第25話『たまにはこんな一日があってもいいだろう』
この時期になると、いつもあの日のことを思い出す。
星来暦一〇〇五年、双子の月。まだ少しだけ肌寒さが残る時期。
新たな勇者を決める星神からの課題は、先月の最初の課題以来一切音沙汰がない。
それどころかいつの間にかテレジアが課題を攻略して正式に星弓アポディリスを受け継いだらしく、学院は騒然としていた。
勇者を目指すどころか、星神器に選ばれてすらいない、スタートラインに立ててすらいないぼくからすれば羨ましい限りだ。ただ、自分の役目は何となく理解しているから、今はこれでいいんだと思う。
「お待たせしました、イヴ先輩っ」
「お疲れ、シオン。どうだった?」
「いつも通り異常はありませんでした。隣、いいですか?」
中心街、広場のベンチで空を眺めて時間を潰していたぼくのもとにやってきたのは、ひと月の定期検査を終えて治療院から出てきたシオン・アストライアだ。彼女は検査のために下ろした紫色の髪を後ろで一つにまとめて、一言断りを入れてからぼくの隣に腰をかける。
「三年も同じことを毎月のように続けていると、いい加減飽きてきますね」
「それでも検査は受けなきゃだめだよ。シオンはいつ魔力異常が起きてもおかしくない身体なんだから」
「はーい」
とは口では言ったものの、シオンは不満そうに頬を膨らまして退屈そうに足をフラフラと。
彼女が検査を毎月受けなきゃならない身体になってしまったのは少なからずぼくの責任でもあるからあまり下手なことは言えなくて、ぼくは苦笑いを浮かべた。
互いに黙り込んでしまった。
ぼくとシオンの間に静寂が流れる。対人経験が浅いぼくは、こういう時に何を話せばいいのか分からなかった。勇気を出して会話を試みても、話題の選択を間違えて失敗するばかりで、気まずい。
「あー……えっと、今日、いい天気だね」
「ちょっと雲増えて来てますね、雨降りそうです」
ほら、また失敗した。
シオンは上の空といった様子でぼーっと空を眺めていた。
調子が狂うというか、なんというか。いつものように「先輩!」「イヴ先輩!」と積極的に来てくれれば良かったんだけど、今のシオンはまるで別人のように静かだ。
「あの日ぼくに何が起きたのか、やっぱり何も思い出せないんです」
シオンは空を見つめたまま、ふと呟くように言った。
彼女には、三年前のある時期の記憶が存在しない。
当時、ぼくは学院に通いながらもリツ先生が古巣……主にカナメさんから回される仕事を少しだけ手伝っていた。その際に担当していたのが、アストライア領にて発生した大規模な魔力災害の調査だった。
とはいってもぼくも先生も立場上は外部の人間だったから、あまり詳しい調査結果は聞かされていない。ただ一つだけ分かることは、アストライア家の後継者候補五名が巻き込まれ、シオンたった一人が生き残ったこと。
そのたった一人の生存者も、いつ発生するか分からない魔力異常という爆弾を抱えることになり、定期検査が義務付けられた―――というのは、表向きの理由。
定期検査とは名ばかりで、結局王国の魔導師団は事故の真相を解明するために、シオンの記憶の復活を促しているだけに過ぎなかった。
「なんか、すごく大変なことが起きたのは覚えてるんですけど……分かんなくて」
「無理に思い出す必要なんてないよ。封じ込めるってことは、それはシオンにとって忘れてしまいたい記憶なんだから」
「はい……って、なんだか辛気臭くなっちゃいましたね。ボクらしくない」
あはは……と少し自嘲気味な笑みをこちらに向けた後、シオンは両の頬を叩いていつもの自信に満ちた表情を浮かべる。
うん、沈んだ顔をしているよりは、こっちの方がシオンには似合う。
「イヴ先輩、この後暇ですか? 暇ですよね! っていうか暇にしてください!!」
「うおっ、いきなりぐいぐい来るな……まぁ、今日は一日付き合うつもりだったから、暇だけど」
「ならちょっと買い物付き合ってください!」
「買い物?」
「はい。イヴ先輩って、いつも同じ格好してるじゃないですか」
「まぁ……うん、そうだね」
シオンの言わんとしていることは、何となく予想ができた。
