第一章 初めての旅 第九話
「おはようございます」
女性の声が奥から聞こえた。
誰もまだいないからだろうか、声が良く響く。
よく磨かれた木の床を見たままだったが、玄関ホールが広いことを理解して、セーラは少し緊張した。
受付の方に足を進めながら、ソジュが挨拶を返し、二人は受付の前に到着した。
「それで……と。今日は初回の申請ですね」
ソジュが出した申請書を見ながら、受付の女性が確認する。
「あら、もうすぐ十五なんですね。……珍しいこと。あなたは?」
「ああ、私は父親です。娘はとても病弱で村からはなかなか出ることができなかったんです。でも、もうすぐ十五の儀があるので、生活していくためには必ずこちらでの登録が必要でしょう。今日は付き添いで来ました」
「分かりました。セーラ、まずは貴方が領民かどうかの証を今から確認します」
自分に話しかけられていることが分かったセーラは、目を伏せたまま小さく「はい」と答えた。思いがけず震えも声に乗ってしまったようだ。
慌ててソジュがフォローする。
「娘はほとんど外に出たことがないので、引っ込み思案なのです。無作法で大変申し訳ないのですが、決して不敬なわけではないので、どうかご容赦を……」
「ええ、ええ。大丈夫ですよ。下町や他の街の子どもたちは、元気が良すぎて困るくらいですもの。作法についても知識の一つとして必要であれば与えられるかもしれませんね」
少し同情めいた口調だったことに、セーラはほっとした。ソジュも同じように感じているのが伝わってくる。 ただ、一度も言われたことのない『引っ込み思案』が自分に無い要素すぎて居心地が悪かったのではあるが。
「ありがとうございます」
「ええ、ええ。大丈夫です」
「領民証はここに持ってきています」
「ええ、ええ。照会を掛けますので、暫くお待ちください」
女性が席を外す音が聞こえた。
ソジュがかがんで頭巾の下からセーラを覗き込んだ。
「大丈夫か?」
「ええ、ええ。大丈夫」
そう言うと、くすっと笑う。受付の女性の口癖を聞いて、先ほどから少し面白く感じていたのだ。落ち着いてきたみたいだ、と、セーラは一度深呼吸してソジュを見る。
ソジュもにやっと笑うと、「今から説明だからな。ちゃんと聞き漏らさないようにしろよ」と言い、足音が聞こえたのですぐ元の姿勢に戻った。
「照会できました。セーラね。ソジュとケレーラの一人娘。南の村で、今年十五の儀を迎えるのね」
何の書類を見ているのか分からないが、一つ一つ確認するように自分自身のことを説明されて、何となく面映ゆい気持ちになった。
「貴方は十五の儀を終えたら、どのような職業に就きたいか希望はあるかしら? 子どもたちには将来はどうしたいか、と聞きますけれど、もしかしたらもう決まっているのかしら」
「はい。娘は病弱なので、体調がいい時は畑仕事と後は針仕事、家事手伝いを主とした仕事をします」
ソジュが代わりに答え、セーラは間違いがないというように頷いた。
ほとんど体調がいいのは秘密だ。
「ええ、ええ。なるほど。では、知識は仕事に必要なものも与えてくれるかもしれませんね。今回の滞在は?」
「本日一日と、明日の午前だけになります。その後は村に戻らなければならないので」
「それでは、覚えきれないかも知れませんね……。まあ、それは館が判断するでしょう」
少し難しそうな声を出しながら受付の女性は言ったが、セーラには意味が分からなかった。
(館が、判断……? 私でも、受付の人でも、先生とかでもないの?)
