第8話『再来する大火』
大迷宮の事故から二日後。
一日の休養を経て再開された学院の様相は、今までとは少し変わっていた。
具体的には、ぼくたちを見る視線に変化があった。世界を焼いた魔女の娘とその友達、そんな近付くのも忌避される存在に向けられる畏怖や恐怖といった視線が感じられなかった。
「アステリオさん、おはよう!」「おはようございます、ミリシアさん!」
「セナちゃんおっはー!」「フィーネさん、おはようございます!」
「アステリオ。お、おはよう」「アッシュくんもおはようございます!」
ずっとセナを避けていた生徒たちが、擦れ違う度に彼女と挨拶を交わしている。
よく見てみると、セナに声をかけるのは一昨日の事件で迷宮に取り残された中にいた顔ぶれだった。
「セナ、今のは……」
「一昨日迷宮で仲良くなった人です」
「ぼく以外の、友達……」
「皆、灰都の火で大切な人を亡くしていて、だからイヴに対する偏見が強かったんです。でも、話してみたらいい人たちでした」
「そっか……よかったね」
何が、良かったんだろう。
口ではそう言ったけど、胸の奥はなんだかモヤモヤしていて、上手く言語化ができなかった。セナに友達が出来るのは嬉しい、嬉しいんだけど……でも少しだけ寂しい。
「イヴ・グレイシア」
セナが皆に認められている様子を微笑ましく見ていると、今度はぼくの名前が呼ばれた。
振り返ると、そこに立っていたのはアンネとイリーナ、テレジアを取り巻く従者の二人だった。アンネは右、イリーナは左、骨折したのか三角巾で吊った腕が痛々しくて少し申し訳なくなった。
二人は怒りとも、嫉妬とも取れそうな複雑な表情でぼくを見ていた。
何か悪いことでもしたのだろうか、心構えをしていると、二人して深々と頭を下げる。
「不甲斐ない我々に代わりテレジア様を救ってくれたこと、感謝する」
「先の事故、一人の犠牲者もなく我々全員が帰還できたのはお前の助力あってのことだ。ありがとう」
「……あ、えっと……」
まさか感謝を告げられるとは思わなくて、ぼくは言葉を詰まらせた。
これまでも魔法を使って皆を助けてきたけど、決まってその後は怖がられるのがオチだった。魔女への恐怖は未だ拭えず、皆トラウマになって心の奥に突き刺さって、それが分かっているのに気付けば身体が動く、その繰り返し。
ずっと……どうして人助けなんかしているんだろうって、考えていた。
「……ごめん」
「お、おい! なんでお前が泣くんだ!?」
「私たちがいじめたみたいになるだろ!?」
口を押えて泣き出すぼくを見て、二人はひどく慌てた。
助けたのが、ぼくなんかでごめん。
感謝されているのに、ぼくの口からは謝罪の言葉しか出てこなかった。
こういう時、どうしていいか分からなかったから。
あまり、面と向かってありがとうって言われたことなかったから。
「あー! アンネとイリーナ、イヴに何を言ったんですか!!」
「私たちは違う! こいつが勝手に泣き出したんだ!!」
「そうだそうだ! 大体、こいつが私たちの言葉程度で泣くわけないだろ!!」
「……それもそうですね」
「「「おい、お前が納得するな!!」」」「「「あ……」」」
三人して、セナへのツッコミが見事に被った。
一瞬気まずい空気が流れたけど、ぼくたちは顔を合わせて恥ずかしそうに笑った。
ぼくへの偏見が、少し薄れている。これも……セナのおかげなのかな。
「と、とにかく、そういうことだ、あまり調子に乗るなよ、魔女の娘!!」
