死花<中>
庭に面する廊下を歩いていた刀弥は、ふと足を止めた。
廊下の真ん中に、誰かが座っている。いや、あれは倒れている……?
「お、おい! 恭弥っ」
陽光のまぶしさに目をしばたいていると、その人物が弟と気付く。
慌てて駆け寄ると、制服姿の恭弥は浅い息をしながら壁に寄りかかっていた。
「んっ……に、さ……?」
恭弥は眉根を寄せ、額に脂汗を浮かべていた。固く閉じられていた目を開け、焦点の合わない目で見上げてくる。
「こんなとこで倒れんなよ……心臓に悪い」
「ごめん……学校に行こうとして……うっ」
突然恭弥は咳き込み出した。刀弥は慌ててしゃがみ込む。
「おい! 誰か」
「いい……もうおさまった」
胸を押さえた恭弥は刀弥を手で制した。
「封印のバランスが崩れてきてるんだ……ただ、それだけだ」
恭弥はふらつきながら立ち上がった。
その姿に、刀弥はきっぱりと声をかける。
「……恭弥、おまえ今日休め。いや、今日から休め」
「でも……」
「いいから、休んでくれ……頼むから」
我ながら弱々しい声が出た。手など、見なくても解るぐらい震えている。
「……解った」
恭弥はすくっと立ち上がった。
「兄さんに言われたら、しょうがないしな。おとなしくておく」
にこっと微笑するその笑顔が、刀弥の胸を突く。やはり母と似てる……思わずそう感じたからだ。
そんなこと知らない恭弥は、踵を返して自室に戻っていこうとした。
「……なぁ」
刀弥はつい声をかけた。足を止めて振り返る弟に、逆に自分が戸惑ってしまう。
素早く考えを巡らし、一つ思い出す。
「額の傷跡、もう痛まねーのか?」
恭弥は目を丸くした。
こちらをじぃっと見つめ……また微笑した。
困ったような、それでいて儚げなものだったけど。
「……うん」
恭弥は今度こそその場から歩み去った。
恭弥の姿が見えなくなった後、刀弥はため息をついて片手で顔を覆った。
「そうか……もう痛まないのか」
指の隙間から、嫌味なほど青い空が目に映る。
そう、あの日もちょうどこんな空だった。
あんなことが起こるなんて、思ってもなかった。
三年前の、あの日が……
―――
流星は目の前の少女を凝視した。
間違いない。この娘は小さい悠だ。
どうも自分は、タイムスリップしたらしい……
(って、んなわけあるかあぁぁぁぁぁぁぁぁ!)
流星は自分にツッコんだ。
(タイムスリップとか! どこのファンタジーだっ。つかどうなってんの、マジで!)
軽く混乱状態の流星をよそに、小さい悠は鞠を持って走り出した。
「あ、待てよチビ悠(勝手に命名)!」
流星は慌ててその後を追う。
(つうかこっちのこと、気付いてねぇのか? 今でかい声出したのに……聞こえてないとか?)
だが声はちゃんと出たし、彼女が耳栓をしているということはあるまい。
おかしい。まるで自分は、ここにいないような……
悠の足が止まった。
流星は足を止め、息を整える。向こうは着物で、しかも子供なのに、付いていくのに必死だった。
「ハァ、どんだけ早いんだ、よ……」
流星は前方を見て、口を閉じた。庭の木の葉を眺める少年を見付けたからだ。
「あ、あれ……あいつ……もしかして……」
流星が目を瞬かせていると、悠は口を動かした。
「だぁれ?」
少年がこちらに顔を向けた。
悠に似た、驚くほど整った中性的な顔立ち、病的に白い肌、切れ長の澄んだ漆黒の瞳。
……恭弥!?
幼い悠を見た時より驚いた。なぜ彼がいるんだろうか。
しかも、記憶より幼い気がする。確か恭弥は自分より背が高いはずだが、目の前の彼は目線が自分より下にある。
(つぅか恭弥も俺のこと、気付いてない?)