建物の窓ガラスに反射する自分の姿が目に入る。オシャレな私服なんて持っていない。だから、学院が休みだというのにぼくの服装は制服の上に黒いフード付きのローブを羽織っているシンプルなものだ。
でも案外、自分の服装に無頓着でぼくと同じような意見の生徒は結構いる。シオンは……どちらかというと、学院の授業がない日は制服を着ないタイプの子だ。
ふんわりとした柔らかな印象のブラウスに黒のキュロットスカート、瑠璃色の大きな宝石が特徴的なループタイ。ある程度服装に気を遣いつつ身体の動きを阻害しない機能性も保持しているシオンの私服姿は、いつもの制服と違って少し新鮮だった。
「なので、せっかくだからイヴ先輩をコーディネートしようかと!」
「いや、ぼくはいいよ……できれば顔隠したいし」
「一日付き合ってくれるって言ったじゃないですか。先輩の嘘つき」
両の頬をめいっぱい膨らまして、シオンはぼくをじっと睨みつけてくる。
「……分かったよ。お手柔らかにお願いします」
「やった! じゃあ早速行きましょう!!」
「えっ、ちょっと!」
ベンチから立ち上がったシオンに腕を引かれて、ぼくも慌てて立ち上がる。
まぁ……たまにはこういう日もあったっていいか。
ぼくの手を引いて、シオンはそのまま前を歩いている。
先輩先輩と慕われてはいるけど、こうして並ぶと身長はぼくの方が低くて、傍からはぼくの方が年下に見えているような……そんな視線をどこからか感じていた。
それからぼくは、シオンに連れられて何か所か洋服店を回った。
差し出された服を試着室で着て、カーテンを開け放ちシオンの反応を待つ。
鏡に映るぼくが着ているのは意外と複雑なワンピース。上にケープを羽織って、セットだと言わんばかりに一緒に手渡された眼鏡をかける姿はミステリー作品に登場する探偵のよう。
ただ、ちょっと子供っぽいような気がする。
「先輩超かわいいです! 四、五歳ほど若返ったような感じ!!」
「人を年増みたいに言うのやめて!? ぼくまだ十五歳だから!!」
「えへへ……すみません」
シオンは人差し指で頬を掻きながら悪びれもなく笑っている。
多分、幼げがあるとかそういう意味で言ったんだと思うのだけど、ぼくじゃなければキレてる。主にテレジアなら―――うん、多分ひどいことになる。
シオンにキレて店の中でもお構いなしに魔術を放つテレジアを想像して、ぼくは思わずクスリと笑ってしまった。
「……他の女のこと考えてる顔です」
「いや言い方」
「次こっちを着てみてください、多分先輩に似合いますよ!!」
「まだ続くの、これ」
シオンはノリノリでぼくに服を手渡してきて、着せ替え人形のように色んな服を着せていく。
何回繰り返しただろう。疲れてきたし、恥ずかしいことこの上ないけど、なんだか楽しくなってきている自分がいた。
一通り試着をして満足したところで、シオンが気に入った服を何着か購入し、お店を出た。
いつの間にか太陽が傾き始めていて、空は赤と青が入り混じったような複雑な色になっている。もうそろそろ日没、急いで寮に戻らないとセナが心配する。
「先輩って、どうしていつも顔を隠してるんですか?」
「えっ?」
いくつかの紙袋を手に寮への帰路についていると、シオンがふと尋ねてきた。
顔を隠す理由……それは、ぼくが焔の魔女の弟子であって、魔法使い特有の魔眼を持っているからだ。シオンだってそれは重々承知の上でぼくを慕ってくれている。だから理由なんて、それ以外に大層なものはない。
「焔の魔女は倒されたのに、どうして顔を隠し続ける必要があるんだろうって思ってたんです」
「あぁ……それ……」
そう、焔の魔女は倒された。ううん、ぼくとセナが倒した。
だから、今の王国に焔の魔女を恐れる人はいない。ぼくが顔を隠す必要もないのではと、シオンは純粋な疑問を投げかけてくる。
分かっている。それでもぼくが顔を、右目を隠し続けるのは、ぼく自身がそれを視界に入れないためだ。
右目にある紫紺の魔眼は呪われた過去の象徴。心の底から、ふとした拍子に思い出してしまうのを避けたいだけなんだ。
「なんでだと思う? 当てたらご褒美あげるよ」
