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第13話『魔法が使えない呪いの子』

 プラネスタから北西に魔導列車で六時間。近隣の都市で降車して、セントリアル大森林を奥深くへと進んだ先に、魔法使いが静かに暮らしている小さな集落がある。

 父曰く、ぼくたちはかつて勇者に倒されたという魔王が従えた『魔族』と呼ばれる存在の末裔らしい。その証拠に、集落に暮らしている人間……人間と呼んでいいのかは分からないけど、皆一様に特徴的な両目を、魔眼を持っていた。

 ぼくは、深い海のような青い髪と瑠璃色の瞳を持つ母親と、白銀の髪と紫紺の瞳を持つ父親の間に生まれた、一つしか魔眼を持たない異端児だった。

 両親の特徴を半分ずつ受け継いだ、空色の髪と瑠璃色の左目、紫紺の右目。魔眼として機能するのは右目だけで、左目は普通の人間の目だった。

 こういうのを人間の世界じゃ「突然変異」って呼ぶらしい。両親の血筋を遡っても、魔法使いではない異物が紛れ込むことはなかったから、生まれた当時は皆で不思議がったという。



 魔眼は、魔法使いには欠かせないものだ。

 人が本来持っている魔力を用いる魔術とは異なり、世界に漂うマナを魔力に変換する魔法は、扱うためにはまずマナを知覚する必要がある。魔眼は魔法使いがマナを知覚するために必要な器官であり、これがなければ魔法は扱えないか、扱えたとしても最悪死ぬ。

