第二章 加護の探究 第二十八話
セーラは、苛立っていた。
あれから戻ってきたゼレットは、やはり二日は安静にするようにというリューシュヴェルドの伝言だけを持ってきたのだ。
今日の夕方に戻ってくると聞いているが、セーラは、この重大な情報を早く話したくてたまらなかった。
身の内に住まう木の枝について、誰かに露呈することが怖かったからだ。
あれから知識の館は現れなかったが、いつ現れるか分からないのだ。ソイエッテに見られないように就寝前の祈りの時は、念のため来ないように語りかけた。
しかし、やはり安心できず眠りに入るのは遅くなる。
木の枝の力がどういうものかもよく分からないまま、また、試すということも恐ろしくて、セーラは胸の違和感に意識を向ける程度のことしかできなかった。もちろん日中はソイエッテやボルターク、診察に来たコーレンなど人の出入りがあるため、意識を向けることすら怖くてできなかった。
ただ、違和感は日に日に薄れており、今日にいたってはそこに何かはあるがそれは違和感ではない、という奇妙な感覚に変わっていた。
——馴染んだ? ……ううん、違うな。混ざり合った? んー……。融和とか、そんな感じか。……ううん、違うな。同化したっていう言葉の方がしっくりくるかも。え? 木の枝と同化? 私、大丈夫?!
セーラは首を捻りながら、無くなっていく違和感と確かにある感覚を並行で感じていた胸をさすって、早くリューシュヴェルドに会いたいと気持ちが急いていた。
——貴族様はすぐに会えなくって困るな。
これがソジュやケレーラなら、すぐに言えただろう。一緒に生活しているはずなのに、熱を出す前から会えていない。
一人で抱え込んでいる木の枝のことを、あと一人、と許されたことがとてもありがたい。しかし、それがまた焦燥感を与えている気もしていた。
——とにかく、リューシュヴェルド様に相談しないと何もできないな。
うんうん唸りながら考えていると、扉を叩く音が聞こえた。
ソイエッテが出迎えに行く。
サヤアーヤがボルタークを伴って部屋に入ってきた。
「調子はどう?」
「サヤアーヤ先生!」
セーラは執務席から立ち上がってサヤアーヤを出迎えた。
午前中の訓練は風邪を引いてからずっとお休みだ。することがない午前中、体調が戻ってきたセーラは「安静に」と言われたことを無視して、目録の概要を埋める作業を続けていた。休んでいる間もコーレンが持ってきていたので、溜まっていたのだ。
ソイエッテには苦い顔をされたが、今朝コーレンが熱が下がったことを確認したので渋々許された。
セーラは、サヤアーヤに丁寧な挨拶をすると、続けた。
「もうすっかり……とは言い難いのですが、熱は下がりました」
咳は治まっているが、声はまだ戻っていない。少し鼻詰まりの声でセーラは説明した。
「この時期の風邪は長引くというから、あまり無理はなさらないでくださいね」
「ありがとうございます」
サヤアーヤを風通しのいい窓際のテーブルへ案内し、ソイエッテのお茶を飲みながら久しぶりの会話に花を咲かせた。
「コーレンから、訓練再開は来週からと聞きましたが、大丈夫でしょうか?」
少し心配そうな顔をしてサヤアーヤが問いかける。薄黄色の半袖のブラウスがとても良く似合っている、とセーラは少し気を取られながら、首を縦に大きく振った。
「もちろんですわ。鍵盤も舞踏も立ち居振る舞いも、ほんの数日の話なのに自信が無くなってきているんです」
サヤアーヤは口に手をやって、「まあ」と微笑んだ。
「それは、まだ初めて少ししか経ってないからですわ。身体が覚えると、考えずとも自然にできるようになりますのよ。毎日少しで構わないのです。その道を極めるわけではないのですもの。長時間する必要はございませんわ」
「では、再開までこっそり自主訓練しておきます」
セーラがソイエッテを気にしながらこっそり言うと、サヤアーヤはまた笑った。
「セーラ様は本当に頑張り屋さんですのね。でも、体調は第一に考えてくださいませ。頭の中で訓練を思い出すだけでも構いませんから」
「分かりました」
サヤアーヤは、一つ頷くと、セーラの目を見て少し悩まし気な顔をした。
「でも、セーラ様は身に着くのが本当にお早いこと。私としては、早く次の段階に進めたいのですけれど……」
「次の段階とは?」
