第41話『ちょっとおかしなアルミリアさん』
ぼくたちの日常に平穏が戻ってきた。
長い間姿を消していたぼくが突然戻ってきても、学院の皆は特に噂にすることもなく、今まで通りの生活を送ることができている。アストライア家の一件はそこそこ話題になってはいたけど、プラネスタに帰還して十日が立つ頃にはすっかり平常運転。
今回の一件、表に出て話題になっていたのはシオンだったから、ぼくはその陰にひっそりと隠れる形でやり過ごせていた。多数の生徒から質問攻めを受けていたシオンを見るのは少し面白かったけど……それを微笑ましいと眺め続けていられるほど、現実は優しくないわけで―――
「よいしょっ、と。重っ……!?」
同じ本を三冊ほど重ねて、腰や腕を痛めないようにゆっくりと持ち上げる。
ぼくは約二か月に及ぶ無断欠席の罰として、学院から大図書館の司書の手伝いを強制されていた。
何が「休学扱いにしてある」だ、あのロクでなし教師。全然違うじゃないか。おかげ様で課題も見事に貯め込んで毎日睡眠四時間コース。授業にもちっとも集中できなくて、欠伸が絶えない日々だよ。
「エメリー先生、これはどこに戻せばいいんですか?」
「それはオリバー・ノーディス版上級儀式魔術基礎理論の上巻だからぁ、二階のあそこにある下巻の隣に戻してくれる?」
大図書館に保管されている蔵書の貸出手続きに使うカウンターに腰かけている銀髪女性教師、エメリー・アルフレイヤ先生は丸眼鏡越しの深緑色の目をこちらに向け、遠目から背表紙を確認しただけでこの本の名称を言い当てて、保管先を指先で示す。
すごい記憶力だ。エメリー先生は装丁や装飾から館内のほぼ全ての蔵書を把握しているというにわかには信じがたい噂を聞いたことがあったけど、目の前でそれを見せられれば信じざるを得ない。
指示された本棚には、先生の言う通りオリバー・ノーディス著の上級儀式魔術基礎理論の下巻が収められていて、その隣に三冊分のスペースが空いていた。
「ちょっと、高いな……」
二冊を床に置いて、一冊ずつ棚に収納していく。
本自体に重量があるから、これがなかなか難しい。右手の包帯は取れたけど、後遺症が和らぐことはなくて少し重いものを持つだけで鋭い痛みが走るのが厄介極まりない。ひとまず、左手で背表紙を掴み、つま先で立ちながら最大限手を伸ばす。
「ぐぬぬぬぬっ……このっ、とどけぇ……っ」
エメリー先生の手伝いのために返却された本を収納する作業をしている最中は、たまに自分がひどく惨めに思える瞬間がある。それが今だ。
ぼくは学院の生徒の中で比較的……いや、かなり背が低い方だから、本棚の位置によっては手が届かないことがあった。こういう時は、周辺に台が置いてあるはずなんだけど、運悪くその場で辺りを見渡す限りは、それらしいものは見つからない。
こういう時、セナやテレジア、アルミリアたちのような長身が羨ましくなる。
セナ曰く、背が高いと不便なこともあるらしいが、日常生活において不便なことよりも便利なことの方が圧倒的に多いだろうに、嫌味かこのやろう。
「ふぬぬぬぬっ、こなくそぉぉぉおおお……っ」
駄目だ、数センチ届かない。本の端っこが棚の板に少し乗れば、後は押し込むように収納できるというのにそれすら叶わなかった。文字通り背伸びをしても届かないのは流石に明白なため、諦めて足場代わりになるものを探そうとため息をつくと、突然左手に感じていた本の重みが消える。
「はい。これでいいかい?」
「うわっ!? って、なんだ、アルミリアか。どうしてこんなところに?」
いつの間にぼくの背後に立っていた長身の女子生徒が、ぼくの左手からそっと本を引き抜き、代わりに棚に収めてくれた。
アルミリア・グランヴィル―――王国の実質的な運営を担う六星賢に所属する名家、グランヴィル家の後継者。容姿端麗で成績も優秀、人となりも良い完璧超人で、生徒人気の高い皆の王子様。こうして学院内での周囲からの彼女の評価を列挙すると、本当に同じ人間なのか疑いたくなるほど非の打ち所がない。
それでも、ぼくは彼女の人間らしい一面をいくつか知っているから、赤い血の流れたれっきとした人間であることは確かなのだろうけど。
「私だって退屈を紛らわすために図書館くらい利用するさ」
「むしろ何もなくてかえって退屈じゃない?」
「読書は嫌いじゃないんだ。それで、これをそこに戻せばいいのかい?」
「あ、うん、そうだけど……」
アルミリアはぼくの足元の残り二冊の魔術書を両手で一冊ずつ拾い上げる。
手伝ってとは一言も言っていないけど、台を探すのも面倒だったから、ひとまずは彼女の厚意に甘えることにした。
それからも、アルミリアはぼくが任された作業を一緒に手伝ってくれた。
