第10話『魔女vs魔女』
何が起きたのか、分からなかった。
ただ視界に飛び込んでくる情報は、両断されるディメナ・レガリアの巨体と、輝きを失い、ただの剣に戻ったユスティア。軽やかに着地してぼくに満面の笑みを向けるセナの姿と、切り裂かれた暗雲の先から覗く青い空。
ずしりと重い誰かの身体が、ぼくの身体に絡みつく。
勝った―――そのことを、五秒ほど経ってセナに抱き締められてから実感した。
「やりました! 私たち、やりましたよ、イヴ!!」
「勝った……の……?」
「はい!!」
力が抜けて、膝から崩れ落ちた。
もう魔力は半分も残っていない。消耗の度合いは立っているのもやっと、そんなレベルで、後ろを振り返れば皆、ぼくと同じように座り込んでいた。
「終わったぁぁぁあああああああああ!!」
「うるさっ!? 魔物が寄ってきたらどうすんだシオン!!」
「大丈夫、周辺の魔物は最初に全滅させてるし、どれだけ騒いでも寄ってくることはないよ」
「マジすか、先輩半端ねぇ……」
周囲に魔力反応はない。ディメナ・レガリアが倒されたことで、ここに寄って来る魔物もいない。まだ生きている魔物はそのうち討伐されるだろうし、何より、セナもアルミリアもテレジアも、シオンもクロエも、もう戦えないくらいボロボロだ。
だけど……なんだろう、この胸の奥に疼く違和感は。
前も似たようなことがあった気がするけど、意識が朦朧としていてうまく思い出せない。それでも、ぼくの魂に刻まれた記憶が、思い出が、後悔が「油断するな」と警鐘を鳴らしていた。
「……イヴ?」
「ごめん、セナ」
「えっ? おわっ、ちょっちょっ!?」
嫌な予感がして、セナを突き飛ばした。突然のことでセナは困惑していたけど、その顔はすぐに驚きに変わる。
ぼくとセナが立っていたそこに、流星が落ちたからだ。
流れ星といっても、本当に空から落ちてきたわけじゃない。空中から放たれた小さな魔力の塊が未だ晴れ切らない闇の中で煌々と輝くことでそう見えただけ。
「まだ終わらせてくれない……そうだよね、師匠」
【星紡ぐ物語】を開いて空を見上げる。
ぼくの視線の先にあったのは、黒翼を大きく広げた魔女の姿。
白い長髪が蛇のようにしなやかに風に靡き、全てを見下したような気色の悪い視線をこちらに向けるアリシア・イグナは、不意打ちを躱されたのが予想外だったのか、いつもの余裕に満ちた顔が驚愕に歪んでいた。
「へぇ……よく避けたね。魔力の熾りもなかったはずだけど」
「前に同じようなことがあってね。そう何度もセナはやらせない」
「うん、いいね。それでこそ《《私》》の弟子だ」
「……それと、いい加減ウザいよ、その余所行きの演技」
「ちぇー……こっちのが世界を焼いた魔女として威厳があると思ったんだけどなぁ」
やっぱりそうだ、いつもの師匠だ。
目の前の彼女はぼくの知るアリシア・イグナと変わらない。
だからこそ……疑問ばかりが浮かんでくる。どうして、あなたはぼくの命を救ってくれたのに、ぼくに力を与えてくれたのに。どうして、こんなことを。
「久しぶりの娘との再会に積もる話はあるけど、君は《《ボク》》とは喋りたくなさそうだ」
「聞きたいことは山ほどあるよ。でもそれは、あなたを一発ぶん殴ってからだ」
「やーんもう口が悪いなぁ。一体誰に似たんだか、リツに預けたのは失敗だね」
別にぼくとしては、このまま無駄話に興じていてもよかった。
師匠とはいくらでも喋りたかったし、聞きたいこともあった。師匠の持つ魔法の技術だってまだ、全部教えてもらったわけじゃない。
