第一章 初めての旅 第十話
『やはり、光が強いな』
「え?」
突然耳の側で聞こえた声に、咄嗟にセーラは反応した。静かな館内に声が響き、セーラは「私語厳禁」のルールを思い出して小さくなった。
頭巾を押さえながら、そっと後ろを振り返る。
セーラの声は黙殺されたようで、安堵する。知らない間に人が増えており、二階や三階にも人がいるようだ。
衝立で区切られた閲覧席の右を見ると、三つほど空いて人の背が見えた。
セーラは衝立の中に隠れるように伏せた。
今の声は何だろう、気のせいか? と、不思議なことが続きすぎて頭が痛くなってきたセーラは、幻聴とかそういったこともあるかもしれないと無理やり納得しようとする。
『気のせいでは、ない』
また耳の側で声が聞こえて、セーラは椅子に座ったまま飛び上がった。咄嗟に口を押さえたことは、セーラにしては賢明だった。押さえていなかったら悲鳴を上げていたかもしれない。冷や汗をかきながら少しほっとし、それでも慌てて頭を低くした。
まるで、セーラの思考に対して返事をしたように聞こえて、セーラは恐ろしくなった。
いくら何でも、そんな不思議があるとは思えない。
そんなセーラの心中などお構いなしに、耳元の声が再び聞こえてくる。
『私は知識の館、と呼ばれている』
——え?
今度は、驚かないことにとりあえず成功する。
『お主は、珍しい色を持っておるな』
ドクン、と心臓が跳ねる。
それはその通りだが、この声の主が知識の館だとするならば、目がどこかにあるのだろうか、とセーラは疑問に思った。
『目はない。ただ、感じる』
思ったことにすぐに反応する声に、セーラは勇気を出して聞いてみることにした。
——あの……、知識の館様は、私に文字を教えて下さるのですか?
セーラは、間違っても拒絶されないように、声を出さず、丁寧に丁寧に思ってみた。
『うむ』
少し考えているような声が聞こえる。それが、なぜか人間らしく思えて、セーラは少し落ち着いた。
——本が、全部光ったのはなぜですか?
『それは、お主にその知識が必要だからだ』
——全部ですか? なぜ必要なんですか?
『それは今知るべきところではない』
——文字しか願っていませんが……。
『それだけでは足らぬ、と判断された』
——判断……された?
『それもまた、今のお主の知るべきところではない』
むむ、とセーラは眉を寄せた。
答えてはくれるけれど、すべてが曖昧だ。
——他に全部の本が光った人がいますか?
『ただ一人だけ』
——その人も私と同じような見た目ですか?
『見た目は私には分からぬ。目はないゆえ。しかし、確かに珍しい色をしていた。お主とは違うが……』
——その人は全部覚えたのですか?
『……お主、質問が多いな』
——あ、すみません。
何とも不思議なことに、セーラは目に見えない知識の館とやらに叱られてしまった。
それでも、分かっていないことが多すぎて、目の奥がぐるぐると回る。
『少し話す』
——……はい。
『私が話すのは、建立されて以来、初めてのこと』
——え?
『聞きなさい』
——あ、はい。
思わずセーラは肩を竦める。
少し間をおき、また耳元で声が響いた。耳の側とも遠くからとも、何とも判別が付きにくい響きだ。
『お主の色は、とても複雑だ。複雑ではあるが、それには理由がある。しかし、それは、今知るべきではない。なぜなら、お主は今から私の知識をすべて与えなければならないからだ。それが、始まりだ』
——ど、どうやってだろう?
『ふむ。とりあえず詰め込むとしよう』
——え? 大雑把?!
セーラは目を白黒させた。
『仕方がない。素地のないお主に端から端までは難しい。因みに、もう一人いると言ったすべての知識を吸収した人間は、端から端まで自力で知識を得た。お主と違って、一時に光ったわけではないが……ふむ……』
館は、考えているようにまた少し間をおき、続けた。
『お主にできるとは思わん』
侮辱したかのような言葉だが、まったくもってその通りだ。できるとはセーラ自身も思えない。
——無理です無理です! 私は明日、村に帰らなきゃならないし……。私は文字を覚えに来ただけ。
剝がれるように丁寧な言葉は崩れていくが、館はどうやら気にならないらしい。
『私自ら、お主に知識を授ける。少し苦痛を伴うかもしれないが、私にはその感覚が分からないから敢えて無視しよう、とそう思う』
——無視? 無視って言いました?
