第二章 加護の探究 第三十七話
大きな扉の前で、セーラは立ち竦んでいた。大きな翡翠の目は不安で揺れている。
太陽が天辺にある時間帯なのに、日の入らない北側の廊下は薄暗く、マントを被ったセーラはより不安そうに見えた。
隣には、護衛のボルタークが不思議そうな少し苛立たしそうな、そんな顔を貼り付けて嘆息している。それというのも、先ほどから何度か声を掛けているにもかかわらず、動こうとしないのだ。彼は半ば諦めていたが、それ以上に第二公子に叱責されることを良しとしなかった。
何度目かの声をセーラに掛ける。
「セーラ様。いつまで迷いますか? とうに執務の時間は過ぎてますから、いつまでかを仰っていただければ、私がリューシュヴェルド様に報告にまいりますが」
明らかに皮肉である。セーラもそれには気付いた。
「もう行くわよ。ちゃんと、行きます!」
「じゃあ、扉開けますね」
「ちょっと待って!」
扉の取っ手を握ったまま、ボルタークはセーラの言葉を無視しようとしたが、セーラがその腕に縋った。
「待ちなさい!」
あくまで中に響かないように声を抑えているが、切羽詰まったセーラの様子に、ボルタークは開けることができなかった。理由が分かっていれば、無視することもセーラの意に沿うことも選択できたはずだが、ボルタークは理由を知らないのである。
セーラを迎えに行った時に、悲壮な顔をした彼女と、少し嬉しそうなサヤアーヤと、困ってはいるが特段問題視はしていなさそうな複雑な顔をしたソイエッテがいた。ボルタークは疑念を抱いたが、サヤアーヤの一言によって聞く機を逸してしまったのだ。
「ボルターク、察しなさい」
短いそれだけの言葉だった。ボルタークは察しが良い方ではないが、「察せよ」と言われて「何を?」と聞くほど野暮でもないつもりだ。つまり、聞かないに越したことはない、である。
ただ、それを逃しての今だ。
セーラは、ボルタークの指を丁寧に扉の取っ手から一本ずつ剥がした。
「自分で行くから。もうちょっとで行くか……わあ!」
ボルタークの方を見ながら、ずるずると後少し、もう少しと覚悟が付かないセーラがしがみ付いていた扉が開いた。思わずつんのめって転びそうになる。ボルタークはすかさず片腕でセーラを抱え、何とか無様な羽目に陥ることは避けられた。
「セーラ様!」
ゼレットだった。
「これはこれは。遅いので何があったかと、迎えに行くところだったのです」
驚いた顔で、ボルタークに抱えられたまま情けなさそうなセーラを見下ろした。
「い、いえ。大丈夫です。お待たせいたしました!」
セーラは冷や汗を掻きながら、体勢を立て直した。ゼレットに付いてリューシュヴェルドの執務室に入って行く。まるで何事も無かったかのように振舞うセーラを見て、ボルタークはもう何度目かになる溜息を吐いた。
「遅かったな」
書類から目を離さず、リューシュヴェルドは開口一番そう言った。それはそうだろう。いつもなら、約束の時間の前には来て執務に勤しんでいるのだから。
「いえ、今日は来客がございまして、失礼いたしました」
セーラはボルタークをちらっと見やりながら小さな嘘を吐いたが、それはすぐに訂正する所存だった。
「今日は、城からの書類が大量だ。来なさい」
書類の束を持ったリューシュヴェルドが私室へと赴く。毎日城から朝と午後に書類が到着し、それをゼレットとともに精査し、城へと書類を返しているのだ。
城で仕事をしているならばすぐに片付く問題でも、離れていることで何か支障がでないのかとセーラはリューシュヴェルドに問うたことがある。城にはリューシュヴェルドの側近がおり、基本的にはゼレットとやり取りを行っている。ただ、やはりリューシュヴェルドの決裁が必要な事案や報告などはすべて目を通す必要があるのだ。それを経て、上司である宰相への報告や領主の決裁などに繋がるが、リューシュヴェルドの段階で片が付くことも多くあり、それは有能であるという証明でもあった。
セーラは、リューシュヴェルドの私室に入ると、マントを脱いですぐに駆け寄った。
