第二章 加護の探究 第二十六話
ボルタークの処罰については、セーラの秘匿性と状況を鑑みて公にはされない代わり、特別訓練を課されることになった。
今日もセーラの側にいなかったことがその理由だ。
その代わり、リューシュヴェルドが別邸で生活するようになりセーラと執務や食事を共にすることで、グレンフィードとボルタークは隊に戻る時間を増やすことができた。
——グレンフィード様のようになりたいと言ってたもんね。もしかしたら、ボルタークにとって特別訓練の時間は自分の力になるんじゃない?
セーラは暖かい布団の中で、今回の一件を振り返っていた。
思ったほど、誰も悪い状況にはなっていないのだ。
もちろん、仕事が増えたり色々な変化があって大変にはなったが、誰の立場も悪くならず、誰も傷つかなかった。
改めてこの采配を行ったリューシュヴェルドはやはり只者ではない、とセーラは、自分が彼の頭脳になれと命令されたことを思い出した。
——私、そもそもリュース様の頭脳なんて力不足なんじゃない? リュース様に足りないところが、あまり見当たらない。
布団から出した両手を上に挙げ、今日習った鍵盤の曲を空中で弾く真似をして復習しながらセーラは思った。
今日はリューシュヴェルドに褒めてもらったとは言っても、それが頭脳の役割ではないような気はする。
——気付いたことはあるか? って言ってたもんね。……あっ! 忘れてた!
今日の一連のやり取りを振り返って、知識の館様へ祈りという名目で話しかけることを忘れていたことにセーラは気付いた。
起き上がるのは面倒臭い。既に一日頑張った後の身体は重すぎて布団が放してくれないのだ、とセーラは言い訳してそのまま胸の前で手を重ねた。
ソイエッテに聞こえないよう、天蓋から降りているカーテンに隙間がないのを確認して小声で話しかける。
「館様、今日もそちらに行けなくてごめんなさい。今日は暑い日でしたね。朝は鍵盤のレッスンの後、マダム・ペレットと秋冬の服の生地を選びました。貴族の生地はとても豪華ですね。夏よりも冬の方がもっと差があるような気がします。ま、選んだのはペレットとサヤアーヤ先生ですけどね」
最近のセーラの祈りは、日記のように変化しているようだ。
しかし、この時間はセーラの中に溜まった出来事の整理整頓の方法としては、とても有益だった。感情をきちんと言葉で説明することで、何だか消化できるような気がしているのだ。
気付くのは大抵の場合、翌日の朝目覚めた時だ。
そのことに気づいてから、セーラは何でも知識の館に話しかけることにしていた。例え返事がなくとも。
「それからサヤアーヤ先生と昼食です。今日は暑かったからか冷製スープだったんですよ! その中にたくさんの野菜と細い小麦の麺が入っていて、私、あれなら夏が終わるまで毎日でもいいかもしれません。午後は、リュース様の処罰のお時間です。私褒められたんですよ。お役人様の……何だっけ? ……ああ、いい刺激になるって言ってました。館様も褒めてください」
そうして、事細かな一日の報告を終えた。目を閉じて祈っていることもあって、少し眠気が来たようだ。セーラの言葉運びがゆっくりになっていく。
「それでね。翻訳は難しくないんだけど、文字を、書き写すのが、結構、大変……。アランディア文字を作った時、簡単な文字変更の仕方は、作らなかったの……ですか?」
セーラはそのまま、すうっと眠りに落ちそうになっていた。
闇よりも深い先へ脳が誘われる重さを心地よく感じそのまま流されそうになったが、その時、瞼の向こうに光がちらちら揺れるのを感じた。
「ん?」
渾身の力を込めて片目を開けると、知識を貰う時の光の色によく似た、それよりもかなり微弱な光が天蓋カーテンの側で揺れている。
「あれ? こんなこと前にもあったな……」
初めて知識の館へ目録作成に行った帰り、セーラは疲れ果てて馬車の中で眠ってしまった。目が覚めた時はこのベッドに寝ていて、その時に光を見た気がしたことを思い出したのだ。あの時は気のせいだと思った。
「知識の館でも、一回見たような……。って、ええ?!」
セーラは布団を一気に捲った。光に目が釘付けになる。
それは、ふわふわと漂う点のような光だった。
息を呑んでセーラが注視していると、思った以上に大きな声だったか、ソイエッテの部屋から物音が聞こえた。
すると、その光は途端に消えて元の暗闇に戻る。
