第三十一話 憑き人<上>
自分の荒い息づかいが聞こえる。目の前が赤く染まっているように思えて、何だか気持ち悪かった。
赤く染まっているのは視界だけではない。目の前に転がっているそれらも、赤く染まっていた。
それらは黒や青などの暗い色調の布をかぶっており、そこに赤がにじんでいる。先程まで動いていたのに、それらはぴくりともしなくなっていた。
そう、さっきまで動いていた。
なのにどうして動かなくなっているのだ?
どうして赤く染まっているのだ?
さっきまでその穴から汚物のような言葉を発していた。
その濁ったガラス玉は、さっきまで自分を見下ろしていたはずだ。
さっきまで――さっきまで――
「……何をした?」
自分はそれらに何をしたのだろう。それらのせいでぼろぼろにされて、その後の記憶が無い。
辺りを見渡すと、場所は変わらず路地裏だと解る。空を見上げると、暗かった夜空が白んじていた。
相当な時間が経過しているらしい。早く帰らなければ。
待ってくれる人はもういないが、あの家は自分の帰るべき場所なのだから。
立ち上がってふと、視線を落とす。何んとなく、考え無しの行動だった。
そうしなこればよかった、とのちに思うことになる。後悔とは、まさに字の如しだ。
まず目に入ったのは銀色だった。続いて、それにくっついた黒。
銀色は赤にぬれていて、薄暗い中でもてらてら輝いている。
ここでようやく、自分が何をしたのか思い出した。
自分が、彼らに何をしたのかを。
「う、うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
絶叫が、夜も明けきらない空にこだました。
―――
流星は困っていた。
それは別に悪い意味での困りごとではないが、しかしやはり流星は困っていた。
「アノ……悠サン」
「ん?」
「ソロソロ離レテイタダキタク……」
「やだ」
「即答!?」
つまり、悠にくっつかれて動けないのである。
ソファーに座ったとたん、急に悠が膝の上に乗ってきたのだ。非常に嬉しい体勢ではあるが、しかし同時に非常に危ない体勢である。
主に、流星の理性が。
この四日間、悠はずっとこんな調子だ。甘いものを食べた時並のキャラ崩れである。
原因は解っている。というか明らかだ。
悠と流星の関係の変化。
つまり――恋人同士になったのだ。
四日前、悠が泣き終わった後、流星は彼女に告白した。その後、まだ涙腺がゆるんでいた悠にまた泣かれ、流星は大慌てすることになる。
嬉し涙だっただけまだましだろうが。
その後、悠は流星にやたらくっつくようになった。
「ずっと気付いてくれなかったんだから、これぐらい我慢してよ」
悠曰く、そういうことらしい。
流星としては大歓迎なのだが、いかんせん女慣れしていないだけに対処に困る。
彼女持ちとしては先輩である恭弥に相談したいことが色々あるが、何やらいそがしいらしく、相談は受けられないらしい。
ただ、悠と付き合うと携帯越しに話した時、こんなコメントをよこしてきた。
「何だ、やっとくっついたのか。思ったより遅かったな。うん? あぁ、最初から気付いていたぞ。というか、みんな気付いていただろうな、悠の気持ちに。気付いてなかったのは、おそらくおまえだけだ」
自分目当ての女子連中にも気付かない究極の鈍感男に、まさか鈍さを指摘される日が来るとは思わなかった。
しかしそれは正しく、反論はできなかった。
第一頭の回転速度まで平均的な流星が、常識外れな思考能力を持つ恭弥を言い負かせるわけがない。彼の話に付いていけるかどうかも、怪しいところだ。
そして現在。おそらく三十分以上はくっついていただろう。ようやく少しだけ――あくまで少しだけ身体を離してくれた。
「そういえば流星。夏休みは初日から十日間、合宿だっけ」
「あ、あぁうん」
流星は我に返り、悠の問いに頷いた。
「部活もサボりがちだったからなぁ。秋には大会あるし、行かなきゃな。まぁ、一応朝練はほとんど参加してるけど」
「ほとんど、ね」
悠は意地悪そうな笑みを浮かべた。その顔を見て、流星は顔をしかめる。
