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カケラの湖

作者: 四方祐樹

 高い天井から、人工的な光が浩々と私たちを照らしている。上段に設置されている観客席は、緊張と歓声とで彩られていた。

 赤いロープが高々と投げられると、煌びやかな衣装に身を包んだ選手がアクロバットをしながら、それを器用に足で取る。大きな歓喜のざわめきが、いたる所で上がった。

 曲の終了は演技の終了。迫力のある堂々とした演技を終えた選手は、あの十三メートル四方の、狭くも広いコートから出て行く。わたしはそれと入れ替わりに、あのコートの端へゆっくりと、そして自信に満ちながら、歩いていった。

「ボール三十二番。聖院高校、木瀬さん」

 アナウンスの声が、会場内に大きく響いた。

 わたしは一歩前に、進み出る。

 あの照らしつける人工的な光が、より一層強くなった気がした。

「はいっ!」

 まっすぐに上げた手は、今なら何にでも届くような気がした。踏み出した足からは、ハーフシューズ越しからでも、あの幾人もの選手たちが踏んできた聖地の緊張感が、伝わってくる。

 今やっと、彼女らの一員になれたように思えた。

 多くの視線が集中する中、わたしはひたと立ち止まる。すっと黒い硬質なイメージを与えるボールを掲げ、その場でポーズをとった。

 曲がかかるまでのたった数秒が、やけに長い。

 誰もが息を呑む。

 空気が微かに震えた。

 デッキは声をあげだす。

 ノイズ音が、鼓膜を震わした。

 大丈夫だ。きっと大丈夫だ。

 わたしは何度もおまじないのように、同じ言の葉を繰り返した。

 大丈夫。わたしは彼と、あれだけ頑張ったじゃないか。だからきっと今日、わたしは最高の演技ができる。

 ノイズ音が、大きくなる。ブツッという大きな音の後、わたしの大会が始まった。


   +++


 目指していた、ちょっとばかり有名な女子高から、ワンランクレベルを落して、ごくごく平凡な人が通う、これまたごくごく平凡な男女共学の公立高校に、わたしは通っていた。

 勿論両親はその結果に不満を持っていて、「こんな結果じゃ、先が思いやられる」と母が言い「その程度のレベルじゃあ、良い大学にも良い会社にも入れるか解ったもんじゃない」と父が言う。

 しかしだ。平凡レベルの高校卒の父と、自称名前を書けば受かるような高校卒の母との間にだ。遺伝子的に見ても、頭の良い子が果たして生まれるだろうか。いくら努力したところで、その根っこの部分を変えることができるだろうか……。

 現にわたしは普通の子だ。とりわけ何ができるというわけでもない。勉強だって体力だって容姿だって、言っちゃ悪いが人並み程度。平々凡々な生活も、また然り。

 とはいえ、努力した結果の末に出た答えを侮辱される。これほどまで屈辱的なことをされて、傷つかないわけがない。

 以来わたしは、すべてにおいて結果を求めるようになっていた。

 解ったのだ。世の中とは、結果を元に成り立っている。つまり結果がすべてなのだ。

 わたしは努力をした。完璧になり、それ相応の結果を残すべく。絶え間ぬ努力をした。

 そんなわたしにも……否、そんなわたしだからこそ必死になっているスポーツがある。それは中学の時に始めた新体操だ。

 何でまたわたしが新体操に必死になっているのか。オリンピックやインターハイを狙っているから? ……いいや。自身の身体能力は自身が一番よく知っている。そんな高望みはしない。じゃあ何故? そう聞かれれば、わたしはこう答えるだろう。

『先が見えないスリルがあるから』

 知っている人もいるだろうが、新体操とは技術価値という身体による表現と、芸術的価値という手具による表現からなる。それを自ら申請書に書き、申告して、その演技を他人が見ながら、構成・実施・減点の三つをそれぞれ出していく。そこで初めて、合計点が与えられるのだ。

 故にバスケや野球などといったスポーツのように、すぐには目に見える点数が入らないし、ましてや相手の点がこうだから、さて自分はこうしていこうという修正も、当たり前だができない。

 いわば決められたルートを進む、運と実力の一発勝負ものだ。

 だからこそ、選手は一分半という短い時間の中で、いかに高い難度を正確にこなせるか。また、その中でどのような形をもって自身を表現するのか。それらを常に求められているのである。

