第1話「元魔法少女、高校デビューを試みる」
世界を救うのに、三年かかった。普通の女の子になるのには、どれくらいかかるんだろう。
四月。桜が風に舞う中、松本栞は高校の校門の前で立ち尽くしていた。
真新しいブレザーの制服。少し大きめのローファー。スカートの丈が正しいのかもよくわからない。中学三年間は変身して戦うか、ボロボロの状態で寝てるかのどっちかだったから、制服の着こなしなんて研究する暇がなかった。
右肩にのっている白くてふわふわした小動物、妖精のルーが、黄色い翼をぱたぱたと動かしながら言った。
「栞よ。校門前で五分間静止している。敵の偵察か?」
「違う。緊張してるの」
「ほう。ヴォイドの幹部と対峙したときですら心拍数が安定していたお前がか」
「あのときは変身してたから。今の私はただの松本栞だよ」
ルーはリスに似た小さな体をもぞもぞと動かし、栞の首筋に尻尾を巻きつけた。くすぐったい。
「案ずるな。本日の作戦は簡単だ。目標:普通の女子高生として入学式を完了せよ。失敗条件:正体の露見。報酬:平穏な日常」
「作戦って言わないで。もう引退したんだから」
「引退後支援プログラムの一環として、私は助言を続ける義務がある」
「その肩書、自分でつけたでしょ」
ルーは黙った。図星だ。
実のところ、ルーが栞のそばにいる理由は「引退後支援プログラム」なんて立派なものじゃない。妖精界への帰還申請が却下され続けているので、帰る場所がないのだ。でもルーはそれを言わないし、栞もあえて聞かない。
この白い毛玉が肩にいてくれるだけで、少しだけ安心するから。
「よし」
栞は深呼吸した。吸って、吐いて、もう一回吸って。
三年間、闇の組織ヴォイドから世界を守り続けた元魔法少女「スカイブルーセイント」は、今日から普通の女子高生になる。
桜の花びらが一枚、鼻先をかすめた。
栞は校門をくぐった。
◇
入学式は体育館で行われた。
新入生の人数は約三百人。栞は自分のクラス、一年三組の列に座り、壇上の校長先生の挨拶を聞いていた。
「……新たなる学び舎での日々が、皆さんの未来を切り拓く礎となることを」
長い。
ルーが栞の右肩からささやく。
「この演説、要約すると『がんばれ』の一言だな」
「しっ。聞こえたらどうするの」
「人間には私の声は聞こえない」
「私が一人でブツブツ言ってるみたいになるでしょ」
「それは元からだろう」
「ひどい」
隣の席の女子がちらりとこちらを見た。栞は慌てて口を閉じる。
やばい。初日から独り言のやばい人だと思われる。
普通の女子高生は、肩にのってる妖精と会話したりしない。
当たり前だ。普通の女子高生の肩には、そもそも妖精がのっていない。
◇
教室に移動し、ホームルームが始まった。
担任の先生が出席番号順に自己紹介を促していく。前の席の男子が「趣味はサッカーです」と言い、拍手が起きる。その前の女子が「趣味はカフェ巡りです」と言い「わかるー!」という声が上がる。
栞はメモ帳に書いておいた自己紹介の原稿をちらりと確認した。
『名前:松本栞。趣味:夜空を眺めること。好きな食べ物:牛丼。よろしくお願いします』
完璧だ。これ以上ないくらい普通の自己紹介だ。ルーの添削も入っている。初稿では「特技:近接格闘と高高度飛行」と書いてしまったので、ルーに全力で止められた。
そして、栞の番が来た。
立ち上がる。三十人の視線が集まる。
大丈夫。これは戦闘じゃない。誰も攻撃してこない。
「松本栞です。趣味は……」
頭が真っ白になった。
メモ帳を見ようとしたけど、手が震えて文字が読めない。なんでだろう。闇の化け物と戦うときは震えなかったのに。三十人のクラスメイトの前に立つだけで、足が地面に縫い止められたみたいに動かない。
口が勝手に動いた。
「趣味は……夜間哨戒」
しまった。
教室が静まり返る。三十人の「?」が見える。
「じゃなくて! 夜空を、眺めることです!」
声が裏返った。最悪だ。
微妙な空気が教室を包む。担任の先生が「は、はい。夜空、いいですね」と頑張ってフォローしてくれたけど、フォローされている時点で失敗している。
栞はゆっくりと席に座った。顔が熱い。心臓がうるさい。
ルーが肩の上で小さく唸った。
「夜間哨戒、だと?」
「言わないで。自分でもびっくりしてる」