「あのな……俺がサボりがちになったの、おまえのせいだからな」
「それは悪かったね」
悠は悪びれもせずにそう言った。
「明日の始業式終わったらすぐ合宿か。月曜日から大変だね」
「そういうおまえは、仕事は?」
尋ねると、悠はあっさり「あるよ」と答ええた。
「大した仕事じゃないし、一人でも大丈夫だよ」
「ていうか、俺が必要になった仕事ってあったか?」
自分で言ってて哀しくなるが、悠はほとんどの仕事を一人でこなしている。
自分はほぼお飾りのようなものだ。いや、もしかしたら無駄荷かもしれない。
勿論手助けは何度もしたが――それだって片手で数えられる程度だった。
「まぁ一割の――一割ぐらいはあったかもね」
「ほとんどゼロじゃねぇか!」
流星は心に大打撃を受ける。自分の存在の薄さを思い知った瞬間だった。
「……俺、もう帰る」
「え……何で?」
悠が酷くがっかりしたような顔をした。それに良心が痛むが、時間も時間だ。
「明日の用意とかしなきゃなんねーんだよ。俺、おっそろしいほど準備とか苦手だし」
「手伝おうか?」
じぃっと見上げてくる悠に思わず頷きかけた流星だったが、はたと思い出す。
今彼女が来るのは、非常にまずいことを。
「無理! 部屋、やべぇぐらい散らかってるしっ」
「私は気にしないけど」
「俺が気にするのっ」
流星が必死に止めると、悠はにやにやと笑った。
「何? エロ本でも置いてるの?」
「違うけど……あぁもう、とにかく来ないでくれー!!」
流星は半ば絶叫していた。
実際部屋は散らかり放題だ。最近いそがしさにかまけて放置していたのである。いや、その前からかなり大変なことになっていたけれど。
それに――エロ本ではないが、見られたくない本があるのは確かである。
見られたくないというか、勘付かれたくない。ひやかされるのが目に見えている。
「ふぅん。あっそ」
悠は残念そうな顔をしつつも身体を引いた。流星はほっとする。
しかし油断ならない。もしかしたら突然訪問なんてやらかすかもしれない。
「とにかく、もう降りてくれ」
「えー」
「えーじゃないっての! ほら」
「しょうがないな」
悠は名残惜しそうに流星の膝から降りた。流星はため息をついて立ち上がる。
「何で俺にそんなにくっつきたがるんだよ……」
「だって」
流星のあきれの呟きに、悠は少しだけ頬をふくらませた。
「流星のこと、好きだから。何か問題ある?」
「いえ全く」
即答した。おそらく一秒にも満たなかったと流星は自覚する。
「うん、問題無い。問題無いんだけどな……」
「……?」
「頼むから、俺の理性のことも考えてくれよ……」
流星は頭をぐしゃぐしゃとかきまぜた。
「とにかく、じゃあな」
流星は頬の熱を感じながら事務所を後にした。
流星がいなくなった後、悠は彼の言葉を頭の中でくり返してみた。
「……別にいいのに」
至った結論を呟くも、しかし首を振る。
「私が困らなくても、流星が困るのか。普通逆なんだけどね……まったく、優しいんだから」
初恋の人兼恋人の言動と心理に、悠はため息をついた。
奥手もここに極めりだ。女子と接することがほとんど無かったようだから、無理も無いか。
――まぁいい。今は現状に満足しておくとしよう。
「さて、朱崋」
「はい」
呼びかけると、朱崋が姿を現した。
別にずっと部屋にひそんでいたわけではない。呼ばれたらすぐ現れるよう命令しているだけだ。
「仕事は確か明日だよね」
「はい」
朱崋は頭を下げ、肯定した。
「明日の午後六時に、と。高野次郎様からのご指定です」
「そう。しかしあれだね」
悠は肩をすくめた。
「高野刑事から色々仕事もらってるけど、今回は一段と異色を放ってるよね。この間といいさ」
「……流星様には、おっしゃらないのですか?」
朱崋の言葉に、悠は眉をひそめた。
「何を?」
「例の、舜鈴様のお話です」
「あぁ、あれか」
悠はふ、と息をついてソファーに座った。
「言うよ。ただ時期をはかってるだけ。期末テストやら合宿やらで、いそがしそうだったからね」
「……そうですか」
朱崋はずっと下げていた頭を上げた。
