狂<下>
熱い、と思った。
腹の中に高温で熱した鉛でもあるかのようだ。
弾は貫通したのだろうか。それともまだ身体の中に残っているのだろうか。
そんなこと、考えている余裕は無いが。
状況的にも、精神的にも。
「が、がはっ……」
流星は血を吐き出した。内蔵をやられたのか。だとしたら早く決着を着けないと。
でも――どうやって決着を着ける? この状態でどう戦う?
どうやって……どうやって……
「……あは」
と。信人が突然笑い出した。
最初は小さかった声量が、やがて大きくなる。最後には高笑いになった。
「あははは、あはははははははは、あはっははははははははははははははははははははははははははは!」
「な、んだ……」
流星は思わず後ずさろうとした。だが足に力が入らず、その場にしゃかみ込む。
「流星!」
友人の一人が叫んだ。流星はそちらの方を向き、怒鳴る。
「早く逃げろ! 殺されるぞ!!」
「け、けど……流星のきず、傷の方が……」
友人達は完全におびえていた。彼らがいては、小刀も抜けない。いや、どちらにせよ抜けない。
自分は信人を傷付ける気は無いのだ。何とかして、あの数珠を外さなければ。
流星は足に力を入れ、半ば無理矢理立ち上がった。
一か八か、のるかそるか――だ。
相手が笑っている間に、数珠を引きちぎるべく、手を伸ばす。
だが、その途中で相手も気付いたらしい。蹴りを放ってきた。
蹴りは、よりによって腹の傷にヒットする。想像を絶する激痛に、流星は息をつまらせて倒れ込んだ。
「は、はっ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ!」
呼吸は戻ったものの、身体中が痛みでしびれている。動けないわけではないが――確実に鈍るだろう。
そこへ更に追い討ちをかけるように、背中に衝撃が加えられた。どうやら踏みつけられたらしい。
「う、くぉ……の、信人……」
流星は首を回して信人を見た。
彼はまだ笑っている。壊れたからくりのように笑い続けている。
「どけ、よ……てめ、ぇ……正気に、戻れ、よぉ……!」
流星は無理矢理身体をひねって信人のふくらはぎに裏拳を放った。
ぐらりとよろめいた信人の下から逃れ、流星は立ち上がる。その際に数珠を引きちぎった。
ばらばらと散る数珠。それを見た瞬間、流星の全身からふ、と力が抜けた。
これで信人は正気に戻るはずだ。これで――
「……がっ」
だが。
流星の期待は無惨にも砕かれることになる。
流星はろくに受け身も取れないまま、殴り飛ばされた。
信人によって。
何が起こったのか、流星は最初解らなかった。
正気に戻ったはずの信人に、どうして殴られているんだろう。確かに数珠は外したはずだ。
流星はろくに理解できないまま、壁に叩き付けられた。
口の中に鉄の味が広がる。流星は反射的に閉じていた目を開いた。
ゆらりと立ち尽くす信人の姿が視界に映る。その雰囲気は、先程と何ら変わらなかった。
妖気も、未だ放ち続けていた。
「な、何で……」
あの数珠が原因ではなかったのか。もしかして、遅かったのか。
なら、どうすればいい? どうすれば、どうすれば――
「っ、おい何を!」
流星は身体を起こした。
信人は倒れ込む流星ではなく、立ちすくんだまま動かない友人達に向かって走り出したのだ。
相変わらず笑ったまま。
狂ったように笑ったまま。
壊れたように笑ったまま。
おそらく自分と同じように、殺すために――!
