第二章 加護の探究 第十一話
「違います」
にっこりと微笑むサヤアーヤのこの言葉は何回目だろうか。
授業二日目で新しい訓練とは言え、セーラは眉毛を八の字にしてやり直していた。
「立つ、歩く、動く、ということはこれまで意識したことがないかもしれません。意識しなくてもできますもの。でも立つ時も全身に気を張り巡らせて、姿勢良くしなければなりません。いつでも誰かに見られている、と意識してください」
そう言って、サヤアーヤは拳でセーラの臍の辺りをぐりぐりと押した。
「ここです。ここに力を込めてください。後ろに動かないように。お尻と内腿を締めて、そのまま引き上げるように立つのです。重心は体の中心ですので、足の内側に乗せるよう心掛けて、そのまま真っ直ぐに上へ。顎は上げない。肩は下げる。でも頭は上へ」
簡単に一つ一つ指示を出しながら、セーラの周りをまわって修正していく。
セーラは意味が分からなかった。上げると下げるを同時に同じ体でどうしてできるのだろうか。しかし、言われた通りに言われた部分を意識して、一生懸命その通りにしようと試みた。
「違います」
セーラは顔を真っ赤にしてサヤアーヤを見る。
「お腹に力は入れても、息は止めてはいけません」
「ぷはーっ」
力を籠めるあまり止めてしまった息を勢いよく吐き出すと、それと同時に力も抜けてしまう。
「あらあら」
サヤアーヤはふふッと微笑みながら、セーラを支えた。
「サヤアーヤ先生、本当に淑女というのはこのように意識して立っているのですか?」
「もちろん。ただし、意識しなくても身体がそうできるようになっていくのです。その姿勢が楽である、という段階になるまでは訓練ですわね」
「はあ……。楽、ですか」
そのような日が来るなんて想像も付かない。
「これは、まだ立つというだけですよ。ここから、歩いたり、挨拶したり、立ち居振る舞いを訓練していくのですから。これができないと始まりません。もう一度いたしましょう」
「はい!」
午前中いっぱい使って、セーラは立つ練習に力を注いだ。
指導する方も大変だと思うくらいに、何度も何度もやり直す。
立ち姿が一旦合格したら、次は歩く訓練だ。これは、最初とても難しかった。
なぜかというと、靴だ。
セーラは、踵の高い靴を履くのが初めてだったのだ。普通に歩くということも儘ならず、躓いて転んでしまう。
サヤアーヤは、少し考えた後、まずは踵の低い靴で重心を忘れないように訓練することに決めたようだ。
「頭は動かさずに、淑やかに足を運んでください。重心を移動させて、足音を立ててはいけません」
「はい」
「セーラ様、足元を見てはいけません。顔は上げて……ああ、顎が上がってます」
——む……難しい。……こう? こうかな?
「違います」
セーラは八の字になった眉が元に戻らないままだったが、できないことを謝るよりも、早く上達するようにと必死になって一生懸命サヤアーヤの指導についていった。
暫く訓練を続けていると、四刻の鐘が鳴り響いた。
サヤアーヤはパンっと一つ手を鳴らして、セーラに終了を告げる。
「では、昼食にいたしましょう」
セーラは力を抜いてため息を吐くと、サヤアーヤに感謝の挨拶をした。片足を引いて、スカートを持ち上げる。
「ありがとうございました」
「違います……と言いたいところですが、今回は許します」
サヤアーヤは返礼をしながらにっこりと笑った。
ソイエッテが温かい食事を運ぶ中、二人は窓際の机に移動した。
食事は暖かく、何度か「違います」が挟まれたものの、昨日よりは確実に少なくなっている気がして、セーラは一層気を付けて食べ物を口へ運んだ。
食事が終了して、お茶を飲みながらセーラはふと思い出した。
朝のことだ。
ゼレットが今日の予定をセーラに伝え、リューシュヴェルドから預かった本をセーラに渡した。
その時に、午後はサヤアーヤと一緒に、セーラの服を作ることを告げたのだ。
「サヤアーヤ先生。昨日リュース様から指示が出たことなんですけれど……」
「ええ、聞いておりますよ。楽しみにしておりました」
サヤアーヤが美しい笑みを零しながら言う。
「私、今いただいているもので充分だと思うのです。これ以上必要ありますか?」
「何を仰いますか」
サヤアーヤが驚いて、首を振った。
