序章
「風、今日は強いな」
南から吹く風が、勢いよく少女の身体を通り抜けていった。丘の上に立つ大樹の根元に寄りかかるように座っていたからか、大樹とともに風を割ったかのように感じられる。
風の勢いで顔にまとわりついた髪を丁寧に払いながらそう独り言ち、少女は遠くを見た。そして、南の方角へと目を凝らす。
すると、色素の薄い目に光が入り込んで眩んだ。手で太陽を遮ってもう一度遠くへ視点を合わせると、緑が続く大地のその先に、キラキラと輝く黄土色が煙るように見える……気がした。
——あれは、本当のことだろうか。
ここ数日で起こった一連の出来事を反芻しながら少女は思った。生きてきて凡そ十五年間知らなかった知識を初めて得た時の、愕然とした気持ちを改めて思い出す。知識だけではなく、得る過程も含めてすべてが知らないことばかりだった。そして、それからずっと不安なのだ。
一つ深いため息を吐き、そっと目を伏せて自身の両手の平を見た。下を向くと、肩から髪が落ちる。磨けばきっと輝くだろうと言えるが、手入れの足りていない金の細い髪は今は鈍い光しか反射していない。纏めずに垂らしたままだ。
意志の強そうな目は翡翠色をしている。見る角度や光の加減でそのように見える、というのではなく、本当の翡翠色だ。
少女の生活する集落は、彼女を除く全員が暗い髪、暗い瞳をしており、少女はとても異質な存在だった。
だが、人間ではないのか、拾われた子なのか、など異質なことに対するネガティブな考えは少しもなかった。なぜなら、異質なのはそれだけで、他は皆と大差がなかったからだ。顔立ちは、父親と母親の良い部分をきちんと受け継いでいたし——なんなら母方の曾祖母にそっくりだと言われたこともある——、言葉の覚えも、成長のスピードも、普通の範囲を超えるものではなかった。
街とも呼べない集落の中、小さい集団で生活しているにもかかわらず、少女は気詰まりに思うこともなく伸び伸びと育った。
ただ、大人たちは少女が異質であることを理解しており、少女は集落から出ることはなかった。
他の街や村へ訪れるにも徒歩では難しい。領都に向かうには馬車で数日掛かる。もちろん集落には学校もなく、広大な自然の中の閉鎖された狭い範囲でこれまで少女は生きてきたのだ。
辺境の辺境であるこの集落に訪れる者は決して多くはない。極めて稀に、南へ向かうという『変わり者』がやって来て少女の容姿に目を瞠ったが、南へ旅立った後、例に漏れず一度たりとも戻ってきた者はいなかった。
自分の手を見つめたまま、少女は今まで既に知っていたことを考えた。
——まず、ここは山脈の麓の台地にあるアランディア領……の南の端っこ。
——それから、アランディア領のあるこの国は、ユール・ディフェル王国。
——ユール・ディフェル王国があるのは、大陸を走る山脈の、東側。
——大陸は、サンフェルン大陸と呼ばれている。
考えながら、一つずつ指を折って確かめていく。土地のことに特化して既知の事実を数えているのは、少女に不安を与えた出来事がそれに関わっているからだ。
ここ、サンフェルン大陸は途轍もなく広い。見たことはないが、国の東側には無辺にも思える海洋があると、少女は聞いたことがあった。
世界の中で南側にあり、二番目に大きいと言われているこの大陸は比較的穏やかな気候で、動植物や人間が生存しやすい環境だ。
大陸の東寄りに大河が南北に走っており、この大河に沿って東には緑豊かな山脈が連なっている。その山脈を国境として、更に東側の土地を治めるのがユール・ディフェル王国だった。
そして、王国の中でも辺境とされる南寄りの山脈の麓には台地があり、その台地を含む南寄りの麓一帯を領地とするアランディア領がある。アランディアは、国境の警備と他国との通商や交易の拠点として国から任命されており、後は、山からの恵みと、台地を利用した果樹園や畑の作物が民たちの生活の糧であった。
辺境のアランディアの中でも辺境の、人口が三百人にも満たないこの集落は名前がなかった。『南の村』と、そう呼ばれていた。そして、人も通らないこの集落では交易には全くかかわりがなく、土地の野菜と山での狩猟、そして南側の警備で細々と生活を営んでいた。警備と言っても南側から来る人は一度もいた例はない。そして南の村より南には村はなく、人はほとんどいないという話だった。何を警備するのだろう、と子どもながらに少女は思ったものだ。
自給自足ができない布やその他の必要な生活用品は、数月に一度、大人たちが領都へ馬車で行き、干し肉や青果を売って手に入れてくる。
少女は、今まで得た知識を確かめるように、一つ一つゆっくりと思い出して数えていった。
そして、それが少女の全てだった。あまりにも少なかった。
でも渦中にいる人間には、その知識の量が多いのか少ないのかを意識することはないだろう。それがすべてだからだ。
それが、先日情報の一端に触れただけで、少ないことを意識させられてしまったのだ。
「また、領都に行きたいな」
再び独り言ちながら、少女は膝を抱えて顎を乗せた。
学校のない南の村では、子どもたちは早い内から生活をするための「勉強」をする。自給自足とは、結構過酷なものだ。実地でしか得られない経験がほとんどなので、大人と一緒に仕事をするのだ。それを嫌がる子どもはいなかった。できなければ、食べていけない。それは切実なものだったし、また、軽くこなしているように見える大人たちがやはり恰好良かったからだ。
警備に対する訓練は狩猟で経験を得る。男の子たちは、自分の体より大きな獣へ恐怖を覚え、血に恐怖を覚え、食べるために命をいただく行為そのものに恐怖を覚え、それを克服する頃に漸く見習いとして認められるのだ。もちろん、克服ができない子、克服はできても要領の悪い子などは別の職を得て、そこで力を発揮していく。
親の職業をそのまま受け継ぐというのは、技術伝達がスピーディであることに加え、武器や道具が共同で使えるという理には適っていたが、必ずしも継がないといけないかというとそうではなく、できる人ができることを……というとてもニュートラルな考え方を南の村は持っていた。余所がどうであるかはもちろん少女は分からないので、それが当たり前だと思っていた。
少女を含む女性陣は何をするのかというと、衣食住を整えることと、小さい子どもたちの養育、畑や果樹園での仕事など、多岐にわたった。得意不得意はあれど、皆がそれぞれすべての仕事をこなせるようになることが、女性には課されていた。
今日も少女は朝から畑に向かい、収穫を終えた後一息入れているというのが今の状況だ。一息が長くなっていることは気が付いているが、腰が重く、大樹の根元から離れられないまま時間は午後の終わりに向かっている。
出来事以前と、それからでは、異なる感覚を持った異なる人間のように自分が思えて、その不思議さと不安と、なぜか焦りとが拭えないままでいたのだ。見た目は異質でも普段は普通の少女が珍しく異質な感覚に陥っていた。
背中を丸めて膝の上に顎を乗せたまま、少女はもう一つ、ため息を吐くのだった。




