分散<中>
足元が沈んだ。泥のように、ずぷりずぷりと。
「っ……!」
地獄に引きずり込まれた時のことを思い出し、日影は戦慄する。
しかしあの時のように叫べるほど間は無かったし――
いた場所も、あの時と違っていた。
「ここ……まだ平安京の中?」
先程と変わらない木の平屋の大群。変わったのは、明らかに人数が減ったということだけだ。
いるのは日影と――
「ここ、どこですか?」
雄輝だけ。
「解らないわ。何だったの、今の。みんなはどこかしら」
「さぁ……?」
雄輝は首を傾げつつも、怯えた顔で足元を見つめた。また沈むのではないか、と危惧しているのかもしれない。
「ね、それより悠達を探しましょう」
ここでバラバラになるのは得策とは言えない。日影はそう判断して足を踏み出した。
「無理無理、合流なんて」
聞き覚えのある声が降ってきた。日影はハッと顔を上げる。
「ここがどこか解ってる? あたし達の根城よ。根城に侵入するネズミや害虫は駆除されるのよ」
平屋の上からこちらを見下ろして見下す女に、日影は顔を歪めた。
「いきなりで随分ね、苦妃徒太夫……だったかしら」
「そ。覚えておきなさい。死ぬまでね」
女――苦妃徒太夫は派手なかんざしを揺らしながら笑った。
「……知り合いですか?」
雄輝の発言に、日影は「知り合いたくないわよ」と毒づいた。
「……じゃ、隣の子は?」
雄輝が苦妃徒太夫の横を指差す。今度は眉をひそめた。
「知らないわ。誰あの子」
目線の先にいたのは、一人の少年である。
ショートパンツにTシャツという、腕白な印象を与える服装だ。長めの茶髪につり上がった大きな目は猫を思わせる。
「にゅふふ♪ 楽しめそうだねぇ」
少年は笑い声を上げた。何だかアニメに出てきそうな声音である。
「ねぇ苦妃徒ー。ボクあのおにーさんと戦いたぁい」
「いいけど、確実に殺しなさいよ。猫童」
苦妃徒太夫が言うと、猫童と呼ばれた少年は笑みを深めた。
「来るわよ」
「わ、解ってます」
日影と雄輝はそれぞれの武器を取り出す。
雄輝の持つ『蹴鞠姫』を見て、猫童の黄色い瞳がぴかぴか輝いた。
「あは! 楽しい遊びになりそうだねっ」
ぴょんっと屋根から飛び降りる少年の爪が鋭く伸びた。
迫ってくる猫童に一瞬呆けた後、雄輝は『蹴鞠姫』を蹴り飛ばした。
真っ直ぐ飛ぶ鞠。しかしそれは、猫童の両手の爪で弾かれてしまう。
「い……!?」
「楽しもうよ、おにーさん!」
猫童の手が雄輝に向かって振り下ろされた。
「うわったた!」
雄輝は慌てて後ろに身を投げる。ぎりぎりで避けられたものの、上衣の前が少し裂けた。
「じ、冗談じゃない!」
雄輝は蹴り上げられた右足をさばき、左へ移動する。
「俺は体術は苦手なんだよー!」
突き出された爪を紙一重でかわし、猫童の背後に回る。拳を振り下ろそうとしたようだが、睨まれた雄輝は冷や汗をかいて下がった。
「……って、充分戦えてるじゃないっ」
日影ははぁ、とため息をつき、苦妃徒太夫に向き直った。
「私が貴女と闘うことになるのかしらね?」
「疑問に思わなくても、おまえはあたしが殺してあげるわ」
にぃ、と笑った苦妃徒太夫の顔にウロコが浮かび上がった。瞳孔が細くなり、髪はその光沢を増す。
しかしその光沢は髪のものではなかった。
かといって、金属のものでもない。
ぬらぬら輝く――爬虫類のものだ。
「はっ」
短い気合いの声と共に、蛇のようにうねっていた髪が日影へと伸びてきた。
「そう同じ手が通じると思わないでちょうだいな!」
日影は扇を開くと横に一閃させる。