自分は悠の後ろにいるため、視界に入ってくるはずだ。なのに恭弥は、悠にのみ視線を注いでいる。
流星は両手を見下ろした。別に透けてはいない。
「何で……」
呆然としている間にも、目の前のやり取りは続く。
「君こそ……誰だ?」
恭弥は首を傾げた。記憶より長い髪が、さらさらと揺れる。
「悠。椿、悠」
「悠?」
悠が名乗ったとたん、恭弥の表情が変わった。
「君が僕の妹……?」
悠に近付き、しゃがんで目線を合わせる。
近くで向かい合っていると、本当によく似ている。鏡みたいだ。
「誰……なの?」
悠は不安げな顔を恭弥に向けた。
お互いの反応を見るに、どうやら初対面のようだ。
(この二人……兄妹だよな)
なのに今初めて会ったような反応だ。一体どういうことだろうか。
「僕は恭弥。君の兄だ」
「恭弥……私が生まれる前に、遠くに修行に行っちゃった?」
「あぁ」
恭弥は細い顎を引いた。
(修行……? 式神のか)
なるほど、と流星は納得する。それなら互いを知らないのも無理は無い。わざわざ遠くに行った理由が、少々謎だが。
「貴方が……恭兄?」
髪はかくんと小首を傾げた。かんざしと黒髪が揺れる。
「そうだよ」
恭弥は悠の頭に手を伸ばし――
「何をしているの?」
全員ぴたりと動きを止めた。
恭弥は顔を上げ、不思議そうに流星を見ている。
こちらが見えるのかと一瞬びくりとした流星だが、すぐ自分を見ているのではないと気付いて振り返った。
女性が、しずしずと近付いてくる。
長い絹糸のような黒髪を結い上げ、黒地に白い牡丹が映える着物を上品に着こなしている。完璧に整った顔立ちは、悠と恭弥に共通していた。
流星はその女性と悠、恭弥を見比べた。
(似てる……もしかして二人の母親!?)
末恐ろしいほどに美しい容貌は、他人と終わらせるには酷似している。し過ぎている。
違うのは目の形ぐらいだ。悠と恭弥が切れ長の鋭い目元に対し、女性の目はアーモンド型をしている。
女性は悠を見、そしてその後恭弥を見たとたん、明らかに表情を硬化させた。
まるで幽霊を見たような表情だ。美しい顔が、みるみる内に歪んでいく。
「あの……?」
恭弥が声をかけたとたん、女性はつかつかと彼に早足に歩み寄った。
着物なのも構わず、大股で歩み寄って右手を振り上げる。
バシィィン
肉を叩く音が響き渡った。
よろめいた恭弥は目を見開き、赤く腫れ上がった左頬を押さえる。
じっと女性の様を見つめていた流星は、言葉を失った。
母親が自分の子供を殴るなんてありえるのだろうか。
流星が呆然としている内に、女性は恭弥に怒声をあびせた。
「二度と私の娘に近寄らないで!」
上ずった声。何かにおびえたような、本能的な恐怖を含んだ声。
女性は身をひるがえし、悠の手を取った。
「あっ」
悠が声を上げるのも構わず、女性はその場から逃げるように立ち去る。いや、本当に逃げたのかもしれない。
遠退く母娘を見つめたまま、恭弥は根を張ったように動かない。流星はどうしようか迷っていると、急に風景が変わった。
いや、変わったというより、動いた。
足元が移動していくように、周りの光景がスライドしていく。
「な、俺、動いてないのに……!」
流星の身体は、母娘の方へ近付いていく。逆に、呆然と立ち尽くす恭弥の姿は遠ざかっていった。
(何だ……一体何だ!?)
わけが解らない。悠と恭弥の幼い姿も、季節のおかしいこの風景も、今起きている現象も!
移動してみても、やはり結果は変わらない。母娘の方へ引き寄せられる。
「何だよ一体……何なんだよっ……」
流星がそう言ったとたん、風景が止まった。
流星が辺りを見渡すと、家屋の廊下の真ん中で悠と女性が向かい合っていた。
「ねぇ……何で恭兄と話しちゃ駄目なの?」
悠は女性を見上げて首を傾げた。大きな瞳は、不安げに揺れている。
女性は一瞬顔を歪め、しかしすぐ笑顔になってしゃがみ、悠と視線を合わせた。
「悠、いい? あの子は貴女の兄じゃないわ」
「でも……」
「いいえ。そもそも貴女に兄はいない。私が産んだのは、貴女だけだもの……」
(え?)
これに驚いたのは、悠ではなく流星だった。
(この人が産んだのは悠だけ? でも、それじゃあ……)
頭が混乱する。
赤の他人なら、なぜ悠と恭弥は似ている? 恭弥とこの女性は……なぜ似ている?
「私の愛しい娘」
女性は悠を抱き締めた。慈しむように、何度も悠の頭を撫でる。
普通なら、微笑ましい光景だろう。しかし流星は戦慄する。
女性の表情。口角を上げ、笑みを浮かべている。
それは狂気に喰い破られたかのようだった。
人であることを止め、人外の道に走った笑みだ。
流星はその笑みに見覚えがある。
道徳も何もかも捨てた者の顔。彼女の顔は、半妖達に酷く似ていた。
―――
流れていく風景の中で、流星は漠然と、これは悠の記憶だと理解していた。
その中で、幾つか知らなかった事実を知ることになる。
これが三、四年前のできごとであること、悠の母が後妻であること、前妻は恭弥を産んですぐ亡くなっており、名前は百合と言う。
しかし何より流星が驚いたのは、百合と悠の母――蘭が双子の姉妹であることだった。
これで悠と恭弥、そして蘭が似ている理由にも説明が付く。
しかし、はたから見れば奇妙な家族だ。
なんせ、悠と恭弥達は、兄妹であると同時に従兄妹でもあるのだ。
奇妙過ぎて……そしてでき過ぎた。
こんな家族、自然な流れでできるわけない。
(……てか、それより俺はいつ戻れるんだ?)
