第32話『亀裂』
「クローン、施設……」
それはおおよそぼくの持ち得る常識では到底理解の及ばない光景だった。
無数に並ぶガラス製の容器の中に浮かんだ瓜二つの人物たち。魔術で一時的に姿を変えたり、他者からの認識をいじったりというのは可能だけど、目の前に広がるそれらが、ぼくが知り得る方法によるものではないことは、なんとなく分かっていた。
「どういうことなの、クロエ……」
「アストライア家の業が深すぎるってことっすよ」
「いや、そうじゃなくてさ……クローンって、なに?」
「えっ、あ、あー……そこからかぁ……」
先生の言葉を借りるなら、クロエはそう言っていた。
クローン……おそらくは、先生の故郷に存在する言葉の一つ。意味は……この光景を見た後だと、考えたくもない。
「人間の身体には、それぞれ設計図が存在するんす」
「設計図……」
「例えば先輩の設計図には、空色の髪であることや、目の色が左右異なることなど、先輩を形作るあらゆる情報が記されてます。本来その設計図は身体の中にあるもので、誰かが観測することなんてできないんす。けど―――」
「この施設と、水槽に浮かんだシオンたちは違うんだね……」
クロエが小さく頷いた。
「設計図を共有し複製された人間、それが、アストライア家の子供の正体っす」
クロエが語る話は、到底信じることのできない荒唐無稽なものだった。
だってそうだろ。人間を複製するとか、設計図とか、そんなものは魔術で用いる知識の領域を遥かに超えている。そもそも、魔術を学んでいる人間には思いつくこともない話だ。
だけど、どれだけ突飛で意味不明でも、目の前に広がる現実が、その話を疑うぼくに紛うことなき真実だと語りかけてきた。信じるしか、なかった。
「……どうして、このことを知っていたの?」
それと同時に、クロエへの猜疑心がぼくを満たしていく。
「あたし、実は天才なんすよ」
「違うでしょ。どれだけ天才だろうと、こんな結論は出てこない」
ぼくは全方位を警戒しながら、クロエに右手を向けた。
それが何を意味しているか、彼女が知らないはずはない。魔導師が掌を向ける、それは、「いつでもお前を撃てる」という敵対の意思の表れだ。
クロエは、あまりにぼくたちの知らないことを知りすぎている。
三年前のアストライア家の選別もそう、今回のこのクローン施設についてもそう。だけどそれだけじゃない、これまでの日常の中で、違和感はいくつかあった。
さっき、シオンの顔をした死徒にぼくが襲われた時もそうだった。クロエはそれがシオンの顔をしていること、本物のシオンであるかもしれない可能性も残っていることを承知で、躊躇いながらもそれを殺した。ただの学生にできる覚悟じゃない。
「答えて、クロエ。君は一体、何者なの……?」
「……シオンの親友っすよ。今のあたしはそれ以外の何者でもありません」
クロエは僅かに視線を泳がせ、自分に言い聞かせるように呟いた。
また、誤魔化された。
クロエがただの学生じゃないことは明らかだけど、これ以上問い詰めたところで彼女は絶対に自分の正体を明かさない。ぼくがどれだけ疑問に思おうと、彼女を疑おうと絶対に攻撃しないとクロエは確信しているんだ。
「手、下ろしてくれません? 流石にここで先輩を殺したくはないっす」
「……まるでぼくに勝てるみたいな言い方だね」
「そうっすね、勝てます。その気になれば、先輩が魔術を使う前に息の根止めることくらいは簡単っすよ」
飄々とした態度でクロエは答えてみせる。
彼女の実力は未知数だ。学院で見せているものが力の一端に過ぎないのなら、手の内を全て知られている以上今ここで事を構えるのは得策じゃない。
「それに……あたしは今、ここにシオンの親友として来てます。あいつを守るために、あいつが笑って暮らせるように、あたしなりのやり方でアストライア家をぶっ壊しに来ている。だから……先輩にあたしを邪魔するメリットはないと思うんすよね」
おそらく、クロエの言葉に嘘はない。だけどそれ以上に、彼女が隠している何かが恐ろしくて仕方がなかった。そんなぼくの恐怖を察したのか、クロエはニヤリと不敵に笑い、ぼくを睨みつけてこう言った。
「先輩があたしの敵になるってんなら、話は別っすけどね」