 わたしはそんな他人評価なところに、魅了されていた。だってそこには、わたしの求めていたものがあったから――

 わたしは頑張った。他人に自分を認めてもらえるように。そして、本当のわたしを皆に伝えられるよう表現するために。

 しかし気が付けば、大会までもう一週間を切っていたのだった……。


 幻想的とも悲哀的とも取ることのできる曲調だった。中間部にはラストスパート直前の静けさのような、数少ない楽器の織り成すメロディーが入っている。何度も何度も聞いていて、もう耳に慣れた曲だった。

 ボールはまるで何かの生命体かと見間違うほどに、身体によく馴染んでいて、動き一つひとつが共にあるかのようだった。投げたボールを両足で取り、そのままぴょこんと投げた。ちょうど胸の位置で、今度は手でそれをキャッチする。

 曲はだんだんと終わりに近づいていく。幻想的な曲は、そのメロディーを崩さぬように早くなっていき、身体もそれに合わせて動きを早めていった。

 つま先でずっと立ったままの足は、時折バランスを崩しかけて、よろめく。熱くなり火照った頬。体育着の中で汗が一筋、背筋を伝っていった。

 はあと荒くなる呼気の音が耳に大きい。両手を伝うようにボールを転がしながら、アティチュードターンをした。右手にあったボールは、景色が一転するうちに、左手の上にちまっと居座っていた。

 そうこうしているうちに、とうとう最後の大技が差し迫っていた。

 外面には見せずに、大きく息を吐き出す。

 今回こそは――

 ぽーんと高く、ボールを投げた。手は質量感を失って、しかし次の瞬間にはその両手をフロアについた。

 バッと両足でフロアを蹴り上げる。逆立ち時のように、景色が逆さまになると、驚く間もなく今度はそのまま前に倒れるようにしてブリッジの体制をとるのだ。そして、勢いそのままに一気に起き上がる。ぐるんと景色が変わるのも、すべてがすべて一瞬の出来事で、元の体勢に戻ると、頭と視界がくらくらした。

 これだからアクロバットは嫌いなんだ。

 だがホッとしている暇などない。今度は頭上高々と投げられたボールが、重力に頼りながら落ちてくるのだ。それを取らずに、この技が成功したとは言えない。

 わたしはぎんとボールを見つめた。落ちてくるまで、もう数秒もない。

 日頃の勘で、わたしはその場で足を横に少し広げながら体育座りをすると、ボールが落ちてくるのを、ただひたすらに待った。

 あと少し。あと少しでボールはここに落ちてくる。

 緊張と、僅かな不安とが心中をよぎった。

 心臓がドクンと大きく脈打つ。

 ―――今だ!!

 落ちてくる瞬間を見計らって、わたしはその足をパッと閉じた。――だが、ボールはわたしの期待を裏切って、膝に当たって転がっていってしまう。ぽーんと飛んでいく様が、わたしをおちょくっているかのようだ。

 また、できなかった。

 幻想的な曲は、余韻を残しながら終わった。微かなノイズ音だけが、スピーカーから流れてきている。どうしてできないんだろうか……。

 のっそりと立ち上がると、わたしは駆け足になってフロアの端まで転がっていったボールを取りにいく。ころんと転がっているボールは、どこまでもすまし顔の、我が物顔だ。

 腹の底が熱くなるのを感じながら、わたしはそれを手にして、フロア正面へと戻っていった。ノイズ音の途切れる、ブツッという重い音が聞こえた。

「お疲れ、木瀬っち」

「先輩……」

 ボールを抱えている両腕に、キュッと力が入った。熱くなった腹の底は、水が流れ込んできたかのように鎮まった。いや。それどころか、冷たかった。

 歩んでいた足は、自然と止まった。

「今日はなかなかよかったよ。動きものびのびしてて、緊張感も伝わってきたし」

 足は棒が入ったかのように、動かすのも億劫だった。

 テープの巻き戻る音が、頭の隅で感じられた。聞こえてくる先輩の声は、どこか別次元のようで、わたしはただ、頷くことしかできやしない。他には、何一つとして言えなかった。

