第二章 加護の探究 第六話
本日から、セーラの教育が始まる。
セーラは二刻の鐘で目が覚めた。しとしとと柔らかく降り注ぐ雨音が、閉まったカーテンの向こうから聞こえる。
起きてカーテンを開けようとした時、静かに扉が開閉する音が聞こえてセーラは思い出した。
——そうだ。ソイエッテが準備終わるまで寝とかないといけないんだった。
そうは言っても、人が動く気配の中、二度寝をするのは出来そうにない。
——母さんが下でバタバタしているのは全然気にならなかったのにな。環境が変わったからかなあ。
その内慣れるのだろうか、とセーラは思った。慣れる気などまったくしなかったが。
そんなことを座ったまま考えていると、ソイエッテが準備し終えたのかセーラを呼ぶ声が聞こえた。
「失礼いたします」
「あっ」
カーテンがしゃっと開けられた。
座ってぼんやり考え事をしていたので、寝直すことをしていなかったのだ。
ソイエッテが少し驚いた表情になり、セーラを見つめる。
——目が合った。
昨日は一向に目が合わなかったので、セーラは挨拶よりもまずそんなことを思った。
「もう起きてらしたんですね。では、洗面所に湯を用意しておりますので、そちらでお顔を洗ってきてくださいませ」
「はーい」
欠伸をかみ殺しながら返事をすると、ソイエッテが目線を外して窘める。
「セーラ様。それは、お行儀が悪いと言われます。お気を付けください」
「あっ、ごめんなさい」
セーラは慌ててベッドから降りると、洗面をしに向かった。ふと、振り返ってソイエッテに笑いかける。
「教えてくれて、ありがとうございます」
「……いえ、仕事ですから」
ソイエッテは、昨日と同様首を振った。
——まあ、仕方がないか。
セーラは肩を竦めて洗面所に行った。
洗面所には、温かい湯と新しく柔らかい布が用意されていて、セーラは嬉しく思った。ソイエッテは、セーラと距離は置いているが仕事は手抜かりなくしてくれているようだ。
——嫌われていてもしてくれるなんて、ソイエッテは本当は気遣いできる人なんだろうな。私がこんなで、ごめんなさい。いつか仲良くなれたらいいな……。
昨日から、接し方以外では完璧だったのだ。部屋を整えてくれたことも、指摘も含めて色々と教えてくれたことも、セーラにとっては嬉しいことでしかない。嫌われていたとしてもソイエッテを嫌いになる要素はまったくないのだ。
しかし逆に、セーラが嫌われたり距離を置かれたりする要素はありすぎるので困る。平民であること、加護持ちであること、容姿が異なること、行儀作法がなっていないことなど、頭の中で上げていくと途端に落ち込んできた。
布で顔を拭きながら目の前の鏡を見る。
——私が直せるところなんて、行儀作法くらいしかないし。……直せるところは早く覚えて直そう。
ふと、頭の中で知識が何かに紐づいたのか、『環境が変われば水が変わる。その水に順応せよ』という処世術的な文句が出てきた。土地が変われば環境や習慣も変わるもので、その土地の習慣や風俗を受け入れて、自分の価値観と異なっていても順応していかなければいけない、という意味のようだ。
今のセーラには相応しい言葉だ。
——うんうん。自分が違うから認めろって言うのもおかしいもんね。それに、自分じゃ変えれないことの方が多いもん。
行儀作法以外は、セーラが能動的に変えることのできない、単なる事実なのだ。平民の立場も、加護も、容姿も。これは仕方がないことで、これを取り上げられたらセーラはセーラでなくなってしまうだろう。
でも、それを言い訳にしちゃいけないな、と考えながら部屋へ戻ると、既に着替えの準備をしてソイエッテが待っている。
「セーラ様、朝食後からすぐにお勉強が始まります。悠長にしていてはすぐに時間が過ぎてしまいますよ」
「わっ、ごめんなさい」
——物思いに耽りやすい癖も直さないと! あれ? 意外に直すところ多くない?