「テレジア様はお前のことこれっぽっちも認めてないんだからな!!」
捨て台詞を残して、二人はぼくたちのもとから去っていった。
それがなんだかおかしくて、ぼくの口から笑みがこぼれる。本当に良かった。誰も犠牲にならなくて、こうして、笑って過ごすことができて、本当に。
「おはよう二人とも、二日ぶりだね」
「怪我の具合はどう?」
「時間を置けば完全に回復するはずさ。イヴの治療のおかげだ」
「ぼくは何もしてないよ」
教室に入ると、ぼくたちをアルミリアが出迎えた。
彼女もまだ傷は完全に癒えたわけじゃなくて、頭や腕に包帯を巻いていた。それでも日常生活に支障が出るような後遺症は残らなかったから、一先ず安心だ。
「それにしても、君は何ともないんだね。私はてっきり、骨折の一つや二つしているものだと思っていたんだけど……」
「頑丈なのが取り柄なので!!」
激戦の後でも傷一つ残っていないセナをまじまじと見て、アルミリアは苦笑する。
フンス、と鼻を鳴らすセナ。ぼくは改めて、例の星剣の自己修復はかなり強力なものだと実感した。
ただそれ以上に、「治るから」とセナが無茶を重ねるんじゃないかという危惧もあった。セナの自己治癒は治るだけ、痛みまで消せるわけじゃないし、何より即死に対してはどうすることもできない。だからこそ、ぼくがちゃんと見ていないと。
「しかし、頑丈だからといって無茶をしてはいけないよ。次もイヴが助けてくれるわけじゃない。自分の身は自分で守らないとね」
「うぐっ……それを指摘されると何も言い返せません……」
ぼくが頭の中で考えていたのと同じ指摘をアルミリアにされると、セナは気まずそうに視線を逸らした。
「……思えば、この学院に来てからずっと、イヴには助けられてばかりですね。ありがとうございます、イヴ」
「きゅ、急に感謝されても、反応に困る……」
「あれ、もしかして照れてます?」
「うっさい、ばーか」
セナの笑顔には弱い。何故かすぐ心がかき乱されて複雑な気持ちになる。
彼女はそれを分かっているのだろうか……いや、知らないな、絶対知らない、だってセナ馬鹿だもん、他人の感情の機微とか彼女には何一つ察することはできないだろう。
「はーいお前ら席につけぇ」
そうこうしていると、教室のドアが開いて、寝癖が放置されたままのリツ先生が欠伸をしながら姿を現す。
席の位置に決まった順番はないから、ぼくたちは最後列の窓際からアルミリア、ぼく、セナの順で並んで座った。
今日も、学院の授業が始まる。
◇ ◇ ◇
して―――昼休憩になった。
ぼくの隣で机に突っ伏しながらスヤスヤと寝息を立てるセナは授業なんて頭に入っていないよう、間抜けな寝言をブツブツと呟いている。
「先お昼行くから」
「まってくらふぁい、イヴ。わらひもいまふぐいきやふ……」
「寝起きで呂律回ってないじゃんか、顔洗ってきなさい」
「ふぁーい……」
セナはゆっくりと立ち上がり、眠い目を擦りながら教室の外へ。
ハッキリ覚醒してない意識の中でも、ぼくの名前だけはしっかり呼べるんだな。
で……アルミリアはというと―――
「寝起きのセナ……あぁ、すぐ写真を撮れないのが悔しい……っ」
「ダメだこいつ、完全に壊れてる」
ミステリアスで何を考えているか分からないけど、容姿が良いうえ性格も聖人なので学生人気がある皆の王子様……そんなアルミリアのイメージは、もうすっかり崩壊してしまった。今の彼女はセナ・アステリオという勇者に憧れる一人のお姫様だ。……お姫様、だよね?