少し首を傾げながら、セーラは考えてみたが、どうにも理解できない。
すると、受付台の向こうから目の前に木札が差し出された。丁寧に磨かれた木札で、真ん中に透明の石が付いている。木札の端には長い革紐が括りつけられていた。
「セーラ。これが入館証です。館内では肌身離さず持っていてください。なければ館に拒絶されて知識を得ることができないのです」
「……分かりました」
意味不明だが、分からないことを考えても意味がない。セーラは素直に受け取って頭巾の上から革紐を首にかける。
「ええ、ええ。それが一番無くしませんよ。帰りは受付に返してくださいね。明日はまたここで受付を済ませて入館証を受け取ってから中に入ってもらいます」
「はい」
「では、説明しますね」
マニュアル化されているのか慣れているのか、受付の女性が流れるように説明を始めた。
「まず、知識の館は領主様の結界により守られています。平民の貴方には理解し難いものだとは思いますが、結界は領主様だけが得ることのできる不思議な力だと思っておいてください。ここで見聞きしたこと、得た知識を使うことは可能ですが、ここで話したこと、受けた説明やどのように知識を習得したかなどは他言できないような結界になっています。しようとしてもできないので諦めてくださいね」
なるほど、不思議な力なんだ、物語に出てくる魔法のようなものかな? とセーラは納得した。
「そして、この奥の扉を開けると、知識の間です。三階に渡って知識の本がありますが、入口で習得したいことを願ってください。貴方だと、例えば針仕事の技術や畑関連のことになるかしら。そうすると、館がそれを受けて、必要な知識の本を光で指し示してくれます。貴方はそれを取って、各階に備えられている閲覧席で読むのです。読むことで知識が得られます。これにも不思議な力が働いていると思ってください。ただ、習得したいと願って読まない限り、覚えは悪くなります。何度も足を運ばなくてはなりません。何度も足を運んでも、覚えられないこともあります。生活に直結した知識が有るのと無いのでは後々他者と差が出てしまうので、なかなかそんな人はいませんけどね。幼い内は覚えられないこともよく見られます。」
そこで、ふと疑問に思ってセーラは、頭巾を深く被ったまま尋ねた。
「あの……、私文字が読めません。本も読めないと思います。文字を読めるようになるために今日は来ました」
「あらあら、そうね。貴方は初めてですものね。幼い子じゃないから、説明するのを忘れていました」
思い出したように女性は言い、説明を続けた。
「ええ、ええ。文字は一番大切です。願った後に指し示られた本の中に、一番光るものがあるはずです。それが文字習得の本です。これは、開けば読み進めていけるようになっています。最後まできちんと読めば、文字は覚えられていると思いますよ」
最後まで読むのは少し大変ですが……、と添えながら言われた言葉に、果たして自分は明日までに覚えることが出来るんだろうか、とセーラは不安になった。
「館内の休憩所は三階にあります。飲食はそこだけですので注意してくださいね。あと、もちろん私語は厳禁です。話しながら本を読んではいけません」
他にも、何点か注意事項の説明があり、ようやく終わった。説明中に何度か入口が開き、人が入って来て、入口の側にある並んだ椅子に座って待つのをセーラは目の端で見た。
人がこれ以上入る前に、早く入りたいところだ。
「では、お一人でお進みください」
女性がセーラに見えるように手を目の前に持ってきて、奥を示した。
少し後ずさりしながら、セーラは指し示された方向を見て、その後ソジュを見た。
ソジュはセーラの肩に手を置きながら、再度かがんでセーラの目を覗き込む。
「父さんは今から仕事に行くからな。扉の向こうでしっかり学んで来い」
「分かった」
心細くはあったが、念願の文字だ。 一番乗りだから、少しは一人の時間もあるだろう。見回すくらいはしてもいいはずだ。
セーラはソジュに背中を押され、奥の扉へ向かった。
複雑な模様が掘られた大きな木製の扉は、触ることも躊躇うほど見事だったが、セーラは緊張しつつも扉を押した。
ぎいっときしむ様な音がして、重たい扉が開く。
セーラが中に入ると意外に薄暗く、また少し緊張したが、目が慣れてくると見たことのない景色に圧倒された。
「わあ……!」
室内は吹き抜けで、真ん中に螺旋階段があり、三階まで続いている。
奥には大きな窓があり、その手前に窓に向かって長机が何列か並んでいる。長い机にはいくつか衝立があり、それぞれ個別で座れるようだ。恐らくこれが閲覧席だろう。
本来は日の光が差し込むのだろうが、今日は生憎曇り空だ。薄暗く感じたのはそのせいもあるかもしれない。
左右には、様々な本がずらりと並んでいる。一階から三階まで隙間なくだ。大きさもばらばら、背表紙の色もばらばらだったが、それが何とも室内の雰囲気と調和して、居心地のいい空間を演出しているようにも思えた。
——何て素敵なんだろう! こんなところ、頭の中にも出てきたことない。これが、知識の館なんだ!