ぼくの手が届かない場所には彼女が手を貸してくれたし、一人では今日中に終わらないと思っていた量の蔵書の整理は、二人で手分けして日が暮れる頃にようやく終えることができた。
「ありがとうねぇグレイシアさん。それとグランヴィルさんも本当に助かったわぁ」
「いやまぁ、無断欠席の罰なので……」
「私は困っていた友人に手を差し伸べただけですよ、アルフレイヤ先生」
「あらまぁ、優しいのねぇ。じゃあ、頑張った二人にご褒美をあげます」
ふわふわと柔らかな印象のエメリー先生は、調子の狂うゆっくりとした話し声と共にぼくたちに小さな袋を手渡してきた。隙間からかすかに漂う香りからして……焼き菓子の類だ。
「今朝方、クッキーを作りすぎちゃったのよ。よかったら食べて」
「あ、ありがとうございます……」
苦笑いを浮かべながら、エメリー先生からクッキーの入った袋を受け取る。
本当は喜ぶべきなんだろうけど、エメリー・アルフレイヤ先生は料理のセンスが壊滅的だと有名だ。彼女もリツ先生の元同僚、つまりは特務魔導師。魔術の実力は確かだけど、当時を語る先生曰く「見た目はまともだが味が終わっている。砂糖と塩の分量間違えてもこうはならねぇ、普通にゲロ吐く」らしい。
正直拒否したかったけど、どうにもぼくの良心の呵責がそれを許さなかった。
「それじゃあ、あまり遅くならないうちに帰るのよ」
「「はい、失礼します」」
アルミリアと二人でぺこりと頭を下げて、図書館を後にする。
外は夕暮れ時、もうすぐ日が沈んで夜になる。あまり寄り道せずに寮に戻ろう。ひとまず、エメリー先生から貰ったクッキーはバレないように処分して―――
「何してんのアルミリア!?」
隣を見ると、アルミリアが先生のクッキーを一口齧っていた。
エメリー先生の料理センスは壊滅的という噂は、結構有名だ。アルミリアが知らないはずがないから、ぼくは驚きのあまり、大声を上げてしまう。
「……噂ほどひどい味ではないね」
「えっ嘘」
「嘘じゃないさ、ほら」
アルミリアはクッキーを一枚指で挟み、ぼくに差し出して食べるよう促す。
いや待て、冷静に考えよう。先生の料理センスが終わっているというのは噂だ、そう、噂。噂なんてその気になればいくらでもでっち上げられる。ぼくは以前の経験からそれを痛いほど知っている。
百聞は一見に如かず―――とリツ先生は言った。つまり噂を信じるだけではなく、自分で挑んで確かめることが大切、ということだ。
「ほら、あーん」
「な、いくらなんでも、それは……」
壊滅的な味ではないことは、アルミリアの証言から確定した。
とはいえ、噂ほどひどい味ではないだけだ。少なくとも美味ではない。ぼくだってこの十年の生活である程度舌が肥えてしまったから、何でもかんでも腹を膨らますために食べていた昔と比べると、味には敏感だけども。
というか、冷静に考えたらこの絵面は一体何なんだ。まるで傍から見れば、ぼくがアルミリアに餌付けされているような気がする。いや考えるだけ無駄か、必死にクッキーから意識を逸らそうとしたけど、どうにもそれも無理そうだ。
「ほらイヴ、お食べ」
「君この状況楽しんでないかなぁ!?」
「楽しいさ、君の困った顔を見ることができるのだからね」
アルミリアは意地の悪い笑みを浮かべ、ぼくにぐいぐいとクッキーを近付ける。
負けるもんか、負けてやるもんか、絶対に負け―――あっ。
「んぐっ!?」
口の中へ強引にクッキーと一緒に、アルミリアの指が捻じ込まれる。
抵抗、そんなの無理。流石に歯を食いしばればこのままアルミリアの指を噛み切ってしまうことになるから観念して、無抵抗で身を委ねる。
舌の上にクッキーのザラザラとした表面が触れる。
その瞬間、ぼくは何と表現したら良いのか分からないほどの衝撃を感じた。
なんだ、なんだこれ、本当になんなんだこれ、クッキーなのに酸っぱい、辛い、苦い。少なくとも、レシピ通りに作った焼き菓子からは絶対にあり得ない味が舌に広がる。
「どうだい? 噂ほどひどくはないだろう?」
アルミリアは勝ち誇ったような笑みでぼくを見つめる。
いやこれ、本当にまずい。いや、不味いというか、これはもう……味の暴力だ。
「ま、まずい……酸っぱい、辛い、苦い、舌がひりひりする……」
「そうかな?」
「君、絶対味覚壊れてるよ……」
アルミリアの指ごとクッキーを吐き出して、息苦しかった呼吸を正す。
彼女はぼくの唾液に塗れた汚い自分の指先をじっと見つめ、しばらく目を瞑って一瞬首を振った後、ポケットから取り出したハンカチで拭った。
時折アルミリアの考えていることが分からないことがあるけど、今回はいつも以上に理解ができない。大体、急に口の中に指を捻じ込むなんて、何考えてんだよ。