「や、やめろ!」
流星は悲鳴に近い声を上げ、小刀を抜いた。
それこそ、その時は何も考えていなかった。
ただ友人達を助けたくて、小刀を振った。
刃に炎を宿す小刀、『煌炎』。振れば炎のかまいたちが放たれる。
そうして放たれた炎のかまいたちは――信人の背中にぶつかった。
容赦無く。
意思の無い炎は、信人の背中をためらい無く焼いた。
信人の胸が歩くなりそうな絶叫に、流星は我に返った。
やってしまった。やるつもりはなかったのに、やってしまった。
頭の中が後悔と驚愕でぐちゃぐちゃになっている。目の前が真っ暗になり、何も考えられなくなった。
流星は、失血のせいで意識を失うまで、ただ目の前の光景を見ることしかできなかった。
―――
身体中が重い。頭ももうろうとしている。目覚めた時の気分は最悪だった。
「流星?」
呼びかけられ、流星は焦点の合わない目を右手側に向けた。
最初、声をかけたその人物が誰か解らなかったが、徐々に目が薄暗さになれていくにつれ、それが誰か理解する。
悠だ。丸椅子に座り、じっとこちらを見つめている。眉間に寄ったしわは、流星と目が合うと消えた。
「やっと起きたね。一晩中寝てたんだよ、君」
「は……?」
流星は何を言われたのか解らず、辺りを見渡した。
白い天井に白い壁。机やカーテンさえ白い。
ここは……もしかして病院だろうか。
「まったく。腹部に被弾した状態で動き回るなんて……その時まだ弾が残ってたんだよ? しかも内蔵傷付いてたし。鬼童子でよかったね」
若干の怒りをにじませる悠の小言を聞きながら、流星は首を傾げる。
一体自分はどうしたんだろう。何で腹に弾なんかが――
「っ……!」
流星はがばりと起き上がった。いきなり動いたせいか、腹部に痛みが走る。そこで初めて、自分が輸血されていることに気が付いた。
「ぐ、い、てぇ……」
「馬鹿、手術して間も無いのに!」
珍しく声を荒げる悠の肩を、流星は掴んだ。目を丸くする彼女に、尋ねる。
友人の、安否を。
「信人は、信人はどうなった!?」
「……」
「生きてるか? 生きてるよな!?」
「……生きては、いる」
悠の答えは、肯定だった。それに一瞬安堵するも、流星はひっかかりを覚える。
今の言い方は、どういうことだ?
「何か……あったのか……?」
「……」
「悠!」
「……酷い火傷を負ったものの、肉体は無事だ」
だけど、と、悠は視線を落とした。
「精神は……完全に悪霊に取り込まれてて、同化してしまっている。引き剥がすことは不可能だ」
「そん、な……」
「妖魔化してないだけ、まだましだけどね――それが幸か不幸かを判断することは、私にはできないけど」
「元には」
ほとんどうわ言のように、流星は悠に尋ねた。
答えは、何となく解っていたけれど。
「元には……戻らないのか?」
「……無理だよ」
少し間を置いて、悠はやけにはっきり言った。
「言ったでしょ、完全に同化したって。無理に悪霊を狩ろうとすれば、本当に精神を壊しかねない」
「……そんなのって」
流星は視線をシーツの上に落とした。
「何だよ、この展開……俺は結局、友達一人すら助けられないってことかよ……」
なんて理不尽だ。信人は何もやってないのに。
いい奴だったのに。悪い奴じゃなかったのに。
何だこれは。何なんだこれは。
悲劇的過ぎて、逆に笑えてくる。
こんな状況で笑いなど、ほんの少しも出ないけれど。
結局自分は、何もできないのか。これではあの時と同じじゃないか。
妖魔に家族を殺された時と。妖偽教団に友達を殺された時と。
全くの――同じ。
全くの――無力。
自分はあの時から、何も変わっちゃいない。あの時から、何も学んじゃいない。
自分はいつになったら変われて、いつになったら学ぶのか。
本当に――馬鹿の極みだ。
自分は一体今まで何をしてきた。ただのうのうと生きてきたわけじゃないのに。
どうしてこんな理不尽を横行させてしまうんだ。
一体自分は、何がしたい?