 そう。わたしには喋っている先輩を、見ることしかできやしないのだ。

「でも、やっぱり最後の技はオシイよね」

 静かな空間に、先輩の声が響く。

 キリリと、胸の奥底が痛んだ。

 核心とは、案外近い場所にあるのかもしれない。

 たったこれだけのことで、想像以上に辛いのだ。痛いのだ。

「……はい」

「そんなに落ち込むなって。木瀬っちなら大丈夫だからさ」

 ね。と先輩は笑顔で言うと、わたしの頭をポンポンと二度叩いた。

 でもそれは、慰められているんだと思うだけで、逆にどんな言葉よりも傷つくんだ。

 どれだけ鋭利な刃物よりも、簡単に心を切り裂ける。それほどもの凶器に、なりえているんだ。

 しかし先輩は、そんなことなど知る由もない。

「んじゃあ、次のデッキ係、よろしくー」

 先輩はロープをぶんぶんと振りたくりながら、着くべき位置まで歩いていく。

 ブツッというノイズ音の後、先輩の演技が始まった。


 先輩の演技は、県下でも上位にくい込むほどのものだ。とはいえ、遠い存在というわけではない。

 元々わたしと先輩は中学からの付き合いで、仲だって当たり前の如く良い。もしかしたら今現在、新体操部員がこの二人で成り立っているのも、仲良し要因の一つなのかもしれないが。

 勿論それに困ることはない。仲が良いに越したことなど、ないのだ。

 ただそこまで一緒にいるとなれば、力の差も自然と見えてきてしまう。それに二人しかいないから、尚更だ。互いしか見ることがないのだから。

 同じ時間同じ練習をしているのに、どうしてこうも、力の差が出てきてしまうんだろうか……。って、いつも思う。

 けれど考えたところで、どうのしようもない。ついてしまった差は、自分で埋めるしかないのだ。そんなことは、解っている。

 だから、やるんだ。

 今すべきことを。これからしなければいけないことを――。

 そして力の差を、埋めていく。辛いかもしれないけれど、ただ一心にするしかないのだ。

 だって必要なのは、努力じゃない。

 実力なんだ。


   +++


「よくやるよなー、遥も」

 可愛い弁当箱を片手に、砂長一葉は呆れ半分に言った。

「あんたさぁ、そんなに練習ばっかして。……いつか過労死すっぞ?」

「しないっつーの」

 眉根を寄せつつ顔をずいと近づけてくる一葉に、少々たじろぎながらもわたしは心中で本音を呟いた。

 何でわたしが練習ごときで死ななきゃならんのだ……。

 大体、高校生が部活の練習で過労死したなど、聞いたこともない。

 それにだ。一向に進む気配のない箸をくるくると回しながら「でもさー」などと言う一葉自身も、心のどこかでは実際にそんなことなどあるわけがないと、思っているはずだ。

 そうじゃなければ心配も異常だ。

「とりあえず大会が終わるまでだし。一葉が考えているほど無理をしようとしているわけでもないしさ」

「でも、残ってするんでしょ? 練習」

「まあね。でも――」

 わたしはペットボトルのお茶を、一口飲んだ。一葉は小さな卵焼きを、箸でつまもうとしている。

「とりあえず、何とかなるんじゃないの?」

「うわーお。アバウトなご意見で……」

 引き攣った笑みをその顔に浮かべながら、一葉は掴んでいた卵焼きを、ぽとんと律儀に弁当箱の中に返してしまった。

 ころころと変わる一葉の表情は、本当に豊かだと思う。

 重さをなくした箸は、ずるっと滑りかけた。

「でもさあ、何とかなるっつったって、遥一人で何ができるって言うの? 正直言っちゃ悪いけど、見る人いなけりゃ改善点も見つけにくいんじゃ……」

「そりゃあそうだけど。だからといって今のままでもヤバイし、やっぱり慣れとかも必要だと思うし」

「慣れ、ねぇー……」

 クラスメイトの女子が数人、話しながらわたしたちの脇を通り過ぎていった。話し声はそれでも大きく聞こえてくる。

 一葉は今度こそ卵焼きをほおばると、コトンと弁当箱を机の上に置いた。

「確かにね、慣れは必要だと思う。……けどさ、それとこれとは別物でしょ? たとえ先輩がいる時に改善点を教えてもらったとしてもだ。実際にそれを、しかもたった一人でマスターするのは、相当困難じゃない?」

 机に両肘を突きながら、一葉は妙に真剣に言ってくる。

「それにどうせ、間違えたまま覚えちゃっているんだから、身体だって普段どおり、そのまま動いちゃうんじゃないの?」

 酷だけどそれが真実なんだから。

 そう言うと、一葉はわたしの額を指で小突いた。小突かれた箇所は、軽く熱を帯びて、痛かった。

 だがその痛みでさえも、ことの真実を伝えてくるように感じられる。どうしようもなく悔しいが、それが実際のところなのだ。

「あー。そのとおりだよね、まったくもって。ほんと、神様も時に残酷だわ」

 そうそう。本当にそのとおりだ。と、妙にわたしの思ったことを的確に喋ってくれているこの人は誰?