確かに、最近はサヤアーヤの「違います」を殆ど聞かなくなったな、とセーラは思いながら尋ねた。
「次は、お披露目ですわ」
「え? もうですか?」
「いいえ。人の目に触れて、他の人の所作を見るということや会話をするということ。つまり社交ですわね。これも立派な訓練になるのです」
「なるほど。でも、それは……まだ、ですよね?」
「ええ。なので、許可をいただかないといけないのですが、音楽家や舞踏家、それから絵画や彫刻、主には芸術ですが、それらに触れて行ってもらおうと思っていますの」
「わあ! それは見たいです!」
知識にはあっても、実際に観たことはない。経験が大事だと、セーラも知っている。
「五感はとても大事なのですわ」
「とても楽しそうですが、外に出るのは少し怖いですわ」
セーラは正直に言った。コーレンと再会したことを思い出し、少し身が震える。
「ええ。それは相談して考えましょう。でも」
ふふっと、サヤアーヤが美しく微笑んで続けた。
「顔に『行きたい』と書いてありますわ」
「えっ?!」
セーラは顔を赤くして頬に手を触れた。
——嫌だ。すぐ出るんだから。
セーラは、真面目な顔をしようと努力する。が、途中で可笑しくなって笑ってしまった。
「先生、駄目です。私やっぱりそれだけは難しいみたいです」
「ええ。私もそれはもう諦めております」
「ええ?! 諦めないでください! 私は諦めません!」
二人で口元を隠しながらクスクス笑う。年が離れていても、二人は仲がいいのだ。
セーラがふとソイエッテを見ると、ソイエッテも顔を綻ばせていた。嬉しくなってにっこり笑うと、その様子にソイエッテもサヤアーヤも気付く。
一瞬慌てた様子を見せたソイエッテだったが、セーラは察してもっとにっこり笑った。
「ソイエッテも諦めないでくださいね」
「まあ。それは私が大変ですわね」
「ええ? ひどいです!」
今度は三人で笑い合う。
カナエといる時とは違って、大口を開けて笑い転げることはできないが、一定の礼儀を保ったままでも楽しい話ができることにセーラは気付き、嬉しくなった。
ソイエッテとの距離が少しずつ近づいている気がすることも嬉しかった。
ボルタークが気を利かせて席を外していたが、戻ってきた。
「サヤアーヤ様、そろそろ……」
「あら、楽しい時が過ぎるのは早いこと。では、セーラ様、来週まではゆっくり養生なさってくださいませ」
「サヤアーヤ先生、先ほどのお話、宜しくお願いします」
「任せてくださいませ」
サヤアーヤがにっこり微笑むとボルタークを見上げて続けた。
「ボルタークにはしっかり働いてもらわないと」
「え? 何の話です?」
「いいえ、まだ未定の話なので、これ以上は……。それでは私はこれで」
サヤアーヤは、少し慄いた表情をしたボルタークを残して、あっさりと去って行った。
暫くして、はっと気付いたボルタークが、慌てて見送りに追い掛ける。
「ボルターク、何だかかわいそうね」
「そうですね」
ソイエッテは、笑みを浮かべたまま片付けを始めた。有能な侍女である。
「さあ、セーラ様、少しお休みくださいませ」
「あっ、もうちょっと。キリがいいところまで!」
セーラは慌てて執務席に戻る。コーレンが来るまでと念を押されて、セーラはリューシュヴェルドに会える時間を待ちながら、せっせと目録作成に励んだ。
昼食後、コーレンの診察が終わって再びベッドで横になっていたセーラは、五刻の鐘が鳴るとすぐに起き上がってソイエッテを呼んだ。
「ソイエッテ、そろそろ準備を、と思うのだけれどいいかしら?」
「はい。湯浴みの準備は整っております」
もう熱もなく、喉の痛みは続くものの体調は軽い。リューシュヴェルドに会う前に、しばらく洗えていない身体を洗ってしまいたいのだ。
久しぶりの湯に浸かってソイエッテに髪を洗ってもらいながら、セーラは心地よさに目を閉じてため息を吐いた。
——やっぱり、身体を拭いてもらうだけじゃ物足りないわ。
そう思った後で、セーラはそう思った自分に少し驚いて身体を少し震わせた。
「セーラ様? 寒いですか?」
「あっ! 違うの。大丈夫!」
セーラは慌てて答えたが、ソイエッテに肩をぐっと押され、湯に肩まで浸からせられた。
「ぶり返しでもしたら大変です。良く温まってください」
——危ない危ない。でも、物足りないなんて、私、贅沢に慣れてしまったんじゃない?