「ドレスは何着あっても構いません。それに、季節毎に新調するのが、マナーの一つでもあります」
同じ服を何度も着るのは、高貴な人はしないようだ。流行というのがあり、それを牽引すること、それによって経済を活性化させることも淑女としての仕事の一つだということだ。
「淑女というのは、私が想像していた以上に大変ですのね」
「まだ足先を踏み入れただけのセーラ様がそう思われるなんて、この先もっと大変になるかもしれませんね」
「うっ……。私、なれる自信は今のところ全くありません」
「まあ。大丈夫ですわ。見た目から固めていきましょう。それに今の服はセーラ様の身体にあっていませんもの。腰紐で縛らないと大きいでしょう? それに、丈は少し短いですもの」
確かに、同年代と比べて細く背の高いセーラには、既製品は合わなかった。
「そうですね。でも先生、服を作るなら、私のことを知らない方が来られるんですよね?」
それも不安だった。セーラを隠すと言いながら、毎日新しい顔が増えていく。昨日ボルタークと話した危険について、セーラは忘れていなかった。
「ええ。それについては、リューシュヴェルド様がもちろん人選されております。ボルターク様も同席されますので、セーラ様は隠れられなくとも問題はないでしょう」
そうなのだろうか。ここは、大人の言うことを聞いておいた方が良いかもしれない、とセーラは思い、信じて頷いた。
——だからと言って、自分で緩めないようにしなくっちゃ。
大人たちは勝手にセーラのことを決められるが、セーラが勝手に行動したら許されないだろう。それは理不尽にも思えるが、仕方がないことだ。
少し大人びた考え方をして、セーラは来客を待った。服を作る職人が来る、とゼレットが言っていたからだ。
流行の色や服の形、髪型についてサヤアーヤと楽しく話をしていると、ゼレットがやってきた。
「セーラ様、サヤアーヤ様。マダム・ペレットの服飾職人をお連れいたしました」
「……。あっ、どうぞ」
セーラがこの部屋の主だ。サヤアーヤに視線だけで促され、慌てて返答する。
ゼレットが扉を開け、ペレットとボルタークが部屋の中に入ってきた。
セーラは前に立ち、挨拶をする。
「初めまして。セーラと申します。本日は宜しくお願いいたします」
「まあ……。聞いていた通りでございますね。マダム・ペレットの服飾職人兼経営者のペレットと申します。今日の出会いに感謝し、誠心誠意取り組みますわ」
セーラの容姿に一瞬驚いたようだったが、ペレットは噯にも出さず丁寧に挨拶をした。
セーラより背が高いのではないだろうか。五十代程に見えるペレットは真っ黒い髪をひっつめ、真っ黒の真っ直ぐなワンピースに複雑に編まれた古いショールを肩から掛け、眼鏡を掛けている。
このような格好をする人が、流行のものを作成する職人だというのがセーラには理解できなかったが、なるべく顔に出さないよう気を付けた。
しかし、この後どうしていいのか、セーラにはまったく経験がないため、思わずサヤアーヤを見た。
すべてを分かったようにサヤアーヤが頷き、ペレットをソファへ案内した。
——あっ、そうだった。
案内はセーラがしなくてはならない。以前聞いていたのにできなかったことに、セーラは少し恥ずかしくなりながらソファへ移動した。サヤアーヤと共に向かいに座る。
——サヤアーヤ先生はフォローしてくれたんだわ。ごめんなさい。
少し表情に出ていたようで、隣のサヤアーヤから膝を軽く叩かれる。
——ご、ごめんなさい。
心の中で謝ると、顔を上げてペレットへ向き合った。
ソイエッテが新しいお茶を淹れ直している間、ゼレットが説明する。ボルタークはいつも通り護衛してくれるようで、一瞬目を合わせると何も言わずセーラの後ろへ立った。
「ペレットは中心街にマダム・ペレットという名の店を構える服飾職人です。貴族に顧客も多く、信頼がおけることも含めて定評がございます。今回リューシュヴェルド様がセーラ様の専属として依頼なさいました」
「秘匿すべきことは、重々理解しております。セーラ様はご安心なさってください」
涼やかに笑みを見せるペレットに、セーラは思っていたよりも親しみが持てそうだと思いなおした。それに、この人は貴族ではない。セーラからすると、領都の中心街で働く職業女性ももちろん雲の上の存在なのだが、それでもそれ以上の貴族に比べるとまだ、息がしやすかった。