もしここでぼくが魔術を使えば、クロエは確実にぼくを殺すだろう。
彼女の態度と言葉の裏には、それを確信させるだけの説得力がある。
そんな彼女から殺気を向けられ、ぼくはごくりと息を呑んだ。
足が竦んで動けない、全身が震えて逃げ出したくて堪らない。それでも、鋭く細められたクロエの目が「逃げるな」とぼくをその場に縛りつける。
「……分かったよ。今は深く聞かないことにする」
「サンキュっす」
右手を下ろして一つ息を吐くと、クロエはいつもの調子に戻り、ニカッと笑った。
威圧されたばかりだから、その笑顔すら怖かった。
容器の中に浮かぶ、シオンの顔をしたクローンに視線を向ける。
ぼくが知るシオンより少し幼いけど、瓜二つだ。こんなのが何人もが存在するなんて考えたくもない。
それと同時に、ぼくの中に一つの疑問が生まれた。
今のシオンは……本物なのだろうか。
「……クロエ、この施設って、造られてどのくらい経っているの?」
「ざっと見て数十年ってとこっすかね。ここ数年は放置されているみたいっすけど……流石あっちの知識と技術、無人でも正常に稼働してる……」
クロエはこの技術の出所に心当たりがあるようだ。
あまり機械に詳しくないぼくでも、一通り見ればこの施設に使用されている魔術が大方理解できる。これは人間の設計図を魔術的に抽出して、複製する機械、といったところだろうか。
「どうせ複製したクローンだから、殺し合いをさせても構わないってわけか……反吐が出る」
怒りや呆れ、憎悪にも似た感情を顔に浮かべ、クロエは容器から視線を逸らした。
クロエにとって、シオンは親友だ。他者に自分を偽り続けて自らの正体を隠し続けてきた彼女でも、シオンに向ける友情だけは偽りではなかった。そんな友人が造られた命である可能性を提示され、クロエは一体何を考えていたんだろう。
もし、セナが造られた命だったとしたら、ぼくは―――
「先輩、今とんでもないこと考えてるっすね?」
「……まさか」
「あたしは別に気にしないっすよ、シオンが造られた命だったとしても」
思いの外、クロエはあっさりとしていた。
「だって―――シオンはシオンっすから」
「……そうだね、その通りだ」
クロエの言う通りだ。友達が造られた命だったから、だから何だというんだ。
例えその存在が虚実に塗れていたとしても、友達として過ごした現実は変わらない。
思い出が、たった一つの真実で揺らぐことなんてないのだから。
「さてと。任務も完了したんで、戻りますか」
「意外だね……クロエなら『この施設ぶっ壊しちゃいますか!』とか言い出しそうなのに」
「逆っすよ。クロエ・フラガラッハだから、壊せないんす」
悲し気にそう言って、クロエは容器へと視線を向ける。
「複製体だと分かっていても、親友を殺すのはちょっと苦しいんすよ」
クロエはぼくの方に振り返って、苦笑いを浮かべた。
彼女の言葉は偽りだらけだ。それでも、シオンに関わることだけはどうしても嘘だとは思えなかった。
クロエに続いて、壁に開けた穴へと戻ろうとする。
その時、ぼくの後方で魔力が熾った。
「先輩っ!!」
クロエに突き飛ばされて床に倒れる。
振り返ると、右手の斧で雷撃を弾くクロエの背中が見えた。
「クロエ!!」
「やらかしたぜチクショウ……あたしらがここに来ること読まれてた」
「鼠が迷い込んだと聞いて来てみれば、薄汚い鼻で領地を嗅ぎ回る特務の犬と氷の魔女だったとは……即刻、退場願おうか」
容器が立ち並ぶ暗がりの向こうから足音が聞こえてくる。
足音が響くたびに、周囲の温度が少しずつ下がっていくような錯覚を感じる。それほどまでに濃密な死の気配を漂わせながら現れたその人物は、全身に凍える冷気と紫電を纏った長身の男だった。
「そりゃそうだ、学院に三人送り込んで、お前が復活してないわけないもんな……カイル・アストライア!!」
「カイル……アストライア……」
それは、死んだ目をした短い白髪の男だった。
カイル・アストライア―――三年前の魔力災害事故で死亡した、最後の一人。
事件の資料で読んだことがある。五年前に学院を首席で卒業したアストライア家の長子。二つの属性の複合魔術を開発し、王国の魔術史に名を刻んだ天才。