 いつからいたのかは知らないが、わたしたちの机の端にちまっと両手を乗せながら、男子が顔を覗かせうんうんと頷いている。

 どこかで見たことがあるような気がしなくもないが、とりあえず名前は不明だ。

 わたしたちは困惑に口をぱくぱくとさせているが、名前不明の男子はまったく気にすることもなかった。少しくらい気にしてくれてもいいのに……とか思うのだが、生憎わたしにはテレパシーや超能力、ましてや以心伝心などといった超常現象は使えない。

 それどころか、眼力を使って意思を伝えようとするものの、それさえ無駄な努力に終わってしまう。どこの誰だよ、目と目で通じ合えるって言ったのは! と勝手に責任転嫁をしてみたが、意味がないのは言うまでもなかった。

 いつも超能力類のものは、ありえないと、からかって生きてきたが、いざこうなってみると超能力を持って生まれてこなかったのが、なんかちょっと惜しいぞ。

「でもねぇ。それが自然なコトなんだよね。実際人間って知能が高いとか言うけど、こうなってみるともう、野生動物と大して変わらないっていうか何ていうか……」

 わたしの思考を勝手に止めると、名前不明な男子は一人、うんうんと妙に納得している御様子。

「結局は人間だってさ、結構単純だったりするんかねぇ」

 まるで花模様が飛んでいるようとは、まさにこのことなんだろう。本当に一人で和やかムードを作り上げちゃっているよ、この人。

 親しみやすいのも懐っこいのも、それはそれで結構である。

 だが忘れないでほしい、そこんとこ。かなり一方的に話してはいるけれど、とりあえず君は傍観者なんだよっていう、そこんとこをお願いだから……。

 周りから注がれるクラスメイトの視線がこんなに痛いと思ったのは、生まれてこの方、今日が始めてだ。どこかからひそひそと話し声が聞こえている。相当な不審者なのか、自分らは?

 わたしも一葉も、もう何も言えずに……というか言わせてもらえずに、ただその場で唖然と彼を見つめるだけだった。

 頼むクラスメイトよ。ひそひそしている余裕があったら、こっちを助けて頂戴よ、お願いだから。

 勿論それも、無駄な望みで強制終了。神よ、あんたはどこまで残酷なんだ。

「まあそれはそれで人生楽しいし、単純な人間ライフもまた然りってね」

 そう言うと名前不明な男子は、にっこりと同意を求めてくる。

「あ、ああ。うん……」

 ぶっきらぼうな声がついつい漏れてしまい、うわー。しらけるー。……なんて心配をしてしまったが、名前不明な男子は満足そうに微笑むと、すくっと立ち上がって、ひらひらと手を振ってきた。どうやら要らぬ心配だったらしい。

 名前不明の男子は「じゃあな!」と一つ言うと、軽い足取りで教室を出て行った。

 結局聞きそびれて、名前不明の男子は名前不明のままになってしまった。

 あいつは一体、誰なんだよ……。


   +++


 秋ともなれば、太陽が沈むのも早くなってしまう。つい先日まであれだけ日が長かったにもかかわらず、今はもう、東の空は暗くなりつつあった。

 先輩には事情を説明して、予定していたとおり、わたしは居残り練習をしている。

 どうしても扱いなれていないボールは、わたしの意思に反してポンポンと弾んでいってしまうし、転がっていってしまう。まだ新体操を始めて、たったの四年目ぽっちの者が言うのも何だけど、わたしとボールとの相性は、なかなかよろしくないのだ。

 とはいえ『いつか仲良くなれたら……』なんて、そんな悠長なことも言ってはいられないのもまた事実。何せ大会はもう目前にまで迫ってきているのだから。

 ぽーん……とボールを投げた。

 ボールは綺麗な放物線を描くと、僅かな振動を与えながら、わたしの手中へと収まった。すればもう、ボールは我が物顔で、掌の上に鎮座している。

 まったく、のん気なヤツだ。

 心中秘かに、わたしはそんなことを思った。だがそれは当たり前のこと。思ったところで、それが自然なのだ。

 わたしは一つ息を吸い込むと、ゆっくり伏せた瞼を、ゆっくりと上げた。

 いつの間にか曲も切れ、耳鳴りがするほどの静寂が、訪れていた。

 しんと静まり返ったサブアリーナ内には、多分わたししか、残っていないのだろう。他の部活の人は、もうほとんど帰っているのか、もしくは部室で楽しく談話でもしているのか……。