久しぶりに姿勢を伸ばし、上を見上げて目も口も大きく開いたまま食い入るようにしてあちこちを見ていたが、そうこうしている内に他の人が入ってきてしまうかもしれない。
——え~っと、願えばいいんだっけ。
先ほどの話を思い出しながら、いつも食事前に感謝の祈りをするように、セーラは急いで胸の前で手を組み、目を閉じた。願いを唱える前にセーラはもう一度周りを見回して、頭巾を下ろす。何となく、知識の館に対して不敬な気がしたのだ。
——知識の館様、文字の知識を貰いに来ました。どうか私に教えてください。
すると、本が光った。瞼の向こうに光を感じ、セーラは薄らと目を開ける。
ぽつぽつとゆっくりと光り出す光景がとても幻想的で、ここ以外では恐らく見ることが叶わないに違いない。
ほう、とセーラはため息を吐き、心臓が高鳴っている音が耳から聞こえるような気がした。
——ああ、これが知識を得られる本。一番光っているのは……。
文字の本を探そうとセーラが棚を見回すと、その内、どんどんと光る本が増えていき、セーラは混乱した。
——え? どういうこと? 私、何か間違えた?
セーラが混乱している間に、眩しいくらいにどんどんと本が光り出していく。
しばらくすると、すべての本が光っていることに気が付いた。一階から見上げた三階まですべてだ。一度ぐるりとセーラはそれを見渡したが、呆気にとられて開いた口が塞がらない。
そして、少し光が落ち着いた時に後ろの扉がきしむ音が聞こえた。
はっ、とセーラは我に返り、慌てて頭巾を被りなおす。そして、訳が分からないまま近くの光る一冊を取ると奥の閲覧席に急いで向かった。最奥にある列の左端の席に、隠れるように座って頭を抱えた。
——どれが一番光ってたなんて分からないよ!
後ろを振り返りたいが、人がいる。セーラの願いによって光った本たちはいったいどうなったのだろうか。後続の人たちは、自分が願った本がちゃんと光るのだろうか。そもそも、すべて光ったことは間違いだったのかもしれない。
セーラは頭を抱えたまま途方に暮れた。手元にある本をそっと開けてみたが、文字の本ではないようだ。字がぶれて変化し、全く読めそうにない。
セーラはため息を吐いた。
全部光った、と受付の人に聞いてもいいだろうか。そんな人はいるのだろうか。もし、それが見た目と同じ人と違うことであるならば、それはとても怖ろしいことだ。セーラはソジュに相談したくてたまらなくなった。
しかし、ソジュは既に知識の館を後にしているだろう。彼も仕事があるのである。
受付の人も今は忙しいだろうし、髪色や目の色が分かってしまう様なことは避けたいし……と、質問しに行かない理由を作り出し、セーラは椅子に張り付いて本を読むようにページを捲った。
どうしよう、どうしよう、と泣きそうな気分になりながら、読めもしないページを捲っていると、ふと左の壁に、地図が額に入って飾られていることに気づいた。
とても古い地図のようだ。
文字は全く読めないが、恐らく大陸の地図だろうとセーラは理解した。南から北へ流れ出る大河と、その東側に並ぶ山脈が描かれていたからだ。ということは、恐らくその更に東側がユール・ディフェル王国なのだろう。どの辺りがアランディア領かは全く分からない。もしかすると、領ができる前の地図かも知れない。
しかし、セーラは疑問が湧いた。
何故か、大陸の下側がないのだ。わざと曖昧にされているかのように、雲が懸かっているような描き方をしている。
セーラは、そこに心が惹かれた。
南の村は、村より南からの警備をしているはずだ。もちろん、行った旅人たちが帰ってきたことはなく、南から誰かが来たこともない。獣が南からやって来て戦ったなんてことも今までに一度もない。
警備を手薄にすることは領主様の命によりできないが、もしかしたら何もないのかもしれない、と村人たちは思っている。
しかし、何もないかどうかも分からないのかもしれない、とふとセーラは感じた。
——じゃあ、王国は南のどこまでが国の土地なんだろう。
次々と疑問が湧いてくる。
……もっと近くで見てみたい、と思った瞬間、不意に声が聞こえた。




