第三十二話 狂<上>
幼い頃は、特別であることに何の疑問も持たなかった。
やがて自ら考える頭を持つようになると、違和感を感じるようになる。
どうして特別でいなければならないのか。
どうして普通でいてはいけないのか。
買い与えられるものに価値は見出だせず、教えられることに必要を感じられない。
それを、最も信頼する祖父に話すと、彼は優しく笑うのだった。
自分が特別であることを望んでいるのは、他ならぬ祖父なのに。なのに彼は、自分に言うのだ。
「おまえは普通なんだよ。そしてそれが、当たり前なんだ」
それ以来、買い与えられることは少なくなった。教えられることも減った。
代わりに家族と話したり、外で遊ぶことが多くなった。
そしてそれが――とても楽しかった。
その中で認識する。
自分は平凡で、普通で、月並みで、凡庸な存在なのだと。
特別という言葉より、それらの言葉の方がずっと魅力的に聞こえた。
家族と平和に暮らすことが、自分の何ものにも代えがたい幸せなのだと。
――だからこそ。
家を嫌った。
名を嫌った。
周囲を嫌った。
立場を嫌った。
賛辞を嫌った。
媚を嫌った。
能力を嫌った。
特別を嫌った。
そして何より――消失を嫌った。
なのに。
どうして、思う通りにならないんだろう。
思う。それが無駄だと知りつつ、考える。
その答えは、『理不尽』と言うほか無いのに。
―――
流星の放った拳が、相手の眼前で止まった。
「っ……こ、ここここわ、怖、い」
「……大丈夫か?」
相手のびびりように、流星は拳を下ろしてあきれ返った。
合宿二日目。期間中に借りている道場で、流星ほか空手部の面々は練習を行っていた。
流星は大会出場予定者なので、特に練習には力を入れている。
ただ、今日はいまいち集中できないでいた。昨夜のことが、まだ頭から離れないのだ。
寺の襲撃。あの後匿名で警察に通報したものの、おそらく警察の手には負えないだろう。
その思ってすぐ悠に連絡したところ、動くなというお達しだった。
『君一人で動くべきじゃないと思う。戦闘能力はともかく、他の点では退魔師としてまだ未熟だろう。私が行くまで、危ない真似はしないで』
明日、遅くても明後日には行くから――そう言って、通話は切られてしまった。
しかし悠の言っていることは正しいので、そのまま待機するつもりだ。今日、遅くても明日に来るらしいし、少しなら大丈夫だろう。
それに、少しは心配してくれているようだし――それは勘違いかもしれないが。
流星はため息をついてタオルを取りに行った。
「彼女ができたぁ!?」
その叫びを聞いて、流星は危うくスポーツドリンクで窒息しかけた。おかげでその言葉が自分に向けられたではないと気付くのに十秒以上かかってしまう。
一体何だとそちらの方を向けば、同じく休憩中の三年が一人を囲って騒いでいた。どうやら一人が彼女ができたということで、仲間から冷やかされているようだ。
それを見て、流星は悠のことは口にしないでおこうと心に決めた。彼女のことを知られたら、ひやかし程度ではすまない。
からまれてはたまらないので、流星はその場を離れようとした。が、世の中そんなにうまくいかないものだ。
「おーい華凰院。ちょっと来いよ」
先輩はこちらを見て手招きした。名を呼ばれてはどうしようもない。
というか、姓で呼ばないでほしいって言ったのに――流星は顔をしかめる。
正直なところ、華凰院姓を名乗ること自体不本意なのだ。
「あー……何すか?」
離れかけていた距離を詰め、流星は尋ねた。まぁ返答は解ってるが。
「こいつがさぁ、彼女できたらしいんだよ」
「はぁ……」
「しかも超美人! 写メ見てみ?」
練習中に携帯いじるなよ。
部活においては真面目な流星は内心でツッコミを入れつつ、先輩の差し出した携帯を受け取った。
画面を見ると、なるほど確かに可愛いらしい顔立ちの少女が映っている。どうやら少女自身が撮ったようだ。
「……確かに美人ッスね」
「何だよ、今の間は」
彼女ができたという先輩は、不服そうに顔をしかめた。
「うらやましがれよ、少しは」
「は、はぁ」
うらやましがるも何も、自分も恋人は最近できたし、その恋人の方が万倍も美人なのだからそんな気は起きない。
別に感覚がマヒしているわけでもないので、美人だと思うことはできたが。
「ノリ悪ぃなぁ、おい」
「あー……すんません」
流星は一応謝った。早くこの話を切り上げたい。
「まぁいいや。おまえも彼女作れよー、楽しいから」
「はぁ……」
結局あいまいな返事しかできない流星だった。が、次の話題によって内心を引き締めることになる。
「そういや昨日、寺が放火されたらしいな。しかもここの近く」
「あぁ、あそこ? 一年が毎年行く……」
「え?」
流星は先輩の一人が言ったことに首を傾げた。
「あの寺、あの時の寺なんスか?」
あの時、というのは、流星が一年の時のことを指す。初めての合宿で古い寺に行き、初めて座禅を組んだことは覚えていたが、場所までは記憶していなかった。
そういえば迷い無く行けた気がする。それが理由か。
「あぁ。まぁ昨日の昼の内に行って、帰ってきたみたいだから全員無事だったけどな」
「けどさ、俺らの代だったらと思うとぞっとするよな」
一人が身体を震わせた。おそらくふりだろうが。
「俺らの時まであの寺で泊まりだったじゃん。もし今年もそうだったら今頃一年丸焼けだぜ」
「げぇ! 一年ごっそりいなくなるじゃねぇか」
