邪教徒<下>
ぎりぎり腕を締め付ける黒い糸――否、黒い髪に、流星は目を見開く。
「これは……まさか!」
視線を巡らせれば、見覚えのある女が髪を生き物のようにくねらせて立っていた。
「苦妃徒太夫……!」
「やぁ。おとといはどうも、坊や」
苦妃徒太夫の白い顔に青黒い鱗が浮かび上がる。
「おまえを殺す!」
ぶわっと髪が広がり、流星と日影の全身に巻き付いた。
外そうともがくが、腕も足もほとんど動かない。それどころか、更に強く締め付けられた。
「がっ、はっ……」
髪は首にまで絡み付き、気管を抑え込まれる。
酸素が脳まで行き届かず、意識がもうろうとしてきた。
「っく。この!」
日影の声が聞こえてきた瞬間、突然呼吸ができるようになった。
「っげほ、げほげほっ」
流星はせき込んで膝を着いた。喉をさすりながら辺りを見渡すと、黒い髪が地面にバラバラに散っている。
視線を上に上げると、扇を前へ垂直に構えた日影が立っていた。
「大丈夫? 華鳳院君」
「大丈夫。大丈夫だけど……」
流星は恐る恐る苦妃徒太夫を見た。
おとといの戦いで、髪を傷付けられて怒り狂う彼女の姿を思い出したのだ。
……やはりというべきか、苦妃徒太夫は確かに怒っていた。
だが、おとといとは怒り方が違う。
「小娘ぇぇ……よくもあたしの髪を!」
半妖としての本性が剥き出しになってきた。
うろこは顔だけでなく露出した肌全体に広がり、口の端が耳まで裂ける。瞳は金色に輝き、白目部分は黒く染まった。
「許さない。おまえらまとめて絞め殺してやる!」
口から細く鋭い歯が見え、蛇のような舌がちろちろ揺れた。
「妖偽教団ね。悪いけど、負けるわけにはいかないわよ!」
日影は扇を広げた。
「『桧扇姫』、部分解除!」
扇を振り上げ、風を巻き起こすように前方にあおいだ。
「第六の舞、風牙乱舞!」
扇から大量のかまいたちが発生した。
真っ直ぐ苦妃徒太夫を狙った攻撃は、しかし長い髪に全て弾かれてしまう。
「この程度であたしは倒せないわよっ」
ぶわっと髪が逆立った。
髪が一本に集束する。全てが集まり終えると、ぐんっと日影に迫った。
何度も突き出される髪の槍。日影は全て紙一重でかわしていた。
流星はその隙に移動する。苦妃徒太夫の背後に回ったところで地面を蹴った。
足音に気付いたのか、苦妃徒太夫はすぐさま振り返る。すでに流星は眼前まで迫っていた。
流星はそのまま小刀を降り下ろす――
「あたしを殺せるの?」
炎の刃が、苦妃徒太夫に当たる寸前で止まった。
「その甘い心で、緩んだ覚悟で! あたしを斬れるの?」
「それ、は……」
流星は動けなかった。
刃先が震えている。これを動かせば、苦妃徒太夫を倒せるのに。
なのに……それができない。
「華鳳院君!」
日影の声に流星は我に返る。
ドスッ
腹を何かが通過するのを感じた。
「……え……?」
間の抜けた声を出す。同時に激痛が全身を駆け巡った。
「ぐ、あ゛ぁ、あ……!?」
流星は膝を着く。ズボンが己の血で染まっていった。
穴の開けられた腹。それを開けたのは、背中まで貫通する黒い髪の束だった。
「弱いね、坊や」
苦妃徒太夫の唇がめくれ上がった。
ずるり、と髪が抜けると、流星は崩れ倒れた。
「弱い奴は戦場に立つな」
苦妃徒太夫の声がぐらぐらと脳を揺さぶる。
(痛い、痛い、痛い、痛い)
視線が歪んだ。失血のせいだけではない。
(……こわ、い)
流星は血塊を吐き出した。
「よくもっ」
日影の声と、地面が削れる音が聞こえた。
顔を上げると、日影が扇を苦妃徒太夫に向かって振り上げたのが目に映った。
苦妃徒太夫は髪でそれを受け止めるが、底に厚い黒い下駄を滑らせて後退させられる。
「彼のこと、親友に頼まれてんのよっ」
日影は勢いを落とさず、足を旋回させた。
しかし苦妃徒太夫の髪に絡み付かれ、流星の横に叩き付けられる。
「かっ、は……!」
日影は身体をバウンドさせて倒れた。
「だ、大丈夫、か?」
「えぇ……あの女、強いわ」
日影は全身を震わせながら身体を起こした。
ドガアァァァァァァァァァァァァァァッ
いきなり家屋の一部が吹き飛んだ。
こなごなにぶっ飛んだ木材と一緒に、なぜか妖魔達も飛んでくる。
それから遅れて、二つの人影が視界に入ってきた。
「! 日影にあんちゃんっ」
