第一章 初めての旅 第二話
馬車が荷台に乗せた身体を揺らす中、セーラは幌から少しだけ顔を外に出して心地いい風を感じた。
村を出発してから暫くは、森が続く。
南の村の北側には森があって、アランディアの他の場所に行くには、この森を抜けないとどこへも行けない。南の村は隔離されていると言っても過言ではない土地だった。
村の先達が行き来に利用するために整備した馬車が通れる道は一本道で、そこをなぞっていけば反対側に抜けられるのだ。
今日は天気が良く、木漏れ日を浴びながら未だに行ったことがない森の先へ目をやる。
セーラは、森の入り口しか入ったことがなかった。森の先どころか、森の中も分からないことがいっぱいだ。友達が話してくれたことと、いま目にしたことが初めて紐づいたりもしたが、基本的には知らないことばかりだった。
自然に笑顔が零れてくるのを敢えて我慢せず、目に見えた疑問をセーラは次々と二人へ投げかけた。
「何だか村よりも涼しい気がする! なんで?」
「あ、あそこに水が出てる! あれは……海?」
「あ、あそこに見たことのない実がある! あれは食べれる? 美味しい?」
「あれは? あれは何?」
「この鳴き声は鳥? 何だろう、聞いたことがない鳴き方。何の鳥か知ってる?」
「あの蕾は何色の花が咲くの?」
堰を切ったように溢れ出す、年齢より幼いそれを聞きながら、御者台の二人は笑いを押さえつつ答えたり訂正したりした。
何と微笑ましいことか。初めての出来事に心を震わせる様を目の当たりにして、大人たちは嬉しくも懐かしさを思い出す。
でも、笑ってはいけない。馬鹿にしているわけではないからだ。
知識を得ていなくても聡いセーラのこと、なるべく丁寧にソジュとレグルスは教える。
セーラは、答えられる度に一つ一つ復唱して、すべてを頭に入れていっているようだ。もしかしたら、そのように生きざるを得なかったのかもしれないが、セーラは人一倍物覚えが良かった。必ず一度で理解し、理解できるまできちんと聞いた。
レグルスは改めて感心した。
いわゆる上司の娘であるセーラには、今までに何度か会ったことはあるが、挨拶しかしたことはなかった。異質な見た目はもちろん知っていたが、どちらかというと大人しくあまり話しをするイメージがない。
もしかして知らないことが多くて大人しくしてたのかも知れない、と目を大きくして頬を紅潮させ、頭巾を手で押さえながら周りをきょろきょろ見ているセーラを肩越しに薄く見てそう思った。
「ソジュさん、改めて思ったけど、彼女賢いっすね」
「そりゃ、俺の娘だからな」
普通のように頷いてソジュが返すと、レグルスは苦笑する。
「それは置いといて。大人しい子だと思ってたけど、我慢させてたのかも知れないなと思って。あ、ソジュさんが、っていうことじゃないです。俺たち村の大人がってことですよ」
「……」
ソジュは、少し難しそうに眉を寄せた。
「守るって、難しいんだ。自由では当然、いられないからな」
「……そうですね」
「今回も一度『知識の館』で最低限の文字を覚えたら、村で十五の儀を迎えて、このまま生活していくことになるだろう。こう言っちゃなんだが、女で良かった、とは思ってるんだ」
「え?」
「もし、男だったなら、仕事は好きに選ばせてやれなかっただろう。でも、女ができる仕事はある程度限られているし、外向きじゃない。まだあまり考えたくはないが、結婚に関しても、村の人間なら注意すべきことも分かってるだろうし、理解もしやすいだろう?」
「そうですね」
「辺境の辺境にこうして生まれたことがセーラにとって良いことなのかどうかは分からないが、なるべく平穏に、少しでも幸せでいてくれたらいいと思ってる。それで不自由があったとしても、だ」
むしろ、それ以外の選択ができないのだろう。天秤にかけるものが、セーラの自由、のみであるならば。それを我慢だと思わせてはいけないのだとソジュが語ることも、間違いではないのだ。
「セーラはどう思ってるんですかね?」
ソジュは更に眉間の皺を深くし、手綱を握りしめた。
「聞いたことはないし、言ってきたこともないな。そのことに安心してるのも……ある」
不甲斐ないけどな、と歯噛みするように言って、ソジュはため息を吐いた。そして少し笑った。
「……ま、いい子だよ」
「ははっ、そりゃ、違いねえや」
レグルスは軽く笑うと、セーラを振り返った。
「セーラ、もうすぐ森を抜けるぞ」
「わあ!」
感極まったように両手を合わせて、セーラは前方を見た。
ソジュやレグルスにとってただの荷運びの道でも、セーラにとっては冒険なのだ。
——待っててね! 『知識の館』!