「まずは、今夏の装いを数点早急に準備が必要ですわね。その後、秋冬の装いも作り始めないと間に合いませんわ」
「ええ、今年一年は表に出る機会はありませんので、華美なドレスや装飾品は必要ございません。ただ、第二公子殿下がこちらにおいでになること、それから淑女教育を進める上で一式必要だとご理解くださいませ」
「承知いたしました」
デザイン案がテーブルの上に広げられ、ペレットとサヤアーヤでどんどんと意見を出し合い、セーラの装いを決めていく。
セーラはまったく分からず、お茶を飲みながら話を聞いて相槌を打つのみだ。
ふと、ペレットがセーラを見て、「しかし」と言い淀んだ。
サヤアーヤが発言を許可すると、ペレットが続ける。
「セーラ様の御髪を拝見すると、やはりとても目を引きます。髪色だけで華美になってしまうので、昨今流行りのレースやリボンが多用されたドレスや膨らませたスカートなどより、シンプルで髪色の美しさを反映できるような装いがよろしいのではないかと」
「でも、それならどのようなドレスがいいかしら?」
ふーむ、とサヤアーヤが考えるように顎に手をやった。
「如何なさいますか?」
サヤアーヤが突然セーラに尋ねた。
「へっ……?」
うんうん、と頷き続けていたので、問われていることに途中まで気付かず、セーラは情けない声が出た。
すかさずサヤアーヤが膝を叩く。
——えっ、そんなの分かるはずがないし。村で流行ってた服なんてきっと論外だろうし……。
セーラは、必死に知識の紐付けを行う。すると、服飾専門の知識に行きあたった。服飾の歴史だろうか。建国から六百年、それぞれの時代で着られていた服の図解が流れるように頭に浮かんだ。
セーラが思っている以上に、服の遷移は徐々にではあるが激しくもあったようだ。
その中で、建国当初まで遡り、加護持ちではないかと思われる女性が来ていた服にセーラは惹かれた。暗い髪色で描かれていないから加護持ちではないかとセーラがそう思っただけだが、確かに美しい。
——これは、古いって言われるかな? でも綺麗……。
セーラは、サヤアーヤとペレットに断って執務机へ移動し、紙へ頭に浮かんだ図を書いてみる。少し歪だが、何とか分かるだろう。
そのまま二人に見せると、二人とも同じように驚いた声を出した。
「まあ」
——驚くときは、「えーっ」じゃなく「まあ」が正しそうね。咄嗟に出るかは分かんないけど。
セーラは、冷静にそんなことを改めて思いながら、おずおずと説明した。
「あの、膨らんだドレスが似合わないのは、私の手足のことを考えてもそう思います。これは古い型なので、流行とは言えないと思うのですが、私には似合うのではないかと……」
ペレットがセーラが書いた紙を持ち上げて、鼻を膨らませた。
「いいえ。確かに懐古的ではありますが、これを基に新しいパターンを作っていきましょう!」
「そうですわね。確かにセーラ様には似合うと思われます」
見せた絵は、胸下から足首まで流れるようなドレープを描いているドレスだ。胸はぴったりと身体のラインに合わせられており、袖は少しだけ膨らんで肘上で絞られていた。
胸下から真っ直ぐ長いので、足が長く見える。
ただ、簡単でシンプルであることは間違いない。セーラが描くのも簡単だったのだ。
「新しいパターンというと、新しいデザインということでしょうか?」
セーラは、ペレットが興奮する理由が分からず、少し疑問に思いながら首を傾げた。
「ええ。私、目から鱗が落ちた思いでございます。流行を作ることばかり、新しいデザインを捻り出すことばかりに注力していて、古い時代を遡るという手段を失念していたことをセーラ様に気づかされました。こちらは建国当時、王族から貴族の女性が良く身に着けられていた衣装の型ですね?」
セーラは、その言葉こそ目から鱗が落ちた思いだった。やはりペレットは熟練の職人なのだ。服飾の知識は詰め込まれている。
セーラは頷いて、ペレットの言葉を待った。