だけど……それはそれだ。今ぼくがやるべきことは、この魔女を倒すこと。
「……みんな、ちょっと離れてて」
「待ってくださいイヴ、私も戦います!」
嬉しい申し出だけど、これはぼくたち師弟の問題だ。セナでも、首を突っ込んで欲しくはない。
首を横に振るぼくの返事に、セナは少しだけ悲しそうな顔をした。ごめんね、でも、これはぼくが片付けるべき問題なんだ。
それが、魔女の娘に許された、世界を救う権利を得るためのたった一つの方法だから。
「おいで、どこまで強くなったのか、稽古つけてあげる」
「その鼻っ柱を圧し折ってやる」
互いに睨み合って、世界が止まる。
相手は師匠であり、国を焼いた魔女その人だ。こっちも全力で行かないと負けるし、何より……冷静になろうと努力はしているけど、溢れんばかりの怒りで手加減なんてできそうにない。
その場にいた全員が息を呑んだ。
これから始まるのは、王国最高峰の魔導師二人による至高の領域の魔術戦だと、薄っすら感じ取っていたんだろう。
午後の授業開始を告げる学院時計塔の大鐘楼が鳴った。
それがぼくたちの、合図になった。
「【撃ち抜く氷槍】ッ!!」
「【燃え刺す炎槍】」
鐘が鳴ると同時に、ぼくたちは無数の魔術式を空中に展開する。
氷と炎、相反する二つの槍の多重詠唱。長い学院の歴史でも、在学中に使える者は極少数だと言われる絶技。師匠と離れて五年、その間に習得した裏技の一つを、挨拶代わりに師匠にぶつける。
だけどそれは彼女も読んでいた。
驚くこともなく、ぼくが同時に展開した百に及ぶ氷の槍を相殺するように、まったく同数の炎の槍が空中で衝突。挨拶代わりの多重詠唱では、眉一つ動かすことは叶わない。
砕け散った氷の結晶を目くらましに距離を取る。最初の激突を迎え撃って、師匠は両手でわざとらしく拍手をしていた。
ふざけんなよ……同時に百個の魔術を展開するのに五年かけたんだぞ……。
「すごいじゃんイヴ! これだけの数の多重詠唱を使えるのは初代の星杖以外に見たことないよ!!」
「他にいるのかよ……」
そう……ぼくと師匠の間にある、絶対的な差。それは圧倒的な経験の差だ。
あの人は千年前の戦いから生きている。この五年でちっとも老けていない辺り、多分本当なんだろう。だから、ぼくが五年で築き、磨いた技術なんて通用しない。
でも―――ここでぼくが逃げたらセナが、みんなが死ぬ。だから、逃げるわけにはいかない。
「魔術じゃ打ち消される……でも、物理ならっ!!」
背後に積まれた倒壊した家屋の瓦礫を魔力で持ち上げ、撃ち出す。
けど……ただの質量攻撃が通用するわけない。師匠は大きく腕を振って、炎の壁で瓦礫を溶かし無力化する。
でもここ、瓦礫と炎の壁でぼくの姿を認識できなくなるこの一瞬で、限界まで身体強化を施して肉薄。
「おっ!?」
炎の壁が晴れる頃には、ぼくは師匠の目の前に立っていた。
この距離なら……防御はできないだろ。
「【炎姫と氷王の邂逅】―――ッ!!」
突き出した右手から放たれる蒼炎の火球が、師匠を包んで激しく渦を巻く。
中心温度は鉄なんて容易に溶かせる高熱だ。いくら師匠でも、無傷では済まない。
なのに……
「いやー危なかった。保険を用意してなきゃ今頃火だるまだったよ」
この人は、涼しい顔で対処する。
いつもそうだ、ぼくが必死に食らいつくのを師匠はにこやかに笑って見ているだけ。相手になんてされていない、敵だとも思われていない、ただ子犬とじゃれているだけ、それが師匠の認識だ。
だったら……本当に隙が生まれるその瞬間まで、道化を演じてやる。
「さて……手札はそれだけ? なら、指導の時間といこうか」