「この場から立ち去れば命は取らない……と言いたいところだが、これを見てしまった以上は生きて返すわけにはいかない。大人しく死んでもらおう」
氷晶の瞳がぼくらを見下ろす。
敵だとも思っていない冷たい視線だった。
あの男にとってぼくらの排除は、ただの害虫駆除のようなものでしかない。
感情のない瞳がそう語っていた。
「……先輩、あたしが合図したら全力で壁の穴にダッシュしてください」
「う、うん……」
クロエは懐に手を伸ばし、何かを掴んだ。
そしてぼくの前に出て、カイルを真っ直ぐ見据える。
カイルとクロエ、二人の魔力が身体の内側で熾る。これから始まるのはただの蹂躙だと、カイルの膨大な魔力量が雄弁に物語る。
クロエがどれだけ強くても、勝ち目なんて一つもなかった。
「今っ!!」
カイルが魔術を放つ寸前、クロエがぼくに合図を送った。
それと同時に、何かを大きく振りかぶって投擲する。
黒い掌大の直方体の箱―――爆弾だ。
カイルの魔術が爆弾を射抜く、瞬間、巨大な爆発と黒煙が辺りを包み込み、カイルの視界からぼくたちを消す。
走った……ただひたすらに走った。
煙が晴れるまでに壁の穴に到達、クロエも遅れてやってきて穴を通過して坑道へ。
氷で穴を塞ぐ瞬間、カイルの雷撃が飛来し、背中を向けていたクロエの脇腹を貫いた。
「ぐっ……」
「クロエっ!!」
余裕そうにしていたクロエの顔が苦痛に歪んだ。
脇腹の穴から出血して、赤い血が足元に広がっている。
カイルがぼくたちを追ってくることはなかった。だけど顔が割れてしまった以上、捜索されるのは時間の問題だ。でも、そんなことより今は、クロエの治療を―――
「先輩ストップ、あんま触んない方がいいっす」
「えっ?」
治療をしようと駆け寄ると、クロエはぼくの手を振り払って首を横に振った。
雷撃で開けられた脇腹の傷口からは、徐々に凍結が始まっていた。
「カイルの雷は、氷との複合属性っす。食らえば最後、傷口から凍結が広がって体力を奪っていく厄介な魔術……下手に触ると、先輩まで凍っちまいますよ」
「なら、これどうすれば……」
「ちと強引な手になりますけど、身体を侵すカイルの魔力を分解するっきゃないっすね。先輩、あたしの上着のポケットから先生の銃取り出してもらっていいっすか?」
「う、うん……」
クロエの上着から、先生の拳銃を取り出す。なんで彼女が持っているのかとか、使い方は分かるのかとか色々と疑問はあるけど、今はとにかくクロエの指示に従った方がいい。
「弾にはあらかじめ先生の魔力がある程度込められてます。だから、そいつで傷口撃ち抜いて、カイルの魔力を打ち消すしかないんす。先輩、お願いします」
「え……いや、ちょっと、待ってよ……」
拳銃を、クロエに向けて撃つ? そんなこと、できるわけないだろ。
銃を握る手が激しく震えている。ぼくの脳裏に映るのは、あの日、師匠を撃ち抜いた時の光景だった。
「いいから早く!!」
クロエに急かされて、ぼくは拳銃の撃鉄を起こす。
カチャリ……という軽い金属音が、あの時の光景をフラッシュバックさせた。
「あぁもう貸せウスノロ!!」
クロエが銃口を掴んで、自分の傷口に押し当てる。
拳銃を握るぼくの両手が震えていた。クロエは真っ直ぐぼくを睨んで、小さく頷く。「やれ」と、そう言っていた。
「……ごめんっ!!」
ぼくは目を瞑って顔を背け、引き金を引く。
思わず耳を覆いたくなるような轟音が坑道内に響いた直後、クロエの絶叫が耳に届いた。
「がぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああっ!!」
想像を絶する激痛なのは、痛みに悶え苦しむクロエを見れば想像できる。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……うっ……ぐぅぅぁぁぁあああああああああ!!」
クロエは地面に倒れ伏して何度も浅い呼吸を繰り返していた。
脇腹の傷口に発生していた小さな氷は今の銃撃で砕け散って、その代わりに、大量の血が穴から流れ出ていて痛々しかった。