手早く着替えさせてもらい、髪に櫛を通してもらう。
セーラの髪は真っ直ぐ肩の下くらいで、残念ながら結い上げれる程の長さにはない上に、細くまとまりにくい。ソイエッテはそれを確かめるかのように髪を触っていたが、諦めたらしく櫛を通しただけで終わりにするようだ。
「セーラ様。こちらの髪飾りは……?」
鏡台に置かれた深い緑の色石が付いた髪留めに視線をやり、ソイエッテはセーラに尋ねた。
カナエに貰った髪留めだ。
「あっ、それは村で一番仲良しの友達に貰った宝物なんです」
セーラは笑顔になってそう言う。言った後に少し不安そうな顔になった。
「これ、ここに置いていてもいいですか?」
ソイエッテは伏し目がちにセーラから下がると、問題ないと了承してくれる。
「ここは、セーラ様のお部屋です。何か入れ物を用意しましょう」
「ありがとう! 嬉しいです!」
そのままソイエッテは会釈して下がり、朝食の用意をしに行った。
入れ替わりにゼレットが入ってくる。
「セーラ様、おはようございます」
「ゼレット……さん、おはようございます」
敬称を避けようとして拙くなった挨拶に、ゼレットは笑った。
「正解です。ただ、朝食はまだですか?」
「今からです」
「今日は初日なので、予定が詰まっています。急ぎましょう。朝食を食べながら予定を聞いていただきます」
本来、食事は食堂でするのだが、基本的に使用人以外はセーラ一人しか邸にはいないため、部屋で取ることになるようだ。ゼレットは、今部屋に無い食事用のテーブルを用意することを説明しながら、執務机へセーラを誘導した。真ん中にあるソファと低いテーブルでは、確かに食事を行儀良く食べるのは難しそうだ。
ゼレットもソイエッテを急がせるべく一旦部屋を出て行き、すぐに二人一緒に戻ってきた。
朝食を執務机の上に準備するソイエッテの顔が少し赤いようだが、大丈夫だろうか。
ゼレットが一緒に準備をしているからかも知れない。
とは言え、手早く朝食の用意が整った。祈りを終えると、セーラはいい匂いに待ちきれなくなっていた麺麭を食べ始めた。なるべく丁寧に、を気を付けながら、新鮮なサラダと分厚いベーコンと一緒に頬張る。
——やっぱり、ここの食事は美味しいな。
セーラは嬉しくなって、ゆっくりと咀嚼する。
その間にゼレットは羊皮紙に目を向けながら、今日のセーラの行動を話していく。
「まず、朝食を終えたらすぐにサヤアーヤ様がいらっしゃいます。こちらでお迎えください。しっかりとお勉強なさってくださいね。四刻の鐘が鳴りましたら、サヤアーヤ様と一緒に昼食です。こちらも行儀訓練を兼ねてになりますので、宜しくお願いいたします。午後からは、一度邸の面々と顔合わせです。不意に会って驚かれることのないよう、先に説明してしまいましょう。貴族ではない下働きの者もおりますゆえ、セーラ様の容姿に貴族以上に驚かれるというのは想像がつきますでしょう?」
「そうですね。村の人間は誰も話にすら聞いたことがなかったことだと思います。他の街でもそうだって父さん言ってたし」
ゼレットは頷いた。
「五刻の鐘の前には終わるでしょうから、その後は、少し休憩時間を挟みまして、六刻の鐘が鳴る頃に知識の館に到着するように夕食と湯浴みを終えていただきます。知識の館にはネイティオがおりますから、目録の作成を行ってください。七刻の鐘が鳴る前にこの別邸へ戻って本日は終了となります」
顔合わせ以外は、先日リューシュヴェルドから聞いた予定と相違ない。
「頑張ります。そういや、今日はリュース様は来ないんですね」
「ええ。本日は城よりお戻りになりません。本日の顔合わせは私が、そして顔合わせの時と知識の館へ行く時の護衛にはボルタークが参りますので、部屋を出ないようにお願いいたします」
「分かりました」
他にも二、三点注意事項を聞きながら、セーラは朝食を終えた。
機を見計らってか、丁度良くソイエッテがお茶を淹れる音が聞こえてくる。
「では、到着次第ご案内いたしますので、しばらくお待ちください」
そう言うと、ゼレットは姿勢を崩さず会釈をして出て行った。
ソイエッテに入れてもらったお茶を飲んで今日の予定を考えていると、数冊の本を胸に抱えたサヤアーヤが、ゼレットに案内されてやってきた。
ゼレットはすぐに部屋を出て行き、ソイエッテはもう一度お茶の準備をしに退室する。
