背徳<中>
流星は勿論、悠もキリスト教信者ではない。
ゆえに、教会に入るのは二人して今回が初めてだった。
「俺は、いわゆる無宗教だけど」
流星は教会内を見渡した。
「悠は仏教なのか?」
教会内はテレビに出てくる、よくある造りだった。
幾つも並んだ横長の椅子、教会の最奥には十字架がかかげられている。その下には、大きなオルガンがあった。
先の質問は何気無いものだったが、悠はちゃんと答えてくれた。
「私――というか、私達かな。無宗教者だよ。仏教の考えは退魔師の仕事を否定してるからね」
「否定?」
「仏教では、霊は存在しないとされる。人は死んだ後、六つの世界のいずれかに生まれ変わるって考えがあるからね」
悠の声が教会内に反響する。どうやら、音が響きやすい構造になっているようだ。
「いわゆる輪廻転生ってやつだけど、まぁだから現世に魂が――つまり霊がとどまることは無いってこと。思想上ね」
「でも霊は確かにいるし、俺達の仕事にそれを狩ることも含まれてて」
そこで流星は引っかかりを覚えた。
「あれ? でも霊を祓う時とか、経読んだりしてね?」
「まぁね。そこから解るように、仏教は様々な思想が混ざりに混ざって現代に至ってるんだよ。宗派が分かれたりしてるからね」
悠は肩をすくめた。
「仏教だけじゃない。キリスト教にもそれは言えることだよ。例えば」
悠は口を閉ざした。どうしたのかと思い、前方を見た流星は声を上げそうになる。
「どうかしましたか?」
そう声をかけてきたのは、例の神父――ジョン・ディグルだった。
殺人鬼かもしれない男だ。流星は喉にへばり付いた言葉を飲み込もうとして、息をつまらせる。
その間に、悠がすっと前に出た。
「いえ。こんなところに教会があるのって珍しいから、ちょっと入ってみたんです。いけませんでしたか?」
愛想笑いを浮かべた悠に、ジョンは驚いたように目を見開いた。
当たり前だ。悠の美少女っぷりは完全に枠を越えている。常識のと言うべきか人のと言うべきか、流星には解らないが。
「い、いえ。こんな可愛らしいお嬢さん、いつでも大歓迎ですよ」
そう切り返したのは、さすが紳士の国イギリス出身だ。それにしても流暢な日本語である。
「日本語、上手ッスね。ずっとこっちにいるんですが?」
流星が尋ねると、ジョンはにこやかに頷いた。
「はい。今年でもう十年になります。まぁ、ちょくちょく本国に帰ったりしてますがね」
「どこの国から来られたんですか?」
今度は悠が訊く。知ってるくせに、実に白々しい。
「イギリスです」
「そうですか。どうりで紳士的だと」
「はは、まぁイギリス人全員が紳士だというわけではありませんがね」
ジョンは笑った。その様子を見る限り、とても殺人犯だとは思えない。
しかし、見ただけでは腹にどういうものを抱えているかなど解らないのだ。流星は、それを何度も目の当たりにしている。
それに、流星自身も『化物』を抱えているのだ。彼は違うと、どうして言い切れよう。
流星が疑いの目で見ていることに気付いていないだろうジョンは、背後の十字架を振り返る。
「日本はいいところですし、日本人もいい方が多いのですが……神の教えを信じる方が少ないのは、哀しいことです」
「日本人は、信仰心が薄いですからね」
「ええ。おまけにその数少ない信者であるシスター達が、最近行方不明だったり殺されたりして……」
悩ましげにため息をつくジョン。実に絵になる。さぞかし多くの女性をとりこにしてきただろう。
流星のジョンに対する疑惑がだんだん嫉妬じみてきたところで、悠が身体をひるがえした。
「そろそろおいとまさせていただきます。時間を取ってしまってすみません」
「いえいえ。なんなら、紅茶を一緒に?」
「いいえ、おかまいなく」
悠は笑顔でジョンの申し出を断り、教会の出口へ向かっていく。
流星は置いていかれてはたまらないと、ジョンに軽く頭を下げて悠を追いかけた。
