第九話
探索を終え、ルトはアルゴスの格納庫にいた。
今日のトライアルは、余計なことを考えていたせいかダントツの最下位であった。
万年金欠のルトに取っては痛い出費である。それでも自ら言い出した事であるし、と腹を括って夕食に誘ったのだが、生憎とステラはお世話になっている先輩との先約があるらしく、クレアも親族一同集まっての食事会に顔を出さねばならぬらしい。
ルールはルール、奢りはまた日を改めて、と解散したは良いものの、今日に限って予定らしい予定もない。なんとなしに格納庫の隅の方、誰もいない喫煙所に陣取って、ぼんやりと整備作業を眺めている。
最近、どうも調子が悪い。
迷宮の内外に拘わらず、集中力が散漫で、砲撃精度も目に見えて落ちている。性別故の定期的な体調不良もあるが、それだけが理由ではないと気付いてもいる。
――さて、どうしたもんか……。
こんな時、煙草の一つでも吸えりゃあ格好が付くのかね、と詮無い思考を弄んでいた――その時であった。
「なあに黄昏れてやがんだよう、娘っ子」
不意に呼び掛けられ、声のした方向を見やればそこに、人語を話す猿がいた。
ひょろりと長い手足に、折れ曲がった背。伸ばし放題の白髪に、妙にぎらぎらとした目付きの猿――よくよく見ればどうやら人間らしい――が、断りもなくどかりと隣に腰を下ろす。
「なんだよ、セン爺。整備班長が率先してサボりか?」
「逆だよ馬ぁ鹿、今オイラに出来る分の仕事はもう終わっちまったのよう」
そう言って、油まみれの手でツナギのポケットから煙草とマッチを取り出し一服つける男の名を、セン=ペンネンナームという。もうじき古希だというのに冗談みたいに口が悪く、眩暈がするほどに下品。些細な事で烈火の如く怒りだすくせに、次の瞬間にはゲタゲタと腹を抱えて笑っていたりする。そんな火の玉みたいな性格とは裏腹に、機体整備に関してだけは精密かつ丁寧、丹念かつ徹底的という、アルゴスの『専属機体整備班』総勢三十名を率いるヒヒ爺である。
若かりし頃はバリバリのアント・ワーカーとして鳴らしており、三脚銃砲を操り日々迷宮を駆けずり回っていたらしい。迷宮史上最大の激戦と謳われる「第五次プラント殲滅作戦」で相棒を失い一線を退くも、愛機のメンテナンスで培ったノウハウを元に整備士としてカムバック。独学ながら腕は確かと評判が評判を呼び、幾多のファクトリーから是非うちでオファーを受けるも、当人は宮仕えを潔しとせず、今回のアルゴス開発の際にも唯一フリーの身でありながら整備班の班長として抜擢された筋金入りの偏屈親父である。
ルトとは同じ短気で口が悪い同士ウマが合うのか、知り合って間もないというのにちょくちょく軽口を交わし合う仲であった。
「他の娘っ子も帰っちまったんだし、お前さんもヤサ戻って“れこ”とヨロシクやっとけよう」
脂下がった笑みと共に親指を突き出してくるセン爺に対し、ルトはフン、と鼻で息、
「ンな度胸のある奴、居るなら一度見てみてえもんだ」
返答に、爺はゲラゲラ笑いながら「違えねえ」と手を叩いて大喜びである。
会話が途切れ、スパスパと気忙しく紫煙を吸って吐く作業に没頭する老人を横目に、ルトはううむと思案する。
亀の甲より年の功と云う。現在、自分が抱えている問題に対し、彼ならば、解決とまではいかなくとも何かしらヒントになるような助言をしてくれるかもしれない。
即断即決を常とするルトらしからぬ、熟慮に熟慮を重ねた葛藤の末に、
「……セン爺は、昔ワーカーだったんだよな?」
「応よう。“暁のセンコウ”っちゃあ、ここいらじゃ通った名でよう、雲霞の如く襲い来るミルメコレオを千切っては投げ千切っては投げ、バッタバッタと薙ぎ倒し――」
「いやそういうのはいいから」
自慢話をばっさり切られ、ちょっ、と唇を尖らせるセン爺を見、ルトは言おうか言うまいか散々迷った挙句、
「その、なんだ……。迷宮に潜るの、怖くなかったか?」
尋ねた直後、老人はくわっという感じで目を見開き驚き入る。
驚愕は、間を置かず深く憐れむような表情へと変化して、
「……ドランクモンキーか。まだ若ェってのに、可哀想に……」
セン爺の言う「ドランクモンキー」とは、過度の重力加速度に耐え切れずオツムがほどよく蕩けてしまったワーカーを指す。
当然、ルトは爆発的に血圧を上げつつ、
「大概にしねえとマジでシバくぞヒヒ爺……!」
恥を忍んで相談したというのに、この仕打ち。やはり似合わないことはするものでない。