「……不味いのか、これは」
「不味いに決まってるだろぉ!? 味の暴力だよこんなの!!」
「確かに刺激的ではあるが、食べられないことはないような……」
「そう思ってるのは君だけです!!」
アルミリアは過剰に拒絶するぼくの反応を見て首を傾げ、一つ、また一つとエメリー先生の味覚崩壊クッキーを口の中へと放り込む。
うっわまじか、まじかこいつこいつまじか。
「うん、やはり悪くない、むしろ癖になる」
「味覚おかしいって絶対……」
今日ほどアルミリアを理解できないと思った日はないだろう。結局、彼女は先生の味覚崩壊クッキーを全部食べてしまった。
味の感想としては「癖になる」らしいけど……ぼくにはとても理解できないし、理解したくない。
「ところでイヴ、話は変わるのだけど……その右腕、調子はどうだい?」
「どうって聞かれても、いつも通りだよ」
アルミリアに右腕の調子を尋ねられたけど、ぼくからの返事はいつも通り。
そう、たかが分厚い本一冊持ち上げるだけの負荷ですら気を遣ってしまう、不便なことこの上ない。それもぼくが望んだ結果なのだから仕方のないことだと受け入れてはいるけど。
「……そうか」
アルミリアはぼくの返事を聞いて、気まずそうに顔を伏せた。
もしかすると、彼女も気にしているのだろうか。
助けが遅れたせいでぼくの右腕に後遺症が残ってしまった、彼女もそう思っているのだろうか。
だとするなら、自意識過剰にも程がある。これはぼくが招いた結果であって、誰のせいでもないのだ。
だからひとまず彼女を励まそうとした瞬間、アルミリアは足を止めてぼくの肩に手を回し、抱き寄せて声を上げた。
「誰だ!?」
ガサガサと、近くの草むらから音がする。
それは一瞬のうちに遠ざかって、ぼくたちの耳では追えないほど小さくなってしまった。
「あ、ああああアルミリアさん……? 一体、何を……」
「怪しげな視線を感じた。すまないイヴ、あれを追いかけてもいいだろうか?」
「いや、別に気にすることないよ。大体、まだ学院の敷地内なんだからそう警戒することないって」
「……焔の魔女が討たれても、魔女の娘を恨む者は少なくないんだ。君はいついかなる時も命を狙われていること、少しは自覚した方がいい」
アルミリアはぼくの肩を掴む手に力を込めた。その眼差しには確かな決意と僅かにぼくへの呆れが込められている。
とはいっても、ここは学院の敷地内だ。怪しい人物はすぐに見つかるだろうし、何より侵入すら許さないのが学院の警備術式だ。あまり無警戒過ぎるのも良くないとは思うけど、警戒しすぎるのも体力を変に消耗するだけだ。
少なくとも周囲のマナの流れを見る限り、ぼくたちに視線を送っていた何者かに敵意はない。追いかけて捕まえて、何をしていたか問い詰めるまでもないだろう。
「心配してくれたんだね、ありがとう」
「友人にこれ以上怪我をされては、私の心が耐えられないからね」
「そうだね。ごめん、気を付けるよ」
「ならいいさ。君が無事であること以上に、価値のあることなんてないのだから」
アルミリアはぼくの右手にそっと触れて、僅かに口元を緩ませた。
改めて思うけど、彼女は本当に優しい人だ。ぼくなんかには勿体ないくらい素晴らしい友人だと思う。テレジアが恨んでいた時も、セナがやってくるまで、アルミリアだけは同年代でぼくを魔女を罵ることはなかった。この学院で出会えたのが奇跡だと感じるほどに、彼女は大切な友人の一人だ。
ただ時折すごくアホになったり、そんな気はないのに当たり前のようにキザな口説き文句を使ってくるのだけは、本当に心臓に悪い。顔が良いから尚更動揺する。
落ち着けぼく、相手はあのアルミリア・グランヴィル。何考えているか分からない天然の天才で、ぼくとは次元の違う存在。そもそも最近は顔を出していないが、彼女はセナのファンであって、ぼくとは友人以上でも以下でもない。
それに……同じ女の子なわけだし。
「そういうことだから、君を寮までエスコートさせてくれないかな」
「は、はい……」
結局、ぼくは差し出された彼女の手を握り返してしまった。
駄目だ、この女、顔が良すぎる。
そもそも女子生徒からの人気が高い皆の王子様である彼女は、非常に整った顔立ちをしている。ぼくの左目よりも綺麗なキリッとした凛々しい瑠璃色の瞳。サラサラでふわふわ、いい匂いのするブロンドの髪。白くきめ細やかな肌。すらりと伸びた手足とバランスの良い抜群なスタイル。おまけに人柄も良く出来ているのだから、欠点を探す方が難しい。動揺するなって言う方が無理な話だろこんなの。
ってそうじゃなくて!!
