分散<下>
雄輝は実戦らしい実戦を経験したことが無かった。
実戦は今回の妖偽教団とのが初めてであり、温室育ちの彼にとっては辛過ぎるものだった。
家族を失い、仲間を失い、死と隣り合わせの戦いに放り出されて。
普通なら誰かを、何かを恨むはずだ。憎むはずだ。
理不尽さに、不当さに、不条理さに。
なのにそういう感情に無縁なのは、臆病者だからだ。
強いからではない。むしろ弱いからこそ、彼は誰かを恨むことも何かを憎むことも無かった。
彼は、そういう男だった。
決着が着くのは早かった。
血まみれで、血みどろで、しかしそれは、全て雄輝のものではなかった。
返り血、だった。
「おまえが直線的な戦闘スタイルでよかったよ」
雄輝は顔を泣きそうに顔を歪めながら、虫の息の怪猫を見下ろした。
虫の息、というか呼吸すらままらなくなっている。
喉――ちょうど気管にあたる部分に、穴があいていた。
そこから吸った空気が漏れ、肺まで行き渡らないようだ。
代わりに穴から流れる大量の血が肺へと流れているようで、先程からひっきりなしに血塊を吐き出している。
「正面から向かってくるから、撃ち込みやすかった。飛びかかってくるからよけいに」
喋れない怪猫は、にごった黄色い目をこちらに向けた。その目に一瞬身体を震わせるが、かまわず続ける。
「なぁ、どうしてこっちの道に堕ちちゃったんだよ。もっと他の生き方あったよな」
「――!?」
「憎んで恨んで。そんな生き方、怖いじゃん。だって大切なもの、捨てそうじゃないか」
「――、――!?」
「憎しみって感情、俺は恐い。だって憎んだ方も憎まれた方も色んなもの失うし。だから、俺は妖偽教団を憎まない」
でも、と雄輝は怪猫の手触りの悪い毛に触れた。
「それは許すと同義語じゃないから……ごめんね」
ぐいっ、と上げられる腕。そろえられた指先。
「退魔体術――堕破」
掌底が怪猫の心臓を貫いた。
ぶしゃっ、と吹き出す黒い血。ただでさえ汚れていた雄輝の痩身が、更に赤黒く染まった。
抜き出した手はもっと色濃くて、肉を突き破った感覚が残っている。
「……う゛っ」
雄輝はしゃがみ込むと道端に胃の中のものを吐き出した。
「う、う゛ぇっ……う、うぅっ」
すぐにせり上がってきたものは吐き出せたが、嫌な気分はぬぐえない。
そういえば思い出した。半妖の末路はどういうものか。
半妖となった者の魂は、本人も気付かぬまま、すり減りすり切れやがて――
やがて、消えるのだ。
魂そのものがなくなる。生まれ変わることもなく、天国にも地獄にも行けない。
無に還るのだ。何も残らない、残せないまま。
それがどれほど哀しいことか、物心ついた頃から教えられてきた。
だからそんな哀しい結果を生まないよう、半妖を狩らねばならぬのだ。
例え、殺す結果になったとしても。
頭では解っている。だが身体は拒否反応を起こすのだ。
理由はどうあれ、殺していることに変わりはないのだから。
「……やっぱり俺は、弱い」
どれだけ嘆いても、その事実は変えようがなかった。
―――
日影が自分に放った技は、本来攻撃のためのものである。
敵の妖気を打ち消す技。ゆえに、妖気でできた毒を消すために自身に放った。
が、それは危険な賭けだった。
加減を誤れば死ぬことになるし、そもそも毒が妖気でできているかすら五分五分だったのである。
そこまでして生きようとする執念。
生への執着。誰しもが持つものだが、日影のそれは並外れていた。
だって生きなければならないから。
生きるために生かされ生きているのだから。
私は……生きるために生まれてきたのだ。
一撃が苦妃徒太夫の腹に入った。
『桧扇姫』のではない。日影の蹴りである。
「ぐ、はっ……」
苦妃徒太夫は血の混ざったつばを吐き出した。
が、ぶ厚い帯に助けられたのか、大したダメージは受けてないらしい。すぐ持ち直した。
しかし、それが隙を作ったのは否めない。
「第十五の舞――」
日影はその隙に突け込み、苦妃徒太夫の懐に入った。
「死々舞」
扇が着物の胸元を斬り裂く。
とたんに。
ザンッ
着物全体が裂けた。
全身が刃物で斬り裂かれたかのように、ばっさりと。
「なっ、なぁっ……!?」
「斬り裂いた対象のほんの僅かなほころびを斬り裂く……それが『死々舞』」
日影は苦妃徒太夫の鱗まみれの首に扇を降り下ろした。
「今度は、その着物だけじゃすまないわよ!」
扇が首筋に喰い込む――
「っらぁ!」
