第50話 王太子
扉の向こうは、相変わらず静まり返っていた。
まるで、この部屋だけが世界から切り離されたように。
王太子は背を向けたまま言った。
「……怖がらせるつもりはなかった。」
その声は低く、抑えられている。
だが、抑え込まれているのは優しさではなく、衝動だとシャーロットには分かってしまった。
「君を、失う気がしたんだ。」
振り返ったその顔は、穏やかな微笑ではなかった。
焦りと、怒りと、執着が薄く重なった表情。
「弟は君に触れた。その事実が、私の中の何かを壊した。」
シャーロットは、椅子の肘をぎゅっと掴む。
「殿下、それは私のせいではありません。」
震えながらも、はっきり言った。
「私は、誰のものでもございません。」
一瞬、空気が凍った。
王太子の瞳が、細くなる。
「……そう言えるのは、まだ君が選ばれていないからだ。」
ゆっくりと近づいてくる。
「選ばれた者は、自由と引き換えに守られる。私は、その役目を引き受ける覚悟がある。」
「それは……守るのではなく閉じ込めることではございませんか。」
シャーロットの声が、思わず強くなる。
王太子の足が止まった。
しばらく二人の間に沈黙が落ちる。
やがて、王太子は苦く笑った。
「……君は、私を悪者にするのが上手だな。」
窓に視線を向ける。
「だが、悪者にならなければ、守れないものもある。」
その背中は、王太子というより、何かを失うのが怖くて仕方ない男のそれだった。
「今日は、ここまでにしよう。」
ゆっくりと振り返り、いつもの微笑を作る。
「伯爵邸へ送ろう。無理に引き留めたら君の心が離れると分かったからね。」
その言葉は、優しさの形をしていたが、手放すつもりはないという宣言でもあった。
馬車に乗せられる直前、王太子は静かに言った。
「シャーロット。君が誰のものでもないと言うなら私は、君が誰にも渡らない未来を作るだけだ。」
馬車の扉が閉まる。
動き出す車輪の音がシャーロットの胸の鼓動と重なった。
(……殿下から逃げなければ。)
そう思うのに、逃げ道がどこにあるのか、まだ分からなかった。
そして王城の高窓から、王太子は遠ざかる馬車をいつまでも見つめていた。
「……次は、間違えない。」
その呟きは、祈りではなく決意の音をしていた。




