第十話
探索を終え、ステラは友人宅を訪れていた。
到着した時には既に、テーブルを埋め尽くさんばかりに並べられていた夕食――どれもこれも、非常に手の込んだメニューであった――を済ませ、今は食後の紅茶の時間である。
手元のティーカップから立ち上るアンク・ローズの濃密な芳香を吸い込んで、ステラはほう、と溜め息をつく。
と、そこに、
「良い……。凄く良いわぁ……」
妙に熱っぽい調子の独白に、不穏な気配を感じて顔を上げればそこに、うっとりとした表情の魔女がいた。
腰まで届く鳶色の長い髪、ワインレッドの瞳と、同色の唇。自室だというのにやけに胸元の空いた黒のドレスを身にまとい、しなだれかかるようにしてソファーに腰掛けている。昼に浮かぶ月の如く白い肌は、酒精も入っていないのになぜかほんのり桜色に染まっていた。
「さっすが私のエトワール。憂い顔もソソるわぁ……」
そう言って己が体をかき抱きぐねんぐねんと身悶えする女性の名を、リン=レオーノキューストという。城下を歩こうものなら世の男性の十人が十人振り返る美貌を持ちながら、美しい少年少女しか愛せないという己が性癖を公言して憚らない、実に堂々とした変態である。
これでも現役のワーカーであり、メンバー全員が美男美女で知られる大手コロニー〈クリス・クレスト〉にメインオブザーバーとして在籍、ただでさえ珍しい女性のワーカー、まして見目麗しいとなれば目立たないはずがなく、ギルドが発行するワーカー向け情報誌『ハニー・アンド・フレッシュ』の表紙を飾ったこともある才媛である。
ステラがまだ王立多脚砲台専門学園、通称〈アントヒルズ・アカデミー〉に通っていた頃に知り合った三つ年上の先輩で、卒業後ワーカーとして現場に出るようになってからも、何かにつけてお世話になっている大恩人であった。
「……あー、チュッチュしたい……。拘束して監禁して朝な夕なチュッチュしたい……」
これさえなければ手放しで尊敬出来る人なのだが、と思いつつ、ステラはいつでも迎撃出来るよう佇まいを改める。
「……それで? 何故そんなに溜め息ばかりついているのかしら?」
熱を帯びた視線と共に投げかけられた問いに、ステラは黙考に沈む。
この世話焼きの先輩と知り合ってから、早数年。口下手・意固地・人見知りの三重苦ゆえ、他者とのコミュニケーションを壊滅的なまでに苦手とする自分を、彼女は幾度となく窘め、慰め、助言して助けてくれた。いまさら悩みの一つや二つ打ち明けることに、何を恥じることがあろうか。
どこから話したものか、としばし考え、ステラはティーカップに視線を落としつつ、
「……私たちは、迷宮探索を終えた後、その後の食事を賭けて超高速機動訓練を行っている。今日は訓練を開始して初めて、ルト――コロニーのリーダーが最下位になり、彼女の奢りで夕食を摂るはずだった」
「マルドゥック・トライアルかぁ……。また懐かしい事してるのねぇ」
ぼそぼそと抑揚のない語り口に、リンは慣れた調子で相槌を打つ。
「しかし、私が事前に先約があることを伝え忘れていた為に、彼女の誘いを断る形となった。もう一人の搭乗者、クレアも用事があるらしく、結局、夕食は日を改めてという運びとなった」
ふむ、と頷き、リンは続きをあくまで聞き手に徹する。
だが、待てど暮らせどステラはじっと黙したままで、
「そ、それで?」
「……理由は、全て話した」
さぁ弱った。膝を抱えて貝と化したステラに対し、リンはううむと頭を捻り、
「あ、貴女がワタシとの約束を優先してくれたのは嬉しいのだけれど、嬉しくて嬉しくて力いっぱい抱き締めて肌が擦り切れるまでほお擦りしたいぐらいなんだけれど――何故、その流れで落ち込むことがあるの?」
改めての尋ねに、ステラは膝を抱えたまま、
「……きっと、嫌われてしまった。もう二度と、誘ってくれないかもしれない」
蚊の鳴くような小声でもって呟かれたその言葉に、リンは目を真ん丸に見開いて驚きを示す。
