第52話 伯爵邸
その夜、シャーロットは自室で眠れずにいた。
王太子の声、唇の感触、噛まれたときの微かな痛み。
思い出すたび、胸の奥がひやりと冷える。
――私は、物じゃない。
そう思うのに、言葉にすれば壊れてしまいそうで、ただシーツを握りしめるしかなかった。
そのとき、控えめなノック。
「……シャーロット。」
父の声だった。
「入ってもいいか?」
「はい……。」
エヴァンス伯爵は、いつもより静かな足取りで部屋に入り、娘の前に膝を折った。
「今日、王城に行ったな。」
シャーロットは一瞬ためらい、それでも小さく頷いた。
「怖いことは、なかったか。」
なかったと答えれば、楽だった。
けれど、父の目は逃げ道をくれなかった。
「……少し、ありました。」
それだけで、伯爵の表情が固まる。
「詳しくは、言わなくていい。」
そう言って、そっと娘の手を包んだ。
「だが、覚えておきなさい。お前は、誰の所有物でもない。王太子であろうと、神であろうとだ。」
シャーロットの目に、涙がにじむ。
「……お父様、王家と争ったら……。」
「争わない。」
きっぱりと言った。
「だが、線は引く。その線の内側にお前はいる。」
その言葉に、張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ。
――翌日。
王城から、正式な使者が訪れた。
「王太子殿下より、シャーロット・エヴァンス嬢との縁談について前向きに話を進めたいとのことです。」
応接間の空気が、ぴんと張り詰める。
伯爵は静かに微笑んだ。
「光栄な話です。ですが、娘は個人ではなく、エヴァンス家の一員。軽々しく決めることはできません。」
そのやり取りを、廊下の陰から見ていたのがエドモンドだった。
「……来たか。」
彼は小さく息を吐き、胸の内で呟く。
――殿下。
正攻法を選びましたね。
それは、縛る愛が、得ようとする愛に変わるかどうかの分かれ道だった。
そしてその先で、シャーロット自身が誰を選ぶのかという問いももう、避けられなくなっていた。