先輩達は他人ごとのように――実際他人ごとだか――勝手なことを口にする。
それはあの惨状を見てないからで――だからではないが、流星は少しいらついた。
だから、脅かすようなことを言った。
「まだ近くに、放火魔がいるかもしれないッスね。気ぃ付けないと。焼死したくないし」
「……」
先輩達は青い顔を見合わせた。
流星はそれを見た後、背を向ける。生意気だったかな、と思わなくもなかったが、あえて気にしないことににした。
それより気になるのは、やはり寺のことだ。
あの時、妖気も何も感じなかった。気が動転していたからかとも思ったが、今考えても違う。
今なら確信して言える。妖魔は関わっていない。なら警察が解決してくれるだろう。
なのになぜ、悠に連絡したのか。警察の手に負えないと感じたのか。
言うなれば――予感だった。
ただの放火殺人ではないと、直感でそう思ったのだ。
ほとんど当てずっぽうだ。違う可能性だってある。
けれど経験上、こういうたぐいの予感は絶対当たるのだ。
今まで悪い予感は外れたことがない。いつも的中してしまう。
そのたびに外れてほしいと思うのに、いつも当たってしまうのだ。
今回も――そうなるのだろうか。
「……はーあ」
流星は嘆息をもらした。
ぐだぐだ考えてもしょうがない。今まで悪い予感を感じて、止められたことが無いのだから。
なら悪い予感が的中した時、丸く収めればいい。悠だっている。大丈夫だ。
流星は前向きに考えていた。否、楽観視していた。後から思えば、それは事態を軽んじた思考だったと言わざるをえない。
現実はいつだって後ろ向きで、そしていつだって悲観的なのを、流星は知っていたのに。
―――
流星の友人の一人、高井信人は見覚えのある人物を見付けた。
休みの時間を使ってアイスを買いにコンビニに向かう途中、道端においてその金髪は場違いなほどよく目立つ。
ついこの間転校してきた、クラウディオ・ロッシーニだった。
「あれ。転校生、何でここにいんの?」
そう声をかけると、クラウディオは顔をこちらに向けた。
「……。……。……。……。……。……誰」
「間ぁ長っ!?」
信人が大げさに反応すると、クラウディオは眉をひそめた。
顔を合わせるのはまだ数回だが、無表情かしかめっ面しか見たことが無い気がする。とことん無愛想で、どこまでも無感動で、そして何より無反応だ。
だから、こうして正面から向き合うのは初めてだった。
「……つか、ほんと何でこんなとこにいんの?」
信人は首を傾げて先程と同じ質問をした。
クラウディオは答えない。こちらの顔を思い出そうとしているのかじっと見つめてくる。
「あー、えっと。俺おまえと同じクラスなんだけど、覚えてるか?」
「知らん」
簡潔かつ手酷い言葉だった。信人は少し傷付く。
「じゃ、何回も訊くけどさ……何でここにいんだよ」
「貴様は知らなくていい」
冷たい返答だった。しかし、見た目に反した乱雑な口調だ。どこでどう日本語を覚えたのだろう。
「おい」
と。クラウディオが口を開いた。
「貴様、華凰院流星の知り合いか?」
「? 知り合いっつーか……友達だけど」
流星は人付き合いが悪いわけではないが、友人と呼べる存在は案外少ない。
それは彼の出自や特殊な能力に起因しているのだが、そういう背景もあって、信人はその数少ない友人の一人だった。
「そうか。ちょうどよかった」
クラウディオは一つ頷き、信人との距離を詰めた。
ちょうどよかった、ということは、流星に何か用だろうか。席が隣り合っていること以外、二人に接点は無いはずだが――
「貴様、俺に利用されろ」
「……は?」
信人は一瞬何を言われたのか解らなかった。
もしかして、彼は日本語が不自由なのだろうか。乱雑な口調も、それなら説明がつく。
しかし、だったらどういうことを言いたいのだろう。
と。
「クラウディオ」
目の前の青年の名を、背後から呼ぶ者がいた。
静かに、文字通り音も無く、黒髪の青年が現れる。
うなじの辺りで長い黒髪を束ね、額の真ん中でわけた長い前髪の下には西洋風の整った顔がある。群青色の瞳は、どこか優しげな光をたたえていた。
「エドワード」
クラウディオは驚いた様子も無く、青年の名らしき単語を口にして振り返った。
「来てたのか」
「ええ。シスターの要請で。こちらの仕事は終わりましたから」
「ふん。だが、これに関しては貴様の手を借りるまでもない」
クラウディオはそう言って、ズボンのポケットから環のわようなものを取り出した。
環のようなもの――黒い数珠だ。全ての数珠玉が黒く、あまり綺麗とは言えない代物だった。
「……何だそれ?」
見覚えの無い人物の登場、更に謎の道具の出現に、信人は戸惑った。
「貴様が知る必要は無い」
クラウディオは信人との距離をゆっくり詰めた。反射的に、信人は後ろに下がる。
「おとなしく俺達に『利用』されろ」
「せめて『協力』と言いましょうよ」
あきれたようなため息をつくエドワードに思わず視線を向ける信人。
それが間違いだった。
エドワードに気を取られている内に、クラウディオの手が自分の手を掴んだ。
「貴様は何も考えなくていい」
クラウディオが低く囁いた。離そうともがいても、あまりに強い力で剥がせない。
自分より小柄で華奢な相手なのに――なぜ。
「あの鬼童子を殺せばいいだけだからな」
信人が最後に見たのは、色に反して冷たい光を灯す、オレンジの瞳だった。