 ぼくには皆の半分しか魔眼がなかったから、生まれつきマナが見えなかった。だから両親からは「絶対に魔法を使ってはいけない」と念を押された。

 挙句、ぼくが魔法に、外界に興味を持たないようにと地下に幽閉される。今思えばこれは、ぼくのためじゃなくて、両親のための措置だったんだと思う。

 マナの見えない、魔法の扱えない子供を生んだとなれば、里の中の両親の立場は危うくなる。

 それこそ里は、人間との関りを極端に嫌っていた。

 これも純粋な魔法使いの血を後世に繋げるためだ。間に異物が混じったとなれば、魔法の力は徐々に弱まっていく。



 両親がぼくを嫌う理由はもう一つある。

 ぼくには二歳年上の優秀な姉がいた。

 フィリア・グレイシア。

 父親から受け継いだ白銀の長髪と、母親譲りの瑠璃色の瞳を持つ姉は、一言で例えるなら天才だった。

 生まれて三か月後には自力で立ち上がり、言語を学び始め、一歳になる頃には魔法を習得。

 やること為すこと全て規格外の彼女は、魔法の使えないぼくとは正反対。言葉を選ばず言うのなら、ぼくが本来持つべき魔法の才能を全て吸い取って生まれてきたようなものだ。

 だけど、別にぼくは姉を憎んでいたわけじゃない。むしろその逆、姉はぼくが暮らしていた地下にご飯を持ってきてくれたし、ぼくに沢山魔法を見せてくれたから感謝している。

 家族の中でぼくを見てくれるのはお姉ちゃんだけ。だからぼくはお姉ちゃんが大好きだった。


「イヴっ! 外いこっ!!」


 ぼくが生まれて大体四年が経つ頃。姉は突然、ぼくを外に連れ出した。

 雪が降り積もった一面の銀世界。ずっと地下で暮らしていたから、初めて見る外の世界はひどく眩しかった。

 里の外には危険な魔物が沢山生息している。襲われて死んでしまった者もいる、だけど姉はぼくの手を引いて、里を囲う柵と隠蔽の魔法を抜けて、森の中へとぼくを連れ出した。

 不思議と魔物は寄って来なかった。今思えば、彼らは姉に恐れて近付かなかったんだと思う。


「知ってる? 人は冬になると、雪を丸めて投げて遊ぶんだって!」

「それがどうしたの」

「私たちは魔法で何でもできるじゃん? だから雪を丸める必要も、投げる必要もない」


 姉はそう言って手を使わず足元の雪をすくい上げ、丸める。

 マナが見えると綺麗な半透明の手が動いているらしいけど、ぼくには何も見えなかった。


「でもそれって、とってもダメなことだと思うんだ。魔法で何でもできちゃうと、そのうち何もできなくなる。そこからは、ずっと衰退していくだけ」


 空中に浮かんだ雪玉を、姉はその辺の木の幹に向けて射出する。


「……おねえちゃんのいうことむずかしい」

「人はね、不便なものを便利にするために色々と考えているの。それが人の進化。でも便利なものだらけだと、人は考えることを、進化することをやめてしまう」

「わかんないよ」


 今度は自分の手で雪をかき集めて雪玉を作った姉はぼくに笑いかけてこう言った。


「つまり、イヴは私たちの中で、未来に進むことを選んだんだよってこと!!」

「つめたっ!?」


 姉は子供のぼくにはこれっぽっちも理解できない言葉の数々を連ねて、ぼくに雪玉を投げる。