前に、鋼の毛が扇を弾いた。
扇ごと、日影も吹っ飛ぶ。が、唇には笑みが浮かんだ。
「……? ……! あぁっ」
苦妃徒太夫は頭を押さえた。
黒くうねる髪が、ばらばらと砕け散った。ガラスが割れるかのごとく音を上げて。
「戦いの中で痛みきったその髪も、例外じゃあないわよ」
日影はうそぶくように言うが、実を言うと限界が近かった。
腹の傷から血は出ていない。血そのものは止まっている。
だが傷の痛みまで止められなかった。しかも痛みは、しびれの代わりに全身を巡っている。
日影は痛みで立ち尽くしたまま、ぐらりとよろめいた。
それを逃すほど、苦妃徒太夫は甘くもなければ戦い慣れていないわけではなかった。
厚底な下駄を滑らせ、腕を振り上げる。日影ははっとして後ろに跳ぶも、間に合わない。
「ぐっ」
爪が日影の右肩をえぐった。
吹き出す血と激痛に、日影は思わず扇を取り落とす。
慌てて拾おうと手を伸ばすが、苦妃徒太夫が首に掴みかかってくるのが早かった。
「がっ、は、離せっ……」
「よくもあたしの髪を! よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくも!」
めしめし、と首の骨が悲鳴を上げた。日影自身は吐息すら漏らせない。
このままでは、絞め殺されてしまう。
「っ……」
日影は左手で苦妃徒太夫の腕を掴んだ。
外そうと力を入れるが、人間と化物、馬力が違う。
日影は腕を下ろした。諦めたのではない。別の方法を取ろうとしたのだ。
もはやぼろ布でしかない苦妃徒太夫の着物を掴む。そして右足で、苦妃徒太夫の足を払った。
「っあ……」
もくろみ通り、いきなりのことで対処できなかった苦妃徒太夫は後ろへ倒れていった。
背中が叩き付けられる音と共に、手の力が緩む。その隙にせき込みながら、日影は地面に転がっている『桧扇姫』を拾い上げた。
「これでっ、終わりよ!」
「っ……!」
苦妃徒太夫の目が見開かれた。
逃れようともがくが、日影が帯でくるんだ腹を踏みつけているために思うように動けないようだ。
「第十五の舞、『死々舞』!」
扇の先が苦妃徒太夫の喉元をかき切った。
「あた、あたしっはっ……」
苦妃徒太夫の顔が醜くひきつった。
皮肉か――妖魔としての顔で、それが最初で最後の人間らしい顔だった。
「あたしはこんなとこで死ぬ人間じゃ、な……」
全身から血が吹き出した。
ぶしゃ、ともどしゅ、ともつかない破裂音の後、全身に斬れ目が現れた。
斬り口より血の方が現れるのが早かった――というのは錯覚だろう。傷口が無ければ血は体外に出ない。
そしてその血を全身に浴びて――日影は笑った。
「こんなところで死ぬ人間じゃない? ぬるい、ぬるいわ。その程度で私を殺そうとしていたの? 甘ったるすぎるわ」
その程度で。
その程度の覚悟で。
その程度の心意気で。
「私はただ生きるために生まれたの。跡を継ぐ者として、血を引く者として」
もう自分以外の桐生家の血を引く者はいない。分家の者達はいるが、彼らに桐生家を任せる気も無い。
そうでなくとも、自分は生きるために生きていただろう。
昔から死ぬほど辛い思いをして。
それこそ生死の境をさまよって。
だけど生きている。生かされている。
今更死にたいとは思わなかったし、まだまだ生きるべきだと思っていた。
執念とも言うべき想いを、自分は秘めている。それを抑える気も、さらさら無かった。
「さようなら。どうあがいても、あんたに私は殺せないのよ」
そしてそのまま――日影は後ろに倒れ込んだ。
半妖と逆の方向に頭を向けて、ばったりと。
「……傷負い過ぎた」
ぼそっと呟いている内にも、傷の痛みは全身を覆っている。
だが、こんなところで立ち止まるわけにもいかなかった。
「行か、なきゃ……」
無事な腕、扇を持った方の腕で日影は立ち上がろうとする。
「大丈夫ですか?」
そんな彼女の前に、手が差し出された。
顔を上げると、心配そうな表情の雄輝が覗き込んできた。
「雄輝……貴方勝てたの?」
「何ですか、その勝てるとは思ってなかったっていう顔」
酷いなぁ、とぶつくさ言いながらも雄輝は助け起こしてくれた。
「血だらけじゃないですか……大丈夫ですか?」
「大半は返り血よ。ただ……怪我が酷いのは確かね」
日影は肩の傷を押さえた。さっきほどではないが、まだ血は止まっていない。
「止血、しないとですね」
雄輝は上着を脱いだ。
