第十六話 鬼童子<上>
流星の祖父は、古い地獄絵図を持っていた。
一度だけ、流星はそれを見せてもらったことがある。
裸の男や女を追いかけ、髪を掴み、道具を使ってすり潰す鬼の姿を、十五歳だった流星は気持ち悪いと言った。
薄い色合いの人間に対し、鬼や血、炎などはやけに鮮やかに描かれていて、気味悪く感じたのを覚えている。
「ていうか、幽霊はともかく鬼なんているわけないし。昔の人は何でこういうの信じたんだろうな」
そう肩をすくめた流星に、祖父は笑いながらも……その瞳には何かを隠すかのように光を灯していなかった。
それが何を意味するのかその時は解らなかったし、気にもしていなかった。
解るはずもないし、気付くはずもなかった。
自分が、『鬼』なんて。
―――
流星は羽衣姫の言っている意味が解らなかった。
(オニドウジ? 何だ、それ)
だが今の流星にとってはどうでもいいことだった。
怒りに身を任せ、小刀を振るう。
羽衣姫は服の一部を盾のようなものに変形させ、炎のかまいたちを受け止めた。
すかさず流星は黒い炎を刃の形にし、羽衣姫との間合いを詰めた。
周りの風景がかすむのを目の端で捉えながらも、脇目もふらずに走る。
炎の刃と羽衣姫の右腕がぶつかり合った。
手袋で包まれた腕はまるで鋼鉄の義手のようにびくともしない。
それを流星は力で押し返そうとした。 羽衣姫は目を見開く。
いきなり押され始めたのだから当然だろう。
しかし羽衣姫は見た目に反する剛力で対抗してくる。
流星は更に力を入れ、無理矢理押し返した。
よろめいた羽衣姫に、流星は思いっきり体当たりする。
羽衣姫の身体が前方に吹っ飛んだのを見て、流星は間髪入れず炎のかまいたちを放った。
黒い炎は空中で膨れ上がり、羽衣姫自身を飲み込む。
バアァァァァァァァァァァァァンッ
炎が弾け飛んだ。
「いやん♪ この程度?」
透けるほど薄い、黒いボールの中にいる羽衣姫はにやっと笑った。
しゅるしゅるとボールがほどける。流星は姿がはっきり見えだした羽衣姫に向かって突っ込んだ。
「貴方と戦う気は無いのよねぇん」
羽衣姫は右手を持ち上げた。
手袋が鞭に変形し、生き物の如く動き出す。
羽衣姫は右手を振った。鞭はしなって空を切る。そのまま流星を打ち据えた。
「ガッ」
今度は流星が吹っ飛ばされる番だった。
ぬかるんだ地面に身体を叩き付けられ、肺の中の酸素を吐き出すはめになった。
服が水を含んで重く感じる。だが身体が冷える一方で、頭の中は酷く煮えたぎっていた。
「フーッ、フーッ、フーッ、フーッ」
口から獣のような呼吸音を上げ、流星は立ち上がった。
腰を低く落とし、両腕を何かを抱えるようにして構える様は、人の姿をほとんど保てなくなっていた。
「あらあらん♪ やっぱり初めはきついわよねぇん」
羽衣姫はクスクス笑った。
流星はすでに走り出している。形相はもはや、妖魔と形容するにふさわしかった。
「でも安心してね♪ 妾がすぐ、コントロールする方法を教えてあげるからん」
羽衣姫は両手を広げた。が。
シュルシュルシュルシュルシュルシュルシュルッ
流星の身体に何かが巻き付いた。
それは九本の銀毛の尾であり、その持ち主は。
「落ち着いてください、流星様」
薄赤の瞳をした少女は獣耳と九本の尾を出しながら淡々と言った。
「あらん? 貴女は確か……」
羽衣姫の顔から笑みが消えた。
「朱崋。確か今はそんな名前よね」
「お久しぶりです」
少女――朱崋は軽く頭を下げた。
「未だ解らないわねぇん。狐の最高位である天狐でありながら、なぜ人に仕えているのか」
羽衣姫はかくんと首を傾げた。
「椿家を守護することが、伯母の願いです。私は、貴女の方が解らない」
朱崋は流星を抑える尾の力を緩める様子無く言い放った。
「かつては日本を統べていた血筋の人間が、なぜこのような凶行を繰り返すほど堕ちてしまったのか」
「……!!」
朱崋の言葉に、羽衣姫の目が大きく見開かれた。
「違う! 妾は人間なんかじゃない。落ちてもいない! 妾は羽衣姫。姫の名を冠する、最強にして最凶の存在!!」
「人の身体を借りなければ、かつての姿を取り戻すことすらできないのに」
朱崋は右の手の平を着き出した。
「今なら、私の力で貴女の借りている身体を破壊することもできます。それが嫌というなら、この場は退きなさい」
羽衣姫は苦々しげに美貌を歪めた。
しかしふっと力を抜くと、口角をつり上げる。
「……まぁいいわん♪ 今日は伊吹家の人柱も殺すつもりだしぃ。今日は下がってあげる♪」
羽衣姫は両手をさっと広げると、ふわりと浮かび上がった。
「でもぉ……妾を侮辱した罪は思いわよん? いずれそれ相応の罰を与えてやるから覚悟しなさい♪」
フフフ……アハハハハハハ!