「ほんとですか! うーん……なんだろう……」
辛気臭い空気になるのもあれだったから、ぼくは適当に誤魔化した。
絶対に当てられない自信があるから、真面目に考えてうんうん唸っているシオンにはちょっと申し訳ないけど。
「わかった! 先輩って実は男のk―――」
「絶対にない」
「まだ最後まで言ってないです!」
「ない、絶対にありえない」
「二回も言った!?」
シオンはぼくのことを何だと思っているのか。
いや、確かにぼくの知る他の女の子に比べれば可愛らしくはないけども……なんだか不名誉な気分だ。
「だってだって、先輩って時々すっごくかっこいい時あるじゃないですか!!」
「そんな時ないよ?」
「いいえあります! ディメナ・レガリアの時とか、アリシア・イグナの時とか!!」
「あれは必死だっただけで」
「なら必死な先輩はかっこいいんです!!」
「どうしてそうなるのさ!!」
シオンはぼくのことを手放しで信頼しすぎだ。ぼくが大層な人間じゃないのはぼくが一番分かっている。だから、ぼくは別にシオンの期待には応えられない。
「うーん……じゃあ先輩って実は右目が義眼とか!!」
「ハズレ、残念ながら本物だよ」
「じゃあじゃあ、右目を見た相手に何でも好きな命令を下せるとか!!」
「突然魔王みたいな能力生やさないで!?」
「じゃあ先輩右目からビーム出せるんですよね!!」
「出せないよっ!!」
いくつか案を挙げてみるシオンだったけど、本当の理由を言い当てることはなかった。
「だめだぁ……これっぽっちも分かんないよぉ……」
十回を超えた辺りでネタがつきたのか、シオンはがくっと肩を落とす。
絶対当たらないようにしたのはぼくだから、少しシオンが気の毒だった。
「思えばボク、先輩のこと何も知らないんだなぁ……」
「そんなことないでしょ。ぼくについて知ってること喋ってみなよ」
話の流れで言ってしまったけど、その後ぼくはひどく後悔した。
「イヴ・グレイシア。出身は王国北西部、セントリアル大森林の深奥。年齢は十五、誕生日は天秤の月十七日。趣味は読書と魔導書の解読、実は甘い物が好き、嫌いな食べ物は辛い物、苦い物全般。焔の魔女の弟子、得意魔術の属性は氷だけど複数属性の魔術を幅広く扱う。天才的な魔力操作のセンスと圧倒的な魔力出力を持つ学院最強の魔導師、リツ・リングレイル先生は焔の魔女の弟子時代の兄弟子にあたる。時折彼の仕事を手伝って学院の授業を休むことがあるけど、成績が良いのと王国魔導師団絡みの案件なので特別に許可されている。ボクたちのような女の子を片っ端から攻略している女誑し」
「ストップストップ! 待って! どういうこと!?」
シオンが語るぼくに関する情報に、一部不名誉な称号が混ざっているような気がして咄嗟に止めた。
女誑しってなんだよ……女誑しってなんだよ!?
少なくともぼくは誑かしているつもりなんてこれっぽっちもないんだけど!!
というよりも、誰にも喋ってない情報もあった気がして、ぼくはシオンのリサーチ能力に対して若干の恐怖を覚えた。
「今のは基本的な情報です。もっと詳しく掘り下げていくとここからあと二時間ほどは―――」
「そんなに喋らなくていいからね!? ほら、ぼくのことめちゃくちゃ知ってるじゃん! ぼくが自覚してないことまで知ってるじゃん!!」
「でもボク、先輩が顔を隠す理由が分からないです」
「んなクソどうでもいいこと気にしなくていいから!!」
あまりに恥ずかしくなって、先生に影響されたような汚い言葉が飛び出した。
「どうでもいいことじゃないです」
急に立ち止まったシオンは、振り返って真剣な眼差しでぼくを見た。
分からない……ぼくはあまり他人の気持ちが分からない人間だし、それに、シオンがぼくをここまで慕ってくれる理由もさっぱりだ。
でも、少なくともシオンがぼくに対して誠実であろうとしていることは分かる。
そうでなければ、彼女はとっくにぼくを見限っていただろうから。
「ぼく、もっと先輩のことを知りたいんです。先輩を守れる盾であるために」
「シオン……」