一旦光があったからか目が慣れておらず、先ほどより暗く感じてセーラは少し不安になった。
「……セーラ様?」
静かに扉の開く音が聞こえ、ソイエッテが寝起きの少し掠れた声で小さくセーラに問いかけた。
「起こしてごめんなさい。寝惚けたみたい」
「そうですか。何もないなら結構です。お休みなさいませ」
ソイエッテが、そのまま扉を閉める音が聞こえる。
セーラは、自分の鼓動が耳に届く音が聞こえた。
頭の血管が脈打つのも分かる気がする。
手の平と脇の下に湿り気を感じて居心地が悪くなったが、動けそうにない。
——今の、なに? ……これは、あれだ。人の理の外だ。
不思議なことは既に経験している。
セーラの理解は早くなっていた。しかし、新しい不思議にはやはり驚きと恐怖が対になって襲ってくるのだ。
暫く周りを警戒しながらそのままベッドに座っているが、変化がない。
静かにしているつもりだったが、自分の呼吸音が気になる程、セーラの感覚は敏感になっていた。
セーラは、少し唇を開けて微かな声を出した。
「……館様?」
不思議と言えば、知識の館だ。
セーラが深く考えずとも知識の館を呼ぶのは道理から外れていない。
光は消えたままだったが、久しぶりに館の声が聞こえてきた。
『ああ。聞こえておる』
「ああ。やっぱり館様でしたか。驚かさないでくださいよ」
セーラは先ほどの緊張が一瞬で解け、脱力しながらも声が漏れないよう布団をかぶり直し、ひそひそと答えた。
館の声は、遠くから聞こえるようだが耳元に直接響いてくるので、どのような障壁があっても何ら問題がない。
『そのようなつもりはない。気付かなかったのはお主であろう』
「あの光が館様ですか?」
『否。そうではない。私に形はない』
——ええっ?! 館様は形がない?
『左様』
セーラは口を押さえて声が出ないようにした。
知識の館と話していると驚くことが多く、どうしても声が大きくなってしまう。
誰にも聞かれないだろう知識の館内ならともかく、この部屋では拙い。ソイエッテにセーラの独り言が大きいと怒られたくはない。
『館に在り、館が在る限り、館と共に我は存在する』
——今、詳しく聞いても、私には分からないって言うんでしょう?
『少し聡くなったか』
——まっ!
セーラは見えない知識の館に、布団の中で拗ねた顔をして見せながら、気になっていたことを尋ねた。
——では、あの光は?
『うむ。お主が言っていたであろう。アランディア文字とそれまでの文字について』
——はい。文字を作られた経緯は聞きました。でもそれ以前の文字へ変換できなければ、王都や他領、他国とも文書のやり取りに支障が出ますよね? 最近、その仕事を与えられて思ったのです。アランディア文字を作った館様ならいい知恵があるかと。
『お主、取り違えておるぞ』
——えっ?
『アランディア文字を作ったのも、知識の館を作ったのも、我が主の加護を得た人間だ』
——あっ、そっか。そうでした。でも、アランディア文字は不思議文字だから、知識の館様が関わっているかと思い込んでいました。
『否。主の加護を得た人間は、その方法も使っていた筈だ』
——えっ? そうなの?
セーラはまた驚いた。
確かに、セーラが思うようなこと、作った当人である初代領主が気付かないはずがない。
しかし、今は誰も知らないように思えるし、探してみたセーラの知識の中には無かったのだ。
——もしかして、初代領主様しか使えなかったとか……。
あり得ない話ではない。
セーラが加護の力を持ってすべての知識を一瞬で吸収できるように、初代領主の加護の力なのかもしれない。それならば、初代領主が伝えたところで誰も使えないだろう。執務のみに使っていて他に言っていなかったとしたら、知識の館やアランディア文字と違って資料が残っていないことがあってもおかしくはない。
セーラは肩を落とした。
『光だ』
——え?
セーラは知識の館の声に、布団の中で丸まっていた身体を起こした。布団の隙間から外を見ると、またふわふわと光の点が浮いている。
知識の館は、セーラの動向を無視して話を続けた。
『それを共有していいのは一人だけ』
——共有?
そう言いながら、セーラは恐々と光に手を伸ばした。
すると、光が少し強くなりながら一方向に伸びていく。
『我が主はそう言った。それ以外には、言ってはならぬ力』
——一人って誰?
『一人は一人。お主が決めた、一人』
——えっ? それって私が決めたら誰でもいいの?