「でしたら私めが口出しをする必要はありませんね。――話を戻しましょう」
「そうして。で、今回は除霊?」
「はい。ただ、今回燐様は不在のため、別の術師が結界を張ることになっております」
「あぁ、あいつアメリカ行くんだっけ。いや、一時的に帰るか。しかし別の術師って椿の?」
「はい。刀弥様にはすでに許可は取ってあります」
「そう。あ、そういえば、一番肝心なこと訊いてなかったね」
悠は頬杖をつき、朱崋を見た。
「警察上層部の許可は?」
「取っております」
機械的な朱崋の答えに、悠は「そう」と簡潔に返した。
「あーあ、まったく面倒ごとになったね。高野刑事からどれだけふんだくってやろうかな」
悠はごろりとソファーに寝転がった。
「先程までご機嫌うるわしゅうございましたのに、随分な落差ですね」
「まぁね。流星のおかげで幾分かましになったけど、それでも気分が悪いよ」
悠は顔をしかめて嘆息した。
「誰だって気分が悪くなるだろうけどね。仕事とはいえ、刑務所に行かなきゃならないなんてさ」
「正確には拘置所ですが」
「同じでしょ」
悠は再び嘆息した。
「このことは、流星様には」
「話せるわけないでしょ。聞いてる側も気分が悪くなるよ」
悠は自分の眉間にしわが寄るのを感じた。
「殺人犯の除霊なんて」
―――
「川本康彦、三十七歳。会社員で、家族は妻と娘がいたが離婚。現在一人暮らし。周囲の人間によると、気弱な男だったそうだ。
「普通なら」
拘置所の、ある一室。高野次郎からの情報に、悠は首をひねった。
「暴行を受けた際にぶち切れたと思うけど。でも、違うんだね」
「あぁ。ここの知り合いに、霊感が強い奴がいてな、そいつが視た限り、そうらしい」
「……ふぅん」
悠は少しだけ首を傾げた。
「いるところにはいるものだね、そういう人。しかし、どこで憑けてきたんだが」
殺しをさせるほど強力な悪霊など、そうそういるわけが無いのだが。
しかも一人二人だけでなく、六人も殺させている。その後、警察官三人にも重軽傷を負わせたとか。
東京にいる霊だろうか。しかしこの周辺でそんな強力な悪霊はいなかったはずだ。
となると、旅行か何かの時に、くっつけてきたのか――直接会ってみないことには何も解らない。
「今、その人はどこにいるの?」
尋ねると、次郎は難しい顔をした。
「拘置所の一室にいる――拘束具を付けてな」
「? 自傷行為でもしてるの」
「いや……自分じゃなく、他人を傷付けてな」
「……はたから見たら、立派な凶悪殺人鬼だね、まさに」
悠は顔をしかめた。
「さすがに会うのが嫌になったか」
「そうじゃないけど……未成年にやらせる仕事じゃないよね」
「それはすまなかったな」
次郎はくたびれた笑みを浮かべた。
「……高野刑事、もしかして休んでない?」
「いそがしくてな……この間の、寺の襲撃事件も片付いていないし」
ため息をつき、次郎は視線を鋭くした。
「その件、犯人の目星は付いたのか?」
「まだだよ」
悠は首を横に振った。
「仲間が有益な情報を提供してくれてね、けど断定できるものじゃない」
寺の襲撃、僧殺害、十字架、宗教テロ、焼死体と水死体――
パーツはあるが、形がまとまらない。足りないのか、それとも――
「結論が出たら話すよ。ただし、勝手に動かない方がいい」
「あぁ。それは解ってる」
「それと、上にあまりくわしいことは言わない方がいい」
そう言うと、次郎はいぶかしげな顔をした。
「なぜ、そんなことを言う?」
「念のため、だよ」
悠は肩をすくめた。
正直、政府にしろ警察にしろ、上――特にトップにいる人間が一番信用ならない。シロにせよクロにせよ、淡かれ濃かれ腹黒いものだ。
そういう意味では、死んだ父や、そして現在椿家をまとめている兄も同じことが言える――悠はそう思う。むしろ、そうでなければトップに立てはしないだろう。
しかしもし、その腹黒さがこちらに不利になるよう傾くなら――渡しておく情報は、少なければ少ないほどいい。
「さて。長話は後にして、そろそろ例の取り憑かれ殺人犯のところに連れてってよ」
「何だ、そのあだ名は……」
次郎はやれやれとばかりに首を振り、立ち上がった。