月人<下>
祖先の逸話を、寝物語にいつも聞いていた。華奢な母の身体を揺らし、何度も、何度も。
その名の通り、月のように美しく気高い、祖先のようになりたかった。
同じようになれなくても、近い存在になりたかった。
姉として、長子として、娘として、妻として、女として。
一人の、人間として。
でももうそれは、叶わない。
―――
月読は――葵は、左胸を押さえた。
痛い。傷口をナイフでえぐられているような、身をよじりたくなるような鋭い痛みだ。
「まだ、舞台から降りるのは早いのよ、『月読』」
葵は唇を噛んだ。
「降りるのは、終わってからよ」
弓を構え、弦を引く。光の矢がつがえられた。
「さぁ……最後は派手に舞ってやろうじゃない!」
小屋が吹き飛ぶ。
「『鳴弦姫』、部分解除!」
光の矢が――放たれる!
ドガアァァァァァァァァァァァァァッ
黒い塊が消し飛んだ。
「く、ぅ……」
月読は膝を着いた。
彼女を囲うのは無数の妖魔達。しかしもう、動くことは無い。人形の残骸のように身体を散らばらせている。
戦えば戦うほど、胸の痛みは増すばかりだ。今や、首ももげそうになっている。
見なくても解る。今自分の身体は、壊死しかけている。
動くたび、痛む皮膚と着物がこすれて悲鳴を上げたくなる。
だがそんな暇無かった。妖魔達の攻撃は絶え間無く続き、月読の、葵の身体を喰いちぎろうとする。
葵の身体は反射とも言える動きでそれを凪ぎ払った。
そうすることで葵の身体はぼろぼろに、否、ずたずたになっていく。
「限界、近いかな」
ぽつりと呟く。黒い空に、それは響かない。
何度、この空に気が狂いそうになったか。そうならなかったのは月読の中の忠誠心と、葵の中の復讐心ゆえだった。
どこまでも静かな月読と、激しい憎悪に揺れる葵。拮抗する二つの意思が、彼女をぎりぎりで保っていた。
しかし、今は。
「……来たわね」
近付いてくる足音に、葵は顔を上げた。
周りの風景に溶け込めてない美女を睨み付けると、相手の顔が歪められる。
「どうして妾を裏切ったの?」
女の――羽衣姫の手がすぅっと上がった。
「おまえは……妾の忠実なおもちゃでしょう!」
羽衣姫の五指――正確には手袋の指部分が伸びた。五本の槍のごとく、葵に襲いかかる。
葵は立ち上がって右に飛んだ。背後のほぼ木片と化していた家屋が粉砕される。
足が地面に着くと同時に、葵は弦を引き絞り、狙いを定めた。
「持国天ノ光!」
光の矢が放たれた。
弓から離れた瞬間、矢はぐぉっと膨れ上がり、人の顔を成す。
憤怒の形相の、兜を被った男の顔だ。
象ほどもある顔は、巨大な口を開けて羽衣姫を飲み込んだ。
やった、と葵が思った瞬間。
ドスッ
肩を、何かが通過していった。
葵は固い動きで目を左にやる。弓を持たない手に、紅いしずくが伝っていった。
「あ、うぁっ」
葵は苦悶の声を上げた。
羽衣姫の伸びた指が、肩を貫通している。かなり後ろまで伸びており、自力で抜くのは無理そうだった。
「ねぇ月読ちゃん。妾は寛大よん」
弾け飛んだ光の中から、羽衣姫が現れる。彼女が近付くたび、肩を固定している指が短くなっていった。
「今なら許してあげる。呪いも解いてあげる。妾の隣で、ずぅっと可愛いがってあげる」
距離が十数センチだけになる。顔が近付けられ、その差は更に縮まった。
「だから、ねぇ? 妾の元に戻りなさいん。妾の手の内で、ずぅっと、ずぅっと舞ってなさい」
鼻がぶつかりそうだ。至近距離から見ると、羽衣姫の瞳は洞のように冷たい。なのにその奥には、業火のような狂熱を秘めていた。
(あぁ、何て矛盾した目)
自分と同じ。熱さと冷たさに取り憑かれた目。
隅に追いやっていた『月読』が語りかけてくる。
『この方の元にいればいい。全てをこの方にゆだねれば、苦しまなくてすむ』
そう、苦しまなくてすむ。
壊死はもう左肘まで広がっており、半身が使い物にならない。戦えなくなるのも時間の問題だろう。
肩の傷だって、壊死したところだったせいが意識がぶっ飛びそうになるくらい痛い。
このままいけば、流星に言った通り死ぬことになる。
苦しみと痛みで、気がおかしくなりそうだ。
『月読』に意識全てを手渡せば、『葵』はそれから離れることができる。
もう良心をいとわなくていい。家族への裏切りに涙する必要も無い。夫の死に、苦しまなくてもいい。
だけど。
「私、は……」
失いたくない。自分を。誇りを。
覚悟はとっくにできている。
迷う必要は、無い。
「おまえのものになどならないわ。おまえの舞台で踊るのはまっぴらよ」
驚くほどはっきりと、拒絶の言葉が出た。
瞬間、肩から血が吹き出す。羽衣姫が指を抜いたのだ。
痛みは更に激しくなったが、代わりに腕は自由になった。
無論、壊死しているためにそう簡単に肩が上がるわけがない。
しかし葵は、まだ無事の指を弦にかけ、引いた。
(一矢だけでいい。一矢だけで、私は私を取り戻せる!)
