第二章 加護の探究 第十七話
——はあ……。
セーラは、一人薄暗い館の室内でため息をついた。
最近良く月経や貧血の知識を頭の中で引っ張り出しては理解していたのだが、紐づいて出てきた薬草の効能が掛かれている本に、目録作成の途中で行き当たったからだ。
貧血だけではなく、様々な種類の薬草やその育て方、調合の仕方などが書かれた本だ。
——これはもう紐づいてるから、すぐ書けるわね。
セーラは、ペン先にインクを付けなおすと、羊皮紙にアランディア文字を綴っていく。
文字は、アランディア文字だけでなく、公用文字や古代文字などをセーラはすでに理解していた。最初にあれだけ文字を書くことに苦労したが、訓練の結果がすぐに出て、力を入れずとも、頭を使わずともすぐに手が動くようになっている。
ネイティオにも文字が美しいと褒められたため、セーラは気分よく目録作成に励んでいた。
セーラに初めて月経が訪れてから、数週間。朝の訪れがどんどん早くなり、夜を迎えるのも併せて遅くなっていく。季節が移ろうのが肌の暑さで分かる、今は夏の仲月だ。
まだ太陽が落ち切ってはいないらしく、窓の外は複雑な色味を醸し出している。桃、灰、青、紺、白、橙、黄、など、様々な色が混ざり合ったり強弱が付いたり、濃淡が変わったり、そんな不思議な色合いをセーラは好んでいた。
窓の外の景色を見ると、少し疲れが癒される気がするのだ。
——そろそろ、十五の議よね。カエラ、キシュトにコーレン……。皆、大人になるんだわ。
無論、貴族で行われる儀とは違って、村では『一人前として仕事ができると見なされる』という意味での大人だったが。
セーラは、誰にも話していない村の友達のことを思うと、切なくなったり置いてけぼりな気がしたり、逆に皆を置いて違う世界に来てしまった気がしたり、何とも複雑な気持ちになる。その気持ちと外の景色の移ろいが俄かに似ている気がして、セーラはふっと笑った。
——皆の面白い話を、誰かにできたらいいのにな。
まあ、思ったところでできないことに執着している場合ではない。
セーラは目を落として目録をどんどん作成しながら、経験と知識が合致することの大切さについて考えることにした。
この前の一件が、そう思わせてくれたのだ。
ソイエッテに休むように言われてから、三日、セーラは訓練を休んだ。あの後、リューシュヴェルドへの報告にやってきたサヤアーヤが、体調が悪い話を聞いて帰りに見舞いに来てくれたのだ。そして、初めて月経が訪れたことを伝えると休むように言われた。
他人より訪れが遅かったけれど、さして気にすることがないことも教えてくれた。
そして、ベッドに横になりながら、自分には関係がないと今まで知ろうとしていなかった知識を頭の中で広げると、経験したことで一瞬で理解に紐づいた。
そういうことか、とセーラは思ったのだ。女性が大人になるために、必要なことや、それが今後命を繋ぐためにどのように働くのかということなど、身体は重たかったものの理解さえできれば安心もできた。
これが、もし経験していないことであれば、想像だけで理解したつもりにはなっても、おそらく時間はかかっただろう、とセーラは思った。
——想像はとても大切だけど。それだって、経験に裏打ちされて、より見えない想像へ繋がるんだわ。私は今まで、経験不足のまま何の保証もない想像だけに捉われていたのかもしれない。
そして、改めてセーラは思い直した。
——やっぱり、私はもっと色んなものが見たい。色んなことを知りたい。そこに知識を紐づけていきたい。
自分の頭の中でまだ眠ったままになっている、膨大な量の知識を、セーラは全部自分のものにしたくなった。おそらく、これは欲だ。
満たされたその先。それをセーラは求めたのだった。
そして、それに必要な自由を欲した。
——リュース様に言った通り、自由に動けるようにならなくっちゃ。
そのために必要なのは、まず大人になること。
言うまでもなく、一年後の花冠の儀だ。
そして、文句を言わせないこと。
そのために訓練を行わなくてはならない。感情の制御も含めて。
それから、リューシュヴェルドの理解。
これは、セーラがまずリューシュヴェルドを理解しなくてはならない、と思った。リューシュヴェルドがどんな仕事をしているのか、どのような人が周りにいるのか、すべきことが何で、それにどのようにセーラを使いたいのか。
頭脳になるために、必要な経験は何か……。
そこまで考えると、どんどんと頭がこんがらがってきて少し痛む気がした。考えすぎだと警報が鳴っているようだ。
セーラは目録に集中しながら、少し頭を振って書き損じがないか見直してみる。
——大丈夫ね。
一つため息をついて羊皮紙を乾かすために隣の机へ置くと、次の知識を確認しに椅子から立ち上がった。
「んー!」
合わせて一つ伸びをする。じっとしていた弊害か、固まった筋肉が伸ばされて気持ちがいい。
そして、毎回恒例となった地図へと目を向ける。
「今日も知識の紐づきには出てこなかったわね」