「イヴせんぱーい! お昼行きましょー!!」
「ミリ先輩だけっすか? セナ先輩はどこに……」
「寝起きで顔洗ってる。すぐ来るから先行こっか。アルミリアもほら」
「あぁ、今行く」
授業を終えたシオンとクロエの二人と合流して、教室を出ると、いつになく他人からの視線を感じた。
だけどそこから負の感情は読み取れなかった。セナのおかげで、少しだけぼくを見る目も変わり始めているのかな。
「お待たせしました!」
顔を洗ったセナと合流して、食堂へ。長い廊下を五人で他愛もない会話をしながら歩くなんて、少し前までは考えられなかった。
足元ばかり見ていた視線も、今はしっかりと前を向いている。これも、セナのおかげだ。
平和な日々が戻ってきた。そう感じた、瞬間のことだった。
「……セナ?」
風が吹いた。
屋内で風なんて吹かないはずなのに、セナの髪が大きく揺れた。
いや違う、セナの髪が揺れたのは彼女が突然走り出したからだ。
「お母さん!」
お母さん―――セナは確かにそう言った。
学院は関係者以外立ち入り禁止だ。セナの母親が休職中の教師というなら話は別だが、少なくともそんな人をぼくは知らない。
ひどく、違和感を覚えた。
セナの視線の先には、一人の女性が立っていた。
背中まで伸びた真っ白な長い髪と、フードの隙間から覗く真紅の瞳。
アルミリア、シオン、クロエの三人は、その女性の容姿を一目見て、驚愕と恐怖に顔を歪めた。それは、本能に刻み込まれた畏怖が呼び覚まされた表情だった。
そしてぼくも、同じ顔をしていたと思う。
「久しぶりだね、セナ。元気してたかい?」
「はい! 友達も沢山できて……どうしてここにいるんですか?」
「なに、近くに寄ったから昔の知り合いのところへ顔を出そうと思ってね。イヴも久しいね! もう五年ぶりか……」
セナがお母さんと呼んだ女性は、ぼくを見てにこりと笑い、手を振った。
三人の視線がぼくに集まる。五年ぶり、ぼくを知る女性、三人の頭の中で着実にパズルのピースが集まっていくのを表情の微細な変化が語っていた。
あぁ……やっぱり、そうなんだ。
「何しに来たんだよ……お前……!!」
「お前とは酷いなぁ、可愛い娘の顔を見に来るのがそんなに悪いことかな?」
「えっ、娘……?」
セナがぼくと女性を交互に見る。どれだけ見ようと、血の繋がりはないから容姿に似通った点はない、ある一つを除いて。
「【氷王の覚醒】ッ!!」
ぼくは三人を守るように一歩前に出て、女性に向けて絶対零度の奔流を放つ。
触れるもの全てを凍てつかせる吹雪を前に、女性は顔に貼り付けたような気色の悪い笑みを絶やすことなく、ただ一言―――
「《その改変を却下する》」
たった一言呟きだけで、ぼくの魔法を霧散させた。
ただ衝撃は消しきれなかったようで、女性のフードが外されて、下に隠されていた顔が露になる。
「何しに来た……何しに来たんだよ……焔の魔女ッ!!」
王都を焼いた厄災の魔女、焔の魔女アリシア・イグナ。ぼくの育ての母親であり、魔法の師匠であり、セナを救った恩人……王国全ての敵が、そこにいた。
「アリシア……イグナ……?」
状況を吞み込めていない様子のセナは、ぼくの口から告げられたその名前が、自分の母親のものであることをようやく把握する。
恐怖、驚愕、ただそれ以上に、自分の信じたものが全てまやかしだったと思い知らされる絶望に歪んだ表情に、ぼくは罪悪感を覚えた。
ごめん……セナ。だけど、その女は間違いなく、王都を焼いた大罪人だ。
「嘘、ですよね……お母さんがあの、焔の魔女なわけ……」
「そうだよ、《《私》》が国王レガリスを殺し、王都を焼いた悪い魔女さ」
師匠は笑顔を絶やすことなく、セナを突き放すように、彼女の信頼も、信用も、何もかも裏切って、彼女の言葉を否定した。
どこからともなく出現した黒い剣が、アリシアの右手に握られる。
セナにとって師匠は、燃え盛る王都から救い出し、生きる術を与えてくれた恩人だ。そんな彼女に裏切られて、セナの心には怒りや憎しみ、悲しみといった感情が渦巻いていたと思う。
だけど師匠はそれら一切合切を振り払うように、黒い剣をセナの心臓へと突き立てた。
「なん……で……」
「セナ……っ!!」
身体を貫通して、背中から飛び出す黒い剣の刀身。
傷口から赤く、紅い血がこぼれ出て、セナは大きく吐血する。
血だまりが彼女の足元に広がる。出血量からして、いいや、刺された箇所からして心臓を一撃、もう、助からない。
「ふざけんなよ、アリシアぁぁあああああああああああああ!!」
視界から飛び込んでくる情報を処理しきれなくて固まっていたぼくたちの中で、一番最初に飛び出したのはクロエだった。
彼女は翡翠色の二対の斧を手に、風となって師匠へと襲いかかる。
「星斧か」
クロエの風の刃が師匠に届くことはなかった。何重にも折り重なった障壁が、彼女への攻撃を全て相殺する。完璧な防御に、クロエは舌打ちをして交代、師匠の反撃への対応に出る。
「【《炎姫の憎悪】」
師匠の掌に収束した黒い炎が、槍となってクロエに襲いかかる。
槍……といっても、その規模は廊下一帯逃げ場のない黒炎の槍だ。クロエが例えスピードに長けた魔導師だとしても狭い場所では、自慢の速度も活かせない。
「させない!!」
黒い炎とクロエが衝突する瞬間、隙間に割り込む影が一つ。
左手に白銀の大盾を携えたシオンが師匠の炎を打ち消し、盾が霧散する魔力を食らう。師匠はその光景に眉一つ動かさず、笑顔を絶やさないまま感嘆の声を零す。
「星盾……つくづく厄介だなキミは。だが―――その弱点を私は知っている」
「一歩でも動ければ……の話だけどね」
「へぇ……」
「縫い留めろ、星槍。【光の楔】」
天井から降り注いだ三本の光の槍が、師匠を囲うように床に突き刺さる。
彼女の影を縫い留めて、一歩たりとも動くことを許さない聖域が師匠を拘束して、それ以上の反撃を許さない。
「今だイヴ、消し飛ばせ!!」
アルミリアの合図で自分がやるべきことを自覚し、ぼくは師匠に向けて走り出す。
遠距離からじゃさっきと同じように【解呪】される。なら―――ゼロ距離で……!!