森を抜けると、視界が開けた。
南の村や森は、台地の中でも少し高台になっているのか、少し遠くまで見通せる。
左手には緑豊かな山脈が、ずっと北の方まで続いている。近くには他の森や、牧草地、畑も見える。
広いというだけで、村の景色とそう違うところもない田舎の景色だが、何だか空気が違うような気がして、セーラは鼻から乾いた朝の空気を思い切り吸い込んだ。
春の終わりの暖かい風を感じながら、先ほど声を落として話す大人たち二人の会話から漏れ聞こえた、十五の儀がもうすぐ来る夏を待ち遠しく思う。
——父さんたち、きっと聞こえてないと思ってるだろうな。まあ、あまり聞こえなかったし聞かないようにしてあげたけどさ、私の話をしてるってのは分かるよ。心配かけてごめんね。なるべく一人で生きていけるように、手に職付けて頑張るからさ。
セーラは楽観的な性質だった。この環境がそうさせたのかもしれない。嫌なこともできないことも、歯がゆいと思うことももちろんある。特に容姿の違いから、今日まで村の外に出られなかったことはつらかった。けれど、父親や母親、近所の人や友達たちは、少なくともセーラを受け入れてくれているし、それが当たり前だったから、そんなつらさはセーラにとって些細なことだったのだ。
——それに、我慢したからこそ今日はとても素晴らしい日なのよ! 今までで一番くらい!
前向きに幸せをかみしめながら、セーラは空気を抱きしめる様に手を広げた。
また、御者台から笑い声が聞こえてくる。
「くくっ、楽しそうだね」
レグルスに見られていたらしい。ソジュは手綱を握っているからかあまり後ろは見ない。
「そ……それはもちろん!」
自分の世界に浸っていたことを恥ずかしく思いながらも、セーラは素直に言った。日々の農作業で太陽を浴びているにもかかわらず、色素自体が薄いのかセーラの白い頬は薄く染まっている。
「じゃあ、もっと楽しい話をしてあげよう」
「ほんと!?」
「ああ。昼の休憩まで時間はたっぷりだ。それに、暫くは景色もあまり変わらないからな」
「聞きたい!です!」
幼子のように右手を高く上げて返事したセーラを見て、レグルスは「いい返事だ」と頷きながらまた笑った。
「セーラちゃんは、『知識の館』がなぜあるか、聞いたことはあるかい?」
何の話かと大きな翡翠色の目を更に大きくして、セーラは首を傾げた。
「領都にあって、本がたくさんあって、子ども達が色々知識を貰うところだ……というくらいしか聞いてないかも」
指を折りながら記憶を辿って、セーラは答えた。確かに友達からは、館で文字を勉強したことやどんなところだったかとかどんな人がいたとか、何をしたら怒られるとか、そういうことを聞いたことはあるが、なぜ存在するかなんて、そんなこと疑問にすら思ったことがなかった。
改めて聞かれると、そういえば何でなんだろうと知りたくなる。
「村にはさ、文字を勉強する手段なんてないだろ? それは、人からの伝達ができないようになってるんだ。アランディア文字というものをまずは勉強するんだけど、これはアランディアの許可された人間だけしか使えないようにされているからね」
セーラは頷いた。文字を知っている人に聞いたことは何度かあるが、セーラが理解できるように答えてくれた人はいなかった。両親もだ。書いてある文字を一度見ても、次に見た時には形が変わっているような気がして、一つも分からなかった。
「使えないようにされているって、どうやって? なんで?」
レグルスは、前へ向き直って領都の方角を指さした。
「アランディア領都の先々代の領主様、つまり、アランディア領ができた時だな。他国から山脈を超えて侵略があって、先々代の領主様の軍隊が打ち勝ったんだ」
と、レグルスはアランディアの歴史を話し始めた。
