第二話 憎愛の女(ひと)<上>
その女は愛していた。
この身が焦がれるほど、強く、深く。
(あぁ……なのになぜ)
こんなことになってしまったんだろう。
愛しい男はすぐ傍にいる。声だって届く。
なのに……なぜ何も言ってくれない?
いつものように名を呼んでほしいのに……
女は男に手を伸ばす。向こうは、そのことに気付かない。
恋しい、愛しい、憎い……
強い感情に染められた思考では、その男と求める男が別人だと気付けなかった。
女は男の腕を掴んだ。男の身体が硬直する。
一方女は、触れられることに強い喜びを感じた。
身体が疼く。腹の中のもう一つの命がうごめく。
女は、紅のさされてない唇を動かした。
「私のこと、忘れたの?」
―――
椿悠が事務所を開いたのには理由がある。
退魔師は普通、自分の属する流派の本家、もしくは分家で待機している。
悠は退魔師の流派の中でも一、二を争う一族、椿家の末娘で、本来なら本家にいなければならない。
それがなぜ、事務所の主になっているか。それは、依頼人に問題がある。
椿家だけでなく、他の流派でもそうだが、依頼人のほとんどは政治家などの権力者だ。
悠は一部の例外を除き、権力者や金持ちはカスばかりだと確信している。
そしてそのカス共は、自分の胸や腰あたりをなめるように見てくるのだ。
思いっきり殴りたいところだが、椿家当主である父の立場上、それはできない。
家族仲は悪くない。むしろいい方である。
だからこそ、家族の困るようなことはしたくないと悠は思っている。だから家を出て、事務所を開いたのだ。
「利用されてるんじゃない。利用してるんだ。権力者には、心構えだけでもそう思っとけ」
自分が本家を出た時、そう言ったのは八つ違いの兄、刀弥だったか。
そして現在、悠は事務所のソファーに寝そべっていた。
そろそろ四月も終わる。しばらく実家に帰ってないな、と心の中で呟いた。
現在、悠は事務所の奥にある生活スペースで暮らしている。
本家の自室ほど広くないが、気を使ったりしなくていい分、気は楽だ。家事も朱崋がしてくれてる。
しかし、だからといって家に顔を出さないわけにもいかない。
「来週にでも帰るかな……ん?」
二つのソファーにはさまれるようにして置かれた長机。そこに投げだされた携帯が、振動していた。
「……電話?」
眉をひそめて携帯を手に取る。折りたたみ式のそれを開けて通話ボタンをプッシュした。
「もしもし?」
『お久しぶりです、愛しのマイハニー!』
ブチッ
反射的に通話を切った。
うかつだった。まさか奴とは。
悠は眉間にシワを寄せた。
誰からかちゃんと確認しなかった自分がむかつく。
「あの変態……携帯番号変えたのに、一体どこで……」
顔を思いっきりしかめていると、手の中の携帯がまた鳴りだした。
「ひうっ!?」
いきなりだったので、喉から奇妙な声が出る。
相手は誰かはわかっている。問題は、出るか否か。全ては、自分次第。
――出るべきかもしれない。
今までの経験上、無視した時のあいつは酷くウザい。
ため息をついて再び通話ボタンを押す。
「もしもし? 変態ストーカーさん」
『ちょ、僕は変態でもストーカーでもありませんよ! さっきのはただの冗談ですし』
「じゃ、何で私の携帯番号知ってたの?」
『企業秘密です』
あっさり黙秘する電話の相手に、悠は再びため息をついた。
「まったく……君には疲れるよ、燐」
悠の言葉に、電話の相手である鬼堂燐は苦笑したようだった。
『僕は、貴女を困らせるつもりは無いんですが』
「あ、そう」
悠は呆れた声しか出なかった。
常識が無いのか、この男は。
(……って、今更か)
