第33話『崩壊』
自惚れかもしれないけど、シオンは多分、ぼくに引き止めて欲しかったんだ。
ぼくの身体能力は彼女に遠く及ばない、その気になればぼくを振り切ることなんて容易だし、ぼくが追いつけるはずがない。それなのに、ぼくはいつの間にかシオンの手を掴んでいた。
「シオン……ごめん」
何て声をかけていいか分からなくて、ぼくはただ一言謝った。
シオンは唇を噛みながら涙を堪えて、振り返ってぼくの頬を叩く。
はじめて、シオンに顔を引っ叩かれた。
「なんで謝るんですか……悪いのはボクじゃないですか……っ」
「それでも……ごめん」
「薄っぺらいごめんなんて聞きたくありませんっ!!」
ぼくはずっと、シオンに迷惑をかけていた。
何がアストライア家をぶっ壊すだよ。何も為せない子供のくせに調子に乗って、学院をやめてシオンを連れ出して、それで……何が変わるって言うんだ。
何も変わらない。逃避行を続けたところで、その果てに待っているのは愚かな自惚れが招いた破滅だ。そんなこともぼくは知らず、シオンを振り回していた。
「……プラネスタに戻ろう」
気付けばぼくは、自分の覚悟も、決意も、何もかもを投げ捨てようとしていた。
プラネスタに戻る―――それは、あの時の決心を全て否定する選択だ。シオンを守ると決めた過去の自分を拒絶する行為だ。自分の言葉すらろくに貫けず、ただ他者に迷惑をかけて諦め、帰還する。シオンがそうしたいというのなら、それでいいと思っていた。
「なんで……そんなこと言うんですか……っ」
「初めから、間違っていたんだ。ぼくは一人で何でも出来る気でいただけだった。魔法が使える、魔術が使える、それ以上に、ぼくは他人より優れている。そんな思い込みが、ぼくを調子に乗せた」
こんな弱った姿を、シオンは見たくなかったと思う。
シオンはぼくを尊敬していた。ぼくに憧れていた。シオンにとってぼくは、ぼくにとってのリーナのようなものだ。リーナが折れているところをぼくが見たくないのと同じように、ぼくが弱い人間であることをシオンは知りたくないはずだ。
「もっと、他の方法があったはずなんだ。君を守るために、ぼくは君を傷つけた……。君が自分を責めると分かっていたのに、ぼくは君を振り回してしまった……」
涙を覆い隠すように、雨が降ってきた。
雨はぼくとシオン、二人の涙を綺麗に流し、泣くことを許さなかった。
「ぼくは、間違っていたんだ……」
何が間違っていたのだろう。
いいや、きっと全てが間違いだったんだ。
あのまま全員でシオンを守るために戦う道を選んでいたら。
誰かを巻き込むことを恐れず、皆を頼っていたら、こんなことにはならなかった。
クロエが怪我をすることも、それを見たシオンが自分を責めることもなかった。
シオンを守ったのは、ぼくのエゴだ。ぼくがそうしたかった、リーナなら、セナならきっとそうすると思ったから、ぼくもそうありたかった。それだけだ。たったそれだけの自己満足のために、ぼくはシオンを傷つけてしまった。
「ごめん……ごめんね、シオン……」
今更謝ったところで現実は変わらない。起きてしまった事実は覆すことはできない。
ぼくたちは逃避行を続けるしかなくて、その果てにある破滅を受け入れなければならなくて、壊れると分かっていても、この道を進むしかなくて。
間違った道を選んでしまった、そこにシオンを連れてきてしまったぼくの後悔が、懺悔の言葉となってこぼれ出ていた。
「……何で、謝るんですか」
震えた声と共に、俯いていた視界が上に向けられる。
シオンは大粒の涙をその翡翠色の瞳に浮かべながら、ぼくに哀れむような視線を送っていた。
「悪いのはボクなんです。ボクが生まれてくることがなければ、こんなことにはならなかった。ボクがあの日死んでいれば、先輩がこうして苦しむことも、クロエが傷つくこともなかった……っ!!」
違う、それは違うよ、シオン。
君が後悔することはないんだ。全部、こうなったのはぼくのせいなんだから。
造られた命だとしても、生まれてこなければいい命なんて、死んだ方がいい命なんて、そんな悲しいことは言わないで。
「もういいんです……もうこれ以上、皆に迷惑をかけたくない。だから―――ボクはアストライア家に戻ります」
「ダメだよシオン、戻ったら君は―――」
「選別で殺される。えぇ、あなたの想像通りですよ、グレイシア先輩」
背後から聞こえた声に、シオンが振り返った。
そこに立っていたのは、アルバとノエルの二つの人影。
アルバは薄ら笑いを浮かべながら適当そうな拍手を繰り返してこちらに近付いてくる。
「さぁ、共にアストライア家に戻りましょう、シオン姉さん」