空気が変わった。師匠の周囲で無数に魔力が熾って、陽炎のように視界が揺らぐ。
師匠が右手を振り上げる。ぼくはそれを防ぐために、右手で氷の盾を形成する。
砕かれる、形成する、砕かれる、形成する、砕かれる。
何度かその不毛なやり取りを繰り返した後、師匠は決まって、ぼくの攻撃に対する評価を下す。
「六十二点ってところかな。魔導師が持つ絶対的なアドバンテージを潰してしまうのは君の悪癖だと、ボクは何度も言ったはずなんだけどね」
右手に握られた黒い剣が、ぼくの氷を砕いていく。
巨人のような膂力。身体能力強化の魔術を使ったような気配はない。一体、あの細い腕のどこからこれだけの力を出しているのか是非とも教えて欲しいくらいだ。
「……うるさいな、大抵あれで何とかなるんだよ!!」
「それはこの時代のレベルの低い魔導師が相手だからね。あれに対処できるのはいないだろうさ、ボク以外は」
お前のような魔導師がコロコロいてたまるか。
「何故君がゼロ距離を好むことが悪癖か知っているかい?」
「……魔導師は基本、距離を詰められると不利になるから」
「正解っ!! 自ら距離のアドバンテージを手放すなんて愚かな行為だ。だからほらッ―――」
「ぐっ……ぅぅ……」
師匠が振るった黒い剣がぼくの防御を突破して、左肩を浅く切り裂く。
痛い、痛いけど……それ以上に、選択を間違えたとひどく後悔した。
今思えば、アリシア・イグナはぼくの師匠であり、育ての親であると共に、セナの育ての母でもある。セナは王国を旅して回っていたから、剣を学ぶ暇なんてないはずだ。
実際セナの剣は実戦的で、ぼくの知る剣術のどれとも型が合わない。それを教えたのは誰か……そんなの、師匠に決まっている。
「セナに剣を教えたのがボクだと、少し考えれば分かることだと思うんだけどね!」
「こんなの、ぼくといた時は見せなかったくせに……っ」
「いつか敵対する相手に持ち得る技術の全てを見せるわけがないじゃないか」
右、左、さらに右、上から振り下ろして、下から切り上げる。
斬撃の度に氷の盾を出して防御しながら観察すれば、確かにその剣筋はセナに似ている。だけど似ているだけだ、いくらセナの戦いを見ていたからといって、師匠の剣が読めるわけじゃない。
「さ、まだまだいくよっ!!」
「くそっ……反撃が、できない……」
隙のない連撃が続く、師匠の剣はぼくの急所を正確に捉え、何度も何度も強固な氷の盾を軽々と粉砕する。このままじゃ魔力の消耗が激しすぎるし、何より躱しきれなければ終わりだ。
ふざけるなよ。今更その程度に後れを取るぼくじゃないだろ。
「それっ!」
「ぐっ……!」
氷の盾を砕いた剣先が頬を掠める。耳の付け根から口元にかけて大きく切り裂かれ、流れ出た血が頬を伝い、足元に滲んだ。
「ほいっ!」
「がぁっ……!?」
さっきつけられた肩の傷を寸分違わず狙われ、より深く抉られる。
まずい……左腕はもう、満足に使えなさそうだ。
「キミは力の正しい使い方を知らない。だから、保有魔力量と出力量に依存した雑な使い方しかできないんだ」
「そりゃ、勉強に……なりますっ!!」
「なっ!?」
防御を捨てて、氷の剣を右手に形成し師匠に斬りかかる。突然のことにこれは師匠も読めていなかったようで、服の裾を剣先が軽く裂いた。
「やるじゃないか……でもっ!!」
前に出るのと同時に、師匠の左拳がぼくの右頬を捉えた。衝撃に上体が仰け反って、その場に尻餅をつく。
師匠は追撃と言わんばかりに、倒れたぼくの鳩尾を踵で踏みつけた。