独り言を言って、曖昧な地図にそっと触れた。
「誰も知らないことを書いている本があってもいいはずなのに。頭でも紐づかないし、知識の館にはないのかも」
セーラは肩を竦めて、書棚へと歩き出す。
「リュース様からの知識にもないけど、最近は教会や神殿関係が多いもんな」
南の村の教会に、神官はいない。それゆえ神事や組織、神や精霊についてもセーラの知識が乏しいことにリューシュヴェルドが気が付いたのだ。
それで、神殿の書庫や城の図書室にある関連本が、ゼレット経由でたびたび届くようになった。
最初はベッドの上でも取得ができるのか、とも思ったが、祈りさえすれば問題なくできた。一つできることが分かったことだけでも、上々だ。
植物の図鑑を確認して目録作成に戻ろうとした時、不規則にちらちら揺れる小さな光が、ふっと目の端に入った気がした。
セーラがそちらを見ると、何もない。
首を傾げると、ふわっと冷たくない風がセーラの鼻の先を通った。不思議なことだが、館では、動くたびに明かりも一緒に移動する。全体は暗いが、知識を得るのに支障がないようにできているようだ。今回もその明かりが揺れたように見えただけだ、とセーラは結論付けた。
『……い』
耳の側で声が聞こえた。
「あっ」
セーラはきょろきょろと吹き抜けの天井を仰ぎながら、すぐに気づく。
「館様?!」
『大陸の南部は、知識として存在しない』
「館様ですね?」
久しぶりの知識の館の声に、館が話す内容より先に問いかけてしまう。
「私、毎日来てます。なぜ返事してくれなかったのですか? いらっしゃらなかったのですか?」
『お主の求める答えは、ない。大陸の南部は、知識として存在しない。それは、今は誰も足を踏み入れられない領域』
「えっ?!」
セーラは、漸く知識の館が話す内容に気を留めた。
——何て言った? 私、行けないってこと?
『今は、だ』
「どういう意味ですか?」
『今は、としか言いようがない。お主の求める答えは、先にしかない。有るか無いかも、今はないのだ』
セーラは考えた。曖昧ではあるが、未踏ならばいつかは到達できる可能性があるかもしれない、と理解した。そして、それは今ではないことも。
なぜかセーラはすっと腑に落ちて、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「今は、求めるべき、ことではない、ということですね?」
『導き手は、すぐそばに』
「導き手? 館様のことですか?」
『我は、我が主の意思を伝達するのみ』
「主様は精霊様のことですか?」
『お主が選ぶ道の先に、繋がることができるかどうか。すぐに答えを得られるものと得られぬもの。得られぬものは何をどう考えても、得られぬのだ』
セーラは、聞くな、ということを婉曲に言われたのだと思って口をつぐんだ。
それでも、溜まっている質問が多すぎて聞きたいことがいっぱいだ。いっぱいなのに、どれから聞くのが正しいのか分からない。
色々な質問を心に思い浮かべては、どうしようと悩んでいると、知識の館がおもむろに言った。
全て聞こえていたに違いない。
『今、与えられることは、お主の先に繋がるだろう。……生きなさい』
セーラの思いを読んだのか、館が言う。
そして続ける。
『導き手を忘れるな』
「導き手って?」
『我が主の加護はもう一つ。もう一つは導き、もう一つが助けとなる。二つをもって、我が主の希望となろう』
「導き手を、探せと?」
『否。今、与えられることは、お主の先に繋がるだろう。……生きなさい』
「あっ、同じこと言われちゃった」
セーラは、少し恥ずかしそうに天井に笑いかけた。
「だって、もし私と同じ人がいるなら、気になってしまいます」
『さて。私は行こう。迷ったとて、決めるのはお主だ。お主が得たものの中から、判断するしかない』
「分かりました。……でも!」
セーラは強く言った。
「願ってもいいんですよね? 知りたいって」
『自由』
「ええ。私は自由でいます」
「心や頭だけじゃなくて、身体も自由になるまで、私は私がしたいことを願い続けるわ」
セーラは曖昧な会話の中から、確かなものを受け取った気がして、手を広げて天井へ向けた。
「館様、毎日お祈りするから、また話してくれますか?」
『必要な時に。必要なだけ』
「分かりました」
ふっと風がなくなった気がして、セーラは知識の館がいなくなったのだと理解した。
曖昧なことは変わらず。何も分からず。
でも、なぜ心にすっと入ってきて腑に落ちるのか。
セーラには分からないことだらけだったけど、やることは変わらないと考えることを諦めた。
諦めることは得意だ。でも、この諦めはいつもと質が違うことは分かっている。
セーラはふっと笑顔から真顔に戻った。
「あっ! リュース様に報告しなきゃ!」
慌てて片づけて出口へ向かう。
扉を開ける前、丁重な礼をして見せたセーラに、ふわっと柔らかい風がセーラの髪を揺らした。
まるで館が頷いたかのようだった。