普通なら理由を明かそうとするはずが、流星はそう思っていた。
正直な話、流星はこれ以上踏み込みたくなかった。
これは悠の記憶であり、流星はそれに土足で荒らすつもりは無いのだ。
何とかして抜け出したいが、そのための糸口すら掴めない。
今だって、逃げ出したいのに動けなかった。
「どうして一緒にいるの?」
問う声に、悠と恭弥は答えられなかった。
最初の時より少し成長している二人は、床を睨み付けている。
悠は着物ではない。現在の彼女がよく着ているような格好だ。和でまとめられた部屋では、多少異質に見える。
一方恭弥は、中学の制服である学ランを着ていた。
「ましてや外に出るなんて……! 何てことを……」
蘭は全身を震わせ、二人を怒鳴り付けていた。
美しい顔を歪ませ、黒い瞳はぐらぐら揺れている。
「悠! どうして私との約束を守れないの!?」
怒声が室内に響き渡った。
「おまえもよ……なぜ私の娘に近付く!」
蘭は恭弥を睨み付けた。その目に、ありったけの憎悪を込めて。
蘭は、恭弥を毛嫌いしていた。
いや、毛嫌いというより、憎しみとおびえを抱いていた。
理由は解らないが、恭弥の顔を見るたび、思い出したように何かにおののくのだ。
それは外から見るととても奇妙で、その様子は鏡の中の自分に恐怖しているかのようだった。
蘭はそんな目で恭弥を刺すように見つめ、言い放った。
「おまえなんかいなければよかったのに! いなければ、悠が私の元を離れなかったのに!」
それに反応したのは、恭弥ではなく、悠だった。
「母さん、恭兄にそんなこと言わないで」
初めての娘の反抗に、母は目を向く。その驚きと怒りの矛先は、恭弥に向いた。
「おまえ、悠に何を吹き込んだの!?」
「……」
「悠はこんな娘じゃない! 私の言うことを聞くいい娘なのに……」
「……」
「何とか言ったらどうなの!?」
悲鳴のような声。しかし恭弥は動かないし喋らない。
ただ顔を上げ、真っ直ぐ蘭を見据えた。
睨んだわけじゃない。ただ見ているだけ。なのに蘭は、ぐっと押し黙った。
「母さん」
悠が声を発した。ぎこちなく見下ろす母に、悠はきっぱり言い放つ。
「私は母さんの人形じゃない。だから、母さんの言いなりになるわけじゃないの」
蘭の顔色が変わった。一瞬にして顔を歪ませ、近くにあった花ビンを掴む。
「私に、逆らうな!」
振り上げられる花ビン。状況が飲み込めていないのか、悠は動かない。
鈍い音を立てた後、花ビンは中身をぶちまけてごとんと落ちた。
「なっ……」
蘭が絶句した。
ぽたり、ぽたり、と落ちる紅いしずく。白い頬と細い顎にそれを伝わせ、恭弥は顔を上げた。
「恭兄、頭っ……」
悠が小さな悲鳴を上げた。
それは当然だ。兄が自分をかばって傷を負ったのだから。
悠を抱き締めるように覆い被さっていた恭弥は、少しだけ身体を離した。
血は恭弥の右の額から流れている。頭であるためか、量が多い。
しかし恭弥はそれに顔をしかめるわけでもなく、ただ顔を上げて蘭を見据えた。
言葉を失うほど澄んだ、美しい黒水晶の瞳。本来なら人を惹き付ける瞳を、蘭は恐怖でいっぱいになった顔で見つめる。
蘭は口紅をさした唇を噛み、早足でその部屋を出ていった。
それと入れ換わりで、先程の音を聞き付けたのか数人の女中が入ってきた。
「どうなさったのですか?」
「恭弥様、その傷は!?」
「悠様、何があったのですか!?」
「みんな、恭兄が……」
悠が口を開いた時、恭弥が彼女を抱えたまま「悠」と呼んだ。
悠が恐る恐る顔を上げると、恭弥は目を細め、微笑した。
「よかった。無事だな」
流星は言葉を失った。
自分が大怪我なのに、彼はどうして妹とはいえ、他人を思いやれるんだろう。
自分は大丈夫じゃないのに、何で。
何で、笑えるんだろう。
何で、泣かないんだろう。
何で、何で――
この時、流星は気付いてなかった。
これから、更なる悲劇を目の当たりにすることに。
幼かった悠も、気付かなかったに違いない。
自分が、人殺しになることに。