自分はただ――『普通』に生きるために、強くなりたいだけなのに。
「……馬鹿だよなぁ、俺。結局何もできてねーじゃん」
流星はため息をついた。自分を落ち着かせるために、嘆息した。
「何やってんだろ、マジで。こんなんじゃ全然、退魔師らしくないよ」
「……退魔師らしいって、何?」
と。悠が不機嫌そうな声を上げた。彼女を見ると、声以上に苦々しい表情をしている。
「非情になりきること? それとも力が強いこと? そもそもらしいって言葉自体、間違いだ」
「……」
「その人はその人でしかないのに、職業でその人の人間性を問うようなまねは、大間違いだよ、いや、間違いと言うなら、そもそも君が君自身を責めていること自体間違いだ」
「え……」
「君があの数珠を破壊しなければ、もっと酷いことになってたろうし、君が小刀を使わなければ友人の一人は死んでいたかもしれない。他に方法は無かった――とは言わないけれど、それでも君はできうる最善の策を取った」
でも、と、悠は顔をぐっ、と近付けてきた。綺麗過ぎる顔が近くにあることで、流星はその黒曜石の瞳を覗き込む形になる。
「ゆ、悠……」
「君が銃弾を受けるのは、やっぱりおかしい。私は、そこだけは責める」
そして悠は――何を思ったか腹に手を置いて体重を乗せてきた。
しかも、傷の上に。
「い゛だだだだだだだだだ! ちょ、何す――」
「人を心配させておいて、ごめんの一言も無いの?」
悠は微笑を浮かべた。
何だか――とても怖い。修羅を背負っているように見えるのは、けして気のせいではないだろう。
とりあえず謝らなければ、今死ぬかもしれない。
「えっと……そ、そのっ……ごめん! いや、マジでごめんごめんごめんごめんだからどいてくれいやどいてくださいお願いします」
「……ふん」
悠はようやく傷から手を離し、うつむいた。
「心配した」
「あぁ」
「凄く心配した」
「あぁ」
「凄く凄く心配した」
「あぁ」
「でも身体以上に、心が心配だった」
悠はまた顔を上げ、流星を見つめた。
「友達を斬ったこと、助けられなかったこと――流星、きっと傷付いてる」
「……あぁ」
傷付く、なんてものじゃない。ずたずただ。
この数分で、こんな短時間でこんなに多くの感情が頭の中でごちゃまぜになるのは久しぶりな気がする。
懐かしさなんて、これっぽっちも感じないけど。
「流星。流星は今どうしたい?」
「え……」
「私は、私にできることなら応えたい。流星がしたいことを手伝いたい。だって、私――」
皆まで言わせなかった。
流星は衝動に任せて、悠を抱き締めていた。ただ彼女のぬくもりを感じたかった。
「流星……?」
「すぐすむから。頼むから、このままで」
流星は自身の声が震えていることを自覚していた。視界だって、ぼやけて見える。
「流星……泣いてる?」
「っ……」
「私は君が泣いたって気にしないよ。むしろ今は泣いた方がいい」
「気持ち悪いとか、男らしくないとか思わないのかよ」
「……思わなくは、ないけど。でも、全部受け止める」
悠の手が背中に回った。
「私は、好きな人の涙を受け入れられないほど、包容力の無い人間じゃないよ」
「……そうか」
そうとしか返せなかった。
流星は声を押し殺しながら、悠にすがり付いた。
頬を流れる涙を止めようという気は、無かった。
―――
「あらあら……あの子のもくろみは失敗ね」
野次馬の集まった民宿の前で、女は呟いた。
黒いロングドレスに黒いハイヒール、手袋まで黒という黒づくめの女を、しかしなぜか誰も気にしていなかった。
風景にうまく溶け込んでいるから――ではない。服装一つ取っても、東洋人と西洋人の違いは大きなものがある。
「ふぅん……死者は二名、ね。思ったより少ないわ。まぁ大量虐殺が目的でないのだからいいけれど……」
女はぶつぶつと独り言を続けた。それを聞いている者は誰もいない。
まるで耳が機能しなくなったかのように、野次馬達の聴覚は女の言葉を認識していなかった。
「あの坊やを殺せなかったことは痛いわね……クラウディオとエドワードは別件で明日まで動かせないし……ふむ」
女は後ろを見やった。
「悪いけど、彼を焚き付けてきてくれないかしら。あそこと同じようにね」
「……めんどくせぇなぁ」
そう答えたのは――誰なのか。
男の声だった。しかし彼女の近くに、それらしい男はいない。
声はすれど姿無し。
まさに、そんな状況だった。
「少し焚き付けるだけでいいの。私が行きたいけど、指揮官自ら行動を起こすわけにもいかなくてね」
「クイーンは動き過ぎると、簡単に取られるからなぁ」
「私はクイーンではないわ。さしずめルークと言ったところよ。クイーンは、あのお方でしょう」
「で、俺らがポーンであの方々はナイト……いや、ビジョップか」
「そして我らが神がキング」
女はすぅ、と微笑した。
「そろそろ行きなさい。確実に――『邪教徒』を粛正するために」
「了解、シスター。全ては神の、御ために」
男の声がそう言うと同時に、一羽のカラスが女の傍を横切った。
先程までカラスが喋っていたかのようなタイミングのよさだった。
「……さて」
女は、ウェーブがかった黒髪を後ろに払った。
「そろそろ帰ろうかしらね」
言って、野次馬をよけながらその場を後にする女。彼女の風貌に、しかし誰も振り返らない。
奇妙なことである。女はずっとそこにいたのに、周りの人間は誰一人として彼女に気付かなかった。否、認識していなかった。
まるで催眠術にでもかかっているかのような、それはおかしな光景だった。