第20話『もう、後戻りはできない』
中心街を少し外れ、割れた石畳の道を進む。
焔の魔女アリシアが召喚した魔神の古王の被害で倒壊した建物や、飛散した瓦礫などが未だ撤去されずに残っているこの場所を訪れる人間は余程の物好きくらいなもの。
いくら人間に魔術があっても、あれだけ巨大な魔物が暴れれば復興には時間を要する。
まだ師匠が死んで一週間、足場が不安定なこの一帯は未だ手つかずで、そもそも復興作業にすら移行できていなかったから、誰にも見られることなく立ち入ることができた。
そもそも、ヨハンナの魔術の影響下にある人々がぼくを見つけたところで、衛兵に通報することはないだろうけども。
ここに来ると、嫌でもあの日のことを思い出す。
指先で感じた引き金の抵抗、鉄と硝煙の匂い、そして、死に際の師匠の笑顔。
ここを指定したヨハンナは本当に性格が悪くて悪趣味だ。
「よく来たわね、アリシアの娘。約束通り一人ね、誰の魔力反応もない」
「お前なんかぼく一人で十分だからね」
「言ってくれるじゃない……でも、つまりそういうことなのね?」
敵意剥き出し、殺意を包み隠すことなく向けるこの態度を見れば、ぼくが大人しくヨハンナに殺されに来たわけじゃないのは伝わるだろう。
ぼくは懐から一冊の本を取り出す。
師匠が見聞し、語り歩いた勇者の物語、それが記された魔法の書―――【星紡ぐ物語】をわざと見せびらかすように引き抜き、ヨハンナを睨みつける。
「いいわ、相手をしてあげる。でもそれは―――この子の役目」
不敵に笑ったヨハンナの背後から、白い影が姿を現す。
セナ・アステリオ―――ぼくが最も信頼する友人であり、未だ背中を追い続けている勇者の少女が、ぼくに純白の鞘に納められたままの星剣を向けた。
「本を仕舞ってください、イヴ。たとえあなたでも、ヨハンナ先生を傷つけるのは許しません」
「……ごめんねセナ、ぼくにだって譲れないものがある。だから、そこをどいてくれ、ヨハンナはぼくが倒すべき敵だ」
「イヴ……っ!!」
「あっはははははっ!! どう? 友情ごっこは楽しかったぁ!?」
まるで物語の雑な悪役のように高笑いしながら、ヨハンナがぼくを挑発する。
そんな安い挑発には乗らない。乗りたくないが……セナを利用するのは許さない。
「本当にいいのかしら? 例えあなたがこの子を無力化し私を殺しても、私の魔術は止まらない。この子はこの先一生、あなたの友達ではなくなるのよ?」
それは……嫌だ。
嫌だけど、でも、だからって大人しく殺されるのはごめんだ。
セナのためには命だってかけられる。セナと友達をやめるのは死ぬよりもっとつらいし、絶交するくらいなら死んだ方がマシだ。
それでもぼくには死ねない理由がある。師匠からの命令が胸の内でまだ生きている限り、ぼくは死ぬことを許されないのだから。
「可哀想なレイリーナ。またあなたのせいで死ぬかもしれないのね……」
「黙れッ!!」
「いいえ黙らない。動揺する相手に黙れと言われて黙る馬鹿はいないわ」
「ならぼくが……ぼくがその口を塞いでやるっ!!」
ヨハンナの顔面に向けて、怒りに任せて氷の槍を放つ。
魔力の熾りすら一切見せない完全な不意打ち。だけどそれが彼女に届くことはなかった。
「やめてくださいイヴ! 私はあなたと戦いたくないっ!!」
「だったら引っ込んでろよ!! ぼくはこいつを倒す! ぶっ倒してやる!!」
「あらやだこわぁい。レイリーナ、私を守って。同じ勇者の仲間でしょう?」
「ヨハンナ先生……イヴ……っ!!」
ヨハンナが認識を改変しているせいで、ぼくとの友情へとヨハンナへの信頼の狭間でセナが葛藤する。
つくづく厄介な魔術だ。術者が死んでも解除されないのなら、全てが終わった後、ぼくとセナは友人ではなくなる。後悔する時間も葛藤する時間もぼくにはない。今、ここで覚悟を決めなければならない。