 どちらにせよ、この特定の場所にいるのが自分だけという状況には変わりない。

 場所によって、壁のようなロッカーで区切られているこの空間。そのためにいつもは狭いとばかり感じていたが、それでもわたしには、サブアリーナ内が広く感じられた。ただ音がないだけと解っていても、そう感じずにはいられない。

 巻き戻したテープを、再び再生する。

 大きく聞こえるボールの曲を、わたしはひたすらにかけ続けるのだ。そう、ただひたすらに……。

 フロアに入り、わたしは曲も半ばで踊りだした。平気がった。

 いくらジャンプをしても、ターンをしても。その瞳には楽しさのカケラも浮かんではいないというのに――

 板張りの、十三メートル四方よりも少し小さなこの空間で、わたしは一人、舞い踊りながらも孤独感に浸っていた。


 朝の二の舞が続いていた。

 演技が進歩したようには、一向に感じられない。

 それにだ。やっぱり同じ過ちは繰り返すし、疲れてきたのか、平気だったところまでもがどんどん巻き込まれてしまう。

 勿論嫌でも焦りが生まれてくるし。だからといって、焦っていれば単純なミスを繰り返す。もうわたしの演技は、ボロボロだった。朝の時なんかよりも、増して……。

 上がる呼気。

 残るのは、最後の大技だ。

 朝もできなかったあの、アクロバットを用いた投げ。

 今回は、できるの――?

 ぐっと歯を食いしばった。

 膝の屈伸を使って、わたしは高々とボールを投げ上げる。と、次の瞬間。あの嫌な感覚のアクロバットを、わたしは思い切ってしていた。頭が、視界が、くらくらする。

 わたしはほとんど倒れこむような形で、その場に体育座りをした。ボールは容赦なく落下してくる。

 あと、……どれくらいで?

 ボーっとした頭が、そう呟くが、ボールはもう、ほとんど目の前にいた。

 慌ててわたしは足を閉じるものの、今度は床上でバウンドをして、転がってしまう。

 人に気も知らずに、ころころ、ころころと……。

 あまりにも、無情だ。

 床に着いた手に、ギュッと力が入った。

 ああ。一葉の言うとおりだった……。

 一人でマスターしようだなんて、バカみたいだ。わたしはきっと、心のどこかで自分ならできるさなんて、思っていたんだろう。物事を軽視していたんだろう。

 そう。結局は自惚れていたんだ。

 そして、これがその結果だ。

 目頭がじわっと、熱くなった。

 とんでもなく、惨めだった。

 何でこんなにも、できないの……?

「今のはちと、タイミングが遅すぎじゃね?」

 誰もいないと思っていたのに、体操ピットから、誰かがひょっこりと顔を覗かせている。

 見られていた。今の演技が――。

 驚きに彩られていたわたしの顔は、みるみる羞恥で真っ赤に染まっていった。

 顔を上げて声のした方向を見やれば、そこには昼休みに乱入してきた、あの名前不明の男子がひょこひょこと近づいてくる。

 わたしはハッとした。

 そうか。どうりで見たことのある顔だと思った。だってこいつは、同学年にしてインターハイに出るような奴だ。何度か表彰されているし、それなりに有名ではある。確か名前は、鈴村圭悟。

 でも、何でこいつが……。

「俺は新体操なんて知らないけどさ、でもやっぱり今のタイミングは、まずいよ」

 ゲーッて感じにさ。なんて言いつつ、圭悟はわたしのそばへと寄ってきた。

 静かな空間内に、彼の裸足の足音が、ひたひたと大きく聞こえる。

「アドバイスはありがとう。でもあんた、軽く邪魔なんだけど」

「ケチ臭いこと言うなよ。仲間だろ、俺たち」

「ぶっちゃけ、なった覚えないし」

 どこまで勝手に脳内ストーリーを繰り広げるんだ、こいつは……。と、半ば自棄になりそうだ。

 それに、だ。今は人に合いたくない。

 こみ上げてきてどうしようもなかったあの涙を、人に見られたくなかった。

 惨めな自分の姿を、見られたくなかった。

「とりあえず、邪魔」

「木瀬っちのケチ! そんなだと、将来は頑固オバチャンになるんだからな!」

 なっても構わないから、早くここから立ち去ってよ。お願いだから、これ以上わたしの近くに来ないでよ!