「がぁぁぁああああああああああああああああっ!!」
激痛に意識が飛びかける。それと同時に、今のぼくでは絶対に届かない力量差を実感させられる。
「終わりにしよう、イヴ」
師匠はぼくの鳩尾を踏んだまま、右手に握る黒い剣をぼくの首筋に当てた。
冷たい金属が肌に触れる。一歩、また一歩と死が近付いてくる。
だけど、その刃がぼくの首を切り裂くことはなかった。
二つの光弾が、師匠の背後から飛来する。師匠はそれを剣で受け止めて弾き、無粋な介入者に視線を向けた。
「イヴ先輩から離れろ……!!」
瓦礫の陰から師匠を狙っていたのは、下がらせたはずのシオンだった。シオンは翡翠色の両目に大粒の涙を浮かべ、歯を食いしばりながら右手を向ける。
両脚が小刻みに震えていた。今にも逃げ出したいはずなのに、あの子はぼくを助けるために、魔女に喧嘩を売ったのだ。
「ダメだシオン! 逃げて!!」
「邪魔」
ぼくが叫ぶよりも先に、師匠の右手から黒い火球がシオンに向けて放たれていた。
氷の形成は間に合わない。シオンも反応が遅れて、防護魔術を展開できずにいる。マズい、駄目だ、このままじゃシオンが―――
「させませんっ!!」
割り込んできたセナの剣に漆黒の火球が両断され、シオンの背後で爆発する。
師匠の魔法を切り裂いた黄金の剣は再度その輝きを取り戻し、光の刃を刀身に纏わせる。
「セナまで……どうして……!!」
「イヴを助けたいんです。イヴが、私たちを助けてくれたように」
「これはぼくの罪だ! ぼくは弟子として、娘として、あの人を止めなきゃいけないんだよ!!」
「なら私も同罪です。だから……私も戦います」
瞬きの隙で師匠の目の前まで高速移動したセナは、そのままの勢いで剣を振り下ろす。ユスティアの斬撃は師匠の剣に防がれて届かなかったけど、漆黒の刃にヒビを入れた。
「邪魔だなぁ……」
防戦一方だった状況がセナの参戦によって一変。師匠はユスティアの斬撃を魔力の障壁で防ぎ始め、常に余裕に溢れていた表情は凍り付いていた。
「教えてください、お母さん。どうしてこんなことをしたんですか!!」
「物語の悪役が、素直に自分の目的と理由を明かしてくれるとでも?」
「お母さんは悪役なんかじゃありません。きっと何か理由があるはずです」
「……あぁ、そういえばキミは、そういう奴だったな!!」
師匠が声を荒げ、炎を纏った黒い剣をセナに向けて振り下ろす。
あんな顔初めて見たし、あんな声は初めて聞いた。
下唇を噛み、怒りのままに相手を睨みつけて、師匠は本気の殺意をセナにぶつけた。その叫びからは一度も見たことのない、師匠の嫉妬が見え隠れしていた。
「疑うことなどせず、悪意を知らず、ただ真っ直ぐ馬鹿になる呪いを周囲に振り撒くその瞳が、声が、意志が、心が……私は大嫌いだった!!」
「くっ……!」
大きく弾かれ、セナが数歩後退する。
「理由ね、そんなの簡単だよ。ただ世界を滅ぼしたくなった、それだけさ!!」
「違う……お母さんは、気紛れで世界を滅ぼすような人じゃありません!!」
「キミの勝手な理想を私に押しつけるな! ボクの行動に大層な理由なんてない、あるのは純然たる悪意だけだ!!」
師匠はただ怒りを撒き散らすように、駄々をこねる子供のように乱雑に、力任せに剣を振る。
誰だって、世界を恨むことはある。
ぼくだってそうだ、本気で「世界なんて滅べばいい」と考えたことは何度かある。だけど実際に行動に移したことなんてない。それどころか、今は、そんな世界が愛おしいとまで思える。
師匠には……きっと何か理由があるんだろう。世界を焼かなきゃいけない理由が、ぼくたちにも明かすことのできない理由が。