セーラは怖くなり、頭を低くしたまま両手で自分の腕を抱きしめた。
『知識は一時に与えても、使いこなすのは難しかろう。それに関しては、主から委細任せるように言葉があった』
——……主って、領主様?
このことが領主様に分かってしまっているのだろうか、とセーラは戦々恐々と尋ねた。もし知られているならば怖すぎる。
『主は主。領主とやらではない。どうやら……主はお主を必要としているようだ。なぜかは……私にも分からぬ』
——知識の館様でも分からないことがあるんですね。
『何事も、万能ではないということだ。では行くぞ』
話の途中で、ぶった切って進めていく様子に、セーラは付いていけずに慌てた。
——ちょ、まっ、え?
その瞬間、本から光が飛び出した。背後の本棚からも光が集まっているのだろう。集まった端から円を描くように中心に光が集まっていく。そして、その光はどんどんと渦となり大きくなっていった。恐れと、目に入る光景に慄きながら、セーラは渦巻く光を見つめた。
突然ドンと大きな衝撃が身体に走り、腹辺りが熱くなった。そこから、光の渦が入ってくる。
——どういうこと?
セーラは、机と身体の隙間から腹に入り込む光を見て思ったが、その瞬間頭に様々な知識が一気に流れ込んでくるのが分かり、声にならない声を発した。実際は発していなかったかもしれない。
ただ、情報量の多さと制御しきれない自分の脳と身体に摩擦が起こり、まさに身体の中心から引き裂かれそうな痛みが走る。
——やめて! やめて! 痛い!
涙を流しながら救いを乞うが、誰も、知識の館も答えてくれなかった。
情報が増えるにつれ、意識が低下していくのが分かり、セーラは最後に懇願した。
——助けて……死んじゃう……。
そして、セーラはそのまま気を失った。
……どれくらい時間が立っただろうか。
セーラがふと目を覚ますと、辺りは暗く、橙色の照明が壁の高い位置から柔らかい光を降り注いでいる。
汗で張り付いている下衣が気持ちが悪い。気を失っている間にその汗が体温を奪ったようで、セーラはぶるっと身震いした。身体の内側が冷えている。
ザーっと遠くの方から音が聞こえる。セーラは身体を起こせずに、窓の方へ目だけをやると、雨が降っているのが分かった。外は薄暗く、随分時間が経ってしまったようだ。
自然と覚醒するのを待ちながら、目を閉じると、目の奥がぐるぐると回っている。
——……あれ? 何があったんだっけ? ここ、どこ?
しばらく覚醒を待ちながら、ぐるぐるとふわふわの中で漂っていると、はっとセーラは気付いた。
頭巾だ。
頭に手をやると、きっちり被っているのが分かってセーラは安堵した。
——た、助かった~!
誰も気付かなかっただろうか。セーラは重い体を起こし、辺りを見回す。見回したところで、これだけ薄暗かったら問題ないだろう。
一階に人の姿は見えない。
そして、思い出した。
知識の館と話をしたこと、館に知識を与えられたこと、知識を得たいとは思っていたが、まさかあのように有無を言わさず一気に流れ込んでくるとは思わなかったこと、全身の痛みが激しかったこと……。そんなそれぞれを、なぜか落ち着いてしまった頭で思い出した。
そして、セーラは落ち込んだ。
自分の異質さは見た目だけだと思っていたし、珍しいだけだと開き直りもしたが、恐らく、本当の意味で異質なんだということを思い知らされた気がしたからだ。
——私、どうしたらいいの?