「セーラ様、よろしいでしょうか? 当時よりも今の方が、使う糸や布はもちろん進化しております。染め方や縫製についても改良が重ねられています。この型に、現代の物を使用するだけでも新しいものができると言えるでしょう。そして、少し新しいデザインを入れて、かつそれが受け入れられれば、それは懐古と今様の融合とも言えるのではないでしょうか」
「なっ、なるほど……。では、それはペレットにお任せいたしますわ」
セーラは、熱く語るペレットを尊敬する一方で、その熱についていけずに曖昧に答えた。
サヤアーヤはにっこりとした表情を崩さずペレットに依頼をした。
「では、そのようにお願いいたします。まずは夏服を三着ご用意いただけるかしら? それでは、採寸してしまいましょう」
「そうですわね」
セーラは、ふと後ろのボルタークを振り返って見上げた。
「ボルターク、通常はどのように指示するのかしら」
「私は扉外におりますので、終わりましたらお呼びください」
そんなことを聞くな、と言いたそうな目だったが、ボルタークはセーラに教えて出て行った。
確かに、男性にいて貰っては困る。
その間にソイエッテがカーテンを閉め、ペレットが巻き尺を用意している。サヤアーヤは優雅にソファに座ったまま、お菓子を口に運んでいた。
ソイエッテがセーラを脱がせると、手慣れた様子でペレットが計っていく。
「セーラ様。少し痩せすぎですわね。まだ花冠前ですからこれからでしょうけれど、もう少し胸や腰に女性らしさは必要です」
「う……はい」
そんなことは昔から言われていたことだ。食べても食べても太らないのだ。太れない、が正しいかもしれない。
どこに栄養が行っているのか、とケレーラにため息を吐かれたことを思い出した。カナエにはほっそりした長い手足が羨ましいと言われたこともあるが、これはこれで劣等感はあるのだ。
——いい塩梅って難しいわね。でも太りたいかって聞かれたらそうでもないし……。胸は欲しいし羨ましいけど、発育の良いカナエはそれが嫌だとも言っていたな。結局、どんな体型だったとしても、満足することはないのかも。女って大変だわ。
背伸びしてそんなことを思い耽っていると、採寸が終わった頃に、ようやく思考が飛んでいたことに気が付いた。
セーラはまた恥ずかしくなり、サヤアーヤに目をやると、怖い笑顔だった。
——やばい。また表情が変わっていたのかしら?!
思ったことがすべて顔に出るという癖を直すのは難しそうだ。
であれば、色んな事に思いが飛ぶ癖を直す必要があるかもしれない。
——目の前がすべて。
——目の前がすべて。
——目の前がすべて。
何度も繰り返しそう思いながら刷り込みつつ、セーラはソイエッテに着付けてもらって、サヤアーヤとともにペレットを送り出す。
ボルタークにゼレットを呼びに行ってもらって扉前で待っている間、納期についてサヤアーヤとペレットが話し合っていた。
夏服はすぐに着れるのですぐに欲しいことと、秋冬は出来上がった後改めて打ち合わせすることを話し合っている時にゼレットがやってきた。
別れの挨拶をして見送ると、今度はボルタークがサヤアーヤを送って行った。
サヤアーヤが去り際、セーラとソイエッテに言った。
「今日は、普段使わない筋肉をたくさん使ったので疲れや痛みが出ると思います。湯浴みの時によくマッサージをして、早めにお休みください」
「かしこまりました」
セーラは、湯浴みしてマッサージなんてされたら、その後の知識の館での仕事に差し障りが出てしまうかもしれないとは言えず、普通に了承した。
なんと、たくさん寝たにも関わらず、既にセーラは眠くなっていたのだ。
全員見送った後、セーラはようやく落ち着いて執務机に向かう。リューシュヴェルドの預かった本を纏めなければいけない。
昼寝をしたいところではあるが、溜め込むと拙いことになりそうだ。リューシュヴェルドから送られる本はあまり間が空かないのだ。
ソイエッテが来客の食器を片付けに部屋を出て行くと、いつも通り知識を貰い、羊皮紙にペンを走らせた。
——今日は、知識の館様は答えてくれるかしら。あ、今日こそリュース様に報告のお手紙を書かなきゃ。毎日いっぱい覚えて訓練してるから、既に書ききれないわ。……どうしよう。
時間に追われるセーラの日々が幕を開け、これから先の怒涛の生活に思いを馳せるが、セーラには一年後が遠い未来のようにしか感じられなかった。