『我が主は、知っている』
セーラが曖昧な話に不安になりながら光を見ていると、その光はどんどんと形を変え、最後に一瞬強く光ったと思うと、セーラの手の平に収まった。
光が消えて闇が戻ってくる。
——待って、待って待って!
目を凝らして手の中の物を凝視するが、既に判別できない。
『それは、我が主の……』
——待って! もうちょっと光を!
食い入るように見つめるが、何か分からない以上触って確かめるのはセーラにはできなかった。
すると、ほんのりと柔らかい灯がカーテン内を包んだ。知識の館の中にいるような柔らかい灯だった。
——館様?
知識の館は何も答えない。
セーラが手の平をそっと見ると、そこには一尺にも満たない、七寸程度の真っ直ぐな木の枝があった。
「何だこりゃ?」
持った手をくるくる回してみたが、どうやら木の枝だという認識は間違ってなさそうだ。削ってやすりで磨いているのか、手に触る感覚は滑らかだ。
「館様、これが、何ですか? 我が主の、何ですか?」
微かな声でセーラは尋ねるが、知識の館は答えなかった。
淡い光が消えて闇が濃くなっていく。
——えっ? 館様? ……いない?
セーラは慌てた。
これが何だというのだろう。セーラの近くをふわふわ漂っていた光が、木の枝だったとは。
まったく訳が分からない。
ただ、これが精霊に通じる何かであることは間違いないだろう。
真っ暗な中、乾いたシーツが少ししっとりと感じるほどセーラの熱気が籠ったカーテン内でセーラはまたどうしていいか分からなくなった。
——整理しよう。これは、精霊様の何か。で、誰か一人にしか言ってはいけない。多分、初代領主様の加護にも関係がある。
——……って、言ってはいけないって、見られてもいけないんじゃない?
セーラの持っている羽ペン程の長さだ。
——こんなの持ち歩けるわけないし、隠せるわけないじゃない!
嘘を吐くのは苦手だ。見咎められたら隠し通す自信もない。しかし、知識の館との約束事を破ってしまったらどうなるのか。
セーラは身震いした。
——どうしたら……。
『光は具現し、また光へ戻る』
「わあっ」
思わず声が漏れて、セーラは慌てて座ったまま布団を頭から被った。
——どこ行ってたんですか。
『我の話は済んでいる』
——済んでないです! この際、私が分からなくても全部答えてもらいますからね!
セーラは、一人置き去りにされた恐ろしさを呪って涙目になりながら知識の館に怒った。
『ふむ』
知識の館は少し考えているような言い方をした。
そして、少しの間沈黙となる。
セーラは、今度は大人しく知識の館が戻ってくるのを待った。
『三つ、教える』
断固とした言葉だった。
恐らく何を言っても無駄だろう。その言葉から何かを得るしか方法はないに違いない、とセーラはため息を吐いて諦めた。
一旦疑問はすべて脇に置いて、セーラは答えた。
——分かりました。
『それは光へ戻る。加護の力を使わない時は、光に戻しておくと良い』
——……どうやって?
知識の館はやはり何も答えなかったが、手の平の木の枝が布団の中で光に戻ると、セーラのお腹辺りにふわふわと移動していく。
セーラは最初に知識を貰ったあの時の気持ち悪さを思い出し、半分無意識でいつものように光に手を翳した。
すると、すうっと光が手の平に入って行く。
苦しみや気持ち悪さはなかったが、今までに感じたことのない感覚がセーラを襲った。
自分の身体の中に異物があると分かる。それは、胸の真ん中、鳩尾辺りだ。肺の間の胃だか食道だかその辺りに何か丸い物があるような違和感があるのだ。そして同時に、どっと疲れが襲ってきた。体力が全部奪われる気がする。
知識の館は、セーラのそんな様子をまったく意に介していない様子で続けた。
『それは力。具現が力となる。お主の問題の解決にも繋がろう』
——それって、翻訳の?
知識の館は答えない。
『この力を知っていいのはお主と、あと一人』
セーラは、意識が奪われそうになるのを堪えながら、問いかけた。
——それは、誰?
『お主は決めている。我が主は知っている』
セーラの頭はもう限界だった。座った姿勢から胸に手を当てたまま崩れ落ちる。
枕がどこにあるのか、布団やシーツがどうなっているかなど、もうどうでもいい気分になっていた。
「リュース様……」
そう呟いたところで、セーラはの意識はぷつっと途絶えた。