雷雲と風馬だ。さっきまで戦っていたんだろう。それぞれ武器を手にしている。
「……! おいその傷っ」
風馬がみなまで言い終わらない内に――
「もういいぞ、苦妃徒!」
男の声がした。聞いたことない、若い男の声だ。
流星が上空に目を向けると、空中に浮かぶ青年の姿が見えた。
黒い髪に赤いメッシュを入れており、鎖やダメージ加工がされた革製の上着とズボンを着ている。左頬に黒い龍の刺青まで入れていた。
「遅いじゃない! 誘きだすのも時間かかったしっ」
「悪ィって。木の上に登れ」
男に言われ、苦妃徒太夫は顔を歪めつつも手近の木に飛び乗った。
「何をするつもりだ!?」
風馬が声を上げると、青年はにやっと笑った。
「地獄への切符をやろうと思ってな」
突然だった。
足がぐにゃりと地面にめり込んだ。
全員目を剥く。
足はまるで泥に突っ込んだかのようにずぶずぶ沈んでいく。
「何、何だよこれっ」
雷雲が叫び声を上げた。
「ぬ、抜けない……!」
風馬ももがくが、足はぴくりとも動いていない。もう腰辺りまで埋まっている。
流星と日影は倒れていたため、すでに身体の半分が沈んでいた。
「嫌、何これ!?」
日影は悲鳴を上げて右腕を伸ばした。
流星は傷のせいで動くことすらできない。
ただ、見えなくなった足に這い上がる嫌な感覚に顔をひきつらせた。
「う……うわあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
気持ち悪い。見えなくなった身体に、何かが絡み付いている。
背筋が逆撫でされ、全身に鳥肌が立った。
「嫌、嫌だ!」
もはや首まで沈んでしまっている。出ているのは顔と武器を持った右腕だけだ。
「だ、れか……」
流星はそれ以上喋れなかった。
全身が、土の中へ沈んだからだ。
―――
沈む、沈む、沈む。
(ここは、どこだ……?)
流星はぼうっとする頭を動かした。
腹の傷はまだ痛むが、なぜか先程ではない。
目に映るのは黒ばかりで、他の色は見当たらない。
(一体、ここは……)
入る時はあんなに嫌な感じがしたのに、今は何ともない。
「日影! 雷雲! 風馬さん!」
大声で呼びかけても返事は返ってこない。
流星は途方にくれた――
『助ケテ』
声がした。
何重もの声が重なったそれに、流星はゾッとする。桐生家の三人でないことは確かだった。
全身がざわざわして、血が凍り付くような感覚に思わず小刀を握り直した。
『助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ』
無数に繰り返される単語に、流星は耳を塞ぎたくなった。
しかし手足は硬直したように動かない。
目を見開く流星の前に、一つの顔が現れた。
男の顔だ。ざんばらの髪で頬はこけているため、皮が張り付いた骸骨のようだ。
男は地色の涙を流してぼろぼろの歯が並んだ口を動かした。
『助ケテ』
視線を感じた。
四方八方から大量の目玉に見られるような視線。
それは気のせいではなく、事実多くの目がこちらを見ていた。
視線に隙間無く収まった無数の顔。ズラリと並んだそれらは闇色だった空間を土気色に変える。
前方でこれなのだから、後方も同じことになっているだろう。そう思いつつ確かめる気にはなれなかった。
無数の顔は女だったり男だったりしたが、皆共通して目から紅い涙を流していた。
全員幽鬼のような顔をしていて、中には頭が割れていたり顔が半分ただれている者もいる。
『助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ助ケテ』
今度は無数の手が伸びてきた。
顔と同じく、血の通ってなさそうな腕。やはりただれていたり肉がざっくりえぐられていたりして、骨が見えるものもあった。
それらの腕は流星の腕や足を掴み、顔を引き寄せる。
「や、やめろ……来るな!」
流星はたまらなくなって叫んだ。
まるで亡者だ。生を失い、朽ちていく死者のようだ。
ガブッ
突然右肩に激痛が走った。
痛みに驚いて肩を見ると、顔の一つが噛み付いている。
肩に血がにじむ。呆然としている間に顔達は流星に噛み付かんと大口を開けた。
漂う臭気、虚ろな目、血の気の無い顔。
全部違う。全部人じゃない。全部生者じゃない!