「ダメだ」
ぼくはシオンとアルバの間に割って入り、シオンを庇うように立つ。
たとえシオンがそれを望んでいたとしても、絶対にアストライア家には渡さない。
「下がってください、グレイシア先輩。姉さんは戻ると言ったのですよ」
「だとしても、お前たちにシオンは渡さない」
「見苦しい抵抗ですね……ノエル」
「フヒッ」
アルバの合図を受けて、ノエルが不敵な笑みを浮かべる。
右手にガントレットを展開し、ぼくの目の前に瞬間移動したノエルは、そのままぼくの首を掴んで持ち上げた。
「イヴ先輩っ!!」
「大人しくしてろクソ魔女、首捻じ切っちまうだろうが」
「ぐぅっ……あ、っ、ぁぁ……」
やっぱり見えなかった。いや、見えるはずがないんだ。
ノエルやアルバの使う魔術は自らを紫電の雷と化すものだ。雷が上空で光り、落ちるまでの時間を計測することなんてできない。だから、ぼくにはこの速度に対応する術はないんだ。
「やめてアルバ! ボクは君に従うから、だから先輩に手を出さないで!!」
「……ノエル」
「チッ……カスが」
吐き捨てるようにそう言って、ノエルはぼくの首から手を離した。
膝から崩れ落ちるように倒れ伏して、アルバたちを見上げる。
駄目だ、勝てないと分かっているせいで、恐怖で足が竦んで立ち上がれない。
「や、やめろ……っ」
「反撃されても面倒です。右手を潰しなさい、ノエル」
アルバの指示を受けて、ノエルはシオンに手を伸ばすぼくの右手をへし折った。
「ぐっ、ぁぁぁあああああああああああああああああああああああああ!!」
「いい声で鳴くじゃねェかクソ魔女ぉ!!」
激痛が走る。声を我慢することができず、痛みに悶えて泣き叫ぶぼくを見下ろし、ノエルは恍惚とした表情を浮かべる。
一度で済めばよかった。二度、三度、骨を分割されるように細かく砕かれて、右手が完全に動かなくなる。
「やめて……やめてよ……!!」
シオンが懇願しても、ノエルはぼくの右手を粉々に砕き続ける。
腕をへし折り、肘を割り、拳を踏み砕く。
何度も、何度も何度も何度も、気絶するような激痛が右手に走って、そのうち感覚がなくなって、それでも砕き続けられる右手をぼくはただ呆然と見ていることしかできなかった。
やがて、右手が平たく引き伸ばされたパン生地のようになると、ノエルは満足してアルバのもとに駆け寄り、ぼくは解放された。
「では行きましょうか、シオン姉さん」
シオンは小さくこくりと頷いてぼくを見た。
あまりに痛々しい光景だったのだろう。シオンは両手で口を押えて、今にも泣きそうな顔をしながらぼくから目を背けた。
雨の中、三つの足音が遠ざかっていく。
ぼくはまた……シオンを守れなかった。
◇ ◇ ◇
もう、どうにでもなれ。
雨に打たれながら星影の樽に戻る足取りは、どこか自暴自棄的なものだった。
ぼくには何もできないから、何も為せないちっぽけな存在だから。だからこうして、全てを失ってしまう。シオンを守るために行動したはずなのに、その全てがシオンを苦しめて、傷つけて―――
セナならきっと、もっとうまくやった。
ぼくが辿った失敗も、セナならきっと、何か打開策を見つけて突破した。
なんなんだよ、なんなんだよちくしょう……。
星影の樽に戻ると、びしょ濡れのぼくをミランダさんが出迎えてくれた。
シオンを連れて戻れなかったことを、彼女は責めなかった。
ただ、ぼくを哀れむような目で見るだけ。とても惨めだった。
「で、どうすんだいクロエ。シオンの身柄がアストライア家に渡るとマズいんだろう?」
「最悪の展開っすよ。今度は何人死人が出るか分からない、それこそ、街一つが吹き飛ぶ可能性だってある……」
「……どういうこと?」
クロエが何を言っているのか分からなかった。
何人死人が出るか分からない? シオンがアストライア家に渡れば、選別がやり直されて、今度こそシオンが死ぬ。でもクロエの言葉は、それだけで片付く問題を前にしているとは到底思えなかった。
「クロエ。あんたイヴに何も話してないのかい……」
「仕方ないんすよ。あたしが動く前に先輩が動いちゃったんで」
「だからって……イヴが可哀想だよ」
ミランダさんは呆れたようなため息をついて眉間を押さえた。
クロエが頬を膨らまして抗議する。ぼくが二人が何を言っているのかこれっぽっちも理解できなかった。
「……ねぇ、どういうことなの……クロエ」
クロエは一つ息を吐いてぼくを一瞥し、躊躇いながらこう言った。
「三年前の魔力災害、あれを引き起こしたがシオンだって話っす」
「……は?」
シオンが、魔力災害を起こした?