「って、貴方も返り血だらけじゃない。そんな上着で止血するつもり?」
「あ。そ、そうですね」
雄輝は思い出したように上着を手離した。
「……それにしても、ここまでしなくても」
一瞬何を言われたか解らなかったが、日影ははたと思い至り、「あぁ」と扇を閉じた。
「ここまでやらないと倒せなかった。それだけよ」
「……そうですか」
雄輝はそれ以上何も言わなかった。言わないまま、また手を差し出した。
「行きましょう。ここにこれ以上いても、意味無いし」
「そうね」
血まみれ血みどろのまま――
日影と雄輝は歩き出した。
―――
足元が沈んだと思った。
気が付いたら、また元に戻っていたけど。
ただ――
「みんな、どこぉ?」
いなかった。
自分達以外、誰も。
「どういうことだ……地面に飲み込まれたと思ったら……移動、させられたのか」
風馬が混乱したように呟いた。実際混乱しているだろう。
「何で移動させられたんだよ」
雷雲は気にいらないというように顔を歪めた。
「……俺達をバラけさせるためだろう。多分近くに敵がいるはずだ」
風馬は銃を構えて辺りを見渡した。
「その通り」
頭上から降ってくる声。ひゅるひゅるという落下音。
「上かっ」
風馬は呻くと雷雲を抱えて横へ跳んだ。
ドズウゥゥゥンッ
その『巨体』が降り立ったとたん、地面が振られたのかと思うほど揺れた。
ぎりぎりで落下地点から逃れたものの、本当に際どかった。
一、二歩ずれていたら、『それ』でぺしゃんこになっていたろう。
いや、それより。
「な、何だよこれ」
雷雲は思わずそう呟いた。
目の前に落ちてきたのは……巨大な肉の塊だった。
ぶよぶよとした、肌色が凝り固まったような物体である。
一体これは人なのか、妖魔なのか。
いやまず生きているのか。
それ以前に……生き物なのか。
どう考えても十メートル越えの集合体にしか見えないか……
「おまえら」
喋った。
どこから声を出しているのか知らないが、喋った。
「退魔師だろ? ここにいる人間は退魔師ぐらいのもんだわい」
「ぎゃあぁぁぁぁぁぁ! に、肉塊が喋ったぁ!」
雷雲は風馬に飛び付いた。
「落ち着け! 肉塊喋るぐらい今までのこと考えればましだろ!」
「そ、そうだけどっ。てっきり攻撃だと思ったから」
まさか妖魔の方とは思ってなかった、と言えば、肉塊は笑う。ぷるぷると震えて気持ち悪い。
「餓鬼よ。目に見えるもんが全てじゃねぇ。ついでに言やぁ、これもある意味本体じゃねぇ」
謎の声がそう言ったとたん、肉塊は空気が抜けていくようにしぼんでいく。
しゅるしゅると小さくなり、やがて人の形を取った。
恰幅のいい老人だ。白く長い口髭を生やして、質素な薄茶色の服を来ている。長髪は頭のてっぺんから髪の先まで真っ白だ。
まるで仙人のような男に、雷雲と風馬は顔を見合わせた。
何だか……敵らしくない。
倒しずらい、とも言う。
そんな二人の内心を察したのか、男はからから笑った。
「わしの名は修験狸。名の通り狸じゃ。おぬしらの名は?」
「あ……俺、家鳴雷雲」
反射的に答えた雷雲の脳天に、風馬が拳を落とした。
「あだっ」
「やすやすと敵に名前を明かすな!」
二人を知る者達なら、このようなやり取りは日常茶飯事である。それを知らない者は、ただただ驚くだろう。
しかし男は――修験狸は驚かなかった。
ただ、笑ったのである。
おかしそうに、声を上げて。
「かっかっ。安心せい。呼ぶのに必要だから訊いたまでよ。別に呪いをかけようとは思っとらん」
「……信用すると思うか?」
風馬は銃口を修験狸に向けた。
「大体俺達は敵としてここに来た。なら出会った敵とは、戦うしかないだろう」
「血の気多いのう。何、別にわしは命の取り合いをしに来たのでない」
修験狸はその場にどかりと座り、膝を叩いた。
「わしが望むのは、交渉よ」
「交渉、だと……」
風馬は片眉の上げた。
「そんなもの、できないしする必要も無い」
「そう言うな。簡単なことよ」
修験狸は雷雲に目をやった。
「雷雲、じゃったな」
「? うん」
「おまえがわしに勝ったらある情報をくれてやる」
にや、と修験狸の唇が歪められる。雷雲はその顔にむっとなるが、あっさり頷いた。
「いいよ」
「おい、雷雲!」
「大丈夫!」
声を荒げる風馬を無視し、雷雲は『卯槌姫』を構えた。
「いつでもいいぜ、じっちゃん!」
雷雲は無邪気に笑う。いっそ、不敵と言えるぐらいに。