館は言った。
本がすべて光ったのは、セーラともう一人だけ。そして、館が話し掛けたのはセーラだけなのだ。
セーラに起こったことを、父親に分かってもらえるような気がしなかった。相談することも躊躇ってしまう。両親や友達、村の人たちに、あの時の旅人のような目で見られるのは絶対に嫌だ。
そんなことを思いながら、セーラは目の前に置かれた本を捲った。
「はあ……」
思わずため息を吐いた。読めるからだ。
そして、読めても意味がない。知っているからだ。
あれだけ欲しかった知識が煩わしいもののようにも思えて、セーラは悲しくなった。
ただ、頭の中に詰め込まれた知識は、点在しているような気がした。まったく紐付いておらず、この館内にあるすべての知識を得たとは思えない。今、本を眺めて初めて、知っているという感覚になったからだ。
セーラは、これからどうしようかと考えた。六刻が過ぎてなければいいのだが、時間が分からない。
仕方がない。受付に戻って、途中疲れて寝てしまったことを説明して父親を待つことにした。
本を棚に戻すために持ち、食べなかった昼食の包みを持って左を見ると、壁の地図が目に入った。
館と話す前に見入ってしまった、大陸の地図だ。
もう一度忘れないようにじっくり見た。そして目を閉じて頭の中を探る。
どうやら知識は与えられているようで、断片的に分かる地理や歴史は出てくるものの、あまり紐づいていないようで分からない。
ぐるぐると頭を巡る知識に気分が悪くなりそうになり、セーラは慌てて目を開けた。
もう一度地図が目に入ると、その南の曖昧に雲が懸かっている部分が、揺蕩うように揺れているような気がした。本当の雲のようだ。だが、右に左にゆっくり動くだけで、その下にある地形が現れることはなかった。
少しそのまま待つ。先ほど地図を見ていた時、知識の館が話しかけてきたからだ。もう一度、話しかけてこないかと思ったのだ。
まだまだ聞きたいことがたくさんある。
知識を得たところで、どのように使えばいいのか、どうしたらいいのかまったく分からなかったからだ。
——知識の館様、知識を得たようです。……どうしたらいい?
セーラは、心の中で呼びかけてみた。
しかし、暫く待ってみても、答えが返ってくることはなかった。先ほどはすぐに返事が返ってきたことを思い出すと、返事をするつもりがなさそうだ。
——もう一度、お話がしたいです。また来ることが出来たら、声を掛けてくれますか?
……やはり声は聞こえない。
「ふぅ……」
もう一度鼻からため息をついて、セーラは立ち上がった。時間も気になるし、これ以上待つことはできない。
立ち上がった瞬間、先ほどから治まっていない頭のぐるぐるとふわふわが、一気に強度を増して襲ってきた。
セーラはよろめいて、ガタガタと音を鳴らしながら机で身体を支える。
「き……気持ちわる……」
昼食を抜いたセーラの胃は空っぽで、酸味が口の中に上がってくるのを不快に感じながら、セーラはゆっくりと出口へ向かう。気持ちが悪くて意識が飛びそうだ。
駄目だ。また気を失ったら、大変なことになる。先ほど頭巾がずれなかったのはただの幸運でしかない。また、気を失ったことに気づかれなかったのも、恐らく目立たない最奥の左端だったからだ。これも、幸運でしかない。
ここで気を失ったら、絶対に気づかれる。それは絶対に避けなければ、とセーラは力を振り絞る。
ふらふらになりながらも本を棚に戻し、両手で頭巾を握ると同時に、鐘が鳴った。
——一つ、二つ、三つ……。
数を数えて、今が六刻の鐘だとセーラは分かった。時間を過ぎていないことに、気持ちが悪い中少し安心した。
そして、そろそろと扉を開けると、待合席で既に座っていたソジュが、右手を上げた。雨避けのためか、外套を着ているのが見えた。
笑顔だったソジュの眉が少し寄せられて、怪訝な表情になったのが分かった。
「父さん……、気持ち悪い……」
顔色を変えて席を立つソジュの手が自分に向けて差し伸べられるのを見ながら、セーラはもう一度、今度は安心して意識を失った。