だからぼくは―――
「ありがとう、セナ。大好きだよ」
もう二度と言えなくなるかもしれないこの言葉を、セナに贈った。
後悔は多分めちゃくちゃすると思う。一生引きずると思うし、今後一切、セナのような友人は出来ないだろうと確信だってする。
それでもぼくはこの邪悪を倒す。そのために今ここにいる。
「レイリーナ、先生を守って」
「……はい」
下唇を噛みながら、セナが小さく頷いた。
後戻りはできない。セナの強さはぼくが一番よく知っている。ヨハンナの前に魔力を温存するべきだとは思うけど、手を抜いて勝てる相手じゃない。ユスティアがぼくを抜くべき敵だと認識していないのがせめてもの救いか。
一つ、深く息を吸う。
後悔や葛藤、そんなものはいらない、ここで捨てろ。
前に進むぼくを邪魔する感情を全て吐き出す。クリアになった思考で敵を、友達を見据えた。
やっぱりぼくには、人並みの幸せなんて似合わないんだ。許されないんだ。
大切な人はぼくのもとから去っていく、友達だって、簡単に失ってしまう。
だけど……それでも、こんな世界は間違っている。
だから否定する。たとえぼくが世界の敵になったとしても、間違っているのがぼくだとしても、ぼくはぼくの正しさを貫くしかないんだ。かつて、師匠がそうしたように。
星の剣は―――ユスティアは、ぼくを敵と認識したらしい。
黄金の輝きが純白の鞘の隙間から漏れ出ている。
なんかちょっと悔しいな……ぼくが、君の敵になるんだ。そっか、なら、仕方ないよね。
「イヴ……ごめんなさい! 私は……っ、あなたを……!!」
「何君が勝つことが当然みたいに言ってんだよ。勝つのはぼくだ、お前じゃない!!」
リツ先生の真似をしながら最大限口調を荒くして、セナが躊躇わないように突き放す。
セナは今にも泣きそうな表情で瞼に大粒の涙を浮かべながら、純白の鞘から黄金の剣を解き放った。
さてと……あれ、どうしようかな。流石のぼくでもユスティアには勝てるかどうか。
いや違う、勝つ必要なんてない。セナの防御を掻い潜ってヨハンナに一撃叩き込めばいい。
見合う、見据える。決闘とは違う、開始の合図はない。
手の内はほとんど割れてる。というか、魔力の出力量に任せたぼくの戦法はセナには通用しない。小細工も無理……こりゃ、万事休すかなぁ。
でもやらなきゃ。ぼくの友達を利用したあいつは、ヨハンナ・リヒテンベルクだけは、ぼくが必ず否定してやる。
「やめましょうよイヴ!! 私たちが戦っても、何も―――」
「【氷王の覚醒】―――ッ!!」
うるさい黙れとセナの制止の声を振り切って絶対零度の吹雪を放つ。
だけどセナには通用しない。どれだけ強力な魔法だろうと、魔法そのものを切ってしまえば魔力は塊にならず霧散する。
「やめてください、イヴ!!」
「黙ってろよクソ勇者! 今君の前にいるのは、君が倒すべき魔女だ!!」
「違います! イヴは私の―――」
「《多重詠唱》・【炎姫と氷王の邂逅】ッ!!」
セナを包囲するよう半球状に魔法陣を展開し、無数の蒼炎の火球を同時に射出。
だけどセナは一瞬でその半分を破壊し、もう半分を回避、高速でぼくに肉薄する。
金色の眼光がぼくを見据える。咄嗟の防御で展開した氷の盾も、ユスティアからすればただの飴細工にしかならない。時間稼ぎも無理、天高く掲げられた黄金の剣が、眼前に迫る死をこれでもかと思い知らせる。
「……もうやめてください、イヴ」
「止めるなよ、何を躊躇う必要があるんだ」
「たとえ世界の敵だとしても、イヴは私の友達です! 一緒に最高の勇者を目指してくれるんじゃないんですか!? 私を支えてくれるって言ったじゃないですか!!」
「あっそ……はぁ、めんどくさ」
本心を隠して、セナを突き放すようにため息を吐く。