悠はこめかみを押さえながら「用件は?」と訊いた。
『はい?』
「だから用件。理由も無しに電話してきたの、君は」
『あ、いえ。実は仕事のことで』
「誰かにここを紹介したの?」
『ええ。今日あたり来ると思うので、お知らせしておこうと』
「依頼内容は?」
『除霊です』
「ということは、どっちみち君のところに行かなきゃいけないんだね……」
何か、本格的に頭痛がしてきた……
悠は額を揉みながら固く目を閉じる。
『嬉しいですねぇ。悠とまた会えるなんて♪』
「私は嬉しくない……」
悠は携帯を叩き壊したい衝動に駆られた。
「だいたい、二ヶ月もたってないでしょ、最後に会ってから」
それに隣町に住んでるし、とは言わなかった。余計なことを言えばこいつの性格上、じゃあ行きますとでも言いそうだ。
『僕にとっては長い二ヶ月でした……』
燐が悲痛な声を上げた。多分、演技だろうが。
「君ね……」
悠は呆れて言葉を重ねようとした時、廊下に続く方の扉がノックされた。
「どうやら例の客が来たみたい。じゃ、また明日ね」
『はい。ちゃんと準備しておきますね』
そう燐が言った一秒後に、悠は通話を切った。
ソファーから身体を起こし、携帯をホットパンツのポケットにしまう。
「入って」
声をかければ、朱崋が一人の男を連れて事務所に入ってきた。
疲れた顔の男だ。目の下に隈があるし、少しやつれている。
しかも、色濃い霊気に覆い被さられていた。
(これ……一体や二体どころじゃない。何したの、この人)
おそらく三十代前半だろう。顔立ちは悪くない。
しかし、表情が表情だし顔色も悪いので、二十は老け込んでいる。
少し強烈過ぎる霊気に顔をしかめつつ、悠はいつもの調子で男を迎え入れた。
「ようこそ、椿事務所へ」
―――
華鳳院流星は一人暮らしをしている。通っている高校から一キロも離れていない場所にある小さなマンションが、流星の家だ。
実家より学校が近くなったので、多少朝はゆっくりできる。
――なのだが。
「眠ぃ……」
流星は道のど真ん中で人目もはばからず大あくびをもらした。
昨夜は『顔剥ぎさん』の事件のせいであまり寝れてない。
学校がその事件のせいで授業もせず帰れと言ったからよかったものの、授業があったら机でつっぷして寝てた自信がある。
(自殺、か……)
教師達は、和子が飛び降り自殺したと思っている。
流星は事実を知ってるだけに、それが和子に対する侮辱に思えてならない。
しかし、真実を知らない人間は推測するしかないのだ。だからこれは、しょうがないのかもしれない。
「にしても、悠の言う通り、見なきゃよかった」
流星は顔を歪めて呟いた。
今朝、少し気になって早めに学校に行った流星は、見てしまったのだ。
壊れたフェンスに全身を貫かれ、原形をとどめていない少女の死体を。
四肢はかろうじてくっついている状態だったし、顔どころか頭蓋までめちゃくちゃだった。
ただ落ちただけならああはならなかったろうが、フェンスと一緒に落ちたために遺体の損傷は激しかった。
更に最悪なことに、それを烏が啄んでいた。
一羽だけではない。三、四羽はいたろう。血の臭いも酷かった。
それを見てすぐ、流星はトイレで朝食を戻してしまった。
むごすぎる。そして――哀れすぎる。
悠じゃないが、美しさを求めた者の最期があれとは――
「って、うわっ」
自分の考えに没頭していた流星は、肩への軽い衝撃で現実に引き戻された。
「あ、すみません」
流星は反射的に謝り、相手の顔を見た。
女性だ。二十代半ばほどで、黒いコートを着ている。
長い髪を革紐で束ねた、ハッとするほどの美人だった。
(あ、あれ……?)
流星は目を瞬いた。
(この人……悠に似てる……?)