三年前の事故のことは、資料で見ただけだけど今でも鮮明に思い出せる。
アストライア領北部のある一帯に突如光の柱が出現して、半球状の巨大な大穴を開けた。それを可能にする魔術は存在しない。魔法でも不可能だ。それが、シオンの手によって引き起こされたなんて……信じられるはずがない。信じたくなかった。
「魔力災害で死んだ者はたった四人、カイル・アストライア、レイラ・アストライア、アルバ・アストライア、ノエル・アストライア。でも考えてみてください。シオンが、あの化け物連中の中で生き残れるはずがない」
「それは、ただ運が良かっただけで」
「本当にそう思うんすか?」
「……思うよ」
嘘だ。実際に対峙したぼくなら分かる。あれらを相手にして、シオンは絶対に生き残れない。だってシオンは優しいから、誰かを犠牲に生き残るくらいなら、自分が死ぬことを選ぶだろうから。
「シオンには、三年前の事故の前と後で、決定的に違う点が一つあります」
「……星神器の有無」
「そう。星盾ゴーティスの力の分け身、【紫電の星盾】―――シオンは、あの事故でそれを手に入れたんす」
どれだけ英雄的な偉業を成し遂げようと、どれだけ優秀な成績で星神からの課題を突破しようと、勇者になるためには欠かせないがものが一つある。それが、星神器の覚醒だ。
アストライア家は、優れた勇者を生み出すために非人道的な人体実験を行ってまで選別を行った。その結果得たのが、優秀な四人の死と、思いもよらないシオンの生存だった。
そうだ、選別をやり直したところで結果は変わらない。シオンが死んだとしても、星盾が残りの四人を選ぶとは到底思えない。それだけじゃない。既に宿主を定めた星弓以外の星神器も、残りの四人を選ぶことはない。
なら、どうして選別をやり直す必要があるんだ。
どうして、シオンを巻き込む必要があるんだ。
決まっている。アストライア家は、何かを再び引き起こそうとしている。
「現状、星神器を覚醒させる方法は明らかじゃないっす。でも連中は見ちゃったんすよ。星盾の力の一端を。シオンが得た紫電の星盾の暴走。それが、三年前の魔力災害の正体っす」
「……暴走した星盾の力が、魔力災害を引き起こした?」
「そうっすね。んで、この事実を知ったアストライア家はこう考えた。何とかして、シオンから星盾を奪えないかと」
「なんだよ、それ……」
星神器を奪うなんて聞いたことがない。
そもそも、他人の星神器を奪うことなんて不可能だ。でも、シオンの身柄を求めたということは、アストライア家にはそれを可能にする方法があるということ……それなら、尚更シオンが危ない。
「どうしてそんなこと黙ってたんだよ!! なんで、教えてくれなかったんだよ……っ!!」
ぼくはクロエの胸倉を掴んで、彼女を問い詰めた。
初めからそのことを知っていれば、ぼくはきっと、こんな間違った道を選ぶことはなかった。
「これはあくまであたしの仮説、推論っす、確定したわけじゃない。だから誰も動かせなかったし、あたしが一人で動くしかなかった。すみません先輩、あたし、先輩のこと囮にしました」
クロエはぼくを利用したことを正直に白状した。
だけど、だからってクロエに失望することはなかった。むしろ逆だ、クロエが裏で調べてくれたから、ぼくは堂々と間違った道を進むことができた。
「正直、アストライア家がシオンから星盾を奪ってくれるのならあたしはそれでいいって思ってました。シオンには、勇者の道は過酷すぎる」
クロエの気持ちを少しだけ理解できた。
クロエはただ、友達に過酷な道を進んで欲しくないだけだ。平和に暮らしていて欲しいだけだ。勇者なんて大層な称号、シオンが背負う必要もない。