光の矢をつがえる。
「うあぁぁぁぁぁぁ!!」
矢が、弓につがえられた状態で膨張した。
距離は十数センチしかない。照準は定まらないが、これだけ近ければ外れることは無い。
壊せなくてもいい。ただ、一矢むくいたい!
「喰らえ!」
最期の光の矢が、放たれた。
―――
走っていた。足がもつれそうになりながら、山の中を。
「ハァ、ハァ、ハァ」
流星は顎を伝うしずくをぬぐった。
学ランはとっくに脱いでおり、どこかに捨ててしまった。
走るたびに枝が手や頬をひっかいていく。頬の傷が、しずくが伝うたびにひりひりした。
制服はもうぼろぼろだ。替えはあったか否かを考えている余裕などない。
「ハァ、ハァ、ハァ……う、ぐっ」
喰い縛っていた歯の間から、嗚咽が漏れる。耐えようとしてるのに、全然無理だった。
「……っんなことで、泣くな俺」
目をこすってもこすっても結局元に戻る。流星は諦めて、手を振るだけにとどめた。
(早く、伝えないと……羽衣姫の居場所を。早く、早く!)
感情が酷く揺れているせいか、流星の額から角が盛り上がっては戻った。スピードも、どんどん常人から離れていく。
半日近くかかる椿家の屋敷に、たった一時間でたどり着いた。
人間離れしていることを皮肉ってる時間は無い。急がなければ。
「悠……どこだ……っ」
さすがに、もう息が絶え絶えだ。歩くのも辛くなっている。
門を開け、玄関に行き着く途中で膝を着いた。
「流星?」
倒れそうになっていると、声をかけられた。
顔を上げると、目的の人物が目に映った。おかげで全身の力が抜ける。
「ちょっと流星! どうしたの?」
悠は駆け寄って流星の肩に触れた。
「一体何が……とにかく中へ」
「待て」
流星は悠の細い手首を掴んだ。
「それより……アジト」
「アジト?」
「妖偽教団の……アジト」
「言わせないん♪」
背後の門が吹き飛んだ。
粉々に破壊され、残骸が二人の頭に降ってくる。
疲れて動けない流星を、悠が引っ張って移動した。木片鉄片の雨を逃れ、抜刀する。
「流星、下がって。その身体じゃ戦えないでしょ」
悠に言われ、流星は素直に後ろに引いた。
「んふふ。さぁさぁ、フィナーレよん♪」
土煙から、影が現れる。
長い黒髪をたなびかせ、紅い唇をほころばせ、漆黒の瞳を輝かせ、人形のように整った顔をゆるませ。
「全員、妾が殺してあげる♪」
羽衣姫が現れた。
―――
「愚かなことをしたな」
熾堕は言った。
相手は答えない。当たり前だ、彼女はすでに、もの言わなくなっている。
しかし熾堕は語りかけるのをやめない。
「一人で苦しみ、一人で哀しみ、一人で戦い、一人で散った。それはおまえが望んだ結果か」
しゃがみ、彼女の髪に触れる。彼女の妹と同じ、美しく豊かな黒髪だ。
「この国では、冥界を彼岸と呼ぶのだったな。そこは、どんなところだ?」
熾堕は手を引いた。酷く寂しげな顔で。
「俺には解らない。死んでも、きっと。俺には、そこに行くべき魂が無いからな」
熾堕は引いた手で胸元をこすった。服がくしゃりとしわになる。
「どうしてだろうな。星を読み、見、人の生き筋を知ることはできても、変えることはなかなかできない。力があるのに、いや」
熾堕は銀の瞳を閉じた。
「力があるからこそ、か。力ある者は色々制約が多い。守らなければ、待つのは崩壊のみだ」
彼女の上身を起こし、囁きかける。
「おまえもだ。力があるゆえに制限されていた。しかし、一つだけ特権がある。それは運命を変えること。もっとも、変えた先がよりよい未来かなど解らないがな」
事実結末がこれだ、とため息をつく。
異様な光景だった。
限り無く美しい男が、限り無くおぞましい死体に囲まれ、限り無くむごい女の死体に話しかける。
女の身体は半分変色していた。首から左頬にかけてまで肌が黒ずんでいる。手など崩れ、五指がくっついていた。
左肩とみぞうちには穴が開いて、向こう側が見えてしまっていた。その傷を、男は眉をひそめて見つめる。
「あれも酷いことをする。さすがはあの男が造っただけある。いや」
ふと、遠い目になった。
「宿ったのか。千年以上も残り続けるとは、あれの念も強い」
一つの目的のために念を残し、それを叶えられないから破壊に走る。
あいつの、思惑通りではないか。
「悲劇作家気取りか、あいつは」
小さく悪態をつき、男は女を抱きかかえた。
「墓を造ってやらないとな。夫と共に眠れるように」
男は呟き、ここで初めて微笑んだ。
慈愛も冷酷も含まれない、ただの静かな笑みを。
「安らかに眠れ。月になりたかった女よ」
おまえの出番は、もう終わったから。
女の手から、握られていた弓が滑り落ちた。
からん、と乾いた音を立てて転げる弓。その横にしずくが一つ、ぽたりとしみを作った。