ヨハンナに改変された認識の中でもセナはぼくを友達だと言ってくれた。ぼくだって君を友達だと思いたい、思っていたい。だけどそれはもう、叶わない願いなんだ。
大丈夫だよ、セナ。君が躊躇することはないんだ。
だから―――
「なにマジになってんの?」
「……えっ」
「あんなの嘘に決まってるじゃん、真に受けるなよ面倒だなぁ」
「なにを……言って……」
「え、まさか本気だと思ってた? そんなわけないだろ。利用されてるの気付かなかったの、バカだねぇ君」
「……は?」
口角を上げて、片目を見開き、もう片方を細め、出来得る限り不敵に笑う。
本心を悟らせないように感情を心の奥に押し込んでセナを嘲笑った。
憤怒、困惑、動揺、失望、複雑な感情が入り混じったセナの顔から涙が消えた。
「でも残念だなぁ、君もあっち側だったんだ。そっか、それはとんだ誤算だったね」
「何を言ってるんですか……私、イヴの言うこと何一つ分からないです……」
「まだ分からないの? 君はほんとにバカだね。まぁでも、そんなバカなところは好きだったよ、利用しやすくってさ!!」
「……イヴっ!!」
組み伏せられて、身動きを封じられた。
もう、友達には戻れない。
だから、せめてセナが躊躇わないように、後悔しないように、世界の敵を演じきる。
それがぼくにできる、セナへの最初で最後の恩返しだ。
こんなこと言ったら、君は多分、恩を仇で返すなって怒るだろうけど。
「さぁやれよ! 切れよ! 母親だってその星剣で刺したんだろ! 勇者なんだろ! 世界の敵を今ここで討てよ!!」
「あぁぁぁああああああああああああっ!!」
振り上げられた星剣を握るセナの手に力が込められる。
これでいい、これでいいんだ。セナに友達を殺させるくらいなら、ぼくを友達と思えないほど憎んでもらえばいい。
怒りと憎悪に身を任せ、大粒の涙を瞼に浮かべたセナが、ユスティアを振り下ろした。
だけど―――それがぼくの身体を捉えることはなかった。
一瞬聞こえた金属音に目を開けると、ユスティアがセナの手を離れて宙を舞っていた。
「まったく無様ですわね、イヴ・グレイシア」
声がした。
いつもぼくを憎んで、恨んで、挑発して、ずっとぶつかってきたその声が。
「あなたは私に勝ったのです。だからこんな場所で死ぬのは私が許しませんわ」
「テレジア……なんで……?」
「ずっと見ていたのです。あなたの考えることなんてお見通しですわ」
ぼくの遥か後方、深紅の大弓を携えたテレジアはそう言って自信に満ちた笑みを浮かべた。
「テレジアっ! よかった、イヴの説得に手を―――」
「撃ち抜きなさい【炎天の星弓】」
助力を求めるセナの声を遮るように、炎の矢が彼女に飛来する。
セナはぼくを組み伏せる手を解除して立ち上がり、テレジアの矢を真っ二つに切った。
「どうしてなんですかテレジア! あなたもイヴの仲間なんですか!!」
「勘違いしないでくださる? 私はあなたにリベンジしたいだけですわ」
「今じゃなくていいじゃないですか!!」
「今じゃなきゃダメなのですっ!!」
テレジアが五本の矢を放つ。だけどユスティアを解放したセナに届くことはなくて、一瞬のうちに五本全てを破壊される。
「行きなさいイヴ・グレイシア! 私のお母様を愚弄するあの生ける屍を止めてください!!」
「テレジア……分かった、ありがとう!!」
立ち上がってヨハンナに向けて駆け出す。
もちろんそれをセナは許さない。だけどセナの対峙するテレジアはぼくに意識を割けるだけの余裕を与えてくれる相手じゃない。ぼくを止めに入った瞬間に炎の矢が飛来し、セナの意識は逸らされる。
「イヴ! 待って!!」
セナがぼくに向けて手を伸ばすけど、その手がぼくに届くことはなかった。
大丈夫、全部終わらせるから。
めちゃくちゃ悔しいけど、全部終わったら君に殺されてあげるから。
◇ ◇ ◇