 柔らかな雪で優しく握るように作られていたから痛みはなかった。その代わり、すごく冷たかった。


「やったなぁ、このっ!」

「いったー!? ひどいよぉイヴぅ……」


 腹が立ったぼくは、固めに雪玉を作って姉に投げた。

 顔面にクリーンヒット。姉は額を両手で押さえて、可愛らしく頬を膨らましながら瞼に涙を浮かべてぼくを睨む。

 姉が気を遣う必要なんてない。ぼくが生まれたことに、姉の言うような大層な理由はない。

 ただ偶然異物が生まれてしまっただけ。生物の進化とか未来とか、正直ぼくにはどうでもよかった。だけど姉からすれば、そう思わないとやってられなかったんだと思う。

 姉が愛する妹のぼくが、誰からも、神様からも望まれていない奇跡のような確率で生まれた劣等種であることを、姉は、フィリアはどうしても認めたくなかったのだ。


 そのまま何回か雪玉を投げ合って、お互いの手が真っ赤になってきた。

 姉に連れられて戻ると、家には珍しくお客さんがいた。

 雪のように真っ白な長い髪と燃える炎のような赤い瞳。赤いラインが入った黒いコートは確か、王国軍の偉い人の服だって聞いたことがある。


「アリシア様、娘のフィリアです。まだ六歳ですが、里の中で遥かに優れた才覚を持っています。お弟子には、是非フィリアを」


 父はぼくをいないものとして扱い、アリシアという女性に姉を紹介した。

 姉はぼくが紹介されなかったことが不満だったのか一瞬だけムスッとして、アリシアさんに一礼する。


「フィリア・グレイシアと申します」

「お父さんから聞いているよ。もうその歳で新たな魔法をいくつも生み出しているなんて素晴らしいね、私が知る限り、最も魔法の才に長けていると言っても過言じゃない」

「……ありがとう、ございます」


 アリシアさんに褒められても、姉はなんだか嬉しくなさそうだった。

 次にアリシアさんは、姉の隣にいたぼくをじっと見た。星空を内包したような、きらきらと輝く宝石の瞳、この人も魔眼を持っている。ぼくは自分が半端者なことが悔しくて、思わず左目を長い前髪で隠した。


「グレイシアさん、この子は?」

「次女のイヴです」

「魔眼が一つしかないようだけど」

「これはマナが見えず魔法が使えない欠陥品です。まったくお恥ずかしい限り、申し訳ございません。イヴ、部屋に戻っていなさい」


 父は自分の娘に向けたものとは思えないほど憎しみの込められた目でぼくを見た。

 あぁ……そうか、ぼくはやっぱり、誰からも望まれていないんだ。

 姉の慰めなんて何の効果もなかった。ぼくは小さく頷き、逃げるように外へと駆け出す。


「あ、まってイヴ!!」


 ぼくを引き止める姉の声も、今はとても鬱陶しくて煩かった。


 次の日から、姉が地下に来ることはなくなった。

 代わりに母がぼくのご飯を持ってきてくれた。といってもそれは、残り物なのか、料理とは到底言えない食べ物のような何かだった。味は最悪、でも食べられないわけじゃなかったから、鼻を摘みながらできるだけ舌を使わないようにして喉の奥に押し込んだ。

 母が言うには、姉はアリシアさんの魔法研究の助手として王都で暮らすことになったらしい。王都……存在は知っているけど、どんなものかは分からない。でも姉が行く場所ってことは、すごく綺麗な場所なんだろうな。