「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
噛み付かれる感覚を全身に感じながら、流星は叫んだ。
(嫌だ、死にたくない、嫌だ、嫌だ、嫌だ!)
流星はもがき、前に――
バンッ
顔達や腕達が吹き飛んだ。
先程まであったものの消失に、流星は目を見開く。
前方にぽっかりと穴が開き、最初に来た時と同様の闇が向こう側に広がっている。
その開いた穴から、白い手が伸びてきた。
亡者の腕が離れ、自由になった流星の二の腕を掴む。その手に、流星は見覚えがあった。
しかしどこで見たかなんて覚えているわけ無いし、そもそもその手の持ち主の顔が見えない。
「だ、だれっ、誰っ……」
「死なれては困る」
はっきりした声。流星はハッとした。
(もしかして……)
口を開こうとしたとたん、ぐいっと引っ張られた。
―――
雨が全身を打ってる。
見上げる空は灰色で、湿っぽい臭いが鼻についた。
「戻っ、た……?」
流星は上体を起こした。肩がずきりと痛み、見ると血が肩から流れている。
他の手足も似たような状態で、ただなぜか貫かれたはずの腹の傷だけは塞がっていた。
「あれは夢じゃ……ない……?」
身体を喰いちぎられる感覚を思い出し、流星はゾッとした。
なんとか立ち上がって辺りを見渡す。
「日影……雷雲……風馬……」
共に地面の中に沈んでいた三人も、自分と同じように倒れていた。
全身が血だらけで、生きてるかどうかさえ疑わしい。
流星は目を家屋の方に向けて愕然とした。
そこに、家屋は無かった。
焼けた木材。溶けた何かの塊。
そして、折り重なる死体、死体、死体。
あるのは、戦場の光景だった。
「誰も、いない……? 誰も……?」
流星は前に足を踏み出した。
悠からもらった数珠がほどけて地面に散らばる。しかし、呆然とする流星は気付かない。
傷の痛みも忘れ、流星は足を進めた。
目に映るのは死体ばかりで、生きている者は見あたらない。
それを見ているうち、流星の心の中で何かが積み重なっていった。
数分ほど歩いて、流星は足を止める。
人を見つけたのだ。しかし、流星が望む存在ではなかった。
「あらん? 貴方、地獄に沈められちゃったんじゃなかったのぉ?」
黒衣の女。根元的な恐怖を呼び起こす美貌。
「羽衣、姫」
しかし、今の流星にとってはただの『動くもの』でしかなかった。
それに彼女の足元に転がっているものは、けっして好ましいものではない。
「何を、していた」
地面に染み込んでいる血。
「何を、持っている」
散らばった肉片。
「何を……何を喰っていた!」
噛み砕かれた、骨。
「何って……人♪」
にっこり笑うその姿が、足元に散乱しているバラバラの死体が、流星の中で何かを切った。
ゴオォォォォォォォォォォォォォォッ
小刀の刃に宿る炎が膨れ上がった。
しかしそれはいつもの赤い炎ではなく、黒い禍々しいものだった。
流星は気付いていなかった。自分の瞳が黒から、細い瞳孔を持った紅になっていったことに。
羽衣姫は目の前の青年を凝視した。
「予想外だわん……この時代にもいたなんて♪」
その顔に焦りや動揺は無く、むしろ歓喜が浮かんでいた。
青年の姿をなめるように見つめ、ほうっとため息をつく。
雨の中でも勢いが衰えない黒い炎、ギラギラ輝く血色の瞳、口から覗く犬歯は鋭く延び始めている。
「まさか敵の中にいるとはね……鬼童子♪」
羽衣姫の歓声が曇天に響く。
雨は、土砂降りになっていた。