あーでもないこーでもないと悩んでいたのも馬鹿らしくなって、ルトは投げやり気味に言葉を続け、
「……私は、怖くなかった。潜る前からビビっちまうような奴ぁ、いざって時に真っ先に死んじまうからな」
三年前、アント・ワーカーとして生きていくと決めたあの時に、恐れや怯え、いざ敵前で立ち竦む可能性のあるものは、まとめて心の奥底に沈めて封をしたのだ。
それが、ルトの覚悟であり、矜持であった。
その誓いが、今日までルトを生かしてくれた。
数多のコロニーと契約し、幾度となく訪れた死線の度に、引き金にかけた指の震えを止めてくれたのだ。
手前の命を守るだけなら、それで良かった。人類の天敵たる化物どもを、一匹残らず撃ち殺すのがガンナーである自分の仕事だったから。
だが。
「ただよ……。何の因果か上物貸し出されて、何時の間にやらコロニー任されてよ。おまけに他のワーカーは超一流の腕っ扱きときたもんだ。据え膳上げ膳至れり尽くせりで、尻の据わりが悪いったらねえや」
ステラ、クレアの二人と一緒に迷宮探索を始めて、早二週間。
この半月の間、ルトは何度となく、彼女たちの溢れんばかりの才気を目の当たりにしてきた。
「凄ェんだ、あいつら。一人は支援ユニットが仕事ねえって拗ねるぐらいにバリバリ働くし、もう一人はテメェの手足かってぐらい自由自在に脚動かしやがる」
無論、全てが完璧という訳ではない。交戦時のステラのオペレーションには無駄が多過ぎるし、クレアはクレアで細かい制動が壊滅的に苦手である。
しかし、そんなマイナス要素を差し引いても彼女たちの技術は圧倒的であった。
だというのに。
彼女たちと迷宮へと赴く際、かつてないほどの心強さと共に、封印したはずの恐怖もまた、のっそりと鎌首をもたげるのだ。
ルトがすべきことに変わりはない。
潜って撃って、生きて戻る。
変わりはない、はずなのに。
「……今は、少し怖い。私のくだらないミスで、あいつらまで巻き添えにしちまうんじゃねえか、ってな」
それっきりぷっつりと黙り込むルトに対し、セン爺は長々と煙を吐き出し、短くなった煙草を水を張ったバケツに放り捨て、
「何かと思えば、他の搭乗員の命ァ背負わされて、ブルっちまったのか」
図星である。
図星であるが故に、ルトは反射的に否定せんと顔を上げた。
が、ルトが口を挟むよりも早く、セン爺は首の骨をゴキゴキ鳴らしながら、
「コロニー任せられりゃ誰だって一度は罹る、麻疹みてえなもんだよそりゃあ。一緒に場数踏んできゃそのうち慣れるし、どっちかってぇと慣れちまってからのがおっかねえってなもんだ」
ポケットをまさぐり二本目の煙草を銜え、どこか遠くを見るような眼差しで紫煙を燻らすセン爺を見、ルトはふと、彼の経歴に思い至る。
第五次プラント殲滅作戦で長年戦ってきた相棒を失ったセン爺は、自身は五体満足でありながら、他のコロニーに属することも、新たにコロニーを作ることもせず、そのままワーカーを引退したのだ。
或いはそれが、セン爺なりのけじめだったのかもしれない。
ルトの視線に気付いたのか、セン爺は決まり悪げにスパスパと煙草を吹かしながら、
「まぁ、最近の若ェのは『でりけえと』だしな。嫌々やってますってぇツラしてるよか、一度腹割って話してみるのも手なんじゃねえの?」
思いもよらぬ提案に、ルトは眉根を寄せる。
「腹割って、って言われてもなぁ……」
言うは易し、それが出来れば苦労はしない。
うーむ、と渋るルトに、セン爺は怪獣の如く大量の白煙を吐き出して、
「古今東西、ぶっちゃけて話すにゃあ酒よ、酒」
「オイコラヒヒ爺。私もあいつらも、まだ未成年だぞ?」
「おいらぁ八つの頃から呑んでたけどなぁ。まぁ、酒が駄目なら飯でも菓子でも、好きにしたらいいや」
フィルターだけになった二本目の煙草を投げ捨て、セン爺は海老のように折れ曲がった背をぐいっと反らして伸びをする。
「うっし、したら戻るぞ。お前さんもヤサ戻ってメシ食ってフロ入ってマスかいてさっさと寝ろ寝ろ」
およそ女性にかける言葉とは思えない下卑た台詞に、ルトは呆れ返りながらも、
「ンだよ、ちったぁ見直したってのに最後の最後で台無しじゃねえか」
「小便臭ぇ娘っ子にゃあ興味ねえなあ」
「抜かせ、老いぼれ」
背を向けたままひらひらと手を振るセン爺の背を見送って、ルトも腰を上げる。
「――飯、ねぇ……」
呟き、はてさてどう誘ったものかと頭を捻りながら、ふらりふらりと家路を辿るのであった。