「リュース様、ごめんなさい」
「何だ?」
リューシュヴェルドは書類をテーブルの上に置き、簡単に目を通しており、まったくセーラを見ない。
「あの、遅刻の件……」
「それはいい。それよりも、今日は軍関係だ。人事に係る書類で特に重要だ。領主へも目通りしてもらうものになるからな。説明するから来なさい」
「ちょっと待ってください」
セーラは、椅子をすすめるリューシュヴェルドを遮った。
リューシュヴェルドは忙しい仕事を置いてきている。すぐに手分けして戻りたかったため、セーラを見る目は険しくなっていたようだ。セーラが止まった。
「……何だ?」
リューシュヴェルドは諦めて一度書類を置いた。聞いてやらねば、説明も頭に入らないと踏んだからだ。
「ごめんなさい」
セーラは俯き加減で小さく呟いた。
「だから、何がだ? 早く言いなさい。私は忙しい」
「ごめんなさい。あの、先ほどの来客があったから遅刻したのは、嘘です。本当は部屋の前でずっと迷ってました」
「どういうことだ?」
セーラは、俯いて顔にかかる髪を弄びながら説明した。冬のマントを作る話になり、マダム・ペレットから白銀狼の毛皮を勧められたこと、高級だからサヤアーヤの判断では答えられなかったこと、サヤアーヤからリューシュヴェルドに許可が貰えるか聞いてみるように言われたことなどだ。
サヤアーヤに言われた「おねだり」という言葉は一切使わないように努力した。やはり、どう考えてもできなかったのだ。
「あの、それで高級だとは分かったので、なるべく多く使わないように、こういうデザインで作りたいと思うのですが……」
言いながら折りたたんで手の中に持っていた紙をリューシュヴェルドに手渡した。リューシュヴェルドは、椅子に深く座り直しながら、黙って開く。
「お前、阿呆だな」
一瞥しただけで、片側の口角が上がる。リューシュヴェルドは、テーブルにセーラの書いた素案をひらりと落としながら言った。
「えっ?」
「ペレットだぞ。毛皮以外の部分が安物で収まるはずがないだろう。白銀狼の毛皮に遜色がないような生地を持ってくるに決まっている。例えば、稀少ヤギの産毛だけで織られたものとか……」
「そんな布があるんですか? ……でも確かに、麻とか木綿や羊毛織だと変かも知れません。では、やめておきましょう」
セーラは、みるみる顔が青くなったが、考えを巡らせたのか目を一度ぐるっとさせると、納得したように笑顔になった。セーラが許可を貰いに来たのに、セーラが止めると言い出したことに、リューシュヴェルドは内心面白く思った。
やはり表情を見ているだけで分かりやすい。敵味方が分からない場では確かに致命になるかもしれないが、彼女を害さない人間にとっては、それは美点の一つになるのだ。
「待て。サヤアーヤは、どのように許可を取るように言ったのだ? 報告書もない上に、午前中の話だろう?」
セーラが、なぜか姿勢を伸ばした。
リューシュヴェルドは仕事を一旦脇に置いて、問うことにしたのだ。セーラの反応がもう少し見たくなった。
その意図をセーラは知ってか知らずか、目が泳ぐ。
「どうした?」
セーラが嘘を吐くことを避ける性質なのは知っている。そして、隠し事をすることも。賢明な判断による、その選択を取れる大人になって貰いたいものだが、そうなってしまった時には少し寂しくもあるかも知れないと思いつつ、リューシュヴェルドは問い詰めた。
「言わなきゃ、駄目ですか?」
「許可が欲しいのだろう。その情報が重要だと、私が言っているのだ。言いなさい」
「……ですって」
セーラが口を尖らせてぼそぼそと呟いた。セーラは、なぜだか悔しい気持ちになった。勝負をしたいとも思っていないにも関わらず、負けだと言われたような、そんな理不尽な感覚だった。
「何だ?」
「だから、おねだりして見なさい、ですって」
白い顔を耳や首まで赤くなったセーラは、もはや捨て鉢気分だった。リューシュヴェルドは、なぜだか笑っている。腹が立つことこの上ない。