高笑いを残し、羽衣姫はその場を鳥のように飛び去ってしまった。
朱崋は抑え込んでいる流星を見つめた。
獣じみた声で叫び続ける流星は、人とはだいぶ違ってしまっている。
目は瞳だけでなく白目部分まで紅く染まり、犬歯はすでに牙と呼べるまでになっていた。
腕や顔には太い血管が浮かんでおり、今にもいましめを解いてしまいそうである。
朱崋はワンピースのポケットから数珠の珠を取り出した。糸は新しいが、珠は悠が渡した数珠のものだ。
朱崋が口の中で呪を唱えると、珠と糸はすぅっと浮かび上がった。
糸が珠の穴を通っていき、一繋ぎにする。それが流星の右手首に巻き付いた。
「ウガッ!?」
流星は一瞬硬直し、ゆるゆると力を抜いた。その間に、姿も平常に戻っていく。
完全に元に戻った時には、流星は地面に倒れ込んだ。気絶したらしい。
朱崋は流星の拘束を解いて彼を背負った。それなりの体重だが、朱崋にとってはどうってことない。
「……羽衣姫に目を付けられましたね」
朱崋はぽつりと呟いた。
無論、聞こえていないことは解っている。それでも言わずにはいられなかった。
「流星様、貴方は生まれながらにして『鬼』を宿しているのです。貴方は人でありながら、妖魔になる可能性も秘めている」
足元の死体や降り続ける雨には目もくれず、朱崋は歩を進める。
「人であるか鬼であるか。……選ぶのは貴方ですが、お覚悟を」
朱崋の声は、終始淡々としていた。
「おそらくもう、平穏な学生生活はできません」
流星は目を見開いた。
朱崋に背負われながら、シャツが雨以外でじっとりと濡れるのが解る。
(鬼? 妖魔? 誰が? 俺が?)
心臓が痛いぐらい脈打っている。
頭が吐きたくなるぐらいガンガン鳴っている。
(俺は普通じゃないのか? 霊を見るだけの普通の……普通の……?)
流星はまだ手にしていた小刀を横目で見た。
今は炎を宿していないが、羽衣姫と対峙した時。あの時の炎の色は何色だったか。
(黒、だった。何か、嫌なものを持った黒い炎)
あれが朱崋の言葉を肯定しているのでないだろうか。
(俺……俺は……一体何なんだ?)
流星はぎゅっと目をつむった。
―――
雨が降ってきた。
半分獣と化した身体を今は真っ二つにされながらも、流亜は雨に打たれながらも笑い声を上げた。
「アハッ、アハハハハハハハハハハッ! 俺を殺してもすぐ新手が来るぜ。そういう計画だったからな!」
雨音と共に流亜の言葉を聞いて、集まってきた矢吹家の人々は青ざめる。
ただ悠だけは冷たく流亜を見下ろしていた。
「あ゛ぁー……俺、も見て……見たかったぜ……世界、が……壊れる、とこを……」
ごふっと血塊を吐き出し、流亜の瞳から光が消えた。
「……彼は、半妖になってからだいぶ時間がたってたんだね」
舜鈴が歩み寄ってきた。
「間も無い頃なら、妖魔の力だけを狩って救えたはずなのに」
「どっちにしろ救えなかったよ」
悠はすっかり濡れてしまった髪をまとめ上げ、蝶の髪飾りで留めた。
「彼はすっかり闇に心を奪われていた。それにどちらにせよ、退魔師には戻れなかったろうね」
悠はしゃがみ、流亜の目を閉じさせた。
「日影を向こうにやったのは正解だった。きっと自分で流亜を狩るって言ったろうから」
服が濡れて身体が冷えていく。心まで雨のせいで凍えていくようだった。
「家族殺しで苦しむのは……私だけで充分だよ」
空気が生暖かい。それに顔をしかめつつ、悠は立ち上がって刀を抜いた。
「全員迎撃準備を! 戦えない者は防御に専念、人柱は家の奥へ!」
空気が揺らいだ。中には空を見て動揺する者もいる。
全員気付いたのだ。上空にまだらに浮かぶ、異形の影に。
「け、結界強化しろ! 急げっ」
誰かが叫んだ。が、それより早く。
パリイィィィィィィィィィィィンッ
結界が破られる音がした。
呆然とする退魔師達の前に、次々と妖魔が降り立った。
数は数十、へたすると百近いかもしれない。皆姿はバラバラだったが、共通して翼があり、そして醜い。
そのためか、最後に降り立った美丈夫――熾堕は、その中で酷く目立っていた。
残響以外は音を立てない退魔師と妖魔。
互いの武器を構え、睨み合う両者の間に、水を差す者はいない。
「……さぁ」
熾堕の口が動いた。薄い唇から、非情の命令が下される。
「殺れ!」
妖魔達が動き出した。
雄叫びを上げ、爪や牙を振り上げる様は圧倒される。
「『鉤槍姫』、部分解除!」
猛の声に、悠は振り返った。
「どいてろ!」
槍を構えた猛は悠に向かって怒鳴った。
悠は言われなくても、と内心で呟きつつ、横に跳んだ。
猛は悠がいた場所を走り過ぎ、妖魔の群れに躍り込む。
「円陣――残裂!」
槍が円を描いた。そう思った瞬間、その円の周辺にいた妖魔十数体から血が吹き出す。
刃に触れていたようには見えなかった。実際触れていなかったのだ。
「餓鬼だと思って油断すんなよ! 人柱を殺させるわけにはいかねーんだっ」
猛は一瞬動きの鈍った妖魔に槍を突き出していった。
「おい! 奴を止め――ぐはっ」
半妖の一人が斬り倒された。
舜鈴が操る『傀儡姫』に後ろから剣で叩き斬られたのだ。
「敵は一人じゃないこと、忘れないよーに」
舜鈴はくすっと笑った。
「ほう……あれが」
手下がやられているにも関わらず、熾堕は目を細めて微笑した。
「余裕もそこまでだよ」
熾堕に白刃を降り下ろした悠は、そう声をかけた。熾堕はパッと顔を上げる。
「遅い!」
刀が熾堕を袈裟がけに斬り裂いた。