「先輩……ここ最近ずっと頑張ってるじゃないですか。セナ先輩や、テレジアにも影響されて……ボク、二人がちょっと羨ましいんです。イヴ先輩に導かれるだけじゃない、先輩を導いていけるあの二人が……」
シオンは多分、二人に嫉妬しているんだと思う。
でもその気持ちはぼくも一緒だ。ぼくだって、二人が羨ましい。
その点で言えば、ぼくたちは似た者同士なのかもしれない。だからといって何だという話ではあるけど、シオンのその一言は、今日聞いた彼女の言葉の中で一番本心に近いもののように思えた。
「でもやっぱり先輩ってすごいなぁ。伝説の魔神を倒して、焔の魔女を倒して……この国を救って。まるで勇者みたいじゃないですか」
「……それは」
違うと言いかけて、止めた。
ぼくは別にそんな立派な人間じゃない、そもそもぼく一人じゃ何もできなかった。ディメナ・レガリアも、焔の魔女も、そして、ヨハンナ・リヒテンベルクも、全部僕だけじゃなくて、仲間がいたから倒せたんだ。
「ボク、先輩を守りたいんです。突然兄弟も姉妹も失ってどん底にいたぼくを救ってくれたのが、先輩だったんですから」
そんなぼくの葛藤など露知らず、シオンは純粋無垢な羨望の眼差しでぼくを見た。
「ボク、先輩の弓にも、剣にもなれないから……だからせめて、先輩の盾でいたいって思うのは、我儘ですかね」
恥ずかしそうにはにかんだシオンの瞳には、僅かな焦りが見えていた。
その気持ちはぼくも知っている。ぼくだって、リーナが一足先に勇者になった時同じ気持ちだった。自分だけが置いて行かれたような気がして、必死に食らいついていきたくて、それでも伸ばしたこの手は空を切る。
「自惚れないのっ」
「あいてっ!?」
ぼくはなんとか手を伸ばして、自分より背の高いシオンの頭をぺちんと叩く。
こういう時、どう声をかけていいのか分からなかった。
だけど、もしシオンがあの時のぼくだったとしたら、ぼくは焦燥に駆られる自分にこうしていたと思う。
「ぼくはテレジアのことを自分の弓だと思ったことはないし、セナのことを自分の剣だと思ったこともないよ。だからシオンもぼくのためじゃなくて、自分のために努力すること」
「……でもっ」
「それに、シオンはぼくにないものを持ってるじゃないか」
「え、身長ですか?」
「おいこら、なんでそこでボケるんだよっ」
「いったぁ!?」
無遠慮なシオンの発言にカチンと来て、少し力を込めて手刀をお見舞いする。
シオンは両手で額を押さえて悶え、涙目でぼくを見た。そこまで力は入れていなかったはず……なんだけど、いつの間にか魔力が込められていた、ごめんシオン。
「だって、それ以外にぼくが先輩より優れているものないじゃないですか! あとは胸のサイズくらい―――」
「ふんっ!!」
「二発目ぇ!?」
今度は明確に魔力を込めて、拳を握り締めてから叩き込む。
流石にそれはぼくも許せないな。うん、気にしてないけど、これっぽっちも気にしてないけど。
「痛いです! 痛いですよ先輩! これめっちゃ痛いです!!」
「そりゃ魔力込めた拳だもん、痛いのは当然だよ」
「なんで殴られるんですかボク……」
「そのぼくより大きな自分の胸に聞いてみろっ」
シオンは悶絶して、ぼくの前で蹲りながら頭を押さえている。
なんだか可哀想な気もするけど、自業自得だ、反省しろバカ。
「それで、ボクが持っているものって何なんですか?」
「それに気付くのがぼくからの課題かな。ちゃんと答えられたらご褒美あげるよ」
「ほんとですか!? 分かりました! ボク、頑張ります!!」
シオンは立ち上がって、握り拳を胸の前で作ってふんすと息を荒くする。
「じゃ、急がないと皆心配するだろうから、早く寮に戻ろうか」
「はいっ!!」
ぼくはシオンの手を引いて、再び帰路についた。
歩く足取りは少しだけ軽い気がした。シオンはぼくの半歩後ろをぴたりとついてきて、軽やかなステップを踏んだりくるりと一回転したり、なんだかとっても上機嫌だった。
たまには、こんな日もあったっていい。最近のぼくたちは、あまりにも忙しすぎた。
戦って戦って戦って、傷だらけで苦しんで、今日はそんな日々の心の疲れがちょっとだけ和らいだ一日だった。