 ある日、地下にずっと閉じ込められているぼくが気の毒だったのか、母が魔法の本を貸してくれた。

 姉から読み書きを教わっていたぼくは、魔法が使えなくてもその本の内容を知ることができた。


 大魔法使い『星詠み』曰く、魔法とは、物語である。

 平穏な日常を送るだけでは決して体験することのできない壮大な冒険の物語。その一頁を切り取り、現象を世界に上書きする現実改変の秘術、それが魔法だという。

 ぼくたちの知る魔法は、マナを使って現象を引き起こすだけ。それは星詠みが目指した魔法の極とは大きく異なる、間違った使い方らしい。

 だけど、誰も正しい使い方を知らない。だから魔法は今のまま親から子へと受け継がれ、変化を繰り返してきた。


 魔法使いになるためにはまず、自らの魔法が偽りであることを自覚しなければならない。

 そして偽物の魔法を研究、解明することによって、本物の魔法へと至るのだという。

 正直、子供のぼくにはよく分からなかった。ただ一つ分かったことは、父も母も里の人間も、姉ですらも本当の魔法を知らないということ。

 ぼくはその事実に、なんだかすごく優越感を抱いていた。

 いや……優越感とはまた違う、どちらかというと「ざまぁみろ」と相手を見下す感情の方が大きいかもしれない。

 だって、あんなにぼくを「魔法の使えない欠陥品」「片方しか魔眼のない半端者」と見下していた皆が、魔法の本質を何も理解していないなんてとんだ笑い話だろう?


 もしマナの見えないぼくが、魔法の使えないぼくが、皆よりも先に本物の魔法を見つけたら、それはとてもすごいことだ。

 明確なビジョンがあるわけじゃなかった。自信もなかったし、覚悟もなかった。だけどこの地下の小さく冷たい部屋でこれからも暮らしていくには、生きていく理由が必要だったんだ。



 一年後、姉が王都から帰ってきた。

 後から姉に聞いた話だと、この時のぼくは生きる屍のようだったらしい。

 まぁそれはそうか、ご飯の味なんて分からなくなっていたし、とにかく、本物の魔法を見つけたい一心で耐えていただけに過ぎないから、とっくに死んでいてもおかしくはなかった。

 一年ぶりに聞いた姉の声は、両親をひどく怒鳴りつけるものだった。


「はいイヴ、五歳の誕生日おめでとう!」


 姉が帰ってきて二か月ほど経った頃、姉は突然、ぼくにプレゼントを渡してきた。


「たんじょうび……?」

「王都では生まれた日を毎年のように祝うんだって!」

「きょう、ぼくのたんじょうびなの?」


 地下にずっと閉じ込められていたから、生まれた日なんて意識したことがなかった。

 外の世界の光なんて少ししか届かないから、日に一度、母が持ってきてくれるご飯の時間がぼくにとっての一日の境目だった。朝とか昼とか、夜とかそういう言葉があるのは知っていたけど、正直ぼくには分からなかった。

 姉はなんだか、とても悲しそうだった。

 下唇を噛みながら、今にも泣きそうなほど震えている姉の姿をはじめて見た。


「そう、そうだよ。今日は、イヴの五歳の誕生日。生まれてきてくれてありがとうって、祝う日なんだよ」

「ぼく、うまれてきてよかったの……?」

「―――ッ! イヴっ!!」


 生まれてきたことに感謝をする、祝う。それ、ぼくに関係ある話?

 首を傾げて素朴な疑問を口にするぼくを、姉は震える腕で強く抱き締めた。

 ごめんなさい、ごめんなさいと、何度も耳元で呟いていたのをとても強く覚えている。



 姉から五歳の誕生日に貰ったのは、一冊の本だった。

 勇者アルトリウスの伝説―――王都ではとても広く普及した童話らしい。

 流れ星と共に降ってきた星剣を抜いた少年『アルトリウス』は勇者として星神から魔王を討伐する使命を受ける。星神の代弁者たる魔法使い『星詠み』と共に世界を旅して、仲間を集め、最後にしっかりと魔王を倒すまでの、アルトリウスの冒険を描いた物語だった。