「あれだけ練習したのに、本番でこれか。お前、実戦タイプすぎるんだ」
「もう実戦はないの。今日から平和に生きるの」
そのとき、隣の席からそっと声がかかった。
「ねえ」
振り向くと、女の子がにっこり笑っていた。
キャラメル色のゆるふわなセミロング。大きな目。制服の着こなしが完璧で、ブラウスの第一ボタンだけさりげなく外してある。教室に入った瞬間から周囲の視線を集めていた子だ。
「夜空って、ロマンチックだね。私も好きだよ、星とか」
内田雫。出席番号順で栞の隣の席になった女の子。
さっき自己紹介で「趣味はカフェ巡り」と言って、教室の空気を一瞬で支配した子だ。
栞は雫の笑顔を見て直感した。
あの笑顔は、戦闘用だ。
三年間、戦場で生き延びてきた栞にはわかる。本物の笑顔と、武装としての笑顔の違い。雫の笑顔は美しく、完璧で、隙がない。だからこそ作り物だ。何かを守るために身につけた鎧だ。
でも今は、ただ「ありがとう」と言えばいい。
「……ありがとう、内田さん」
「雫でいいよ。よろしくね、栞ちゃん」
雫はそう言って、ぱちんとウインクした。
ああ、この子はすごい。出会って五秒で距離を詰めてくる。栞が三年かけても習得できなかったスキルを、この子は呼吸するようにやってのける。
ルーがぼそりとつぶやいた。
「あの女、やるな。情報戦のプロと見た」
「……友達の作り方が上手いだけだと思う」
◇
昼休み。
魔の時間が来た。
周りの生徒たちが自然と机をくっつけ、グループを形成し始める。さっき自己紹介で「サッカー」と言った男子たちが集まり「カフェ巡り」の女子たちが集まり、教室はあっという間にいくつかの島に分かれた。
栞はどこにも属さない机の上で、ぽつんとお弁当箱を開けた。
これが、スクールカーストというやつか。
魔法少女時代には存在しなかった概念だ。敵の強さはランク付けされていたけど、仲間内での序列なんてなかった。栞とパートナーの朝霞凛は対等で、ルーは参謀で、それだけだった。
でもこの教室には、目に見えない力学が働いている。誰がどのグループに属するか。誰が中心にいて、誰が端っこにいるか。たった半日でもう決まりかけている。
ルーが栞の弁当の卵焼きを狙いながら言った。
「栞よ。食料の確保はいかなる作戦においても最優先事項だ。購買のパンが残っているうちに」
「あ、牛丼パンが売り切れるかもしれない」
栞は弁当を置いて立ち上がった。
購買部は一階。教室は三階。距離にして約百五十メートル。魔法少女時代なら三秒で到達できた距離だ。今は変身できないから、走るしかない。
栞は教室を出て、廊下を走った。
ただし、元魔法少女の「走る」は、普通の高校生の「走る」とはレベルが違った。
階段を三段飛ばしで駆け下り、廊下のカーブを壁に手をついて直角に曲がり、購買の列に並ぶ生徒の隙間を縫うように全力で。
気がつくと、最前列にいた。
背後で騒めきが起きている。
「え、今の何……」
「あの子、どこから来た?」
「速すぎない?」
栞は凍りついた。
振り返ると、購買に並んでいた数十人の生徒が、全員こちらを見ていた。
……あ。
普通の人は、そんなに速く走らない。
脳内でルーの声が再生される。『日常生活における身体能力の制限。レベル5以上の動きは厳禁。お前の全力は人間の限界を超えている』。
わかってた。わかってたのに。牛丼パンへの情熱が理性を上回ってしまった。
冷や汗が背中を流れる。どうしよう。言い訳を。
「松本って昔から運動神経よかったよな」
声がした。横を見ると、背の高い男子が苦笑いを浮かべて立っていた。
少し長めの黒髪。柔らかい目元。制服のネクタイがちょっとだけ緩んでいる。
栞は一瞬、その顔に見覚えがあるような気がした。
「矢野?」
「おう。久しぶり。同じ高校だったんだな」
矢野晴。栞の幼馴染。
小学校と中学校が同じだった。でも中学時代、栞は魔法少女として忙しすぎて、ほとんど接点がなかった。たまに廊下ですれ違って「おう」「うん」と挨拶するくらい。
そんな希薄な関係だったのに、矢野は栞の名前を覚えていて、しかもこのタイミングでフォローしてくれた。
矢野の一言で、周囲の視線が和らいだ。「ああ、運動神経いい子なんだ」という空気に変わる。
栞は内心で思った。
この男、無意識に人を助けることが習慣化している。要注意だ。……いや、違う。普通にありがとうと言えばいい。「要注意」ってなんだ。味方だ。たぶん。