足早に教会を出ていった悠に追いついた流星は、悠の肩に手を置いた。
「どうしたんだよ、そんなに慌てて」
はたから見れば、ただ歩くのが速いとしか判断されない悠の行動。
しかし流星は、彼女がせかしていると感じ取った。多分理由は、あの神父だろう。
「やっぱりあいつ、妖魔か半妖なのか?」
「だったら君も気付いてるでしょ。違うよ、あの男……私に催眠術をかけようとした。
「は!?」
流星は目を丸くして悠を凝視した。
「俺、気付かなかったけど……」
「私に限定されてたみたいだからね、気付かなかったのも無理無い。今でもちょっと気持ち悪いよ」
悠は額を押さえた。よほど不快な思いをしたのか、眉間にしわが寄っている。
「かなり強力だね。私じゃなきゃ、すぐかかってた。多分、女性を引き込む時にあれを使ったんだろう」
「……え、それってつまり、次の標的に悠が選ばれたってこと?」
流星は固まった。悠が狙われたことではなく、ジョンの無謀さにあきれてである。
知らないとはいえ悠を狙うなんて、命知らずもいいところだ。いや、命いらずか。
「何ていうか、ご愁傷様って感じだな……って!?」
流星はのけぞった。
不可視の攻撃を受けたとかではなく、また髪を引っ張られたとかでもなく。
悠に、いきなり抱き付かれたからである。
「ちょ、ゆゆゆゆゆ悠!?」
「うるさい、黙って」
「いや、何で急にっ」
「……嫌?」
「うぐっ」
狙ってなのかどうか解らないが、上目遣い(しかもうる目)プラス小首を傾げられては、流星も何も言えなくなる。
どころか、幾らでもどうぞと言いそうになった。
……付き合ってもないのに何やってんだと思ったが。
一ヶ月前の戦いのさなかに悠から告白まがいのことをされた流星だが、実を言うとその返事をしていない。
聞き間違いや嘘だったらと思うと、怖くて言えないのだ。
悠のことを前から好きだった流星だが、気が付けば引き戻せないほどになっていた。
引き戻せないほど、好きになっていた。
誰かをここまで想うことなど、初めてかもしれない。もしかしたら恋自体初めてかもしれない。
そう考えてしまうほど、自分は悠を好きになってしまった。
「……はぁ」
流星はため息をついて悠の髪をすいた。すると、悠は目を細めてすり寄ってくる。まるで猫みたいだ。
付き合ってる以前に外で何やってんだと自分にツッコんだ流星だが、幸運なことに周りには誰もいなかった。
「……で、これからどうする?」
気持ちをまぎらわせるためにそう問うと、真意を察してくれたのか「今夜動く」と答えてくれた。
「私を標的にしたなら、早めに動くべきだろう。さっき確認したけど、あそこ地下があるよ」
「……さっきの数分で?」
「足音と空気の流れでだいたいね。さて」
悠はなぜか更にくっついて微笑した。その妖しげな笑みに、流星の背筋がざわめき立つ。
悠が今浮かべている笑みは、妖艶と言ってもいいような表情だった。
「私を狙ったこと、後悔させなきゃね」
―――
どのような場所であろうと、深夜の暗い場所は怖いものだ。
どうでもいいことを再確認し、流星は窓から教会内を覗き込んだ。
「誰もいねぇな」
「シスター達は通いだったらしいし、そもそも全員死んじゃったり行方不明だったりだからね」
悠は肩をすくめ、教会の裏手に回った。
「今思ったけど、朱崋の転移術使った方が早くねぇ?」
同じく裏手に回った流星は首を傾げた。
「転移術は便利だけど、力の流れとかで相手に気付かれる可能性がある。リスクはできるだけ無くしておきたい」
悠は裏口のドアノブに手をかけた。
「ん……開いてる。不用心だね」
「まぁこっちには都合いいけど」
流星は後ろを確認しながら言った。
「……偶然かな」
「は?」
「いや、何でもない」
悠は首を振り、ドアを開けた。
ここは教会内にある生活スペースのようで、長い廊下の途中には同じ造りのドアが幾つも並んでいた。
「それで、地下の入口はどこにあるんだ?」