「可愛くおねだりしたら、許可が貰えるかも! そう! サヤアーヤ先生は言いました!」
「では、先ほどのあれが、セーラの言うおねだりか? いや、可愛くはなかったが……」
にやりと意地の悪い笑みを口元に湛たたえながら、リューシュヴェルドは首を傾げた。
「もう! 分かって言ってるんですよね? この話はお仕舞! もうお断りしますから結構です」
すると、軽やかな笑いがリューシュヴェルドから上がった。これは面白い。打てば響くとは褒め言葉でなくとも使えるようだと、リューシュヴェルドに反応するセーラがそのように映った。
対してセーラは、苦虫を嚙み潰したような顔をしている。顔の赤さはまったく引かない。セーラは怒りで顔が熱くなっているのだと思っていたが、本当は恥ずかしさによって、である。
気が済むまで笑うと、リューシュヴェルドは言った。
「何も許可しないとは言っていない。作りなさい」
「えっ? なぜ?」
セーラは意味が分からなかった。領主一族にとっては、問題ない額なのだろうか。先ほどのやり取りから不信がぬぐえず、眉間にしわを寄せて尋ねた。
「まあ、ないであろうが、これが雪黒豹のように王族にしか渡らぬような素材であれば難しかっただろうな。しかし、披露目後も大切に使用するように。他の領内貴族は上位貴族であっても持っていないからな」
「はっ……はい!」
思いもかけず許可が出たことと、その理由がいまいち腑に落ちないまま、セーラは了承した。
「あっ、あと、他の部分に使う布地には私に当てがある。サヤアーヤに明日訓練に来た時にでも、執務室に寄るように伝えてくれ」
「はい」
そして、リューシュヴェルドの顔つきが変わった。切り替えの早さは訓練の賜物か、持って生まれた性質か、声色まで変わる。ひょっとすると人格が二つあるのではないか、とセーラが思うぐらいだ。その顔色を見て、セーラも自然と切り替わる。
「さて、仕事の話だ」
「はい」
「先ほど軍部の人事の話をしたと思うが、軍備について、アランディアには騎士団と軍団があることは知っているな?」
セーラは頷いた。もちろん、知識にある。館の知識は概要だったが、リューシュヴェルドから預かった文献や書類で補完も出来ている。グレンフィードやボルタークが所属する近衛騎士隊は騎士団の所属だ。他に、複数の隊長からなる騎士隊があり、それぞれ隊長の名を冠に付けており、城壁内の警備は騎士団の仕事になる。
対する軍団は、兵科ごとに隊が分かれ、衛兵隊、剣兵隊、弓兵隊、槍兵隊などだ。衛兵隊は主に領都の警備や監視、領内の各都市にある自警組織の管理などの任に付いている。これは、有事の際も変わらない。対する他の兵隊は有事の際は騎士団預りになり、各隊の指揮下の元軍務に付く。合同演習も何度も行っているのだ。
軍団長は有事の際には領全体の警備の長として守護を第一に動く。この点について権限を大きく与え、組織立って行っているのがアランディア領の特色であり、セーラが感心したところだ。
もちろん、南の村には来たことはなかったが。
騎士団長と軍団長の任命時の絶対条件は、両者の意思疎通に欠落がないことであり、どちらかが辞任や退任の際は、必ずもう片方も準ずるのだ。つまり、一心同体でいなくてはならず、一蓮托生でもあるということである。
「今回、弓兵隊以下の組織に変動があり、それをまとめたものがこれだ。予算案がこっち。妥当かどうか、判断までは付かないだろうが、拡大させる話ではないので一度知識に照らし合わせて整理してくれ」
「分かりました」
軍など中枢にかかわる組織の仕事は、それこそ披露目後だと思っていた。背景やら前後関係など、書物から得られる知識には無い部分がセーラには分からないからだ。
それでも、命令には応えないといけない。
赤い顔はどこへやら、表情を引き締めて上に積み上がった書類から取り込んでいく。
その様子を振り返ったリューシュヴェルドは、片側の口角を上げ小さく笑うと、自分の執務に戻っていった。