「……あ、ありがとう」
ようやく出た言葉が、やけにぎこちなかった。
矢野は気にした様子もなく笑って「購買混んでるから、先に買ったら?」と順番を譲ってくれた。栞はお礼を言って、最後の一個だった牛丼パンを手に入れた。
教室に戻る途中、ルーがこっそり言った。
「矢野晴。お前の幼馴染だな。過去データによれば、中学一年の時にシェイドに襲われた人間だ」
「……うん」
栞は足を止めた。
中学一年生のとき。闇の怪物シェイドが住宅街に出現した夜。栞はスカイブルーセイントに変身して、襲われていた少年を助けた。
あのとき助けた少年が矢野晴だ。
「まさか同じ高校だったなんて」
「因果というものは厄介だ」
栞は牛丼パンを握りしめた。
矢野はあの夜のことを覚えているだろうか。変身した栞は銀髪碧眼の美少女戦士で、素の栞は目立たないぼんやりした黒髪の女子だ。見た目がまったく違うから、気づかれるはずがない。
大丈夫。普通に、幼馴染として接すればいい。
栞は自分にそう言い聞かせて、教室に戻った。
◇
放課後。
栞は校舎裏のベンチに座って、牛丼パンの残りをかじっていた。お弁当のほうは昼休みのバタバタで食べ損ねたので、結局これが今日の昼食だ。
「栞」
聞き慣れた声がした。顔を上げると、赤みがかったショートヘアの女の子が立っていた。
制服を着崩して、ブレザーの袖をまくり、首元にシルバーのネックレスをつけている。校則的にギリギリアウトな気がするが、この子にはそういうのが似合う。
「凛」
「やっほ。同じ高校だったね。私は二組」
朝霞凛。栞の元・魔法少女仲間にして、かけがえのない戦友だ。
「レッドスターバースト」として、三年間一緒に戦った。栞がクールに戦略を組み立てて、凛が情熱で突っ込んでいく。最高のコンビだったと思う。
二人とも三月で引退して、四月から普通の高校生になった。同じスタートラインのはずなのだが。
「凛、すごいな……もう馴染んでる」
凛はすでに友達グループを作り、部活の仮入部も済ませ、放課後の予定も埋まっていた。入学初日にして、完璧に「普通の高校生」を謳歌している。
「まあね。こう見えて入学前にYouTubeで『高校デビュー コツ』って検索して予習したから」
「予習したの!?」
「当たり前じゃん。三年間も異世界の化け物と戦ってたんだよ? 普通に生きるのだって練習が要るよ」
凛はベンチに腰かけて、栞の牛丼パンを一口もらった。
「栞は? どう? 初日」
「……自己紹介で『夜間哨戒』って言いかけた」
「ぶっ」
凛が吹き出した。栞はうなだれる。
「あと、購買で全力疾走して注目を集めた」
「やば」
「それから、一人でお弁当を食べようとしたけど、結局食べ損ねた」
「栞……」
「私、普通になれるのかな」
栞の声が、少しだけ小さくなった。
凛は笑うのをやめて、栞の顔を覗き込んだ。
「なれるよ」
凛の声は真っすぐだった。
「だって栞、三年間ずっと『普通の女の子に戻りたい』って言ってたじゃん。ヴォイドのボスと戦ってるときも、怪我して動けないときも、ずっと。栞が本気で望んだことで、叶わなかったことなんかないよ」
栞は凛を見つめた。
凛は相変わらずだ。真っすぐで、熱くて、眩しい。魔法少女のときもそうだったし、普通の高校生になった今もそうだ。
「……凛ってさ、いつもかっこいいよね」
「いやいや栞のほうがかっこよかったよ。マジで。ヴォイド戦のときとか」
「あれは変身してたからで」
「変身とか関係ないって。栞は栞でしょ」
凛はそう言って立ち上がった。
「じゃ、私もう行くね。テニス部の仮入部。ああそうだ栞、ひとつだけ」
「なに?」
「購買で走るのはやめとけ。マジで」
「……はい」
凛は笑って手を振り、校舎の角を曲がって消えた。
栞はベンチに残されて、空を見上げた。四月の空は高くて青い。かつてあの空を飛んでいたなんて、今の自分には想像もつかない。
ルーが肩の上でもぞもぞ動いた。
「凛は相変わらず元気だな」
「うん。凛はすごい。私とは違う」
「違わんさ。お前たちは同じ空を飛んだ仲間だ」
「……うん」
栞はなぜか、その言葉で少しだけ泣きそうになった。
◇
夜。
栞は自室のベランダに出て、夜空を見上げていた。