セーラは、自分の感覚が南の村にいた頃と乖離しすぎている事実に驚いたのだ。ただの辺境地の村娘で貴族の令嬢ではないはずなのに、淑女訓練や素晴らしい食事、素敵なドレス、有能な侍女に囲まれて勘違いをしていて、それに気付いてしまった恥ずかしさを感じていた。
——自分が何者……って、ただの平民だわ。私の脳。もう間違えちゃ駄目よ。
盥の湯で身体を流していたことも、湯に浸かる最初の時の怯えも、遥か過去のことのように感じる。
怖い怖い、ともう一度震えそうになった肩にお湯を手で掛けながら、セーラは誰にか分からないまま心の中で謝罪をした。
湯浴みを終え、着替えて髪を整えていると、湯浴みの間、扉の外で護衛していたボルタークがノックの後、薄く扉を開けた。
「セーラ様、入ってもよろしいでしょうか」
「ええ。大丈夫よ」
ボルタークとゼレットが揃って入ってくる。
「セーラ様、お加減は如何でしょうか?」
「ゼレット。もう身体はすっかりいいんです。喉の痛みが少し残っているくらいですわ」
「それは良かった」
鏡台の前から立ち上がり、目の前に来るセーラを見て、ゼレットはそんなに大きくはない目を細めた。
「リュース様はもうお戻りでしょうか?」
「ええ。セーラ様が病み上がりでございますから、無理をさせない方が良いと、後ほどこちらにいらっしゃる予定です」
「えっ! 駄目です!」
セーラは反射的に驚いて言った。
これには、ゼレットはもちろん、ボルタークもソイエッテも目を大きく開けた。
——駄目よ。ここじゃ、リュース様と二人で話せない。
ソイエッテとボルタークに目をやりながら、セーラはどう言うべきかを思案したものの、良い言葉が思いつかない。セーラは困った顔で最後にゼレットを見た。
——どうしよう……。
ゼレットは、じっとセーラを見ると、切羽詰まった様子のセーラに何かを感じ取ったのか、一つ頷く。
「……承知いたしました。それでは、リューシュヴェルド様の執務室で報告いただくということでよろしいでしょうか」
「ええ。それでお願いしたいのですが」
少しほっとしてセーラが言うと、ゼレットは再び頷いた。
リューシュヴェルドへ伝えるべくゼレットはすぐに部屋を出て行き、セーラは黒いレースのマントを羽織りソファへ腰を下ろした。
「セーラ様。こちらではなぜ不都合なのでしょうか?」
ボルタークが胡乱な目を向けて尋ねた。
ソイエッテも鏡台を片付けながら、こちらを気にしているように思える。
セーラは、頭を捻って考えたが、やはり良い答えは思い付かない。そして、思い付いたところでそれはすべて嘘になってしまう。
本当のことは、絶対に言うことはできない。
結局、言いたくはなかったが、セーラはこう言うしかなかった。
「それは、言えません」
「なぜで……」
セーラはボルタークの言葉を遮った。
「そのことに関しては、リュース様からの許可が出ない限り質問を禁止します。……その権限は私にはありますか?」
ボルタークは黙って、眉毛を片方上げた。
どうやら納得していないが、今は黙ってくれるようだ。
「ごめんなさい」
セーラがボルタークを見上げて許しを請うと、ボルタークは肩を竦めた。
「ま、俺の護衛に影響がなければいいです。気になりますけど」
「それは大丈夫……と、思う」
「曖昧は困ります」
キュッと眉根を寄せて、真面目なボルタークは不快感を露わにした。
「でも、ボルタークは守ってくれるんでしょう?」
「そりゃあ、コーレンの時のような失態はもうしませんけど……」
口の中でもごもごと文句を言いつつ、ボルタークは大人しく引き下がった。
セーラは、罪悪感も感じながらも安堵する。
——コーレンの時のことも、私が悪いのに、ごめんなさい。命令とか分不相応にも程があるけど、それもごめんなさい。
心の中がざわざわしながら、セーラは早くリューシュヴェルドに会いたくなった。
ゼレットが戻って来ると、ボルタークも連れてすぐにリューシュヴェルドの執務室へ向かうこととなった。
「セーラ様」
後ろから呼びかけるソイエッテの声に、セーラは振り返った。
「どうしたの?」
「セーラ様も本調子ではございませんし、私もお供いたします」
小さな声で言うのを聞きながら、久しぶりに伏し目がちのソイエッテを見た、とセーラは思った。先ほどのボルタークとのやり取りでセーラの話の内容が気になったのだろうか。
でも困る。あまり人を増やしたくはない。
「ゼレットもいるし、夕食をするわけでもないし、大丈夫です」
「でも……」
「ソイエッテ」
横からゼレットが話しかけた。
ソイエッテが手を揉みながら、びくっと怒られたような顔をする。
「セーラ様が心配になるのはもちろんでしょう。貴方が一番衝撃を受けたであろうことも、私には分かりますよ。離れることが不安なのは承知しておりますが、今日は恐らく加護の話になります。貴方を連れて行くことはできません」
「……はい。分かっております。失礼いたしました」
ソイエッテは不安気な顔を貼り付けたまま引き下がった。
セーラは内心驚いていた。セーラの発言が気になったのだろうと思っていたが、単純にセーラが心配だったとは。
自室で報告すると思い込んでいたのにセーラが変更したから、心配でわざわざ付いてくると進言してくれたのか、とセーラは腑に落ちた。
——ごめんなさい!
セーラは、目を覚ました時のソイエッテの動揺を思い出して心の中で謝罪した。
今日は、謝罪すべきことが多い日だ。
——リュース様に早く会って、話をしたい。