ばっさり斬られる髪。妖しく黒光りする黒髪がざんばらに散った。
「甘い!」
だが髪を全て斬ることはできず、一房が日影の右足をかすめる。
日影は顔をしかめた後、後ろへ跳んで髪の囲いから逃れた。
地面に足を着き――
「え……?」
そのまま――
無様に、倒れた。
それこそ、操り人形を上から引っ張り上げていた糸が切れたように、あっさりと。
「え、えっ?」
日影は慌てて立ち上がろうとした。が、上体は動いても、右足は動かない。
傷はどうってことない。戦いに支障も出ない、ほんの小さなかすり傷だ。
なのに――傷口がしびれるように痛い。
そのしびれが、右足を縛り付けている。
「こ、これ……まさか、毒?」
「ご名答」
日影の言葉に答え、苦妃徒太夫は屋根からすたんと跳び下りた。髪の長さは元に戻っている。
「この姿を見て、大方の予想はついてたんじゃないの? あたしは毒蛇とかけ合わされた半妖」
苦妃徒太夫の唇の端がつり上がった。ちろちろと動く舌は細く、先が分かれている。
「この髪があたしの牙。毒牙ならぬ毒髪。蛇女ならぬ毒女。この毒から逃れられない。ほら――」
「あ、ぐっ……!? 身体が、動かなく……?」
日影は手を着こうとして、失敗した。手まで崩れるように倒れ、肘を着く結果になる。
「毒は全身を巡っていくわ。ま、遅効性だから、あと十分たたないと死なないんだけど」
あっさりきっぱり、絶望的なことを言われた。そこにためらいなど、当然無い。
「あたしが死ねば毒は消えるけどね。それはありえないから死ぬまでの間、暇よね」
「っ……!」
「お喋りしましょうか」
人外の顔が浮かべたのは、なんとも人なつっこい笑みだった。
―――
爪が迫る、迫る、迫る。それを避ける、避ける、避ける。
同じ攻撃に同じ回避。違うのは動き方のみだ。
「いい加減さぁ、攻撃したら?」
猫童はどんどん表情を薄めていった。
一方雄輝に喋る余裕など無い。すでに息が上がってきている。
(くそっ。『蹴鞠姫』があってもこんなに近いと……)
『蹴鞠姫』を呼び戻すことはできる。だがもし、また弾かれたら?
そもそも中・遠距離用の武器なのだから、接近戦ではかえって邪魔になる。
体術は苦手だが――体術で応じるしかない。
雄輝は右の平手を肘を折り畳んで後ろに引いた。
「……退魔体術」
苦手だが――嫌いではない。
「堕破!」
気合いを入れるように技名を口にし、右の平手を勢いよく前に着き出す。掌底が猫童の左胸を捉えた。
「っあ゛!?」
猫童の喉から押し潰されたような声が絞り出される。
そのまま、掌底の勢いに吹き飛ぶように家屋に衝突した。
「……当たった」
自分で放ったくせに、雄輝が一番驚いていた。
だがすぐ我に返り、『蹴鞠姫』を呼ぶ。
呼ぶ、と言っても声を上げたわけではない。ただ念じたのだ。
念じれば戻ってくる。それが『蹴鞠姫』の特性の一つだった。
「俺が得意なのは……体術じゃなくてスポーツなんだよ!」
スピードを乗せて蹴っ飛ばした鞠は、寸分違わずうずくまる猫童の腹に吸い込まれていく。
バギャァッ
肉と骨を打つ音がした。
「は、がっ……」
猫童の大きな目が更に大きくなる。そのまま、動かなくなった。
「……っはぁ」
雄輝は戻ってきた鞠を拾い上げ、短く息を吐いた。
半妖を狩ったのは初めてだ。人であって人でない、人道でも畜生道でもない者を狩ったのは初めてだ。
半妖。人をやめた者。妖魔になりきれない者。
そのような存在は狩るしかないと教えられた。
狩らねばその魂は救われない。本人も気付かぬまま、魂はすり減りすり切れやがて――
やがて――どうなるんだっけ?