「勇者になる。確か、それがキミの夢だったね」
「そうです、私は勇者になります! 誰よりも強く、誰よりも優しく、世界を救う最高の勇者に!! そして、お母さんはそんな私を応援してくれました!!」
「あんなの嘘に決まってるだろう? 滑稽だと思ったよ。それは決して届かない夢、星を掴むようなものだ」
「それは……本気で言っているんですか!?」
育ての母に拒絶されて、セナの両目に大粒の涙が浮かんだ。
セナの旅の話はあまり聞いていない。だけど、セナが真っ直ぐに育ったのはきっと、彼女を育ててくれた師匠のおかげだ。信頼していた身内の裏切り、無理だと突き放された少女の夢、それだけの仕打ちを受けてなお、セナが怒りを示すことはなかった。
「本気だとも。まさか、キミは信じていたのかい?」
師匠の言葉に動揺し、今度はセナが押され始める。
セナは数度剣を打ち合わせ、軽く跳躍して後退。両手でユスティアを握り直し、真っ直ぐ敵を見据えた。
「運良くユスティアを《《使える》》だけの分際で、勇者アルトリウスに並べるだけの格なんてキミにはない! そんなもの、ボクが認めない!!」
「そんなの……それじゃあ、今まで私が信じてきたものは何だったんですか!!」
「知るか! 簡単に騙されるキミがバカだったんだよ!!」
「うぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああ!!」
黄金の剣を振り上げ、セナが絶叫する。
もう、二人は相容れることはないのだろう。師匠は完全にセナを突き放し、セナも激情を以てそれに応えようとしている。ぼくはそれが、なんだかとても悲しいことのように思えた。
セナの高まる感情と湧き上がる魔力に応じるように、振り下ろされたユスティアから光が放たれる。
ディメナ・レガリアを切り裂いた黄金の光波は石畳を砕きながら進み、師匠の漆黒の剣を粉砕した。
「国宝級の魔剣をこうもあっさりと……あぁ面倒だ、厄介だ、《《使える》》だけのくせに……キミの存在など、レイリーナの足元にも及ばないというのに……っ!!」
どうして……リーナの名前が出てくるんだ。
リーナは、あなたが死なせてしまったんじゃないか。あなたが熾した灰都の火のせいで、その時に溢れた魔物の大群のせいで、死んでしまったんじゃないか。
「わたしは……私は……っ!!」
「そうだ恨め! 憎め! ボクがお前を許さないように、お前もボクを憎悪しろ!!」
セナはもう、自棄になっていた。
それでも太刀筋は鈍ることなく師匠を追い込む。師匠が障壁をどれだけ展開しようと、セナはそれを薄氷の如く打ち破り、その命に剣を突き立てようと斬撃を繰り出す。
ほぼ結果は見えていた。このまま師匠の魔力切れまで追い込めば、セナは自ずと勝てるのではと実感できるだけの光景が、ぼくの前には広がっていた。
それなのに、セナは泣きながら剣を振るばかりだった。
「あなたを……私は……っ!!」
「何が勇者だ! ユスティアの選択が間違いであると、ボクが今ここで証明してやる!!」
師匠は右手を突き出し、セナの目の前ゼロ距離で魔法を放つ。
押されているふりで追い込まれ、セナが油断した隙をついての高火力魔法を無数に展開する。
四方八方からの魔法に逃げ場を封じられ、黒炎の直撃を受けたセナは、後方へ吹き飛び燃え盛る家屋の壁に叩きつけられる。
ぐしゃり―――人体が拉げる時の、気味の悪い音が聞こえた。
「セナ……!!」
「……さて、これで邪魔者は消えた。次はイヴ、キミだ」