セナ・アステリオにとってイヴ・グレイシアは親友だ。
いや、親友という簡単な言葉では片付けられないほど、セナの人生におけるイヴの存在は非常に重かった。それは彼女が、セナ・アステリオではなくレイリーナ・ノクス・シルヴァリオだった頃に抱いていた感情にも起因しているだろう。
そんな親友に突き放されたセナの心は今にもバラバラに裂けてしまいそうだった。
イヴは友達だ、だけど世界の敵だ。だからって、どうして殺し合う必要があるのだろう。
答えは決まっている。イヴが魔女だから、尊敬するヨハンナ・リヒテンベルクを傷つけようとした世界の敵だからだ。
セナは勇者だ。勇者ならば、世界の敵は討つべきだ。いいや、討たなければならない。
最高の勇者になるために、世界を平和にするために。
だけど、それを邪魔する存在があった。
テレジア・リヒテンベルク―――編入初日にセナが降したヨハンナの娘。
燃える炎の意匠で象られた深紅の大弓を携えてセナの目の前に立つ彼女は、哀れむような視線をセナに向けていた。
テレジア・リヒテンベルクにとってイヴ・グレイシアは宿敵だ。
ずっと尊敬していたアリシア・イグナの弟子である彼女に、テレジアは嫉妬していた。嫉妬すると共に、強い憧れを抱いていた。彼女が操る魔法を使いたい、欲しい、だけどその思いは、才能という一言で打ち砕かれた。
イヴは倒すべき敵だ。だけど、ヨハンナによる認識の改変が行われている現状、共にヨハンナを敵視する仲間でもある。
テレジアにとってイヴは、乗り越えるべき壁であり、背中を追うべき対象。だから彼女は武器を手に取った。たった一人で世界の敵となったイヴ・グレイシアを守るために。
だけど、それを邪魔する存在があった。
セナ・アステリオ―――テレジアが無様に敗北した勇者を夢見る娘。
太陽の如き輝きを放つ黄金の剣を携えてテレジアの目の前に立つ彼女は、未だに迷っているように見えた。
「どうしてあなたまで……テレジア!!」
「それはこっちのセリフですわ。あれだけ好きだった彼女を、あなたは簡単に手放してしまうのですね」
「それは……っ」
「ヨハンナ・リヒテンベルクに言われたから、でしょうか?」
セナの目が大きく見開かれた。
図星だ。今のセナにとって、何よりも、親友のイヴよりも優先するべき相手がヨハンナ。そう改変されている認識の中では、彼女からの指示はセナの全てだった。
「他者の指示で自らの信念を捻じ曲げてしまうだなんて、哀れな勇者様ですわね」
「……うるさいっ!!」
「ようやく人間らしい感情を見せましたね。これなら、私の敵ではありませんわ」
テレジアが大弓―――アポディリスを構え、五本の矢を同時に番えた。
彼女の脳裏を過るのは、セナ・アステリオに屈辱的な敗北を喫したあの日の光景。
あの結果はテレジアにとって、生涯恥じるべきものだ。一生忘れることのできない大きな敗北だ。だがそのおかげで、テレジアは一歩、先に進むことができる。
失敗は成功の母とはよく言ったものだ。負けたことは、次の勝利への糧となる。テレジアは二度敗北した。一度目はセナに、二度目はイヴに、自分の不甲斐なさは痛感している。無力な自分を呪ったし、調子に乗っていた己を恨んだこともあった。
だからこそテレジア・リヒテンベルクに三度目の敗北などありえない。
「行きますわよ、アステリオさん―――いいえ、セナ・アステリオ」
「っ……テレジアまで、どうして……」
「イヴ・グレイシアに借りを返しに来た。私が戦う理由はそれだけですわ」
人生最大の好敵手であろう最高の勇者候補とテレジアは対峙する。
セナ・アステリオはテレジアが知る限り最強だ。あらゆる魔術も、あらゆる戦術も彼女の前では障害にすらなり得ない。
それでもテレジアは武器を取り前に進む。この間違った世界を否定するために。
ヨハンナ・リヒテンベルクを倒すために。