ユール・ディフェル王国の国境と定められた山脈は、遠くからでも圧倒されるほどの聳え立つ山が連なっている。緑豊かでいくつか超える道はあるものの、険しく、また獣も多い。そして、山脈の向こう側から来ようと思うと、山に入るより先に、雄大に流れる大河を渡河してから山越えをしなければならず、王国はあまり山脈側に注意を払っていなかった。
アランディアの台地は王領地であったにもかかわらず遊休地となっており、当時は点在する農村しかなかった。警備や軍隊などは王都より北の海岸側に多く置かれていたようだ。北の大陸や海からの守りが重要だと考えられていたためである。
しかしある時、守り手のいない集落が点在している中で、隣国が山越えをしてきた。理由は、流行り病からの飢饉。大河と山脈で阻まれた国境の先には、疫病も阻んだ肥沃な土地がある。となれば、飢えた自国の民を救うためというのは立派な大儀になってしまうのだ。
隣国の兵士は、死地にもなり得る大河と山脈を、文字通り屍を超えてやって来た。
隔離されているということは、情報の到達もまた遅く、ユール・ディフェル王国の対応にも遅れが出たことで、それなりに被害が出たようだ。
しかし、当時王国の騎士団長だったアランディア領主は王都から軍隊を率いて駆けつけ、勇猛果敢に戦い、山越えと飢饉による飢えで疲弊した敵を大きな身体で蹴散らした。
「……と、そう伝えられている」
レグルスは、そう一区切りを置いてセーラを見た。
「それで、戦後処理や復興、隣国に対する防衛を目的に、先々代に新たな領地として与えられた。それが、アランディア領なんだ」
「ま、最近は交易ができるようになって、防衛の在り方も変わりつつあるがな」
ソジュが情報を付け足した。
「確か、その物語は聞いたことがあるよ。まさかアランディアの話だとは思わなかった」
セーラは、確か母さんが寝物語に聞かせてくれたな、と思い出しながら答えた。
「確かに物語っぽいね。実際にあったことだけど、口伝されていく中でちょっとずつ尾鰭がついていった可能性は十分に考えられるな」
「で、それが知識の館にどう関係するの?」
「防衛のためだ」
ソジュが答えた。それに頷きながら、レグルスが続ける。
「そう。まず今回のことで一番困ったことが、情報の伝達なんだ。パニックにもなるし、一人に伝えてもその先へ伝わっていかない。情報の収集もできないという状況で、まさに力技で何とかしたっていう状況だったみたいだよ。だから、街の復興と並行して、領主として初めて行った防衛手段としては、山の入り口に大きな壁を作ったことが一つ。騎士や軍隊の育成と、文字の作成だった」
「文字を、作った?」
「そう。もちろん公用文字は王国で使われているものだ。だが、アランディアだけの文字を作って、それをアランディア領民が覚えることを義務としたんだ。そうすることで、他国の人間は理解できないが領内では滞りなく情報が伝達できるからね」
「でも」
と、考えながらセーラは聞いた。防衛の手段としては、とても弱い気がした。
「文字なら勉強したら分かるんじゃないの? 暗号とかで少人数だけが知ってる文字じゃなくて、アランディアの全員が知ってるなら、ばれちゃうと思うけど。その文字が盗まれちゃうなんてことないの?」
「それが不思議なんだが、絶対に他国や他領の人間は分からないようになってるんだよ。セーラも自分で覚えようとしても理解できなかっただろ?」
ソジュが、セーラが隠れて覚えようと努力していたことを知っていたのかそう答えると、セーラはちょっと恥ずかしそうに肩をすくめた。
「うん。一つも分からなかった。私が馬鹿なんだと思ってたけど、違うんだね。良かった」
うんうん、と頷きながらセーラはちょっとほっとした顔をした。
「ははっ。セーラちゃんだけが覚えれないんじゃないんだ。そして、その不思議の秘密は、知識の館で実際に文字を覚えてみるのが一番だね」
レグルスが含みを持たせてフォローしてくれると、セーラは、より知識の館への興味が広がりまだまだ遥か先の領都へと気持ちだけが風と共に向かっていくような気がしていた。