師匠から滲み出る強い殺意の矛先がぼくに向けられる。消耗はしているけど、今のぼくが彼女に勝てるビジョンは何一つ見えなかった。それだけの明確な実力差を前にぼくは全身が恐怖で震えていた。
セナが負けた。そんな相手を、どう倒せというんだ。
師匠はちっとも本気を見せていなかった。ぼくが想定していた師匠の本気なんて、彼女にとっては子供の遊び程度のものだった。
怖い……考えるだけで足が竦む。出来るなら今すぐに逃げ出したい、それなのに、ぼくの身体は言うことを聞かなかった。
「……許さない」
怒りに、激情に、意識が支配されて視界が朦朧とする。
全身が熱を帯びていた。魔力はもうほとんど残っていないのに、胸の奥がひどく疼いて心臓が煩い。
これをぼくは知っている。一度……いや、二回ほどこの状態になったことがある。
一度目は故郷が魔物に襲われて、家族が殺された時。半端者だと罵られて嫌われたぼくに唯一優しくしてくれた姉が死んだ時も、身体の内側で魔力が熾るのを感じていた。
二度目は、リーナがぼくを庇って死んでしまった時。怒りというか、哀しみというか、心を支配する激情に任せて、溢れる魔力を吐き出した。
「アリシア・イグナ。ぼくはあなたを許さない」
身体はとても熱いのに、吐く息は白く。
足元に満ちる冷気が空気中の水分を凍らせて、霜を作る。
「《多重詠唱》」
師匠を囲むように、無数の魔法陣を展開する。
彼女は一瞬遅れて反応し、以前魔法を《却下》した時のように両の掌を向ける。
「解呪が間に合わない……っ!?」
遅い……あなたがどれだけぼくの魔法を解呪しようと、ぼくはそれを上回る速度で魔法を発動すればいいだけだ。逃がさない。全身全霊を以て、確実に仕留める。
「【氷王の覚醒】」
小さく呟いて、ぼくが持つ最大の魔法を発動した。
師匠を囲う無数の魔法陣から同時に展開されるのは、絶対零度の吹雪。
触れるもの全てを凍てつかせ、かつて北方に存在した氷王の統べる永久凍土を世界に現出させる、【星紡ぐ物語】星杖の章、第二節。
逃げ場なんてないし、逃がすつもりもない。この場で必ず確実に倒して、師匠を止める。止めて見せる。そのために、ぼくの全力をぶつけるッ!!
「《その改変を却下する》」
不敵に笑い、師匠は右手の指をパチンと鳴らした。
その瞬間、無数に展開されていたはずの魔法陣が一つ残らず魔力の残滓となって霧散する。
「解呪……された……」
「終わりだよ、イヴ」
「【炎姫と氷王の邂逅】ッ!!」
残る魔力の全てを使って、左手で魔法を発動。
蒼炎はかつてなく巨大に膨れ上がり、師匠に向けて飛翔する。
迫り来る蒼い炎に対して、師匠は魔力の障壁を展開した。
だけど師匠もほぼ限界に近い。残り少ない魔力を効率良く使うため、ぼくの魔法をギリギリ受け止められるだけの強度を持つ障壁しか生成できなかったんだろう。
怒りに身を任せて放たれた魔法は、師匠の予想を少しだけ上回った。
「《その改変を―――》」
「《星剣の章、第二節》【絶対零剣】ッ!!」
薄氷が砕けるように、積み上げられた煉瓦が崩壊するように、魔力の障壁が消滅。
迫り来る火球を解呪しようと師匠は右手を向ける。ぼくはそれに対して、師匠の背後へと魔法を放つ。
彼女の背後から飛来した白き閃光が纏う氷の魔剣が、差し出された右手を肘先から切り落とす。
「これで……終わりですッ!!」
虚空から現れた黒い剣を残った左手で掴んだ師匠は、自分の右手を切り落とした白い影―――セナへと切りかかる。
次の瞬間、師匠の身体が黄金の剣に貫かれていた。
それが……戦いの終わりだった。