 本物の魔法って、こういう物語なのかなと、ぼくは足りない頭で必死に考えていた。



 次の日から、姉はぼくに魔法を教えてくれるようになった。

 なんでもアリシアさんの助手をしていた時、マナが知覚できない人が魔法を使うための方法をずっと教えてもらっていたらしく、その実践をしてみようということだった。


「手を向けて的を狙って、小さな氷柱があの的に飛んでいく光景をイメージするんだよ」

「い、イメージ……氷柱……」


 ぼくは目を瞑って、氷柱が的に当たる光景を想像する。

 想像の中のぼくは炎も氷も土も風も、複雑な魔法を沢山使って華麗に的を撃ち抜いていたけど、現実は非情だ。


「駄目だよお姉ちゃん、ぼくには無理だ……」

「きっと大丈夫だよ! 魔眼がなくても魔法が使える人を知ってるってアリシアさんも言ってたし!!」


 姉が言うには、マナに変化を求めて語りかけることが魔法の第一歩らしい。だけど、もしぼくがマナだとしたら、自分のことを見えていない相手から「こうしてください」とお願いされても従わない。

 何度も繰り返し練習した。

 何度も繰り返し祈った。

 それでも、ぼくが魔法を使えるようになることはなかった。


「ちょっと寒くなってきてない? イヴの呼びかけにマナが応えてるんだよ!」

「あっ! 今小さな氷の結晶ができた!!」

「もう少し! もう少しだから頑張って、イヴ!!」


 姉は何度もぼくを励ましてくれた。

 何日も、何週間も練習に付き合ってくれたのに、ぼくはそんな姉の優しさをちっとも理解していなかった。


「もういいよ、おねえちゃん」

「あと少しだよ! もう少し頑張れば―――」

「無理だよ……っ!!」

「ッ―――!?」

「こんなに頑張らないと魔法が使えないなら、ぼくは一生半端者でいい!!」


 結果が伴わない努力に、芽が出ない鍛錬に嫌気が差して投げ出した。

 皆と違うことが嫌だったぼくのために色々と調べて、ぼくが魔法を使えるように考えて、協力してくれた姉の優しさをぼくは突き放してしまった。


「……ごめんね、イヴ」


 姉は、絞り出すような小さな声でそう言った。

 その時の悲しそうな姉の顔は、多分一生忘れられない。


 三日後、家族の中で大事件が発生した。

 姉が突然、魔法が使えなくなった。姉は天才ではなくなった。

 両親はなんとか姉の魔法の才能を戻そうと奔走した。

 いつものように地下にぼくのご飯を持ってきた姉は、そんな両親を愚かだと嘲笑った。


「ほんとはね、まだ魔法使えるんだ」

「でも、それじゃあどうしてお父さんとお母さんを困らせるの?」

「私も魔法が使えなくなれば、二人もイヴのこと、少しは見てくれると思って」


 その姉の思惑はむしろ逆効果に作用した。

 父は姉の魔法が消えたことを魔法が使えないぼくのせいにし、姉とぼくの接触を禁止した。

 夜中、父が地下の部屋にやってきた。鉄扉の鍵を開け、ぼくの手首を掴んで強引に連れ出した父は、ぼくの頬を何度も叩いた。


「お前のせいだ……っ! お前が振り撒く呪いが、フィリアの才能を潰したッ!!」

「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


 頬が真っ赤に腫れ上がって、口の中が切れて沢山血を流した。

 それからしばらく、食べるご飯は鉄の味しかしなかった。

 父は毎日のように地下にやってきて、ぼくに罵声を浴びせ暴力を振るった。

 魔法が使えない娘なんていないも同然、家畜以下のゴミ、何度も殴られ、何度も蹴られ、全身痣だらけになっても魔法のないぼくには抵抗することすらできなかった。

 ぼくじゃない。ぼくのせいじゃない。

 そうやって否定するために発言することすら、ぼくには許されなかった。

 ぼくが父に殴られるようになって一週間が過ぎた頃、両親の目を盗んで姉が地下に来た。

 姉は全身が痣まみれで生傷の絶えないぼくの姿を見て絶句していた。


「ごめんね、イヴ……私のせいで……」


 お姉ちゃんのせいじゃない―――そう言ってあげたかったのに、ぼくの頭を支配するのは父の「おまえのせいだ」とぼくを責め立てる言葉ばかり。いつしか、自分を責めるために父と同じ言葉を口にするようになっていた。