サヤアーヤは本を持ったまま、片手でドレスの裾を少し持ち上げ、とても優雅に挨拶をした。
「おはようございます、セーラ様」
「おっ、おはようございます、サヤアーヤ様」
セーラも見様見真似でスカートの裾を上げて挨拶をする。
「セーラ様、私のことは先生とお呼びくださいませ」
「確かにそうですね。失礼しました。サヤアーヤ先生、おはようございます」
セーラは言い直した後、サヤアーヤの前に立ち、この後どうしたらいいか分からず前に重ねた指先を揉んだ。
「まあ、セーラ様は菫色のドレスがとても良くお似合いですこと。でも、その仕草は無作法です。部屋の主は貴方なのですから、来客の時は席をお勧めして下さい。この部屋ではソファが適当でしょう。知識に言い方はありますか?」
セーラは、無意識に動いていた指を止め、紐づけてみる。
「ようこそいらっしゃいました。お待ちしておりました。こちらへどうぞ。お掛けくださいませ」
本を音読するように言うセーラに、サヤアーヤはふんわり笑った。
「ふふっ、いろいろ出て来るのですね。同じような言葉はその時や場所に応じて取捨選択しましょう。ただ、これは慣れですので、急ぐ必要はありませんからね」
サヤアーヤは、ソファへ行き座った。胸に抱えた本は、自分の隣にそっと置く。
セーラは、自分の部屋にやってきたこの美しい女性を前に、緊張していた。ソイエッテが戻って、お茶を淹れている音が聞こえてくる。
「まずは、改めて自己紹介させていただきますね」
少し低い艶のある声でゆったりとそう言うと、サヤアーヤはにっこりと笑った。
「よっ、宜しくお願いします」
ソイエッテが淹れたお茶を置いた下がった後、サヤアーヤは話し始めた。
「先日お話した通り、私はグレンフィードの姉です。近衛騎士隊長と領主様の専属護衛を兼任する父と、グレンフィードともう一人の弟も近衛騎士隊に所属するという騎士家系に育ちました。母は早くに亡くなりましたので、男ばかりの中で育ったためか他の令嬢とは違い、活発で剣や弓なども嗜んでおりますの」
「えっ? 剣ができるんですか?」
「違います」
サヤアーヤは、笑顔を崩さずに硬い声で言い切った。頬に手が添えられている。
セーラは固まって、思わず口をぎゅっと閉じてサヤアーヤを見た。
「まあ、驚きました。剣術を嗜んでいらっしゃるんですか?……が正解です。はい、どうぞ」
手の平を上に向けて、セーラは促された。
「……まあ、驚きました。剣術を嗜んでいらっしゃるんですか?……」
セーラは、サヤアーヤの言ったことをそのまま復唱した。感情がこもらないのは仕方がないだろう。サヤアーヤは頷くと、何事もなく会話を続けた。
「ええ。グレンフィードとも手合わせするのですが、なかなか楽しいものでしてよ」
そこで一旦話を区切り、サヤアーヤはお茶を一口飲む。
何か返事をしなくては、とセーラは思うが、何が正解を考えると分からなくなってしまい、会話が続かない。
「それは、私もやってみたいです……」
「まあ、興味がおありですか?」
「ええ、村では……」
そこで遮られる。
「違います」
サヤアーヤは、また笑顔を崩さずに説明する。
「村の話はしてはいけません。もちろん、セーラ様の価値観を作ったのは村での出来事がほとんどでしょう。記憶に密接に紐づいているはずですから、言葉にするのも容易いと思います。しかし、村での話は貴族の中では常識にはなり得ません。セーラ様が違うということをアピールしてしまい兼ねないのです」
セーラは、驚いたが納得した。侮られないためなのに、村の話をしては本末転倒だ。セーラは、サヤアーヤがこちら側だと思って、勉強の場だと認識できていなかったのだ。
「そうか……。ありがとうございます。肝に銘じます」
「違います」
——……ええ?!
「そうか、は駄目です。先生の仰る通りですね……が正解です。はい、どうぞ」
また手の平で促される。
「うう……先生の仰る通りですね。ありがとうございます。肝に銘じます」
——こっ、この先生……。怖い! 何が怖いって、この笑顔が怖い! もしかして、会話の度に駄目だしされるの?! もう、何が何だか……!
セーラは、戦々恐々としながら、知識だけでは何ともならない無意識に口から出る言葉の訓練に、初日の第一歩目から既に逃げ出したくなっていた。