「正直あんたに、演技を見られたくないの」

 だが、わたしの心中とは裏腹に、圭悟はどんどん近づいてくる。歩み寄ってくる。

「いいじゃん、上手いんだからさ。少しくらい見たって」

 圭悟は少し声を大きくしながら、さらりと言葉を発している。それが鋭利な刃物なんかよりも鋭い切っ先を持っているとは、やっぱり知らずに。

 実力者から言われた「上手い」という言葉が、どれほどまで胡散臭く、わたしを苦しめているのかも、そんなことさえも知らずに。

 彼は表情一つ変えないで、歩み寄ってくるのだ。それが、癪に障った。ただそれだけなのに……。

「人の気持ちも知らないで、そんなこと言わないでよ!」

 気持ちは何故か、抑えることができなかった。気付いた時には既に叫んでいて、サブアリーナ内にわたしの声が反響した。

 圭悟は驚き、ピクッとその歩みを止めた。驚き眼をわたしに向けて、動かない。

 そんな圭悟の表情を見たら、胸の奥がまるで鈍器で殴られたかのように、じんわりと痛んだ。

 演技も満足にできやしないで、結果だ何だとバカみたいな理論を語って。気付けば失敗ばかりして、そのたびに他人に当たって――。

 冷たい言葉は、もう嫌だったんだ。

 惨めな自分は、もう嫌だったんだ。

 それなのに、あんなことを圭悟に言ってしまった。本当に悪いのは、何もできない自分だと解っていて。圭悟に当たってはいけないと解っていて……。それなのに言ってしまったんだ。……これじゃあ八つ当たりにも、ほどがある。嫌だったのに、惨めな姿を自分から曝してしまった。

 なんて。……なんて惨めなんだろう。

 わたしはたまらず、俯いた。

 視界の端で、彼の足が微かに動いた。

 その動きは明らかに、動揺をあらわにしていた。

 お願い。もうこれ以上――

「……お前、泣いてんの?」

 静かな空間に響いたのは、戸惑いの声色だった。

 吐息のように力なく、狼狽えたように震えを抑えた、その声。わたしはびくんと肩を震わした。

 わたしは、何も言わなかった。いや、何も言えなかった。

 言われた途端に溢れ出てくる雫は、もう止めようもなく、また、否定の言葉は嗚咽と同時に押さえ込まれている。少しでも気を緩めれば、否定の言葉なんかよりも先に、か弱い嗚咽の方が漏れてしまいそうで、口を開くにも、開けなかった。

 わたしは真一文字に口を引き結びながら、乱暴に涙を拭い取った。腕を伝って、涙の破片が一つ、ボールの上に落ちた。

「あぁ!! な、ちょっと泣くなって。俺まだ、女のコの涙には免疫がなくって、だから――」

 圭悟は何をすればいいのか解らないといった風に、わたしを見ては、てんぱっている。

 本当はこんな涙なんか早急に止めたいと思っているのに、でも気持ちに逆らって、次から次へと涙は溢れるばかりだった。

 ぽろぽろと、溢れ続けるばかりだった。

「なあ、泣くなよ」

 圭悟は小さな声で、

「ほんと、お世辞とかじゃなくて、本当にお前の演技は上手いから」

 頬を紅潮させながらも、真剣みを帯びた口調で、圭悟は言う。

「確かに木瀬が、どんな基準で上手い下手を決めているのか、俺は木瀬じゃないから解らないよ。でも俺は、ただ点数が高いだけが上手いじゃないと思うんだ」

 圭悟の手が、わたしの肩にそっと触れた。

「俺はさ、木瀬みたいに努力している姿とかが綺麗で上手いって思うんだ。だって何でも完璧ってさ、人間っぽくないじゃん。っていうか、ぶっちゃけ妖怪だよ。そんなの」

 静かな空間は、穏やかに時を運んでいる。

 二人しかいない、この空間でさえも。絶え間なく時を運んでいるんだ。

「だから人間は、何かがカケているんだ。カケているから人間でいられる。カケているから努力もする。で、そのカケた部分を少しでも完璧に近づけていく様が、何よりも綺麗であって、必要なことなんじゃないのかな? だから点数とかはなしにして、俺は木瀬の演技が、上手く思えるんだ。どんなものよりも綺麗に思えるんだ。だって結果がすべてじゃないでしょ?」