 タイミングが最悪だった。殴られ続けて鼓膜が破れ耳が聞こえなくなっていたし、上瞼が腫れて目も少ししか見えてなかったから、ぼくは姉の接近に気付けなかった。


「お前のせいだ……お前のせいで……お前の、お前が、生きてるから……」

「っ……!!」


 カランカラン、冷たい石の床に食器が落ちて跳ねる音で、ぼくはようやく姉が来たことを知った。

 気付く頃には遅かった。ぼくがうわごとのように呟き続ける父の言葉を聞いてしまった姉は、それが自分に向けられたことだと勘違いしてしまったのだろう。

 次の日から、姉の魔法が復活した。

 姉が魔法を使えないままだと、地下にいるぼくが毎日のように父に殴られるから。

 姉は天才だけど、大人じゃない。子供だから何度も、何度も間違った選択肢をとってしまう。

 だけどその間違いが招いたボタンの掛け違えが、大きな歪を生んでいた。

 お前のせいだと姉を責めたことを、ぼくは最後まで謝ることができなかった。


「……ねぇ、イヴ。イヴはこの世界、嫌い?」

「どうしたの、急に」


 ある日、いつものようにご飯を持ってきた姉が唐突にぼくにそう尋ねた。

 意図は分からなかった。今思えば、この時姉は既に限界だったんだろう。

 姉は優れた魔法使いだ。アリシアさんから直接魔法を教わった姉に勝てる魔法使いは、もう既に里にはいないし、この国の中にだってなかなか見つからなかったと思う。

 既に姉には、世界を敵に回す覚悟があったのだ。

 ぼくの返答次第では、姉は里を滅ぼしていただろう。

 魔法が使えないぼくが生きることを許されない、この小さな世界を。


「お姉ちゃんがいるから、嫌いじゃないよ」


 ぼくの純粋なその返答は、姉が最後の一線を越えてしまう前に引き留めた。


「そっか……うん、わかった。私もイヴがいるこの世界、嫌いじゃない」


 姉はまるで自分自身に言い聞かせるように頷いた。

 必死に取り繕ったような笑みが、月明りに照らされる。

 どれだけ完璧で天才でも姉も一人の人間だ。自分が何をしても改善されない両親からの妹の扱いと、その妹に突き放された精神的なショックに気疲れしていた。

 姉の目の下には大きなくまができていて、綺麗だった肌はボロボロに荒れていた。


 それから姉が死ぬまで、もう一週間もなかった。


 なんだかとても外が騒がしかった。地下の部屋を大きく揺らす衝撃が怖くて、ぼくは部屋の隅で布団を被ってガタガタと震えていた。


「イヴ! 無事なの!?」


 地下に続く階段を駆け下りてきた姉は、震えるぼくの姿を見つけるとほっと安堵のため息をついた。

 鉄扉の鍵を開けてぼくのもとに駆け寄ってきた姉の綺麗な銀色の髪は煤と血に汚れていて、血の臭いが姉から漂ってきた。


「お姉ちゃん……どうしたの、それ」

「いいから、ここから逃げるよ!」

「だめだよ、またお父さんに怒られる」

「お父さんは死んだの。だから逃げ出すイヴを叱る人は誰もいない」

「えっ……」


 父が、死んだ―――そっか、そうなんだ、死んだんだ、あいつ。


「死んだ……お父さんが、死んだ……?」

「お母さんも魔物に食べられちゃった。もう私とイヴしか残っていない」

「……ふざけんなよ」


 こんな状況だというのに、ぼくの内側からこみ上げてきたのは怒りだった。

 もう、悲しいなんてこれっぽっちも思えなかった。

 母は極端にぼくを避けていたから、そもそも会話を交わすことすら数える程度しかなかったし、父に関しては何度もぼくを殴っていじめて、憎たらしいとも思っていたのに、それなのに、死んで喜べるはずなのに、魔物なんかに殺されたのが許せなかった。


「なんで!! ぼくはあいつに一方的に殴られて、理不尽に罵られて、こんな冷たくて暗くて狭い場所に閉じ込められて、美味しくないご飯食べさせられて、殴られて、それでもずっと我慢して生きてきたのに……っ!!」


