叫喚が、リンクを通じて鼓膜を揺さぶる。

【あ、あづ、ぅああぁ!】

【だすげで、だすげ――】

【いやだぁ! ごんなじにがたは、いやだあ!】

 コクピットが液体に満たされたのか、唐突に断末魔の叫びがゴボゴボとくぐもった響きへと変わる。それでもなお、悲鳴は止まない。発声器官が溶けてなくなるまで、彼らは叫び続けた。

 しん、とリンク内が静まり返る。


 そうして、地獄が始まった。


【ッざけんな! なんだよそれ!】

【じょ、冗談じゃ……!】

【畜生、来るな、来るんじゃねえよお!!】

【誰か、誰でも良い! 脱出できないか!?】

 誰も彼も、無我夢中で脱出せんともがき、のたうつ。

 しかし、どれだけ暴れようと機体に絡み付いた糸は離れない。

 その様を、蜘蛛の女王はまるで余興を楽しむかの如くゆったりと観察しており、

【――ッ、】

 アラクネが右腕を掲げる。ただそれだけの動作で、全員が息を呑む。物音一つ立てたが最後、己が身に白羽の矢が立つことを恐れてのことだった。

 自分たちの生死は、残らず彼女の蜘蛛のてのひらの上に乗っている。

 どこか芝居染みた溜めを置いて、アラクネが腕を振り下ろす。

 直後、〈プラグマ〉のアントリオン、ローレンテック目掛けて蜘蛛どもが押し寄せ、

【と、溶げ、体が、どげるゥ!】

【死にだくないッ! 死にだくないィッ!!】

【ここで、終わりかよお!】

 再度、長々とした絶叫が響く。

【もう、駄目だ……】

 リンクに呟かれた誰かの掠れた声に、ルトが衝動的にリンクを切ろうとした、その時、

「――ッ!」

 目が、合った。

 アラクネの、鮮血と同じ色の巨大な眼球が、はっきりとアルゴスに――コクピットの中にいるルトへと向けられていた。

 呼吸が止まる、血の気が失せる。

 蛇に睨まれた蛙とは、きっとこういう気分なのだろう。頭から爪先まで、いったいどこからと問いたいほど全身から冷や汗が噴き出し、どうしようもなく身体が竦む。

 歯の根が合わず、カチカチと震える。その音すら相手の機嫌を損ねてしまいそうに思えて、必死に噛み殺す。

 下腹部に鈍痛。一切の我慢が利かず、シートが湿り気を帯びるも、それを恥と思う余裕すらも無い。

 どくどくと脈打つ、鼓動すら停めてしまいたい。

 死ぬ。

 どうあっても、ここで死ぬ。

 逃れられぬ死が、額と額が触れ合うほどの至近にまで迫っている。

 アント・ワーカーとして迷宮に潜るようになってから、いつかはこんな日が来るとは思っていた。やがて来るその時の為に、覚悟を積み重ねてきた。

 だが、そんな覚悟ものは、あまりにも身近まで迫った死神の愛撫に欠片も残らず吹き飛んでしまった。

 理性が恐怖に塗り潰されていく。知らずうち、頬が釣り上がる。泣きながらにして笑う、道化師の表情だ。

 狂う。狂ってしまう。全部投げ出して、子供のように大声で泣き喚いてしまいたい。

 それでも。

 ルトが耐えることが出来たのは、自分と同じように、必死に歯を食い縛り、恐怖に抗う二人の搭乗員のおかげだった。

 ――せめて。

 ――せめて、最期の瞬間までは。

 アラクネが、右腕を振り上げる。

 周囲を取り巻く拘束スパイダーが、いつでも主が令に従えるよう、八つ足を折り曲げる。


 その時だった。


 突然の衝撃が、機体を揺さぶった。

 ダメージアラートがけたたましく鳴り響き、次いで装甲を通して尚、肌に当たるほどの高熱を感じて、

 ――サーベラス・ナパーム弾!?

 ルトの驚愕に重なるように、声が響く。

【走れっ!】

 アルゴスの左辺後方、糸にまみれた黒の機体。〈ナイト・シェイド〉の駆る、シャドウ・チェイサーの砲門がアルゴスを捉えていた。

 機体を焦がす火炎の奔流によって、糸の拘束は無視できるレベルにまで焼き払われており、

【ボサっとすんな! 動け!】

 脳を直接殴りつけるような怒声での指示に、三人の金縛りが解ける。

 にじり寄るミルメコレオの群れに掃射を放ちつつ、水切り石の如く距離を取る。

【――す、すまねぇ、助かった!】

【良いから逃げろ! 逃げて、増援を――】

 言葉は、そこで途切れた。

 これと決めた獲物を取り逃した腹いせに、原因であるシャドウ・チェイサーを標的として号令を発したのだ。

 雲霞の如く前進する敵の群れ。上がる絶望の悲鳴。

【――ルトっ!】

 何よりも搭乗員の生命維持を優先するサキノハカが、致命的なまでに反応の鈍いワーカーに代わって脱出経路を提示する。

 千載一遇の好機。脱出するなら今しかない。逃げて、増援を募り、しっかりと対策を立てた上で再突入すれば、或いは奴を撃破することが出来るだろう。

 だが。

 彼らは、自分たちの呼び掛けに答えてくれた彼らは、間違いなくここで死ぬ。

 ここが、分水嶺だ。

 死にたくない。死なせたくない。

 膨れ上がる葛藤が、瞬時に思考を埋め尽くす。

 詰め寄っていく従属個体の背を前に、永遠にも似た一瞬が過ぎ去る。

 腹を括る。

「……ステラ、クレア。それに、サキ」

 呼び掛け、ルトは震える声もそのままに、

「頼みがある」

 周囲、今や百を超える従属個体の群れに守られ、最奥に位置するアラクネを見据えながら、ルトは言う。

「おまえらの命、私にくれ」

 作戦もクソもあったもんじゃない。

「我ながら無謀だと思う」

 彼我の戦力差は比べるのが馬鹿らしくなるほど明確。

「笑っちまうぐらい呆気なく死んじまうかもしれない」

 百回やれば、百回失敗するであろう低確率。

「それでも――」

 一拍、

「――ここで退いたら、一生後悔することになる!」

 だから、と言い募ろうとするルトを遮るように、機内から声が上がった。

「水くさいにゃー、リーダー!」

 いつも通りの陽気な調子でクレアが、

「私は、元より先輩を置いて逃げる気は無い」

 平時と変わらず淡々とした声音でステラが、

【……この流れで反対したら、私だけ空気読めてないみたいじゃないですか……】

 不満げな口調ながら、どこか誇らしげにサキが応じる。

 返答に、ルトは深く、深く俯く。

 自然と浮かんでくる涙と、浮かんでしまう笑みを噛み殺し、囁くような声量で、

「……あんがとな」

 呟き、顔を上げると同時に、迷いを振り切るように引き金を引いた。


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