本当は今すぐ治療してあげたかったけど、ぼくの身体は拳銃を握ったままこれっぽっちも動かなかった。ただ、激痛に苦しみながら止血するクロエを見ていることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
身体強化を自分にかけて、クロエを背負って星影の樽に帰還する。
ぼくが負傷した子供を連れて帰ってきたことで、ミランダさんは驚いていた。
クロエの顔を見たからなのか、それとも、ぼくがテーブルの上に置いた先生の拳銃を見たからなのかは分からないけど、真剣な表情になってぼくの両肩を掴んで問いかけてきた。
「何があったんだい、イヴ。どうしてお前が、クロエと一緒にいるんだい……」
「それは―――」
ミランダさんはクロエのことを知っていた。だから、隠すことはないと思った。
何一つ隠すことなく、ぼくはあの銀鉱で見たものをミランダさんに話した。大勢のシオンのクローン、カイル・アストライアの襲撃。突拍子もないし、現実味もない、だけどミランダさんはぼくの話を疑うことなく最後まで聞いてくれた。
「……そうかい、ついに見つけちまったのかい」
「知っていたんですか?」
「アストライア家が何やら怪しいってのは、あたしがいた頃の特務の間じゃ噂になっていたからね。クロエがここにいるのなら、噂は本当だったんだね」
「あの、クロエって……一体……」
ミランダさんは一瞬考える素振りを見せてから、首を横に振った。
「あたしからは言えない。それより、急いでこの子を治療した方がいい。そこの椅子使いな」
「ありがとうございます」
ミランダさんに促され、椅子を並べてクロエを寝かせる。
血は止めているが、痛みで意識を失った状態だ。まずこの腹に開いた穴を塞がないことにはどうしようもないだろう。仕方ない……ここは魔法を使うしか。
ミランダさんに見られるのを承知の上で、【星紡ぐ物語】を開く。
これは師匠の生み出した特別な魔法が記されているだけじゃなくて、魔力を増幅する役割も持っている。これを使って増幅した魔力なら、クロエの治療は容易だ。
傷口に直接触れる必要があったから、服を脱がせて包帯を剥がす。
小さな身体に、無数の傷が刻まれていた。切り傷だけじゃない、火傷の痕、銃創、外科的な手術で縫合された痕もある。あまりに痛々しくて、ぼくは思わず目を逸らした。
でも、治療をやめることはできない。クロエの傷口に触れて、増幅された魔力を流し込む。傷は瞬く間に塞がっていき、再生と言っても過言じゃないほど元通りになった。
ひとまずは安心、そう思って安堵のため息をついた時だった。
「クロエっ!!」
タイミングが悪く、二階から降りてきたシオンに見つかった。
シオンは驚きの声を上げ、大粒の涙を目に浮かべ、こちらに駆け寄ってきた。
「ん、んぅ……シオン……お久しぶりっす」
「なんで……なんでクロエが、どうして……っ」
「ちょっとドジ踏んじまいまして。心配かけてすまねぇっす」
薄く目を開いたクロエが、今にも泣き出してしまいそうなシオンに笑いかける。
クロエの負傷はぼくのせいだ。ぼくはどうにも気まずくて、顔を背けた。
「……ボクのせいだ。ボクがいるから、みんな、傷ついて」
「違うっすシオン、決してシオンのせいじゃ―――」
「嘘ばっかりつかないで!! クロエが傷ついたのも、イヴ先輩が学院をやめなきゃいけなくなったのも、全部、全部ボクのせいじゃん! ボクがいなかったら、みんなこんなことしなくてよかったのに!!」
「シオン、それは違うよ」
「違わない!!」
シオンはぼくとクロエに背を向けて、店の外に走り出していった。
ぼくは咄嗟に手を伸ばしたけど、その手がシオンを掴むことはなかった。
一度入ってしまった亀裂は、簡単には塞がってくれない。
シオンは自分を責めてしまった。いや、違う。ずっと自分を責め続けていたんだ。ぼくにも、クロエにも、皆にも迷惑をかけてしまったことをずっと悔やんでいた。それと同時に、誰かに守られながらじゃないと問題に向き合えない自分がどうしようもなく腹立たしかったんだ。
昔のぼくもそうだった。
まだきっと説得できる。やり直すことができる。そんな甘ったれた考えを抱きながら、ぼくは視界の端に消えるシオンの背中を追いかけた。