「一体どうしたんだよアルミリア、今日の君、なんか変だよ?」
「変……?」
「少なくともぼくが違和感を覚えるくらいには変だ。何かあったの?」
「いや、大したことじゃないさ」
「本当に?」
ぼくはアルミリアの両肩を掴み、彼女の目を真っ直ぐ見た。
様子がおかしいからどうしたのだと思うかもしれないが、テレジアやシオンといった前例もあるから、何か良からぬことに巻き込まれているんじゃないか心配だった。それこそ、アルミリアには日頃助けてもらっている感謝もあるわけだし、ぼくに出来ることなら何でもするつもりだ。
「アルミリア、何か悩みがあるなら話してよ。ぼくたち、友達でしょ?」
「だからっ、本当に大したことじゃないんだ! 頼むからその手を離してくれ!!」
「あ、ご、ごめん……っ」
まさかそこまで強く拒絶されるとは思わず、ぼくは手を離して顔を伏せる。
流石に踏み込みすぎただろうか。アルミリアの様子を見ると、ぼくと顔を合わせたくないのかそっぽを向いていた。
「すまない。気を悪くしないでくれ、私は君のことが嫌いではない。ただ……」
「ただ……?」
「何を話していいか分からないんだ。いつも、セナやテレジア、シオンやクロエが君の傍にいたから、二人きりとなると、私はいつもの私でいるのが難しくなるんだ。だからその、気を悪くしたなら謝罪しよう。すまなかった……」
それは、完璧超人のアルミリアにしては意外な悩みだった。
確かに言われてみれば、ぼくはあまり彼女と二人きりで会話をすることがない。
いつもはまるで二十四時間交代で監視でもしているのかと疑いたくなるほど、朝昼夜、寝るまでセナかテレジアかシオンがぼくの傍にいるから、アルミリアと二人きりになることは少ない。
というより、なんだかアルミリアとはまだ距離があるような気がしていたから、ぼくへの対応に悩んでいるとは思いもしなかった。結構、人間らしい可愛い悩みもあるんだなと思うと、いつの間にか笑みがこぼれていた。
「よかった。アルミリアもちゃんとした人間なんだ」
「む……私のことを何だと思っているんだ君は。正真正銘、人間の父と母から生まれた人の子だ。ほら……」
頬を膨らませながらアルミリアはそう言って、ぼくの左手を掴んで、自分の左胸……つまり、心臓のある位置を触らせる。確かに鼓動は伝わってくるけど……それ以上にぼくが気にしているのは、掌を支配する柔らかな感触だった。
一瞬、頭が真っ白になる。だけどすぐに、ぼくは自分が何をしているのかを理解して、アルミリアの胸から手を離した。
「な、ななななっ、何をしてんの!?」
「イヴが私を人間ではないと言うから、確かめてもらおうとしただけだが?」
「いや、そうじゃなくて……えっと、あー……」
何て言えばいいだろう。
少なくとも、彼女が他人に自分の胸を触らせることに何の抵抗もないド天然だということは分かる。それこそ、ぼくと同じことを誰かに言われれば、同じことをするんじゃないかという危うさがある。
「い、今の、ぼく以外には絶対にしないでよ!?」
だから、ひとまずそう忠告した。
嫉妬ではないけど、アルミリアのためを思うならこうするべきだと思う。
「あ、あぁ、それは構わない。しかし、どうしたんだ、イヴ。顔が真っ赤だ、熱でもあるのかい?」
「ない! 熱なんてないから!! あぁもう調子狂うな!!」
「そうか、それはよかった」
アルミリアはぼくの言葉を聞いてにこりと微笑んだ。
駄目だこれ、本当に頭がおかしくなる。二人きりで緊張するくせに容赦なく他人に胸を触らせるなんて、アルミリアが何を考えているのか分からない。
普通に可愛いし、綺麗だし、あと何、女の子って本来こんな柔らかいものなの? ぼくだって一応女の子なのに、何だろうこのそこはかとない敗北感は。
そうしてぼくは、寮に戻るまで彼女に対するどうしようもない劣等感のやり場に困り、敗北した事実と、成長の乏しい自分の身体を恨みながら布団に潜り込むように眠った。
この時は、翌日ひどい後悔することになるとは、まだこれっぽっちも思っていなかった―――