「《七星の叡智》【星紡ぐ物語】ッ!!」
ありったけの魔力を右手に集中させ、掌を向けて照準。
今ぼくに出来る最大火力を、焔の魔女へとぶつける。
「星杖の章、第三節【炎姫と氷王の邂逅】―――ッ!!」
内側から湧き出る魔力が青い炎へと姿を変える。
火球を形作る必要はない、ただ勢いのまま、魔力の塊をぶつけて吹き飛ばす。
師匠の障壁の上から右手を叩きつけ、掌から噴き出した蒼炎がアルミリアの光の杭の拘束すらも破壊して、師匠を壁に激突させる。
まだ……まだだ、壁なんていらない、天井なんていらない。全て吹き飛ばせ。
廊下の壁が崩壊する。
蒼炎は、アリシアを包んで蛇のように渦を巻き天高く舞い上がり、爆ぜた。
普通の人間なら消し炭どころか肉片一つ残らない爆発。
「本当に、ただ娘の顔を見たかっただけなんだけどなぁ……」
だけど相手はあの魔女だ。
爆炎の中から姿を現したアリシア・イグナには、傷一つついていなかった。
それどころか、炎が彼女に届いていた痕跡すらなくて、ぼくの魔法は、魔女が張った障壁に全て、掻き消されていた。
「でもよかった……これなら、計画を最終段階に移行できそうだ」
「何を……言って……」
空中に留まる師匠は、一冊の本を開く。
【星紡ぐ物語】と同じ装丁の赤い本からは、魔法の気配が感じられた。
《七星の終わり、悠久刻みし叡智の終幕》
《星空の嘶き、編纂するは己が理》
《世界を記し、言葉を紡ぎ、我が祈りをここに綴る》
《七星の叡智》【星嘆く黙示録】
ぼくがマギステラを使う時と同じような詠唱文で本が開かれると、青空に、黒い雲が満ちていく。
上空に魔法陣が無数に展開されて、太陽の輝きを奪い、世界を闇に閉ざしていく。
雨が……降ってきた。
触れた先から炎を生じる、漆黒の雨。
ぼくは……いいや、この場にいるぼくたち全員が、その光景を知っていた。
「灰都の……火……」
アルミリアが小さく呟く。
五年前、王都を焼いた黒い炎、その第一段階……黒い雨がプラネスタに降り注ぐ。
「さぁ……存分に暴れてくれ、【ディメナ・レガリア】」
黒い雲を引き裂いて、一体の魔物が姿を現す。
巨大な翼をはためかせ、中心街に降り立つ深紅の悪魔。
魔神の古王……【ディメナ・レガリア】。
その体躯は優に十メートルを超える最強の悪魔。千年前、勇者によって倒されたという記録を最後に、王国では一切観測されていなかった伝説の化身が、プラネスタに降り立った。
雷鳴が轟く、五年前の記憶が確かなら、あの後にやってくるのは魔物の軍勢だ。
王都を焼いた災厄の炎が、今、プラネスタを焼き尽くそうとしていた。