 なんで、勝手に死ぬんだよ。

 いつか魔法が使えるようになったら真っ先に殺してやるって決めていたのに。


「ぼくはまだ……あいつに一度も謝ってもらってない!!」

「イヴ! 分かったから落ち着いて!!」

「うぁぁっ……あぁぁぁああああああああああああああ!!」


 人生で一番、感情を爆発させた瞬間だった。

 ぼくが父に受け続けてきた仕打ちを知っているから、姉も何も言えずにいた。

 ぼくは……復讐する相手を失った。


「イヴがお父さんのことをすごく憎んでるのは私も知ってる。だけど、ここにいたらイヴまで魔物に食べられちゃう。だからお願い、私の言うことを聞いて?」

「……うん」


 涙を拭って、姉の言葉に頷いた。

 ぼくは姉に手を引かれて地下を出た。

 久しぶりの地上は、ぼくが見た里とは大きく異なっていた。

 燃え続ける家、逃げ惑う人々、そして、跋扈する凶暴な魔物。

 姉の後にぴったりとくっついて歩いていると、見知った顔の死体を見つけた。

 父だ。腹から下を魔物に食われた父は、赤黒い臓物を撒き散らして我が家の目の前で死んでいた。

 あまりに凄惨で残酷な光景に、「ざまぁみろ」とも思うことができなかった。

 だけど、父は最後までぼくを引っ張って地獄に落ちようとしていたんだと思う。

 ぼくが父の死体に気を取られている間に、魔物がぼくたちの前に立ち塞がったのだから。

 槍のように太く鋭い爪と六本の足、何かの生き物に人間の上半身がくっついたような姿の魔物は、ぼくたちに向けてその爪を振り下ろす。


「イヴっ!!」


 姉に突き飛ばされて、魔物の攻撃はぼくに当たらなかった。

 その代わり、魔物の爪はさっきまで繋いでいた姉の左手の肘から先を切り落とした。

 姉の左腕から血が噴き出す。足元の白い雪を真っ赤に染め上げていく。


「ぐっ、うぅぅ……こんのぉぉぉおおおおおおおおおおおお!!」


 姉の放った氷の槍が、魔物の心臓を撃ち抜く。

 身体の真ん中に大きな風穴を開けられた魔物は、力なくその場に倒れて動かなくなった。


「お姉ちゃん!!」

「このくらいへーきへーき、ほーら、もう血止まった!」


 姉は綺麗な顔を苦痛に歪めながら、切り落とされた左腕の切断面を魔法で凍らせて強引に止血する。

 残った姉の右手と手を繋ぎ直して、ぼくたちは里の外へと急いだ。

 けど、ただの子供に腕の欠損を耐えられるだけの胆力はない。何歩か歩いて姉はその場に膝を突き、小さな身体を雪に沈めた。


「お姉ちゃん……っ!!」

「ごめんイヴ、これ、もう無理だ……」


 魔法の氷を維持することもできず、姉の左腕から大量の血が噴き出して、雪を赤く染めていく。

 こんな弱った姉の姿を見るのは初めてで、ぼくはどうすればいいか分からなくなった。

 だけどひとまず、血を止めないと姉が死んでしまうことは分かっていた。ぼくは自分の手が血で汚れることも顧みず、姉の左腕を必死に掴んで止血を試みる。

 駄目だ、どれだけ強く圧迫しても、専門的な知識を持たないぼくじゃ止血なんてできない。

 そんな時、いつか姉が言った言葉を思い出す。


『魔法で何でもできちゃうと、そのうち何もできなくなる』


 ぼくはこの時ようやく、姉の言葉の意味を理解した。

 治療も魔法に頼ってばかりいたから、誰も止血の方法なんて知らない。ぼくだって、教わっていない。

 こんな時魔法が使えれば、姉を救うことができたのかな。

 なんで、ぼくは姉を救うことができないんだろう。

 どうして、ぼくは魔法を使えないんだろう。


「イヴ……顔を見せて」


 姉ももう、自分が助からないことを悟っていたのだろう。ぼくは姉に従って、姉の顔の前で屈んだ。


「怪我は、ない?」

「……ないよ」

「そう、よかったぁ……」

「何もよくない。お姉ちゃんじゃなくて、ぼくがやられればよかったんだ」

「そんなこと言わないでよ。私は、イヴのこと助けられて、とっても誇らしいんだから」


 ぼくは無力だ。誰も救えない、誰も守れない。

 魔法がないから、魔法が使えないから、大好きなお姉ちゃんを助けることもできない。


「ねぇ、イヴ。ひとつ、お願いしてもいい?」

「……うん」

「私ね、アリシアさんのところで、ずっと、勉強していたことがあるんだ」

「……なに」

「マナを、見えるようにする魔法」

「……っ」


 何をしようとしているのか、馬鹿なぼくにも理解できた。

 姉はぼくの前髪を掻き分け、ぼくが嫌いな紫紺の右目をじっと見つめる。


「綺麗な目、でもイヴは、お父さんと同じだから、嫌いかな」

「左目の方が好き。お姉ちゃんと、同じ色だから」

「うれしいなぁ。そう言ってもらえて、私、すっごくうれしい」


 姉は瞼の上から、そっとぼくの左目に触れた。

 温かな光が姉の掌から流れ込んでくる。

 姉の人生最後の魔法は、姉がずっと、ぼくのために研究を続けていた魔法だった。


「私ね、イヴは私よりすっごい魔法使いになると思うんだ」

「いらないよ……ぼくにはお姉ちゃんがいればそれでいいよ……っ」

「だから、マナが見えれば、きっと私なんて、軽く超えてしまう」

「だからいらないって……! 聞いてよ! 聞けよ! 魔法が使えてもお姉ちゃんがいないんじゃ意味ないよ!!」

「イヴは大丈夫、私なんかがいなくても、きっと、生きていける」

「無理だよ……お姉ちゃんがいないんじゃ、ぼく、一人で生きていくなんて無理だよ!!」


 涙で視界がぐちゃぐちゃだった。姉の顔もはっきり見えなくて、それでも左目から流れ込んでくる姉の魔法が温かくて、右目に薄らと映り始めたマナの流れが嬉しくて、だけど、その代わりにどんどん声が小さくなっていく姉を失いたくなくて、必死に叫んだ。