まず聞き間違いかと我が耳を疑い、ついで、これまでになく真剣な表情でステラの傍らへと移動して、
「ねぇ、顔上げて?」
呼び掛けに、ステラがのっそりと顔を上げた直後、リンは前髪をかき上げするりと身を寄せてきた。
ひた、と額と額がくっつく。
突然の奇行に呆気に取られていると、リンはこれ幸いとばかりに目を閉じ、そのまま唇を重ねようと顔を近付けてくる。
慌てず騒がず、ステラは左右の親指を彼女の瞼の上にセット。
「天誅」
ぐいっと結構な力を込めて押し遣れば、リンは「メガっ!」と決して美女が上げてはいけない類の奇声を上げて飛び退いた。
油断大敵、と自省するステラに対し、リンはゴロゴロと絨毯の上を転がり回りつつ、
「ね、熱でもあるんじゃないかと思ったのだけれど……。どうも、本気と書いてマジ、真剣と書いてガチみたいねえ」
ようやく痛みが引いてきたのか、あいたたたと確かめるように目をパチパチさせつつ、
「貴女が他のワーカーに興味持つの、初めてじゃない?」
言葉に、ステラは一拍を置いて、答える。
「……否定はしない」
首肯し、再度膝を抱えつつ、
「ルト=シグナレス、クレア=カンパネルラ。彼女たちは、凄い。片や常軌を逸した速度で砲撃演算を行い、必要最低限の砲撃でミルメコレオを掃討する。片や旧式操舞のビースト・ダンスでもって、鼻歌交じりにソリダス・フットワーク・プログラムをこなしてみせる。とても人間業とは思えない」
「なるほどねぇ……」
ステラの埒外な情報処理能力を知るリンは、貴女も十分人間離れしてるわよ、という言葉を飲み込んで、
「確かに、どちらも有名人ねぇ。この業界、女ってだけでもどうしても目立っちゃうんだけど、その二人は特に、ね」
知っているのか、と視線で問うステラに対し、リンは苦笑を浮かべつつ、
「先の切断マンティス撃破事件で有名になる以前から、腕は良いけど性格に難有りってウワサのフダ付きだったのよ。“ドケチのガンナー”に“スピード狂のドライバー”ってね」
勿論、ステラの目から見ても気になる点は多々有る。ルトは一撃必殺にこだわるあまりギリギリまで敵機を引き付ける癖があるし、クレアは速度を優先するあまりこちらが最適化したルート外の進路を選ぶ時がある。
それでも、
「……彼女たちの才能を活かす事が出来なかったコロニーこそ、己が力不足を恥じるべき」
彼女たちは、決してステラの悪癖を笑うことがなかった。
ステラでさえ半ば無視出来る範囲だと考える万が一の可能性を、実際に起こり得る事象として捉え、考慮してくれるのだ。
「随分と買ってるのねぇ。ちょっと妬けちゃう」
笑みと共に告げられた言葉に、ステラはもぞもぞと俯き顔を隠した。
間を置かず真っ赤になった耳たぶを発見し、リンは己が左胸をおさえ、ぐっ、と低く呻く。
息は荒く、頬が紅潮し、眦に涙が溜まる。持病の発作などではない。ステラに対する溢れんばかりの愛しさがオーバーフローを起こしたのだ。
「……っあー! ものっそいペロペロしたい。頭のてっぺんから足の裏まで余す所なくペロペロしたい……!」
ぐすぐすと鼻を啜りつつ残念なコメントを吐く大恩人に、ステラは「もう駄目だこの人」と改めて諦観を抱く。
「帰る」
「ご、御免ね? 今ちょっと腰抜けちゃってるから、お見送りできないかも……」
うわぁ、と心の底からドン引きしつつ、ルトはいそいそと玄関へと向かう。
「ご馳走様でした。ご飯は、美味しかった」
「ま、また来て頂戴。あと、最後にアドバイス」
懸命に身を起こそうと踏ん張って、産まれ立ての小鹿の如くプルプル震えている女性からの、有難い忠告である。なんというか、ある意味鬼気迫るものがあった。
「そんなに心配なら、こっちから日時と場所決めて誘ってみたらどうかしら? その気があるなら、良いお店紹介するわよ?」
提案に、ステラはしばしぐるぐると考え込んだ末に、
「……考えておく」
呟き、はてさてどう切り出したものかと頭を悩ませながら、ふらりふらりと家路を辿るのであった。