流星は声をひそめた。どこにあの神父がいるか解らないのだ。
「多分、あのパイプオルガンの近くだと思う。行くよ」
悠はさっさと進み出した。土足だが、どうやらここはそれでも大丈夫のようである。
それ以前に、何でハイヒールなのに悠は足音を立てずに歩けるんだろうか。
流星はそんなことを考えながら後に続く。スニーカーのため、足音は気にしなくてもいい。
進んでいくと、質素なドアに突き当たった。おそらくこれが教会に続くドアだろう。
悠はドアへ手を伸ばした。
「っ、悠っ」
流星は振り返りながら悠を呼んだ。さっきまで声をひそめていたが、今は鋭くなったのを自覚する。
ひそめる必要が無くなったのだ。
神父が、背後に現れたのだから。
「何をなさっているんですか?」
ジョンは口元に笑みを浮かべたまま尋ねてきた。
だが、目は笑っていない。空色の瞳はほの暗く、美貌は張り付けた面のようになっている。
流星は戦慄した。まさかこんな早く見付かるなんて思わなかった。
「こんばんは、神父さん」
しかし、こんな時でも悠は冷静だった。微笑さえ浮かべていた。
「夜分にすみません。探し物がありまして」
「こんな夜中にですか」
「ええ。夜中だからこそです」
悠は笑いながら教会に続くドアを蹴り飛ばした。
大きな音を立ててドアが開く。その先にあるのは、誰もいない教会。
誰もいない教会、のはずだった。
「な……!?」
流星は絶句した。そこに、本来いるべきでない者達がいたからだ。
そこには、数人の女性が倒れていた。眠っているようだが、身体には太い鎖が巻き付いている。よく見れば、修道女姿の女性もいた。
「まさか行方不明になった……!?」
「のようだね」
悠は彼女らを一瞥した後、ジョンに向き直った。
「ご説明願いますか? 神父さん」
「……君は」
ジョンの顔が厳しくなった。
「一体何者だ。どうして彼女達に気が付いた?」
「確かに外からみえませんでしたね、彼女達は」
悠は小首を傾げた。
「けど結界を張れば、視認させなくすることはできる。おそらく貴方は、地下に彼女達を閉じ込めていた。その後、夜になってから彼女達を引きずり出して殺す。違いますか?」
「最初の質問に答えろ」
「何者か、ですか」
悠は笑みを深め、ジョンを見据えた。
「妖魔を狩る存在、退魔師です。貴方の国では、エクソシストなんて呼ばれてましたっけ?」
「っ……」
「貴方の罪状、狩らせてもらう」
悠の不敵な笑みを見て、ジョンの顔がひきつった。が、急に低く笑い出し、やがてそれを哄笑に変える。
「なるほど。私に憑いた悪魔を祓うというわけですね。しかし」
と。彼が左手を振ると同時に、足元から紫色の何かが幾つも突き破ってきた。
紫色の何か――植物のツルのようで、表面がでこぼこしている。それが流星と悠に迫ってきた。
「私に憑いているのは、悪魔ではなく天使ですよ」
「こんな化物植物みたいなのが天使? 笑わせないでよ」
悠は鼻で笑い、流星と共に後ろに跳びのいた。先程まで二人がいた場所を、ツルがうがつ。
「それで内蔵を奪ったの? どうやったから解らないけど……」
「君は自分の心配をした方がいい」
ジョンは不気味に笑ったまま、左手を振るった。
とたん、着地した悠の足元が崩れ、そこからツルが飛び出してきた。ツルは倒れそうになった悠をとらえ、絡み付く。
流星はそれを見て、腰のホルダーから小刀を抜こうとした。
一ヶ月前ならともかく、今なら悠を傷付けずにツルを焼き斬る自信があった。
だが流星の足元からもツルが無数に現れ、たまらず後ろに下がる。
悠がいる教会から離れ、神父の近くへ。
「流星!」
悠の悲鳴に似た声に、流星は一瞬ほうけた。その後、嫌な気配を感じて振り返る。
迫ってくるのは、化物ツルだけではなかった。
失念していた。諸悪の根源を。
やばい、と思った時にはもう遅い。
ジョンの持った金属の棒は、流星の脳天を打ち据えた。