「イヴ、少し早いけど、これが私からの、誕生日プレゼント」

「お姉ちゃん……っ!!」

「生まれて来てくれて、ありがとう……」


 左目に流れる光が消えた。

 世界を漂うマナがはっきりと見えるようになった。


「お姉ちゃんっ!!」


 涙を拭って、姉を呼んだ。

 だけど返事がなかった。

 姉の綺麗な瑠璃色の瞳からは、光が失われていた。


「お姉ちゃん……」


 ぼくの大好きなお姉ちゃんは、死んでしまったのだ。

 それでもなお、魔物は死肉を喰らうために姉の遺体に寄ってくる。

 ぼくは一つ息をついて立ち上がり、魔物を的に見立て、右手を向けた。

 マナが見えるようになって一つだけ分かったことがある。

 姉が天才的な魔法の才能を持っていたのは、マナに愛されていたのだ。

 マナに愛されるが故に、姉の傍にいたぼくの声は、マナに届いていなかった。

 姉が殺され、マナも怒っている。ぼくも、怒っている。


「出てけよ……」


 イメージするのは、複数の魔法。

 氷の槍、炎の矢、風の刃、土の塊。

 ぼくがどれだけ願っても届くことのなかった幻想の具現化。

 今ならば、はっきりとそこに至るプロセスが分かる。


「ここから、出てけよぉぉぉおおおお―――!!」


 溢れるばかりの怒りを魔物にぶつけた。

 ぼくの掌から放たれる魔法の数々は、魔物の心臓を確実に射抜き、破壊する。

 腕を飛ばし、脚を飛ばし、首を落とし、それでもなお破壊を続けた。

 止められなかった。止めたくなかった。お姉ちゃんがいない世界に価値なんてなかったから、世界なんて滅んでしまえと本気で思っていた。


 どれだけ、時間が経っただろう。

 バラバラになって凍り付いた魔物、真っ赤に染まる血まみれの地面。炎は既に消えていて、夜も開けていた。

 魔物の気配はない、ぼくが全部倒したと、辺りに漂うマナが教えてくれた。

 ぼくはとっくに冷たくなっていた姉の身体に覆い被さるように泣いた。

 どれだけ泣いても姉は戻ってこないのに。


 ふと、足跡が聞こえてくる。

 魔物じゃない、人間のものだ。

 顔を上げると、見知った顔の女性がぼくの目の前に立っていた。

 白い髪、紅い目、アリシアさん……だったっけ。


「キミは……確か、フィリアの妹の……イヴ、かい?」


 ぼくはこくりと頷いた。

 アリシアさんは辺りを見回して、残酷な里の惨状、殲滅された魔物の残骸、そしてぼくの順番に視線を向けた。


「これをやったのは、キミ、なのか……」


 ぼくはまた、こくりと頷いた。


「生き残りはキミだけなのかい? フィリアは!?」

「……ここ」


 視線を下に向けて、姉を指した。


「そうか。フィリアは、死んでしまったんだね」


 アリシアさんのその言葉を聞いて、また涙が溢れてきた。枯れるまで泣き続けてもう出ないと思っていたのに、冷たくなった姉の身体の上に、ぼくの涙がぽたりと落ちた。

 認めたくなかった。知りたくなかった。分かりたくなかった。

 優しかったお姉ちゃん、強かったお姉ちゃん、ぼくの大好きだったお姉ちゃんは、本当に死んじゃったんだ……。


 アリシアさんに傷を治療してもらって、ぼくたちは二人で里の皆の遺体を焼いた。

 アンデッドになるといけないから、念入りに骨も砕いた。

 不格好だけどお墓も作って、皆の骨を埋めた。

 姉は「いや! イヴを嫌ってた人たちと一緒のお墓なんてむり!!」って言うかもしれないけど。


「行くところはあるのかい?」

「ない……あるはずない」

「……それもそうか」

「アリシアさん……ぼくを殺してよ」

「それは無理だよ、私はもう人を殺さないと決めた」

「お姉ちゃんがいないなら、生きていく意味がない」


 姉はぼくの全てだった。

 姉が喜ぶから、姉が生きていて欲しいと願うから、ぼくは生きていたに過ぎない。

 魔法の代わりに姉を失って、何の意味があるんだ。

 魔法を手に入れても、殺したかった人は魔物に食われて死んだし、褒めてもらいたかった人もぼくの代わりに死んでしまった。

 ぼくはもう……生きるのが嫌だった。


「フィリアの最後の願いを裏切っていいというのなら、私はキミの願いを叶えよう」

「っ……!!」


 姉の最後の願い。

 姉はきっと、ぼくに生きていて欲しいから魔法をくれた。

 それなら、ぼくにできる恩返しは生きること。

 苦しみながら生きて、悲しみながら生き続けて、空虚な人生を送ること。

 これはきっと、ぼくの罪だ。

 姉を死なせてしまったぼくへの罰だ。

 ぼくは罪人として生きて、生きて、生き続けて、最後に死ぬまで贖罪の旅を続けるしかない。

 それが、姉の願いを叶えながら、ぼく自身を罰するたった一つの方法だから。


「本当はね、今日はここにフィリアを迎えに来るつもりだったんだ。あの子を私の後継者として育てる許可をご両親に貰いに来た、そのはずだった」


 師匠は屈んで、ぼくと視線の高さを合わせて小指を差し出してこう言った。


「キミが死にたいというのなら、一つ条件をつけよう。それを果たすまで、キミは死ぬことを許されず延々と生き続けることしかできない、そういう契約だ」

「条件……?」

「キミはフィリアの代わりとして、私亡き後も世界を導く星詠みになるんだ」

「星詠み……」


 星詠みとは、この世界に魔法を与えたという大魔法使いの名前。

 ぼくが見つけたかった本当の魔法を知る、唯一の人。


「そして、私のように後継者を育て、その子が優れた魔法使いになるまで死んではいけない」

「その前に死んだら、どうなるの?」

「死なないさ。これは私がキミに課すたった一つの命令だ。キミはこの命令を果たすまで、自ら命を絶つことすらできなくなる。例え死に瀕したとしても、世界が滅びを迎えたとしても、キミの命は決して終わらない、終わらせてならない。これは、世界とキミの契約だ」

「……うん、わかった」


 ぼくは小さくそう言って頷いた。

 どうしてか、拒むわけにはいかなかった。

 お姉ちゃんは、ぼくに生きて欲しいと願った。生まれて来てくれてありがとうって、言ってくれた。だからぼくは、生き続けなきゃいけないんだ。

 お姉ちゃんが、アリシアさんの後継者として生きるはずだった遥か遠く永劫に続く未来を。

 それが、一人生き残ってしまったぼくの贖罪だから。

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