随分前に教えられたことだからよく覚えていない。
……まぁいいか。
雄輝は軽く流し、周りを見渡した。
攻防を続けている内に、随分移動してしまったらしい。日影の姿が見当たらない。
「どんどん後ろに下がっていったから……前に進めばいいな、うん」
考えずとも解ることを口にし、雄輝は猫童の前を通り過ぎた。
――と。
「あんたさぁ、鍋島騒動って知ってる?」
声をかけられた。すでに狩ったはずの少年の声が。
「知らないよねー。講談自体知らなさそうだし」
猫童の口から血と共に吐き出される言葉は、異常に明るかった。
「二家の御家騒動なんだけどさー、そこに怪猫が出てくるわけよ。超親近感わくんだよね」
猫童は立ち上がった。素足は、黒い毛で覆われている。
「僕もさ、いいとこ出だったけど御家騒動みたいなので捨てられたのさ。ムカつくから家族全員殺したけど」
手が音を立てて武骨に――否、人間以外の何かに変質していく。
「だからかなぁ。飼い主殺された猫が妖魔になる気持ち、解るんだぁ。どん底に落とされて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて憎くて!」
ぶわっ、と猫童の顔から全体に広がるように、裂けた皮膚の下から黒毛が現れた。
手足だけを覆っていたは剛毛は少年の全身を包み――
一匹の怪猫となった。
「っ……!」
「さぁ、遊ぼうよおにーちゃん♪ ボロクズになるまでさぁ」
怪猫の喉から発せられたのは甘ったるい、文字通り猫なで声。
ざらついた、やすりのような蠱惑的な声だった。
―――
蛇の舌はよく動く。ちろちろと、くねくねと。
「私ね、これでも昔は芸者だったの。舞も三味線もうまくって、誰より美人だから凄く人気だったのよ。でもね、ある日髪を切られたの。京にも不良はいるのよ。髪はざんばらになってしまった。仲間がそうするよう、不良達に頼んだの。私に嫉妬したのね。髪だけならともかく、顔や身体も傷モノ。表に立てなくなった私は憎しみに任せて仲間を殺したわ」
恐ろしい顔をのんきに緩め、恐ろしい声でのんきに喋り、苦妃徒太夫はのんきに笑う。
悲惨な話だというのに、口調は軽い。
日影はそれに対し何も言わない。絶句した――わけではなく、毒の激痛に耐えているのだ。
口を開けば叫んでしまいそうで、話を遮ることもできない。
彼女の言っていた十分まで、あと少し。あと少しで、私は……
(悔しい! 悔しい悔しい悔しい!)
こんなところで死ぬなんて。
こんなところで何もせず。
こんなところで一矢むくいず。
こんなところで、こんなところで……!
日影はぎり、と唇を噛み締めた。
毒を何とかしなければ。だが、身体はほとんど動かない。
解毒剤など当然無いし、毒に対抗する術など知らない。ゆるやかに死ぬしかない。
(……でも、待って)
彼の一撃を受けて毒の影響を受けなかった人物がいる。
(流星君は、毒に犯されてない)
彼は生きている。自分より大きな傷を負いながら、しっかりと。
(どうして? 毒の耐性があるとか? そんな都合よく?)
そんなわけない。もっと別の、明確な理由があるはずだ。
彼と自分には、どんな違いがある?
男女差?
身長差?
いや、これで毒が効く効かないが決まるわけない。
なら何……?
(……あ)
あった。一つだけ、完全に流星と自分を分けるものが。
(鬼、童子……)
人の身でありながら妖魔を宿すもの。
妖気を宿す流星が効かないということは、この毒も妖気なのではないか。
流星の中の妖気が、妖気から造られた毒を打ち消したんだとしたら……!
(だとしたら、方法は一つだわ)
妖気を打ち消すことが毒を打ち消すことなら、うまくいくはず。
(私は、こんなところで死ぬわけにはいかないのよ!)
日影は右手を振り上げた。
苦妃徒太夫はそれに気付いていないのか、カウントを始めている。
「五、四――」
「桐生家破魔術――」
「三、二――」
「聖刀――」
「一、ぜ――」
「刃華!」
日影の手刀が打ち込まれた。
苦妃徒太夫に、ではない。
彼女との間合いは数メートルあり、どうやっても届く距離ではない。
無論地面でもない。
地面に打ち込んでも何の意味も無い。
手刀が打ち込まれたのは――
日影自身の腹だった。
苦妃徒太夫の細い瞳孔が更に細くなった。
「じ、自分の腹を貫いた!?」
苦妃徒太夫の言葉通り、日影の手刀は日影の腹に喰い込んでいる。
かはっ、と軽くせき込めば、血の混ざったつばが飛んだ。
「何がしたいのよ、あんた! 死ぬ間際にそんな、こ、と……」
苦妃徒太夫の顔色がみるみる内に変わった。蛇顔だから、変化は解りにくかったが。
「ど、どうして死なないの……毒は全身に回ったはずよ……」
「毒、なら」
日影はふらりと立ち上がった。腹に激痛が走ったが、かまわず苦妃徒太夫を睨み付ける。
「打ち消したわよ。というか、毒というより妖気でしょ」
「そ、そんな!」
「はぁ、全く」
日影は腹から手を引き抜いた。
それほど深くはない。致命傷というほどでもない。
ほっとけば失血で倒れるかもしれないが、毒で死ぬよりましだろう。
穴の開いた腹をさすり、日影は扇を構えた。
「桐生家当主が嫡子、桐生日影。舞わせていただきます」
たん、と足が地面から離れた。
舞うように、踊るように。