「でも……違った、あたしの期待通りじゃなかった……あのクローン施設を見りゃ分かります。何人も複製されたシオン……いいや、シオンだけじゃない。アストライア家は子供のことをただの実験動物としか思ってない! シオンはきっと処分されます。そして、新しいシオンが、あいつと全く同じ記憶を持ってあたしらの前に現れる……ふざけんな!! あたしにとってのシオン・アストライアは、あいつだけなんすよ!!」
クロエはぼくを押し返して、大粒の涙を目に浮かべて泣き叫んだ。
それはクロエの心の叫びだった。初めて聞いたクロエの弱音だった。
「先輩……すみません。あたしから頼むのは間違いだと分かってます。でも、でもあたしは……先輩に頭下げることしかできないバカっす。だから……お願いします」
ぼくに深々と頭を下げて、クロエはこう言った。
「シオンを……シオンを助けるために、力を貸してください……っ」
なんだかんだ言って、ぼくがクロエに頼られるのは初めてかもしれない。
クロエは何でも自分でできただろうから。他の人よりも遥かに優れていただろうから。
失敗したのはクロエも同じだ。ぼくたちは、共に間違った道を進んでしまったんだ。
だからぼくは、無事な左手で涙を拭って、出来る限り笑顔を取り繕ってクロエにこう返した。
「一緒にシオンを助け―――」
「イヴっ!! 今すぐ店の奥に隠れな!!」
「えっ」
ぼくの言葉は、ミランダさんの大きな声に掻き消された。
お店の扉が開け放たれる。まだ今日の営業開始には時間がある。星影の樽のお客さんは殆どが常連だから、開店時間を間違えることはない。嫌な予感がして、ぼくたちはカウンターの裏に身を隠した。
ぞろぞろと、白い服を着た衛兵たちが許可なく店の中に踏み込んでくる。
その中の一人が、ミランダさんを見てこう言った。
「ミランダ・グランデリア。貴様を領主様への反逆の容疑で拘束する」
最悪のパターンが、やってきた。
「領主様への反逆だぁ? あたしが何をしたっていうんだい? うちはただの酒場だよ」
「カウンターの裏、子供が二人いる、拘束しろ」
「「「はっ」」」
ぼくたちは数人の衛兵に囲まれ、すぐに拘束された。
彼らを従える立場らしき一人が、ぼくの前にやってきて顔を覗き込む。
その時、帽子の隙間から氷の結晶のような鋭い目が見えた。
間違いない、カイル・アストライアだ。
「こいつだ、連行しろ」
「「「はっ」」」
ぼくは魔導金属製の鎖で拘束されて、何やら怪しげな首輪もはめられた。
店の外には大量の馬車と衛兵が待機していて、ぼくはその中に一つに押し込まれそうになる。
その時だった。
「はぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ!!」
二つの斧を携えて店の中から飛び出したクロエが、数人の衛兵を一度に無力化する。
クロエがぼくに視線を向けた。「逃げろ」と言っていた。
ぼくはその混乱に乗じて逃げ出した。
どこに逃げればいいかは分からなかったけど、ただひたすらに走った。
右腕が砕けているから、あまり早く走ることができなかった。
走って、走って、走って……ひたすらに走った先は、運悪く、崖際だった。
眼下には鉱山都市の下層、貧民街が広がっている。落ちればほぼ確実に死ぬ高さだった。
ぼくは慣れない左手を向けて、衛兵たちを牽制する。だけど多勢に無勢、魔力防護の付与された服を着ている彼らを制圧するのは難しい。
「大人しくしろ、氷の魔女」
「相手が魔女なら、少しくらいは警戒したらっ!!」
だけどやるしかなかった。ぼくは左手を衛兵たちに向けて、魔力を熾す。
「《多重詠唱》・【撃ち抜く―――】」
パンッ!!
聞いたことのある音―――銃声だった。
視界が大きく揺らいだ。お腹が熱い……撃たれた。銃弾が、腹に飛び込んで、それで―――
体勢を崩したぼくは、真っ逆さまに崖の下へと落ちていく。
最後に見た光景は、こちらに駆け寄ってくる衛兵を、紫電の雷撃が無力化する瞬間だった。