 ……って、何言ってるのか解んないよね。と、圭悟は笑った。

「でも、頑張ったよな。周りからのプレッシャーがあっても、木瀬はこんなけ、努力したんだもんな」

 圭悟の手に、僅かに力が入った。

 子供っぽいと思っていた圭悟は、とはいえちゃんと男らしい体つきをしている。改めて見てみれば、圭悟はわたしなんかよりも、背が高いし、そっと触れてきた手は、肉刺ができていて、ちょっと骨ばっていて。――でも、温かかった。

 言葉も、存在も。

 圭悟の何もかもが、温かく感じられて――……

「苦しかったよな」

 ぽーんと、静かな空間にボールの落ちる音が響き渡る。

 途端、わたしは狂ったように泣きじゃくった。圭悟の胸に顔を押し付けて。羞恥も忘れて泣きじゃくった。

 圭悟は何一つ、嫌がる素振りも見せなかった。それどころか、言葉もなしにそっと身体を抱き寄せ、こみ上げる嗚咽に震えるその背を、何度も何度もやさしく撫でてくれた。

 わたしは、救われたような気がした。

 バカみたいに掲げていた意地も、親からの強烈なプレッシャーも。結局はわたしの精神を追い詰めていたにすぎないのだ。

 前も見えずにただ途方に暮れ、歩く道すらも解らなくなって、それでも歩き続けて……。道に迷ってもなお止められなかったこの思い。帰る場所もなく、心細かったこの心を、今、やっと包み込んでくれる人に出会えた。出迎えてくれる人に、出会えた。

『結果がすべてじゃない』

 そう言ってくれる人に……。

「なあ、木瀬」

 それは子供のような心を持った人だった。けれど、彼は誰よりも温かな心を持った人でもあったんだ――

「ありのままのお前、十分綺麗だから」


 わたしはまるで、子供のように惜しげもなく声をあげ、溢れる涙も気にせず、ただひたすらに泣き続けた。

 もう何も、気にするものはなかった。


   +++


 曲は終盤に差し掛かろうとしていた。

 水色を主にしたレオタードには、スカートにも袖にも、勿論胴にも。数多のスパンコールが散りばめられていて、輝いている。そしてわたしは、そのレオタードを着て、今この聖地で、踊っているのだ。