パジャマ姿に薄手のカーディガンを羽織って、手すりに肘をついて。四月の夜風はまだ少し冷たいけど、星がよく見える。
隣にルーが浮かんでいる。黄色い翼でゆっくりと空中に静止しながら、同じように夜空を見ている。
「ルー」
「なんだ」
「私、普通になれるかな」
今日二回目の質問。でもさっき凛に聞いたときとは、少しだけ意味が違う。
凛には「普通になりたい」と言った。それは本当だ。三年間ずっとそう思っていた。変身を解いて、魔法を手放して、普通の女の子に戻る。それが栞の願いだった。
でもルーに聞く「普通になれるかな」は、もっと正直な問いだ。
なれるかなじゃなくて、なれないかもしれない、という不安だ。
三年間、人間じゃないものと戦い続けた。夜の空を飛び、闇の怪物を倒し、世界の命運を背負った。そんな経験をした人間が、どうやって「普通」に戻れるんだろう。
自己紹介で「夜間哨戒」と言いかけるくらいには、魔法少女の自分が染みついている。
ルーは少しだけ間を置いて、答えた。
「知らん」
「……即答!?」
「だが栞よ、ひとつ言っておく。お前は魔法少女になる前も、普通ではなかっただろう」
栞は言葉に詰まった。
たしかに。
小学生のとき、お遊戯会で一人だけ衣装を手作りして気合いを入れすぎて、先生に「そこまでしなくていいのよ」と苦笑いされた。
読書感想文で「この本の主人公の戦略は甘い。私ならこう攻める」と書いて、母親に「感想を書きなさい」と言われた。
クラスメイトが「好きな芸能人は?」と聞いてきたときに「好きな星座ならあるけど」と答えて、会話が終わった。
普通じゃなかった。魔法少女になる前から。
「……それ、フォローになってない」
「フォローではない。事実だ」
ルーはふわりと栞の肩に降りてきた。小さな体の温かさが、カーディガン越しに伝わる。
「栞よ。お前が『普通』になる必要はない。お前が『お前のままで生きられる場所』を見つければいい。それは普通とは限らない」
「……なにそれ。ルーにしてはまともなこと言うじゃん」
「私は常にまともだが」
「帰還申請が却下され続けてる妖精が何を」
「それは言うな」
栞はくすりと笑った。
そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見ると、メッセンジャーアプリの通知。矢野晴からだった。
『同じ高校って知らなくてびっくりした。今日、屋上から夜空きれいだったよ。』
そのあとに、星空の写真が添付されていた。
校舎の屋上から撮ったのだろう。街の明かりの向こうに、星がぽつぽつと光っている。上手い写真じゃない。スマホのカメラだから画質もそこそこだ。でも。なんだろう。この写真には「空が好きだ」という気持ちがまっすぐに写っている。
栞はかつて、あの空を飛んでいた。
でもあの頃は、飛ぶことに必死で、空をきれいだと思う余裕なんてなかった。
矢野は地上から空を見上げて、こんなにきれいだと思っていたのか。
栞は少しだけ、ほんの少しだけ笑って、返信を打った。
『きれい』
一言だけ。それしか出てこなかった。
でもそれが、今の栞の正直な気持ちだった。
送信ボタンを押して、スマホをポケットにしまう。
ルーが栞の肩の上で、小さくあくびをした。
「栞よ。明日も学校だ。そろそろ寝ろ」
「うん。……ルー」
「なんだ」
「明日も一緒に行ってくれる?」
「当然だ。お前の肩の上が私の持ち場だからな」
栞はルーの小さな頭をそっと人差し指で撫でた。ルーは不満そうに耳を伏せたけど、避けなかった。
夜空の星が瞬いている。
もう、あの空を飛ぶことはできない。
でも、地上から見上げる空も、悪くないかもしれない。
栞はベランダのドアを閉めて、布団に潜り込んだ。
明日は購買で走らない。
自己紹介で「夜間哨戒」と言わない。
できれば雫ともう少し話す。矢野には、ちゃんとお礼を言う。
小さな目標。小さな作戦。
世界を救うより、ずっとずっと難しい作戦だ。
普通の女の子になるのは、世界を救うより難しいかもしれない。
でも。
栞は目を閉じて、小さくつぶやいた。
「……まあ、なんとかなるでしょ」
肩の上の白い毛玉が、呆れたようにため息をついた。
「ならんだろうな」
「寝る前に否定しないでよ!」
夜は静かに更けていく。
元魔法少女の、長い長い「普通」への挑戦が、今日始まった。