他人の空似か。
流星は大して気にせず、事務所に足を向けた。
(あの青年、あれには気付かなかったのか)
女性は遠のく流星の背を見つめ、心の中で呟いた。
「……その方が都合がいいか」
女性はそう言って、人ごみの中に姿を消した。
―――
「昨日の今日で、また依頼か?」
「うん」
バイトしに来た流星に、ソファーにいつものように座った悠はこくんと頷いて見せた。
「しかも明日って……学校休みになったからゆっくり寝ようと思ってたのに」
「膝枕してあげようか?」
「いや、イイデス」
手招きする悠に、流星は首を横に振った。
「あ、そうそう。帰りにケーキ、買ってきてやったぜ」
手に持ったままだった白い紙の箱を長机に置くと、悠は嬉しそうにその箱を開けた。
そうしてたら普通の女の子なのに……
流星は複雑な少し気持ちで、モンブランを食べ始めた悠を見つめた。
「……で、依頼内容は?」
「除霊だよ。……んー、シアワセー」
「おまえ、ケーキ喰う時はキャラ変わるよな」
本当に幸せそうな悠を見ていると、こっちまで頬が緩む。
こうしていると、頭から昨夜のことが抜けそうだ。
無論、そんなことは無理なのだが。
「流星も食べる?」
「へっ?」
「だって、じぃっとこっち見てるからケーキ食べたいのかと思って」
違うの? と首を傾げて尋ねる悠。
あ、ヤベ。可愛い……じゃなくてっ。
「いや、違うって。除霊ってどういうふうにやるのかなと」
間違ってはいない。実際思ったことだ。
悠はああそのこと、となぜか少し残念そうに呟いて説明してくれた。
「まず、結界を張って、その中に霊に憑かれた人を入れるの。その後……何て言えばいいかな」
悠は少し考え込んだ。しかし、ケーキを食べる手は止めない。
「ゲームで例えれば呪文かな? そういうもので霊を引き出して、退魔武器で倒す」
「ふーん。解ったような、解らんよーな……あ、でもさ」
流星はふと、思い出したことがあった。
「普通、除霊する時は読経読んで、霊に語りかけるんじゃないのか? テレビとかではそんな感じで除霊するけど」
「霊に話し合いが通じると思う?」
「……思わねぇ」
「でしょ」
悠は肩をすくめて今度はミルフィーユを食べ始めた。
「そういう方法で除霊する人もいるよ。でも、会話は成り立たない。『言葉』が退魔武器の代わりになってるから、成り立つ必要無いんだけどね。それにしても、そういうたぐいの番組見てるの?」
「え?」
「だって除霊の方法のこととか。心霊番組見てるの?」
「俺じゃねぇよ。昔……」
言いかけて、流星は一瞬口をつぐむ。しかしまた口を開いた。
「……昔、死んだ母さんが見ていた」
「……ふぅん」
悠はそれ以上何も言わなかった。
しばらくミルフィーユをパクついていたが、急にバッと立ち上がってケーキを机に置いた。
「な、何だよ。どうしたんだよ?」
「……」
悠は答えない。ただ、表情がみるみる厳しくなっていく。
「おい……」
「流星」
悠は流星の傍に立つと、じろっと睨んだ。
流星を、じゃない。別の何かを、だ。
「これ」
悠は流星の顔の右横に手を伸ばした。
「どこで憑けてきたの?」
悠が何かを掴んだ。
顔を右に動かし、その何かを見る。
「……蝶?」
「うぅん。蛾だよ」
悠の手の隙間から、黒い羽根が見える。
目玉のような模様は、確かに蛾のようだ。
「……て、おまっ。そんなもん握り潰して!」
「問題はそこじゃない。一体これ、どこで憑けてきたの?」
「憑けてきたって……知るかよ。それ見たの、今が初めてだし」
「そう……」
悠は手を開いた。
黒い蛾の羽根はばらばらに砕けていた。胴体も潰れている。
ボウッ
突然蛾が音をたてて燃え始めた。
いきなりのことで驚く流星を尻目に、悠は熱がりもせず手の中の炎を見つめる。
「……やっぱり」
「は?」
「流星、気を付けなよ」
悠は笑みを完全に消して、言った。
「闇に、目を付けられないようにね」