 審査員の視線も観客の視線も、その他の選手の視線も注がれる中で。わたしはありったけの力を出して、舞い踊っていた。

 いつもは上がってばかりの呼気も、今は喜びに弾んでいる。

 湧き上がる緊張は決して不快ではなく、むしろ心地良い。そしてさらに、この緊張は、わたしの心を奮い立たせていた。躍らせていた。

 高くボールを投げると、それは人工的な白光の中へと消え入っていく。が、次の瞬間、ボールはその白光の中から抜け落ちてくる。

 指先までピンと伸ばした手は、ボールに寄り添うようにして、共に下り、衝撃なくしてボールを収めた。

 そしてわたしは、勢いをなくさないようにして、腕にボールを転がしながら、アティチュードターンをした。

 いつもならもう疲れて、足が笑っている頃なのにもかかわらず、ターンの軸足はふらつくことさえない。綺麗に一回点半、回ることができた。

 汗が頬を伝う。

 いつもよりも、この一分半が、やけに長く感じた。

 だが、今はそれさえ嬉しい。

 理由なんてないけど、ただ、嬉しかったんだ――

 そして。

 最後の技まで、たどり着いた。


 わたしはいつものように、ボールを高々と投げ上げた。

 大きな放物線を描こうと、それはどんどん上がっていく。

 わたしは、嫌いなアクロバットをした。

 ぐるんと景色が、一回転した。

 勢いそのままに座りこみ、天井を仰ぎ見れば、頂点にまで達したボールが、ゆっくりと落ちてくるところだった。

 わたしは、生唾を飲んだ。


『今のはちと、タイミングが遅すぎじゃね?』

 圭悟……。

『……お前、泣いてんの?』

 困らせてごめん。

 バカ言ってごめん。

 それでも……、

『だから人間は、何かがカケているんだ――』

 それでもずっと寄り添ってくれた。

 練習に付き添ってくれた。

 そんなお前の優しさが、本当に何よりも嬉しかった。

『ありのままのお前、十分綺麗だから』

 信じるよ。

 お前の言葉の、一つひとつを。


 もう、ボールは直前にまで迫っていた。わたしはそれでも、タイミングを待ち続けた。圭悟との練習を思い出しながら、あれからの日々を思い出しながら。

 そして――

 ――遠く聞こえてくるのは、歓声と温かな拍手だった。

 膝裏には、ひんやりと固い、ボールの感触が確かに存在した。丸くて、硬質なイメージを与えるそれが、確かに。

 曲は吸い込まれるようにして、終わりを告げる。

 地べたに座り、身体をひねって。まっすぐに上げた手は、確実に何かを掴み取っていた。

 最後のポーズは、どこまでも誇らしかった。



「お疲れさん」

 ロープの演技も終わって会場を出ると、廊下には圭悟の姿があった。彼は今、いつもとは違って、体操用のユニフォームに身を包んでいる。そういうわたしも、スカートまでキラキラしたレオタードに身を包んでいる。

 二人して普段と違う格好をして、なんかちょっと、変な感じだ。

「見てたんだ」

「体操もね、隣の会場でやってたからさ」

 そう言うと、圭悟は反対側の扉を指差して、無邪気に笑った。

 扉の向こう側からは、新体操の個人曲が絶え間なく流れ続けている。それは扉を一枚隔たっただけのこの空間にいてさえも、大きく聞こえてきた。

 反対側からは、跳馬でもしているのだろうか。何かが揺れる音が、一定の間隔を持って聞こえてきた。圭悟がここにいるということは、今は差し詰め、女子の部だろうか。

「なあなあ。今日の演技さ、一際よかったじゃん。すげぇ楽しそうだったよ。もうマジで大成功!」

 圭悟はさも自分のことのように、嬉しそうに微笑んだ。

「とはいえ、限りなく半分より下の順位だけどね」

「でも、結果がすべてじゃないよ。結果なんて、二の次だ」

「そうだね」

 わたしたちは、えへへと笑った。

 嬉しくて嬉しくて、たまらずに。

 隔たって聞こえる様々な音の中、わたしたちは向かい合って笑った。

「ところで、圭悟はどうだったの?」

「じゃじゃーん! 個人総合で第二位。楽しくやってきましたですぜェ、隊長!」

「なんだそりゃ」

 ブイサインを突き出して言う圭悟に、誰が隊長だと、軽く小突いてやった。圭悟は相も変わらず、にこにこしている。

 ほんのりと薄暗い廊下でもはっきりと解るほどに、圭悟の表情は、華やいでいた。それが何だか、途轍もなく幸せだった。

「おめでとう」

 だから素直に言おう。

 傷つける言葉じゃなくて、祝福の言の葉を。

 圭悟に伝えられるように、ちゃんと……。

「ありがとさん」

 突拍子もなくて圭悟は驚いていたが、次の瞬間には、くすぐったそうに微笑んでくれた。

 やっぱり圭悟は、子供のようだった。

「なあ木瀬」

 ひとしきり笑うと、圭悟はポンポンとわたしの頭を軽く叩いた。浮かんでいるのは同じ笑みなのに、どこか恥ずかしそうで……。

 わたしはわけも解らずに、圭悟の顔を直視する。

 ――と、

「今日はお前、最高に輝いていたかんな」


 今日が最高であったと言えるために。

 毎日を全力で走れるために。

 カケた人間はみんな、努力していくんだ。

 必要なのは、結果じゃない。

 絶え間ぬ努力が、何よりも必要なんだ。

 今はみんな、もがいている。

 けど。

 いつか花開けるように。

 いつか輝けるようにと願いながら。

 美しい姿をあらわにして。

 輝きを失わぬようにして。

 カケラの湖を出られるように、と。

 思い続けるんだ――


 頬を赤く染めながら、圭悟は言う。

 わたしたちはどこまでも、輝き続けていた。



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― 新着の感想 ―
[一言] 私も一時期「結果が全て」と思いこんで苦しんだ時期があったので、この主人公にはすごく共感できました。 圭悟みたいに、ありのままを受け容れてくれる人は少ないですから、読んでいて「ああ良いなぁ」と…
2007/10/28 16:58 退会済み
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